ちょっと一言。
-2013年2月15日-
今日は、「人の命」について、お話して欲しいというリクエストがありましたので、私なりにお話していきます。
まず、本来「命」というものは、人間を、ただこの世の生き者だけとしてではなく、魂として見た時に、永遠の
ものであります。 この世に生きている人間の身体は、お母さんの身体から産まれ出た時から、年老いて亡く
なるまでが、一般的に各人の寿命とされています。
この世で生きてきた人間としての「肉体期限」が終わった、その時点で「寿命が尽きた」という事です。
また、生きている肉体の身体の各器官(特に心肺と脳)の機能が停止すれば、肉体の死として捉えますので、
その時点で「命」が無くなったという解釈になると思います。
これが、この世的(物質世界的)に捉えた、死への一般的な解釈であると思います。
その後、亡くなった人の肉体は葬儀場で焼かれ、小さな骨だけになって、お墓の下に埋葬して、もうこの世の人
では無くなったという扱いになります。
ここに、「命」というものが忘れ去られている事が多いです。
「命」は、「魂」でもあり「霊」でもあり「心」でもあります。
「命」は巡り巡って(輪廻転生)その時代毎に生きる人の「心」になります。 「命」は「心」なんです。
その「心」を大切に想う事が、「命」を大切に想うという事です。
人の「心」を大切に想わない人が、人の「命」を軽んじて見たり、容易く殺してしまったりという、現代の
「命」に関する軽視が、多くの死傷事件にも繋がってしまうんです。
人の肉体が無くなっても、その人の「心」は永く残ります。
その亡くなった人の「心」に対して、人は
同情したり、悲しんだり、または勇気づけ、癒し(全て供養ですね)てあげたりするんです。
「亡くなった人の命」=「亡くなった人の心」を想い、親しい人が亡くなって、もうこの世の人では無いけども
、亡くなった人の心を癒してあげたいという精神が、自然とそこに供養という形で表されてくるんです。
「人の命」を重んじている人は、「人の心」も重んじていると思いますよ。
「命」や「心」を重んじて考え行動するという事は、人間の尊厳に沿った尊い行いです。
それは人として、本当に当たり前の事ですが、その当たり前の事が出来ていない時代になって来ているという事
が、色んな災いや災難(天災や人災)を呼び込んでいると思います。
地球最高神霊の領域では、地球の波動が悪くなるのは、そういう原因からであると言われていますしね。
また、「命」は地球全てのものに宿りますので、(高次元は心や意識があり、低次元に行くほど波動っぽくな
っていく)動物も木も草も、みんな大切に想う事が大事です。 今の環境破壊も、人間の便利さだけを追求
して犠牲になってくれるものに感謝しない心があります。
みんな、心の様相が、大なり小なり自分を取り巻く環境を決めていくんです。
「命」は、森羅万象の中心であり、起源であり根源です。
命の問題をよく見るという事は、物事の問題の根源をよく視るという事です。
事件や災難も、よく視て判断して行く必要があります。
災害等の視察も、ただ現状を見るだけの現状把握だけでなく、現地の人の心も視るという事をしていく必要が
あります。
そこに命の尊さを学ぶ心や、そこから勇気付けられる心も生まれてくると思います。
無くなってしまった所に、何かを生ませてあげる事が出来たなら、それは命を与えた、心を与えた、希望と
成長を与える事が出来たかも知れないという事です。
今の日本は、まだまだ心の文化が息づいています。
命も助け合いの精神で、この世に留めておく事も出来ます。
そういう、各自の心が大きな働きを生み、大勢の命を救う事も出来ます。
反対に、心が無くなるという事は、魂も無くなるという事になり、それが本当の意味での「死」という事になります。
永遠の魂(命)が無くなるという事は、その時点から、無かった事になる、存在しなかったという事になります。
命が無くなるという事は、その人の心が無くなるのと同じです。 あの世、この世を通じて、その人自身の
思い出も、喜びも悲しみも、全て消えて無くなり、初めから何も無かった事として、存在自体が消されるとい
う事です。 (なので、当然ですが、あの世でのやり直しも効きません)
これまでの輪廻転生の中で培った様々な心の蓄積が努力が、何も無かった事になるという事であり、良くなる
かもしれない、悪くなるかもしれない、それらの可能性まで全て消され、未来が無いというという事
になります。
これが「永遠の死」という事です。 これは本当に怖いです。 悪魔でも恐怖します。 恐怖を楽しむ
悪魔でも、心に恐怖が湧いてきます。 心があるという事は、根本神が創られた魂であるという事に繋がる
ので、悪魔に成り下がる以前は、普通の魂であったり、また、悪魔になる位すごいマイナス念があるという事
ですから、以前は大きなプラス念だった神様的な者が、この世に出た時に、心の不調和から転落した魂だった
かも知れません。 悪魔系統は、大抵そういう感じが多いです。
大きなプラスは、変じて大きなマイナスに転換してしまう可能性があるのです。
これが、この世で生きる難しさなんです。
「命=心」を取ってしまうという事は、余程の事が無い限り、神仏の慈悲の観点から、これはしません。
神仏は、地球と人間社会の調和と、進化発展を望まれています。
「命」は、「心」の他にも、「希望」や「成長」や「発展」等にも繋がり、それら全てを「和」でもって
調和しています。 「和」は「慈悲」と「慈愛」から来ているものであり、神仏の心に繋がります。
その神仏の心から生まれた多くの「命」の一つ一つを、全ての存在が有し、私達は生かされているんです。
「他人の命」、「自分の命」を尊ぶという事は、即ち「神仏を尊ぶ」という事なんです。
命の限り生きるという事は、生かされている事への感謝行です。 今日も無事に過ごせた感謝、人の道から
外れない行動を心掛け、何か、人の役に立っている人でいよう。
そういう尊い精神で、「心」も「命」も、大切にしていきましょうね。
-2013年2月3日-
今日は、「信仰」という原点について、感謝や教えという面も含めたお話をします。
「信仰」とは、神仏等を信じて、敬い、あがめる事。 そして、その神仏や宗教等の教えを信じ、心の拠り
どころとして行く事。 そういう気持ちや、心掛けをしながら、神仏に向き合って過ごして行く事です。
また、何かの信仰をされている家庭環境の下で育った人は、幼い頃から、普段の生活の中に信仰が有り、信心す
る親の姿を見て育っているので、神仏や宗教の教えに接する機会も多くなり、それらの教えに対して、
心の受け入れ態勢が整いやすいです。
本来、信仰というものは、長く続けて行く事で心に拠りどころが生まれ、辛く苦しい時などにでも、神仏に
見守られているという安心感や、必ず良い方向へ導いてもらえるから、それまで頑張ろうと、心に勇気や希望を
抱ける様になります。 また、そうして何とか努力の甲斐あって困難を乗り越えた時、自分の努力が続けられ
たのも、心が折れずに頑張れたのも、神仏の見えない力のお蔭と思えたりします。 そして、「有難いな〜」
という感謝の気持ちが湧いてきます。 その感謝の気持ちが、信仰心となって長く続いて行くんです。
神様に助けられたという証拠が無くても、不安な気持ちを助けてもらえたとか、他人の助けが入って乗り越えら
れたとか、決して自分だけの力で何でも出来ると思わない事が、神仏の力、他人の力を借りる柔軟な心、素直な
心であり、勇気でもあります。 困難な時に助けてもらった感謝は、誰か困った人を助けてあげた事で感謝を
生み、そういうサイクルを良しとする心が、和を尊ぶ心にも繋がり発展していくんです。
有難いという感謝の気持ちは、人の力の及ばない部分、自分ではどうしようも出来ない事、それら自力では
対処出来ない事などで助けてもらえた事による神仏への感謝、自分は神仏に見守られ安心感を与えてもらえて
いる事への感謝、今日も無事に過ごせたという神仏への感謝等の他に、実際に周りの人(両親、兄弟姉妹、友人
、社会団体等)に助けてもらえた感謝とがあります。 神仏は、よく周りの人を動かして助けてくれる事が多
いですよ。 辛く当ってきたり、苦手な人がいた場合、誰かの手助けが入ったり、苦手な人から離れてくれた
り、縁が切れたりします。 自分の気持ちを、しっかり持っていれば、神仏は時期を見て、周りを上手く
動かしてくれます。 神仏への頼み事をした場合、神仏は時期を見て、そういう目に見える形式を取る事も
多いので、それまで自分の努力と忍耐が必要になってきます。
それ(時期を見る)が我慢出来ずに、投げ出してしまい、頼み事を叶えてもらえないと不満を言う人も
います。 それで神仏なんて信じないとかになってしまうんですね。 それは信仰心では無いですね。
自分の望みを叶える事が神仏の役目と考えている人は、信仰心は持てないでしょう。
今信じてる神様に御利益が無いと感じると、直ぐに違う神様の所に鞍替する事も多く、御利益を求めて、色んな
神社仏閣や、宗教に手を出してしまい、結局今一パッとしない感じで、神様を否定する人も沢山います。
まあ、パッとしない程度で済めば良いですが、中には、怪しい宗教とかで変な霊を憑けてしまって、散々な目に
あったりして、宗教を怖いものだと思い込んでいる人も沢山います。
御利益主義の信仰は、信仰では無く、信仰心とも懸け離れているので、頼み事がある時だけ神仏に手を合わせ、
叶うと、それまでになってる人も多いです。 願い事が叶わないと、今まで手を合わせていた神仏の悪口を
言ったり、神棚を捨てる人もいます。 なので、御利益信仰は長く続かないのが普通です。
信仰は、人の人生のサイクルの良い時、悪い時を、神仏の教えを生活に、生き方に生かしながら乗り越えて行こ
う、生きて行こうという気持ちで、神仏と人が一体(神棚があれば、その家の親です)となって明るく過ごして
行ける様に想って信心していく事です。
日々、神仏に感謝の念を抱きながら生活していると、自然と人にも自分にも許せる心が湧いてきます。
神様は、広く人間を愛してくれています。 その気持ちに応え、人間は神様に喜んでもらえる様な生き方を
するという事が、人として正しく生きるという事です。 今日も、正しく過ごせましたとか、悪い事をして
しまったが、その日の終わりにでも反省して、明日は今日の様な事は無い様にしようとか、そういう事を心の中で
想い、実社会の中で努力しながら実践して行く事は、とても大変な事でもあります。
そういう時に、神仏を想う気持ちが心の安定に繋がり、真理の教えを実生活に活かして行く事で、困難の打開
策が見つかる事もあると思います。 信仰は、自身の力にもなりますし、前へ進む勇気や希望という力も
与えられます。
実際、身に降りかかる困難に気持が負けそうになった時でも、神社仏閣に居られる神様や仏様や、自宅に祀られ
ている神様や仏様や、それら真理の教え等が、その時々の心の支えとなり、落ち込みそうになった気持ちを引き
上げる助けになっているんですよ。
そうして、心の中に希望の光を絶やす事無く、道を踏み外す事無く、自助努力しながら進んで
行けるようになりましょう。 そうなる為に、心の教え(真理)は、人の心に必要になってくるんですね。
普段の生活の中、普段の考えの中に、物事の判断基準を神仏の教えの中に見つけ出し、自身の心の成長、
人としての正しい成長に活かしてくださいね。
しんどい時も、神仏の教え(真理の教え)を心の救いとして、支えとして生きて行きましょう。
苦しい事は何時までも続きません。 一歩一歩確実に進んでいれば、暗いトンネルも抜け出せます。
信仰心も、一歩一歩の信心の積み重ねです。 そういう努力と信念を神様達は見ておられます。
努力は必ず報われます。 でも、たまには休憩も必要ですよ。 必要以上の無理は、神様は望んでいません。
そうなりそうな時(無理が重なって、このままでは大変だという時)は、一時的に病気になったりして休憩を
取る様にされたり、誰かが助けてくれたり、色んな手段で何とか休める時間を空けてくれます。
無理する人は、周りの事を考え過ぎる傾向があるので、しんどい事も、辛い事も、引き受けてしまって、
それが無理の積み重ねになっていたりします。 そういう人は、知らない所で感謝されてますし、
いざという時は、周りの人に助けてもらえる様になったりしますよ。
それも、普段周りの事を考えて、自己犠牲を惜しまずに頑張ってるからです。
自分が常日頃している事は、正しい事も悪い事も、いざという時に、良い面でも、悪い面でも返ってくる
という事も真理なんですよ。 そういう事全て、真理の教えの中で学び取りながら、人に好かれる人である
様に、日々信心していきましょうね(●^o^●)