ちょっと一言。
-2009年6月8日-
今日は、あの世での苦しみについてお話しします。
人間は、この世に生きている中で、何なりの苦悩を持ちながら過ごしています。
そういう苦悩を、死ぬ間際まで強く持っていると、それが心(魂の記憶)に強く刻み込まれてしまいます。
それは、肉体の死後、魂となって霊界へ還って行く時に、楽しい記憶や辛い記憶と共に、心の中に生涯の思想言動の全記憶を刻印して
持ち帰ります。
その全記憶の善し悪しの集計が、プラスマイナス0以上であれば天国(平穏な世界)とされ、それ以下だと地獄に近づき、
プラスが多いほど高次元の世界へ上がれます。 そういう自分自身の心の状態の集計を、自分の人生ビデオとして一度に見せられ
、行き先を選ばされるという感じです。 これが、昔でいう「閻魔様」のお仕事であると思って頂いても良いと思います。
まあ、全てがこれに当てはまる訳ではありません。 死んで暫くして気が付いたら、真っ暗な世界だったという魂もおられますし、
地獄へ一直線の魂もおられます。 この死んで暫くしてという期間は、数日や1年とか、中には50年位あったりと、人により様々です。
本人は、ちょっと気絶していたという感じですが、約50年も経っていれば、親はもう亡くなっていたりする事もありますし、
今の動きの早い世の中では、随分と変わってたりします。 そうした魂や、心のマイナス点が多かった魂は、この世で味わった
苦しみが、当然の如く、あの世でもやって来ます。 死んで楽になるというのは、心の持ち様が良かった人で、そうでない人は、
死んでも苦悩から逃れられずに長い年月(魂は死なないので、数年〜数百年間)を、苦しみもがいています。
結局、この苦しみというのは、心の中に残っている生前の苦しみや憎しみ、後悔の念等が心残りとして残っている部分で苦しんでいると
いう事です。 それが癒せないと、苦しみは続きますし、この辛い心残りが「執着」と言われ、仏教の教えで「執着心」が強いほど
苦しみが多くなり、苦しみの元である「執着」を捨てれば楽になれると昔から言われているものです。
結局、この執着とは、心の中に様々に記憶されたもの、気持ちの中で捨て切れない部分、いつも繰り返し想う事で、念としてまで
高まってしまう事で、心がその想いに囚われてしまう事を「執着」というと思うのです。
それが、仮に生前の病気の苦しみであれば、あの世に行ってからも、病気で苦しんだ記憶に心が囚われてしまい、魂だけの状態に
なってからも、未だに肉体の苦しみを感じ続けてしまう様になってしまいます。 それが、癒せない限り、その魂は永遠に病気で
あった時の苦しみを持ち続ける事になり、病院で苦しみの中に亡くなられた方の魂が、幽霊の姿になって、既に無いはずの身体の痛みを
訴えに出て来たりする
事になってしまうのです。
そういう魂には、真理を説いてあげ、苦痛は肉体だけであって、死んだら魂だけの状態になるから、身体の傷も無ければ、病気による
痛みも無いんですよと教えてあげ、死んだのは残念でしたが、心の中に有った苦しみも、肉体と一緒に置いてくれば、楽になりますよと
言ってあげます。 そうすると、今まで苦しんでいた魂も「あれ?」っという感じで、「本当に痛くないかも?!」っという気持ちに
なります。 真理を知らないで亡くなった魂は、そういう ちょっとした きっかけを与えてあげる事で、苦しみの中を堂々巡りしてる
ような気持ちを前向きに変えてあげる事が出来ます。 あの世での苦しみとは、心の中に囚われの気持ちを長く持ち続ける事で、
起きるという事です。 この世の様々な未練(病苦、金銭、名誉、恨み、物欲等)を心の中に秘めて、あの世に持ち帰っても、
結局は苦しみしか生まれません。 良い意味で、潔く洗い流す様な努力(修行)をしていく事で、楽な世界へ上がれます。
あの世の苦しみとは、そういうマイナスな心の状態により生まれるという事であり、過去の気持ちを持ち続ける事は、その苦しみも長く
続くという事なので、気持ちをプラスに切り替えて、生前は色々あったけど、自分はもうこの世の人ではなくなったので、もういいや、
霊界でしっかり生きて行こうという気持ちに切り替えて、淡々と執着を取り除いていく努力をしていけば、どんどん上の世界へ上がって
いけるようになっています。 この文章を読む時、皆さんの先祖や、もしかして憑いているかも知れない霊も読んでますから、
それぞれの成仏に役立てて欲しいと思います。