神霊による人生相談

ょっ言。

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-2009年7月19日-
今日は、久しぶりに霊界探訪でもしてみましょう。   それでは、その前に、霊的感覚を受けるという事の簡単な説明をしておきましょう。   霊的な世界を感じようとする時は、霊界へ意識を繋げる時に、意識的に軽い瞑想状態をつくります。   例えば、一般の方でも夢を見てる時などは、霊界へ行って見学したり、霊界人とお話ししたりする場合があります。   また、寝ていても、起きてるという意識はあるのに、半分寝てる様な状態の時などは、数分程度の夢も見たりして、ハッと気付く時が あると思いますが、そういう感覚(現実意識と潜在意識が入れ替わる様な感じ)が、霊界通信する時の瞑想状態に似ています。   でも、意識や思考はすごく働いてますけどね。  脳で考えるのではなく、心で判断し、感覚で受け取る感じになります。   そうした事を、出来れば1分以内でやるようにします。  急ぐ場合は、意識を切り替えた瞬間(1秒ほどかな)にします。   誰かとお話ししてる最中にでも意識は切り替えられますので、本題に入る前に、既に霊的感覚を受け取りながら、話の流れを止める事無く 霊界からの指導を受ける事が出来ます。   これらは、神仏の前でやれば、心の伴った方であれば霊的指導を受ける事もあるでしょうし、回を重ね、正しく真理の学びに励んでいると、 最初は何の感覚も無かったのが、少しづつ指導も受けれる様になり、暖かな光に包まれる様な感覚(エネルギーが高いほど熱く感じる) を受け始めるようになります。  まあ、そうして信仰心を高めていくと、潜在的な霊的感覚が甦ってくるんですね。   でも、霊的なモノに悪影響を受けてる方は、瞑想は控えた方が良いです。  瞑想により心が開くと、心の防御(真理知識による盾) も出来てない場合、余計に厄介な事になりかねませんからね。  まずは、身体全体に光を受けて、溜まった光で、身体にへばり付く様に 憑いた霊を浮かして引き離し、信仰している神仏に引き取ってもらうイメージを出来るだけ毎日すると、楽になっていく事があります。   それでは、まず最初、この三次元世界の直ぐ隣の世界である、四次元世界へ行ってみる事にしましょう。   四次元世界は、大雑把に言うと、幽界や四次元レベルでの霊界、精霊界に、それぞれに上中下の段階があります。   幽界は幽霊の世界ですので、ユラユラした世界であり、意識的にも過去の念で止まってしまってるので、あまり行っても楽しくない世界 ですので止めときます。  精霊界は、お花の精や、何々の精等が、思い思いに楽しんでる世界です。   それぞれに意識があり、自分の主張もありますし、この世的な指導もしてる精霊も居ます。   ここで、霊界に戻って来た新人の魂などは、お花にも精霊が居て、花々を綺麗に咲かせている事や、心(想い)の大事さ等を学んだり します。  大抵は、綺麗な場所(お花畑や湖畔、山の麓の草原、海の近く等)であったりします。   それぞれに皆がイキイキとして生活しています。   この世的な現実の事柄や、物やお金等は、ここ霊界では価値も無いものだと思い知る事でしょう。   四次元的レベルの霊界は、一応成仏した魂の世界です。   ちゃんと、自分が死んだ事を悟り、自分は霊界の人となって生活するという認識がある者達の世界です。   この世の執着も、まだある程度残ってますが、幽界ほどでは無いので、怨んで出てくるという事も少ないです。   でも、自分の主張をしに出て来る事はあります。  先祖の霊が、子孫に出てくる場合が多いですね。   周りの風景も、田舎的な所から、都会的な所まで幅広く存在してます。  皆、生きてる時の生活をそのまま繰り返しています。   だから、その時々の悩み、苦しみもあるのが、この四次元的レベルの霊界です。   次回は、五次元世界に上がってみましょうね。  


-2009年7月4日-
今日は、日々の修行と過ごし方についてお話しします。
私の所に相談に来られる方は、色んな問題が解決してくると、次は「自分は今後、どんな修行をしていけば良いんですか?」とか、 「滝に打たれると良いですか?」とか、「巡礼をすれば力は得られますか?」とか、  「毎日を、真理に沿って生活していくには、どうしたら良いでしょうか?」等という事を、よく質問されます。  これは、今までの様なマイナス思考から起きてくる、言動や考え、気持ちの持ち様や過ごし方等、そういうマイナス思考から起きてくる 真理から外れた事を、知らず知らずにしてきたという反省から、これからはちゃんとして行きたいという気持ちの表れでもあります。   でも、私個人の教えで言えば、日々の修行などは、特別にあれをやって、これもやってと、身体や心に負担を掛ければ良いというもので は無いと思います。  あえて自分に苦しみを課して、それを修行としていくという考え方は、今の世には難しいと思うのです。   肉体的修行(苦行)を行う際の心構えとしては、心の調整をしっかりやって挑まないと、いつしか行(肉体行) を進めていく事だけが想いの中で先行してしまいがちです。  (古来、そうして道を外れた修行僧の霊達が、私の所に出て来て 「真理を進めて行くよりも、念力を鍛えて思い通りに使った方が自分の為だぞ! 力で、何でも思うままになるんだぞ!」 なんて言ってきたりしましたよ。  また、正しく道を歩む者を、力の世界へ引きずり込もうとしてきます。  影響されると、 愛の精神が薄れるので、直ぐに判ります。  力本位の世界では、愛の精神は、持つまでも無いという認識ですからね。)    本来の苦行とは、肉体行をきっかけとして、精神と身体を鍛えながら、強く大きな念で心を大霊界へ導き、悟りへ到達させる為の 「慈愛の力」と変えていく行の事で、その為に必要な大きな力を鍛える事です。   肉体行で身体を鍛える事に心が傾いてくると、肝心の心の悟りに到達しにくいです。  肉体的な苦行を進めていく中で大事なのは、 行を行じる事に執着せず、心に光を射し込ませ、苦の中においても、心の中に「勇気と希望と愛」の光を満たして行ける様に、 「厳しい中に大きな愛がある」そういう大きな愛を感じ取りながら、自身も大きな愛の人であれる様に、日々の苦行を淡々と進めていく 事だと思います。   結局、行とは、大きな愛や慈悲というものを、行の中で体感していく事で、行をする人間自体、慈愛の体現者となって行く事です。   そうでなければ、心の悟りを開き、前向きで明るい人となって、多くを隔てなく愛する心の余裕を得るには至りません。   その目的を達成する為に、苦行から入る人、真理の学びから入る人、霊的観念から入る人、悩みの中から救いを求めて入る人、 それぞれに様々ですが、最後は心の悟りを得なければなりません。  その悟り=気付きですが、その気付きを持って初めて、今の生活に 役立てていけるコツが判ってくるのです。  私は、今の現代社会の中で、進んで自分に苦行を課し、日々を過ごして行くよりも、 修行などは、生きていれば嫌でも自然とやって来るよと言ってます。  それも、自分の苦手なものを、その都度、ある程度は克服して いかないと、何回もやって来ますし、願わないでも勝手に修行をつけに来てくれます。  そんな時に、自分の苦手な部分を克服して おかないと、直ぐにやられてしまい、また同じ過ちを繰り返す人となります。  人生において平坦な道のりを歩いてる時に、 今の時期に出来る部分をしっかりやりながら、淡々と自分の土台づくりを固めていく事です。   それには、『自分自身を良く知る事』です。  それには、日々の中で精神統一をする様な時間を数分でも持つことです。   精神統一では、日常のざわついた気持ちから、心を落ち着かせ、客観的に自分を見る(診断する)こと、そして良くない部分に 気付いたら、それをしない為には、どう考えて、どう実践していけば良いのか、それを探りながら自身の向上へと導いて行くように心を 向けていきます。  それを一日の中で、自分の取れる時間に行うと良いです。  また、神社仏閣へもお参りしたりして、 神仏のお力も受けながら、明るい信仰心を抱いて、真面目に働き、家族仲良く暮らして行こうとする所に、真理の光は輝きます。   そうしていけば、何かの障害に出会った時、今までの力の蓄えの部分で、結構対応出来ている自分に気付くはずです。   霊的な力も、無理なく自然と付いてくるので、祓いをしないといけない人でも、力の向上として体感出来るものです。   霊的世界は、意識体の世界なので、心が全てです。  色んな行は、最終的に行き着く所として、心に集約されます。   その心の向上、意識の向上、それが霊格の向上にも繋がります。  そういった事に向けて、全ての修行があるのです。   色んな行や、気持ちの持ち様がありますが、自分の霊的性格に合ったものが肉体行であれば、それが一番やり易いと思いますし、 特に苦行をしないといけないと言う事でも無いという事です。  これは、私の魂本来の気質である、「明るい教え」「希望の教え」 「愛の教え」に、「勇気は自ずと湧いて来る」という基本の教えによるところであると思います。  信仰の中に「愛」と「力」を バランスよく合わせ持つという信念からくる「自他力和合」の教えです。  今回は、これによって、私なりの考えをお話ししました。