神霊による人生相談

ょっ言。

前ページへ戻る


-2013年7月27日-
今日は、人の念と作用についてお話します。
人の念とは、人の想いを更に強くし方向性を持たせたものです。   念(ねん)は、念い(おもい)とも読みますね。   「想い」と同じ読み方をしますが、更に様々な力が加わります。   想いは、自分の希望や願望などのイメージが、自分の中の心情として留まっている状態のものです。   なので、そのイメージをどう表して行くかという具体的な方向性は持っていません。   想いは、その時々の気持ちや、日々の感情をあれこれ思い浮かべるものであるのに対して、念は、同じ想いを 日々続けていく継続の想いであり、執拗に想い続け、心の中で形にし、高めていくというのが念です。   なので、一つ間違うと、念は執着となり易いので注意が必要です。   また、念はイメージとして心に湧き出させたものを、自分の内から外へと発信させて行くという、 積極的な意志と、具体的方向性を含んだ、想いに力が加わったものでもあります。   正しく強い意志を持つ念は、実行力の助けになり、影響力は周囲に広がり、他人の助けや賛同を得て、 自己の願望を達成させる力にもなります。   言葉に正しく強い念いが加わると、人の心を動かせる程の言葉の力が出ますね。   言葉に乗って放たれる正しい念は、受ける人の心の中に届く力を持ち、相手の心を動かし共感を得る等の作用が あります。   それは、言葉の意味を頭で理解する、単に人間の脳の理解と記憶だけで終わらせず、もう一歩進んで、 心に落とし込んでもらえる事、言い換えると、「心で納得してもらえる」という事を可能にするのが、 言葉に正しい念いが込められているかどうかで決まります。   人は、大きな頼み事をされた時でも、その理由を理解し、気持ち(心)で納得すると、しんどい事でも、 損得に拘わらず頑張ってやってみようと思えるものです。   それも、その言葉を発する人が、常々そういった同じ想いを持ち続け、それが叶う様に考え続けてるから、 言葉に熱意が加わり、人を納得させる力も出ます。   それが、その人の発する強い意志の作用であり、念の作用なんですね。  人を自分と同じ様な気持ち、 又は、やる気にさせるのも念いの作用です。   自己の想いを高めた「念」は、真理に適った正しい想いを日々持続させる事で、自分自身を高め、 成長していく事も出来ます。
念は、霊的な力もあります。  何々したいという強い意志の力を、様々な影響力を持つ念の波動(念波) に変化させると念力という霊力になります。   霊的に見ると、身体の周りに透明な炎の様なものが陽炎の様に立ち上っています。   それが真理に叶う想いであるなら、綺麗な光を出してオーラの様に立ち上り、その想いが強いほど立ち上がる 高さが高くなります。  逆に良くない想いから出る念は、黒く霞んだ影の様であったり、悪心から出る念に なると、真っ黒な闇のオーラみたいなのが全身を覆っています。  念の力は気力に比例します。   気力が無いと、想いを念にまで強く出来ません。  念の力は、霊力の元となります。   人間は皆、少なからず霊力を持っています。   その隠された霊力を呼び起こし、正しい念の獲得・保持をする為にも、その努力の積み重ねが必要になります。   それは、自己の想いを達成する為に積み重ねる努力、それは最初に書いた様に、日々継続させる「念い」の 積み重ねです。   その念いを、心・教義・身体(行)、それぞれの方向へバランス良く繋げ、日々磨かれ体得していく念いの力は、 神仏に繋がるような、高次元の念にまで昇華させる事が出来ます。   (いくら身体を鍛えても、教えの知識が豊富でも、心が清浄でなければ、心から発する念は歪んでしまいます)  念の力を高めると、神仏に繋がり、その御力の援助を借りて身体の霊的浄化を行う事も出来ますし、 念の波動を、患部の浄化を目的として悪い部分に集中させていくと、身体の痛みや、筋肉のコリ等も取る事 が可能です。   この念の使い道の方向性は正しい想いから出るものか、正しくないかで、神仏の力を借りる事が出来るかどう かが決まります。  念は、正しく使うと、神仏に想いを届ける役割も果たします。   神仏に願いを届ける時、自分なりの神仏のイメージを持つ事で、より念を出しやすくなります。   自分の想いを遂げたいだけの為に念を出してしまうと、結果的に人を呪ったり、生き霊を飛ばしたり、地獄に 繋げてしまう等、悪い念は更に悪いものを呼びながら、その人の身体や心を蝕んでいきます。   特に、悪霊や苦しんでる人の霊等が憑いてる人の出す念は、自己中心的な念となりやすく、その念に地獄 の霊が引き寄せられ、更に憑依霊の数を増やしていきます。   そして、どんどん気持ちも暗く沈んできて、人を恨む様になったり、妬みや悪口など、それらの念に 悪い霊が加担して、霊的な攻撃を仕掛け、霊障害を受ける様になったりします。   この霊障害は、念を出す人、受ける人のどちらも影響を受けます。   良くない想いで誰かを恨めば、そういう波動は悪念となって恨んでる人に飛んでいきます。   そして悪い念の波動を受けると、体調悪化や、人間関係の悪化や、精神的障害を引き起こします。   霊的影響は、死んでる人の出す念の作用です。   それが人間の身体の中にある霊体の部分に影響させ、身体を痛くさせたりします。   だから、痛くて医者に診てもらっても、病気ではないという診断が下されるんですね。   先ずは、自己の心のマイナス部分に繋げられているか、自分の想いや、言動を見直す事も必要になります。   そして、心を素直にし、神仏には病の根源を退治してもらう様に祈り、太陽の光=最高神霊の光をイメージして 、身体の中に、その光を受け入れ、浄化していくイメージを持ち続けて行くと、次第に霊的影響は無くなって いきます。   この様に、一言に「念い」や「念」と言っても、色んな部分に影響している事や、物事に囚われず本質を 見ようとする想い(正思)、心の調整(正定)、方向性(正念)、その積み重ねの努力(精進)が、 どれだけ必要であるかという事も分かって頂けたらと思います。  そうして、物事を偏らない目で見て(正見) 、想いを正しい言葉使いで表す(正語)、表したら、それを正しい行いで示す(正行)、そして日々の生活や仕事を 道を外さずに頑張っていく(正命)  これらの調整を気に掛けながら、少しずつでも行う様にしていけば、 自分の心の中に正しい想いが存在す続けますよ。  そして、自己を成長させる念(神仏に繋がる念)に 昇華しますよ(^−^)v   


-2013年7月12日-
毎日、猛暑が続いてますね(>_<)  こんな暑い日が続く、日中のお参りは大変です。   人間も大変ですが、暑い中、外に居られる仏像や祠に入られている神様も大変です。   特に夏の時期は、御神前の水玉(水を入れる器)に、綺麗なお水が入って無い事があったりするので、 出来る場合は、手水舎や、水道のある場所から水を汲んで入れたりします。   その際には、神様にお供えする水として、水玉に入れた水を簡単に浄化してから供えます。   神様も、暑い中、水の気が無いと嫌でしょうからね。  また、外の祠に水玉が無い場合、周りに水を撒いて あげたりもします。  お水を供えるだけで、すごく喜んでくださいます。   観光名所的な神社仏閣等は、小さな祠でも、何とか水位は入ってますが、私の行くような修行場的な所や、 その参道に並んでいる仏様や祠などは、普段から水とか入って無い所が多く、お参りに来た人が入れてあげたり、 飲み物を供えたりされている程度です。   有名なお寺でも、本堂やその周辺だけの世話は行き届いていても、少し離れた所の仏様は、水の器すら無く、 干乾びた状態のまま放ったらかしであったりするので、可哀相に思います。   お参りに来る人も、あまり奥には行かれませんからね。  人目に付き難い場所なんでしょうね。   以前、お参りに行ったお寺での仏様との会話をお話しましょう。
その時も暑い夏の日で、お寺の参道脇に少し壊れかけた様な小さな祠に納まっている仏様が居られました。   お水貰えないの?って聞くと、「ワシの事など気にもかけておらんよ。 お寺の者に忘れられている様 じゃ(-_-;)」って言われました。   「昔は、ちゃんと水も貰えたし、ワシの前に来て念仏も唱えてくれた」って、昔を懐かしんでおられました。   「今は、人間達がお参りに来る本堂や、その周辺の建物や、ワシより大きくて立派な仏や、庭なんかを整備し て綺麗にしてるが、奥に居る仏達には、あまり関心が無いようじゃ」って言われてました。   「でも、久しぶりに、ワシと会話が出来る人間と会えて嬉しいぞ♪ 大概の人間は、ちらっと見だけで通り 過ぎるのが普通じゃが、お前は違うの〜。 ワシを気に掛けてくれた。 お前の願いは、ワシには、ちと大き 過ぎるようじゃな。 でも手助け位はしてやれるぞ。 しっかり本堂の大きな仏に拝んでおくと良いぞ。  ワシからも頼みに行ってやろう。」と機関銃の様に早口で話すと、もう私の横に立たれて、「さあ頼みに行く ぞ!」って、早!(◎o◎)!   ここ留守にしていいの?って聞くと、「どうせ誰も来んじゃろうから構わんよ! 誰か拝みでもしたら、 直ぐに戻るでのぅ〜」って呑気なのか、久しぶりに会話が出来て嬉しいのか、まあ私は嬉しいんですけどね (^−^)   この仏様は、仏様自体(仏像)の大きさは小さいですが、お力はありますし、沢山の人を救って来られ た事も分かります。  出て来る気が大きいですから。  本来、もっと大きな仏像に納まる方だと思いました。   昔、熱心に拝む人が居て、暫くして願いが叶ったのか、すごく喜んでお礼に来られてる人が頭に浮かびました。   それも、そんなに遠くない昔ですが、そういうイメージが出てきます。  多分、沢山の人を助けてこられた んだと思いました。   本堂では、その仏様と一緒に並んで座って、私のお祈りをサポートして下さいました。   横で大きなパワーが出てるから、熱いねん(>_<)  汗出るわ(>_<)   そんな私を気にせず、「この者は、私の様な者にも気に掛ける事が出来る者です。 私も何とか力になりたいと 思っています。 どうぞ、この者の願いを聞き届けてやって欲しいと思うが、どうでしょうか」と、私に話す時 よりも丁寧な言葉で頼んで下さいました。  本堂の大きな仏様(阿弥陀様)は、「お前が人間を連れて来ると は珍しい。 何十年、いや何百年ぶりかの〜」って仰いました。  そして、「そなた、余程気に入られた様 じゃな。 ほっほっほ〜」って笑われました。  阿弥陀様は品の良い笑い方をされるな〜って思いました。   (滅多に阿弥陀様の笑い声は聞けません)  阿弥陀様は、「この仏は、小さな仏像の姿ではあるが、本来は 本堂に置かれても良い位の力のある仏である。 以前は、その力を認める者が寺に居て、本堂横に据えら れて居ったが、それを人間は 身なりで判断し、参拝客からの見た目を気にして、大きな力のある仏を、参道脇の目立たぬ所へ置いてしまった。  人間というものは、人も物事も、本質を見ようとしない事が多く、本当に大事なものを見失う事が多い」 と言われました。  「この仏も少々ふて腐れておったが、それも修行と、私(阿弥陀様)も見て 見ぬふりをしておった」  仏様の世界でも、そういう事があるんや〜って思います。   見た目が小さくても古くても、ちゃんと立派な所に納めてあげれば良いのにって思いますけどね。     「しかし、この度、そなたが、この仏の心をまた目覚めさせてくれた。 礼を言うぞ。」って、こちらこそ有難 いですm(__)m  そして無事、頼み事も聞き入れられ、参道脇の仏様は、本堂と参道脇の祠との行き来を 許され、ゴキゲンになられていました♪  良かったね〜(^−^)  また、来ますm(__)m
   小さくても大きくても、人目に付くとか付かないとかでなく、境内にある神仏は、ちゃんと世話をしてあげ ないといけませんね。  ずっと放っておくと、怪しい霊が入り込んでしまい、怪しい気を放つ仏像や、祠に なったりしています。  そういう所に、ふら〜って歩いて行くと、霊に憑かれたりするんですね。   そうなってしまった場所も多いので、神社仏閣の責任者様や従事する方々は、境内の隅々にまで気を配って 欲しいと思いました。   こういう事は、あちこちであります。  先ず、仏様や神様が、十分に御力を発揮出来る環境を整えて あげるのが大事だと思います。  今日は、お参りの際の出来事のお話でした。