ちょっと一言。
-2012年11月24日-
今日は、阿弥陀様について、お話してほしいというリクエストにお応えします。
阿弥陀様は、西方極楽浄土から我々を見守るとされ、全ての者を極楽浄土に導く仏様とされています。
また、無限の寿命を持つという意味から「無量寿如来」や、無限の光明を持つという意味から「無量光如来」
と呼ばれる事もあります。 「南無阿弥陀仏」という言葉がありますが、「南無」と「阿弥陀仏」が合わ
さって出来た言葉です。 「南無」は帰依するという意味で、阿弥陀仏(阿弥陀様)に帰依しますという
意味です。 もっと簡単に言うと、阿弥陀様を信じて、おすがりしますという意味です。
浄土宗や浄土真宗など、阿弥陀様をご本尊として祀ってる宗派の方は、お寺のご本尊や、各家庭の御仏壇の前で
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えておられると思います。
阿弥陀様は、悟りを開いた お釈迦様と同じ「如来」という位なので、自身を着飾る様な装飾品は一切身に着け
ず、肩から足首まで覆う、一枚の布を着た姿で居られます。
これに対して、菩薩様の身体には、煌びやかな装飾品を身に着けられています。
まだ、そういう飾りをして、自己の高貴さ威厳さを表していたいという想いが残ってるという段階、そういう
想いを最後には脱ぎ去って、大きな悟りを開くために修行されているという段階の方が菩薩であるんですね。
「如来」は、そういう修業を経た後、悟りを開いた方であるという事ですね。
また「如来」とは、真理の世界から来た者としての「如来」という事であり、真理の本質を、身をもって表す者
、それがお釈迦様や、阿弥陀様などの「如来」達です。
阿弥陀様は、この世、あの世を通して、迷える者を大きく広い心と、光(教え)をもって救い導く仏様なので、
私の仕事の中で、死後迷える魂を浄化をする際や、死への不安な心を癒してあげる際には、よくお世話になり
ます。 それは、阿弥陀様が主とした「死」への対応として、人が死に直面した時の対応、そして、その救済
を願うというのが阿弥陀如来という仏様だからです。 人が様々な原因により、死に近づいていく事による
不安や心の乱れを、阿弥陀様の力で不安を消し去り、死への恐怖から暗い世界に堕ちた心(魂)を、明るい世界へ
救い上げてもらったり、迷える人の魂は、往生へ導くために力を貸して頂いたりします。
闇は、光(光は正しい想い、素直な心から発する)が無いところです。 阿弥陀様は、迷える心に、偏らない
素直で、正しい心(想い)を思い出させてもらえる力(阿弥陀光)を与えて下さいます。 苦しみの心は癒さ
れ、穏やかな気持ちで物事を考えられる様になります。 そして、本来の真っ直ぐな思考が戻って来ます。
阿弥陀様は、いつでも人間の近くにいます。 人間が想えば、直ぐに身近に来て頂けますが、そんな事は無い
とか、仏なんている筈が無いと思って心を閉じてしまっている人には、阿弥陀様の光を自ら遮ってしまい、
光が入って来ないんです。
阿弥陀様は、誰にでも光を投げかけてくれますが、その光を受けないのも、各人の自由なので仕方ありません。
阿弥陀様を信じて心の中に仏の光を灯す人は、いつでも、どこにいても、阿弥陀様の事を念じれば、心の中に
阿弥陀様の光を受ける事が出来ます。 そうして心の繋がりを持ち続ける気持ちが信心です。
阿弥陀様は、阿弥陀信仰を持つ人以外にでも、救いの光を授けに来られます。
私が、東北大震災の後、多くの魂を癒し、明るい世界へと導いていた時も、阿弥陀様に随分と助けてもらいま
した。 阿弥陀様に降りて来て頂いた時、東北地方全域を見下ろせる程の、大きな阿弥陀様が来られました。
その時には、沢山の人間が一度に亡くなって、多くの魂達が迷っていたので、普段来て頂いてる、山位の大
きさの阿弥陀様ではなく、日本列島の半分位の大きさの阿弥陀様である必要がありました。
阿弥陀様は、自分を信仰する人以外も分け隔てなく救いに来てくださいます。 そういう事から、多くの
迷える魂を大きな光の玉の中に集めて、迷いの暗闇の中から救い上げてくださいました。
その時は、阿弥陀様を信仰するとかしないとか、宗派がどうのこうのとか、そういう事は関係なく、全ての者に
対して救いの光を投げかけてくださいました。
そうして、その光を受け入れていった者から次第に成仏されていきました。 何度も何度も、何ヶ月間も
阿弥陀様に頼み続け、迷える魂を説得していると、段々と、私や、阿弥陀様に対して、迷える魂の心も変わって
きて、真理の理解も、受け入れる心も出来てきます。
阿弥陀様は、全ての人間が、成仏、往生するために、出来るだけの願いを聴いてあげようとされています。
阿弥陀様は、全ての人間を救うために、四十八願(四十八の誓い)を立てられ、全ての人間を救うまで仏に
ならないという誓いを立てました。 そこまで人間達の事を想い、大変な修業をされて如来になられています。
でも実際、人間達の人生の中では辛い事も起きますし、過ちも犯してしまい
ますし、救われているんだという概念も、今一実感が湧いて来ないと思いますしので、阿弥陀様を心から信じれ
ない人も沢山います。 それが人間です。 まだ心に「仏」の存在が薄い時の想いは、それが自然な気持
ちであると思います。
そうした想いの中で、感謝して生きていくのが難しいと思う時、今生きているという事自体が
辛く感じる時、悩みが尽きない時、そういう時こそ阿弥陀様を想い浮かべて、
自分の心の中にある想いを、阿弥陀様に聴いてもらうと良いです。 心の中に溜まった苦しみを、阿弥陀様に
伝えてみると、案外、楽になったりしますよ。 苦しいから、癒しや、導きが必要なんです。
そういう人達を救う為に、阿弥陀様は「阿弥陀仏」となって存在しているんです。
阿弥陀様に心の内を聴いてもらう時、「うんうん、今まで辛かったな〜、でも心配しないで大丈夫ですよ」
とか、「あと、少しだけ頑張ってごらんなさい」とか、心の中の問い掛けに対する応えの様な意味のイメージが
浮かんできたりしますよ。 そして「聴いてもらえる有難さ」という感じも湧いてきたりします。
辛い人程、頑張っている人程、
早く楽になってもらいたい、早く辛い心を癒してあげたい、私(阿弥陀様)から勇気と希望を貰って、
光の道を歩んでもらいたい。 阿弥陀様は、そう言われています。
信じて、心の中に阿弥陀様の光を受けた時、心の中が熱くなって、思わず涙が溢れて来る事があります。
何だか、阿弥陀様の温かい心に触れた様な感じ、その温かな光の中で癒された感じが、有難く感じたり、
心強さに感じたりして、何か「大丈夫かも」って思えてくるんですよ。
一緒にお参りされた人の中でも、阿弥陀様のお言葉や想いを伝えてあげると、涙を流す人が沢山います。
どうしたの?って聞くと、「心の中が温かくなって無意識に涙が出て来て、頑張ろうって思えました」って
言われます。 「そうか、良かったね」というと、もう顔も明るくなっていて、「はい!」って元気な
返事が返ってきます。 心が救われたんですね。
「全ての人を救う」は、「全ての人の心と魂を救う」という事です。
仏の想いの詰まった光を受けて、心に仏の存在を、仏の光を、仏の想いを満たしましょう。
あなた方一人一人の為に、阿弥陀様は存在しているんですよ。 その想いを感謝して、心で受け取りましょう。
今回は、阿弥陀様のお話でした(^−^)
-2012年11月2日-
日にちが経つのも早いもので、もう11月に入りましたね。
以前から書いている、お寺巡りの記事を読んで、何人もの信者さん達が、記事に書いたお寺にお参りに行かれ
ました。 その度に、「昨日、お参りしてきましたー♪」とか、「今、お参りに来てまーす♪」とかの、
ご報告メールがくるので、「あっ! 今、お参りしてくれてるんや〜(^−^)♪」って喜んでます。
もう11月になりましたので、鞍馬寺や大原三千院など山手のお寺は、そろそろ紅葉が綺麗になってくる
頃でしょうね。 本格的な冬が来る前に、お参りしておかないと、なかなか行けない山間のお寺もあるので、
今月か、来月中頃までには行こうと思ってます。 これらのお寺は、修行場もあったりするので、道を外した
行者の霊も沢山いるし、身体から真っ黒な霊気を出してる坊主の霊もいるし、天狗や動物霊もいるので、
危険度が高いので用心しないといけません。 特に、霊界に興味があるとか、少し霊力が付いて分かってきた
頃が一番狙われやすく危ない時期なので、気軽にお参りに行かれると危険なので、お寺名は書きませんけどね。
もう随分と浄化して軽くなってきましたが、それでも長い事行かないで、久しぶりに行くと、また
悪いものが溜まってます。 まあ、色んな人が来たり、宗教者も来るでしょうから、行く度に違う霊気が
残ってたりします。 誰かが滝行をして帰られて、滝に悪いものが残ってる事もあるし、そういう時は、
滝を一目見たらゾ〜〜〜ッとした冷た〜い霊気が来ます。 大体、向こうから睨んでますからね。
怖いよ〜(-_-;) はいはい。。 頑張って睨んでるけど、そんなにゆっくりしてる時間無いから、特に聞きたい
事が無ければ、雰囲気悪いので浄化しますけど良いですか?って言うと、バーッ!ってこちらに向かって飛んで
くるので、その時は一気に祓います。
祓い終えると、周囲の空気が澄んできて、何かキラキラして明るくなった感じになります。
やれやれ、これで御祈りが出来るわ〜って思って、お祈りをすると、山の神様が出て来られて、今の浄化を
喜んでくれて、お礼を述べて下さいます。 最近は、行(修行)をしに来る者の質が落ちたと嘆いておられ
ました。 私は、「行の為の行をしに来てるものが多いからでしょうね」と言うと、神様は「そうじゃな、
どうも心得違いをしとる者が多いからの〜」と言われます。 そういう人間の意識が集まると、その場所周辺
に、一つの念力系の悪想念界をつくり出してしまい、そこに色んな霊が引き寄せられる様に集まって来るんです。
そして、何年や何十年、何百年となるにつれ、魔界の様な世界が出来上がってきます。
そうして、いつしかその場所は、魔界への入り口であり出口となってしまします。
そうなると、正しい志を持つ修行者でも、余程の不動心を持って対峙しないと、取り憑かれてしまい、家にまで
魔界の出入り口を繋げられてしまいます。 そうして24時間、魔物の襲来を受けながら生活して行く事に
なります。 そうならない為に、何の為の修業なのか、肉体行は、辛い中でも心を穏やかに温かくさせて、
常に大きく広い愛の精神を育んで行く事が大切です。 でないと、ただ身体を鍛え、精神力をつける方に
夢中になりやすい修行方向へ傾いてしまいます。 それでも、精神力や念力は付きます。 霊力が付く人も
いますが、ただ気を付けないといけないのが、魔界の行者の憑依による霊力が多いという事です。
そういう霊は、霊力を貸す代わりに、その人に憑依します。 そうして思い通りにさせて満足している事が
多いです。 なので、自分の意見を押し付けたり、偉く見せたがったり、厳しいだけの人になったりする
ので、心の中にしっかりした心柱を立てて行をする必要があります。 まあ、その心柱を揺さぶりに来るん
ですけどね。
それが生前、同じ行をしていて道を踏み外し、地獄界へ堕ちた者であったり、
自身の心の中の慢心であったりします。 慢心は、魔を呼ぶ材料になるので注意しましょう。
特に、少し霊界が判ってきた頃、自分は普通の人とは違うから、凄いと思ってしまう頃辺りから、慢心の心が
出始め、その波動が、同じ波動を引き寄せます。 それは、人間界でも霊界でも同じです。
似たような考えを待つ者どおしが集まるのと同じです。 善は善を呼び、悪は悪を呼びます。
ずるい人は、ずるい考えを持つ者を仲間にして、少しでも利益を取ろうと欲心が膨れ上がります。
普段から他人の中の自分を、客観的に見ていると、「人のふり見て我がふり直せ」が自然と出来てきます。
そうしたら、この世の中は、全て修行の場であると感じると思います。 生活の全てが、心の修業に当たります。
心が弱いと、魔に遣られます。 魔でなくても、他人の言葉に遣られる人もいます。
言葉は言霊が宿り、心や考えが悪いと、言葉にその悪い波動が乗ってきますので、言葉で人(人の心)を
傷つける事もあるし、逆に良い心であれば、その言葉は人(人の心)を救う事になるでしょう。
どちらも、言葉一つで、人の心を傷つけたり、救ったり出来るんです。
心は、人の行動も左右します。 心が狭く、自己中心的であれば、人から何か(地位や名誉や財産など)
取ってやろうとか、自分の為に人を犠牲にする人になったりします。
しかし、心が広く温かい人であれば、人のために頑張る人、人の力になろうとする人、人を救う人などに
なりたいと思える様になり、そこに勇気と決断力が備われば、本当に人の為に働ける人に成長して行けます。
神様達は、人間には、そうなってもらいたいという想いで、神仏の世界より、私達人間に指導をされているん
ですね。 色んな行(肉体行や、瞑想行等)の道がありますが、全ての道は、正しく進むと
「神仏の想い」に繋がっているという事です。
その道を、正しい道を、しっかり選んで歩んで行けるかは、自分の心次第です。
生きてるだけで修行です。 生は、与えられた修行です。
神仏の想いを心に留め、心の修業に精進しましょうね(^−^)v