ちょっと一言。
-2010年4月28日-
今日は、物による執着(物欲)による苦しみのお話をします。
人間は、様々な執着によって、あの世でも苦しみの中に在り、その執着から逃れられずに苦しんでる人の魂が大勢います。
執着は、気にかける事から始まり、それがいつもいつも気にかかり、常にそれが頭の中にあり続け、忘れられなくなってしまうほどに
なると、もうそれは執着として心に抱えてしまっています。 中には、それが全てと思えるほどになってしまうと、相当に強い執着
という事になります。 地獄の霊界で苦しむ魂は、みな何かしらの執着の塊です。
自分の生涯には、色んな事があって、色んな喜びや嬉しい事等があったはずなのに、一つの執着の為に地獄から出られずに苦しみ
続けている魂の多い事には、いつも考えさせられるものがあります。
これは、この世でも同じ事が言えます。 例えば、誰もが欲しがるような、とても高価で値打ちのある物を手に入れたとします。
それは、皆が欲しがっている物で、ちょっとだけ触らせてくれとか、うるさく言ってくるとすると、ちょっとでも目を
外してる間や外出している間中は、いつも誰かに触られやしないかと心配している内に、盗まれやしないか、もしかしたら、もう
盗まれてるかもしれないと極端に気になったりします。
大切な用事や約束事でがあっても、気になって満足に果たせなかったりの日々が続いたりしている内に、次第にその人自身の評判も
信頼も落ちてきて、周りの者たちは、その人から離れていってしまい、今度は人間関係の悩みも付きまといます。 その内、
信頼出来、自分を裏切らないのは、自分の大切な持ち物である「高価で値打ちある物」だけと、考える様になってしまいます。
そうして、人と係わる事も無くなり、一つの物に執着して生きる様な人になってしまいます。 (物が「お金」である場合、
このような事は凄く多いです)
これは、極端な例えですが、実際に同様な事が数多く実在としてあり、これが執着として、この世・あの世を通じて同様な心の状態
で悩み苦しんでいるのです。
この状態は、地獄で苦しんでいる魂の状態と同じです。
この執着の世界から出られない状態です。 何で出られないのかも判らない状態です。 そのくらい、心や考え方が偏ってしまい、
執着してるものを心から外せない様になってしまい、逆に、その執着してるものに縛られている様な状態です。
出たいなら、執着しているものから心を外す事です。 先の例えでは、大事な物だけど、別に触られてもいいやとか思うだけでも、
出かけていても気が楽にいられたりするものです。 そうして、寛大な心で居られる様になれば、執着は薄れてゆき、自分自身が楽に
なります。 楽になるという事は、あの世で言うところの「成仏」のです。 もっともっと楽になれば、成仏の段階が上がり、
仏の世界へ導かれ、極楽浄土への道を歩めるという事です。 それには、執着の対象になっているものへの「念」を外すため
の、心の転換が必要です。
もう死んでしまったのなら、生きていた世界の「物」などは、持って来れないし、触る事も出来ないのなら、もう自分の物だとか
言っていても仕方ないと、潔く執着を捨てようと思えるように努力する事です。 そうすれば、そんなに気にならなくなり、心も
軽くなって、楽に過ごせるようになります。 これは、この世・あの世を通じて同じ事が言えます。 この世で楽な心の状態で
居られるという事は、あの世に照らし合わせると、楽な世界(成仏した世界)で有意義に過ごせているのと同じです。
でないと、死んでからも、これは自分の物だとか、自分の土地だとか、建物だとか言って、その場所や物に憑いてしまいます。
(人間は、執着している場所や物や人物等に憑きます。 それは、そこに自分の心の想い全てが向いているから、執着が磁力の様に
働いて離れられないのです)
そういう霊も、実は生きてる時には、そういう事も知らずに住んでいて、もっと前に住んでた人の霊に同じ事を思われてたりするんです
よね。 本人は、霊になっても気付いてませんけどね。
時代はどんどん進んで行き、時代と共に風景も環境も変わります。 以前の事を、死んでも言い張っていたりしても仕方ないのにね。
でも、そういう死んだ人の念の憑いた土地や建物や品物等を買ってしまったりすると、自分の物を勝手に盗るな!とか言って
苦しめてきます。
土地の場合なら、更地になって売られたものを買って、家を建てて住んだりすると、これは昔(数百年前とか)
に自分が住んでいたから、今でも自分の土地じゃ!とか言って、住んでる家族に悪さしたりしてきます。
あの世で苦しんでいる者達は、みんな何かの執着が残っている為に、その執着しているものの呪縛から逃れられずにいます。
だから、成仏が出来ないでいるんです。 あの世の地獄では、この世の「物」や「身体」
や「地位」や「家族」や「他人」等の執着してるものから心が離れなくて、いつも何か、どれかを要求したりしています。
(本当に、視野が狭いというか、考えが狭いというか、広く見れないし考えられないから、心も開けず、気付きもしないんです。)
早く、そういったものから心を離して、気持ちを楽にすれば、楽な世界へ上がれるんだと気付いて欲しいと思います。
今回は、「物」による物欲から執着が生まれるというお話でしたが、「物」意外でも、何にしても、そればかりに気を取られ過ぎると
執着となり、苦しみを背負う事になるので、この世あの世を問わず注意しておく事が大事です。
-2010年4月16日-
今日は『徳』について教えて欲しいとメールでリクエストがありましたので、『徳』というものについて書いてみたいと思います。
「徳」についての質問内容としては、( 実力がそこそこあっても、我が強い人や、ゴマスリをしたりして出世するケースが多く
(全てではないですが)逆に、いい人は、仕事があまり出来ないというか自分を主張しなかったり、部下を動かす力がないのか?
ポストとしてはソコソコで終わってしまうなど、、これって徳がないって事でしょうか?
徳とは悪いことをしても無くならず、出世してお給料が沢山貰えるかたは徳があるって事なんですか?
徳なくして出世すると危険とも聞いたことがありますが、徳がなくて出世をするのでしょうか?)という質問でしたので、
ざっとですが、私なりにお答えしていこうと思います。
まず、徳というのは、心(精神)の修養を重ねていくにつれて心が調和されて魂の霊格が上がり(魂磨き)、正しく精神と言動が
伴っていく末に、人の為から社会の為へ(家族の幸せや発展を願い、それに尽くし、社会に出れば、自分の責任を果たし、社会貢献の
為に淡々と努力を積んでいく事)という、自身の意識の向上発展から利他への想いに発展していく事で、心に調和と発展が生まれ、
それが魂に蓄積されていき、『徳』という「心の輝き」になっていきます。
これは、まず自分の意思の力で「徳」というものの根元を発生させ、そして磨いていく努力の過程、そうして磨いたものを実践して行く
という事が「徳」を積んでいくという事であり、「徳」の意味であると思います。 過去、そういう徳を積んだ人が、自分の持つ
「徳」を社会に還元しながら生きていくというのが、本来の「徳」の使い方であると思います。
こういう事から判断すると、自分の地位や名誉、高額なお給料(金銭等)を獲得しようと、自我欲に偏った努力の末に出世する
というものは、本来の「徳」という意味から外れていると思います。 なので、「徳」ある人は、そういう偏った出世には無関心な
ところが多いのですが、人からは信用されていたり、頼りにされている事も多いです。
それと、上役に「徳」ある人がいない為に、人を見る目が無く、本当に適任の方を人選出来ていないのもあると思いますね。
人の先頭に立つという事は、人としても上に立つ人で無いといけないんですが、そうではなく自分が可愛い人が上司などの上に立つ人となると、
部下に責任転換を押し付けたり、困った時に助けてくれないとか、好き嫌いで人選したり、偏った対応をしたりと、何かと大変です。
「徳」は、無くならないという事はありません。 悪い事をすれば、この世的に感じる「徳」も次第に減っていくように感じると思います。
それは、その人の人間性が低下してくるからです。 人間性が低下するという事は、魂の格が低下するという事であり、徳は、その
人の人間性の向上(魂の向上)の積み重ねから生まれてくるものなので、これまで積み重ねた徳も、人間性(魂の格)の低下と共に減る
のです。
「徳」は、前世からの積み重ねで、魂の内部に蓄積されています。 それを今世で使う事も出来ますし、前世で努力して
積み重ねた徳を、今世、恵まれた環境の中で好き勝手に過ごし、他人に迷惑を掛けるような生活の中で、無駄に使い切る人もいます。
また、「徳」なくして出世すると危険ですか?とありますが、それは「徳」の無い人は、和の精神や利他という精神も低いため、当然、
魂の格も低かったりするので、そういう人が、人の上に立つという事は、何かと危険を伴ったり、周りに迷惑を掛けたり、自我欲に
駆られて周囲を巻き込むような失敗をしやすいので、危険であるという認識があると思います。
この様に「徳」というのは、その人の生き方、考え方、実践力等が正しく発揮されていて、周りが皆、どこかの部分で尊敬出来る
面、他人から、人生の目標や理想と出来る面を持ち合わせている人であると言えます。
「徳」とは、本来の意味からすると、出世目的で発揮するものではなく、魂の向上に伴って顕れてくるものであるので、そういう観点から
見てもらえればと思います。 今回は、社会的出世という質問からの回答でしたが、「徳」は、何もそれだけでなく、その人の個性や
得意分野などによって発揮される分野が分かれるので、「徳」が歌や芸術などで発揮されれば、それは多くの人の心を癒してくれるもの
になり、人間性の向上から魂が磨かれ、真理の分野に秀でれば、多くの人々を正しい道に導く人にもなります。
まあ、「徳」にも種類や格があり、それにより、影響を与える範囲や影響力も、少人数から国家的な範囲等にまで変わってきますよ。
今回は、『徳』についてでした。 早くからリクエストをお願いされてましたが、ようやく書く事が出来ました。
リクエスト、ありがとうございました(^−^)v