ちょっと一言。
-2014年2月23日-
今日は、3月3日の「ひな祭り」に向けて、雛人形を出して飾りました。
そして、お人形の世界で出番を待っている、我が家の雛人形担当の魂たちを呼び出して、雛人形に魂入れをします。
これで、お人形に魂が宿ります。
まあ、お雛様達は、雛人形に入る気満々なので、勝手に入るんですけどね(^^ゞ 一応、簡単に通常儀式としてやっときます。
それが、入っても良いよ!という合図みたいな感じで、先生のお許しが出たから入りましょ〜♪って感じで、皆一同に揃って、音楽と共に降りて来られます。
まあ、仏像に魂が宿るのと同じですね。 お人形に魂が宿ったら、急に会話が出始めます。 先ずは挨拶からですね。 自分達(お雛様達)が
留守の間、家の中が変わりないか見られて、皆無事の様子だと安心されて、ほっこりされます。
そして、お人形の前にお供えしてあるジュースやお菓子等を食べたり飲んだりしながら、皆楽しく歓談されてます。
家の中が、何となくホワ〜っと暖かくなったような感じになります。 部屋に自分一人しか居なくても、家中に沢山の人が居るような、そういう雰囲気の感じがします。
これで、ひな祭りまで一段落です。 後は、日々のお経を唱え、一緒にお参りに出掛けたり、一緒に外食したりしながら、ひな祭りまでお雛様達と楽しく過ごし、
ひな祭り当日は、沢山のお供え物をして、神様と一緒にお祝いします。 お祭りの数日前から、お雛様達は段々と光ってきます。
お雛様を出した日から、今までの修行の成果を護りと浄化の光とし出していますが、お祭り当日は更に強い光を周りに光を放ち、神様っぽくなります。
ひな祭りが終わっても、暫くは片付けずに、そのまま出しておきます。 お雛様達が、「もうそろそろ帰ろうか」という感じになったら片付けるという感じです。
(この間隔は、私の仕事の関係上、年々縮まる傾向にあります) これが毎年続けてきている、お雛様と家族との交流です。
我が家の雛人形は、あどけない顔をしている子供のお人形さんです。 人間でいうと、小学校の高学年くらいの顔立ちをした お人形さんです。
10年位前のお雛様達は、皆まだ小さくて(大体4〜6歳位、お内裏様とお雛様は小学生くらい)見るもの聞くもの珍しそうにしながら過ごしていました。
そして、片付ける日が来ると、帰りたくないよ〜って泣いていました。 片付けるのを、随分と伸ばした記憶があります。 先生のお宅に迷惑がかかるからと、
お人形の世界を司る指導者の神様が来られて、お人形の中でメソメソしている子供の魂を、あれこれとなだめて、連れて帰ったりしてました。
でも、ここ数年で、随分と成長されまして、お人形を箱から出してもらう日も遅くても良いよと言ってくれたり、片付ける日も、お祭りが終わったら、そんなに
長く出したままでなくて良いよと言ってくれたり、色々と気を遣ってくれてます。 もう、お人形と同じ位の年齢を通り越して、立派に成長してきたようです。
お内裏様と、お雛様は、中学生か高校生位?になった様に感じます。
成長され、しっかり感が出てきました。 この1〜2年は、以前の小さい頃の様に騒いだり遊び回ったりせずに、大人しく座られてます。
私としたら、小さい時の方が良かったんですけど、何かと霊的に忙しい我が家を護っていくとかになると、やはり大人に成長していく方が良いかもしれませんしね。
あと、聞き分けが良く大人しくなったので、楽ではありますが、何となく物足りない様にも思います。
子の成長に対する、親の想いと同じようですね(^^ゞ
色々書いていると、そろそろと私の周りに集まってきましたよ。 お雛さん達が(^_^;)
小さい頃に、皆でダーッ!って走ってやって来たのが、ゆっくり集まって来ただけの違いの様にも感じますけど(^_^;)
好奇心は、今も同じようですね(^−^) 「自分達の事を書いてるんだよ」「うんうん。ホントだ。」というヒソヒソ声が、私の後ろで聞こえます。
「先生、今年も忙しそうだね」と、いつも私の身体を心配してくれます。 また、ケーキとか食べに行こうね(^−^)って心の中で言うと、「ケーキだ♪」
って即反応が返ってきます。 「先生のお仕事が、忙しくない時で良いよ」と遠慮がちに言ってきます。 お仕事は、入って来る依頼は当然ですが、
自分でつくるのが、本当のお仕事でもあります。 日々、人のために相談を受け、浄化をして心や身体を癒してあげる事以外にも、大きな浄化や神々との交流の中で、
色んなヒントや導きを頂きながら自分の中で悟りを深め、自分の力とし、そして人の為に使っていく事で、これまで出来なかった浄化や、気付けなかった魔の存在を見つけ、
きちんと対処をしてあげる事が出来ようになります。 それで、また皆さんに喜んで頂けますし、そういう気持ちが、神様の心に届き、神様は皆さんへと光を送ります。
神様は、そうして私を援助して助け、人をも助けられています。
信者さんや、楽になった方々から頂いたお供え物にしても、私がその都度、神様に報告して神棚に供え、その報告を受けて、神様は頂いた方へ感謝の念を送られます。
頂き物は、全てそうしています。
お供え物をしてくれた方は、苦しかった自分の心や身体が癒されたという感謝の気持ちを、お供え物として届けてくれたり、持参して供えてくれたりします。
その気持ちを酌んで神様に報告し、神様は、頂いた方へ感謝の念、癒しや指導の光を送り、神様から感謝や指導の光を送られた人は、また身体が楽になって、心が温かくなって、
また神様に感謝するという具合に、感謝の気持ち、感謝の念や光は、そういった心を持つ方と神様との間で回っていくという事ですね。 それと同じ事が、我が家の家族と
お雛様達との間でも行われているという事ですね。 こういう事が、幸せに繋がる仕組みとして大事な事だと思います。 感謝は感謝を生み、幸せは幸せを呼びます。
苦労してる時でも、何かに感謝をする心、出来れば神仏を信じて感謝する心があれば、必ず幸せはやって来ますよ。 愚痴や文句は、失望(あきらめ)と、魔を呼んできます。
幸せは、自分で呼び込むものです。 自分で良いサイクルをつくる事で、幸せも呼び込めます。 今日生きてる事、それ事態が感謝ですし、当たり前の事が幸せだと気付く事です。
怪我してたり病気していたら、普段から当たり前に出来ていた事も、不自由な中でしないといけなくなるでしょ。 当たり前に過ごさせてくれている事が、実は幸せでもあるんですよ。
小さな幸せ感を積み重ねて行きましょう。 やがて、苦しい中でも、幸せという意識の中で、考えを決めて行けるようになりますよ。
普段居るべき人がいて、幸せ。 今日食べれる事が、幸せ。 仲間がいて、幸せ。 愛する事が出来て、幸せ。 神様を信じる事が出来る自分は、もっと幸せ。
お雛様も、「私達も幸せです!」だって(●^o^●)♪ 私も幸せ(^−^)v
-2014年2月10日-
毎日寒いですね〜(>_<) 一昨日の滋賀(草津)は、雪が2〜3pほど積もりました(>_<)
もう立春も過ぎたので、早く暖かくならないですかね〜(^^ゞ
寒い日は、寂しがり屋の霊に寄って来られると、余計に体が冷えるので困ります。
特に足元が冷えるのは、下から上がってきて、足の裏にある穴から入ってくる霊達の影響です。
冷え性という人の足元に、そういった影響を見る事があります。 体の冷えも、案外体質だけでは無い場合がありますよ。
あと、風邪薬を飲んでもあまり効かず、なかなか治り難いのが、お祓いしたら楽になったという事も多いですね。
年末年始の時期(12月末〜2月中頃)の霊的影響は、お盆やお彼岸よりも案外きつめに出ますので、気を付けた方が良い時期です。
年末は、この一年間で供養や癒しを受けれなかった魂が、年の終わる時期に一度に押し寄せてきます。
年始は、生きてる人間の欲や願望などの想いが神社仏閣に溢れ、その想いに同調した霊が沢山集まってきます。
どちらも他力に頼る想いによって動きます。
ためになる事を聞いても、「良いこと聞いた〜」で終わらず、また「力のある人」、「出来る人にお願いしとけばいいや〜」、という事で、
自分の中では、正しい想いはあっても実践しないで他人任せになる人は、結局は他力に頼るという意識が多いです。
真理を学び、その時々で正しい知識を覚えても、納得して実践に移していって初めて自分のものになっていきます。
真理は実践していく事が大事です。 困難を伴いますが、他人より良い事知ってるという自己満足や、他人より偉しという想いでいれば、
最後は自分だけが救われたら良いという意識へ傾く可能性が大きくなってしまいます。
過去の偉いお坊様でも、そういう意識から地獄へ落ちてる者に、何度も言い寄って来られた事があります。
皆同様に、生前の自分はどんなに偉かったか(有名なお寺の大僧正だった等)を私に説明してきて、
なのに、「何故こんな暗い地獄に居なければならないのか! 何故、お前(私です)は光っておるのに、ワシは光っておらんのじゃ!」とか、
「あれだけ阿弥陀仏を拝んできたのに、何故ワシの言う事を聞いてもらえんのじゃ! 阿弥陀はどこじゃ! 何故、ワシの所に降りて来ないんじゃ!」
って、夜中じゅう言ってきます。
結局は、私より自分(大僧正の位だった方)の方が偉いのに、仏に見放されたような暗い世界に放っておかれ、その割に、私が阿弥陀様や、
その他色様々な神仏と交流出来ているという理由が分からないらしいです。
なので仕方なく、その方の生前と、心の中を霊視して見ると、一番偉い位に上り詰めたんだから、あの世でも、仏様の横に座って尊敬を集めてると勝手
に思い込んでいたようです。
自分が一番偉いと過信し、自分の下に衆生を敷いたんです。 その意識のまま過ごしていました。 仏の話を聞きに来る者達は、ワシが何を言っても、
ありがたい!ありがたい!と言っておるとか、話を間違えても気付く者すら居らん、そんな者達に心を配る必要がるのか、という意識です。
救いは仏様に任せておけば良い。 まあ、それはそうでしょうが、分かる様に言ってあげる事が、聞きに来る方にとっての救いでもあり、偉くなるに
つれ、そういう心配りも必要なんじゃないでしょうかね。
そういう感じで、大分偏っるな〜って思っていると、ワシが悪いのか!って怒り出します。 生前、意見する人が周囲にいなかったんでしょうね。
偉い人は、そうでない人達には心配りをするものではなく、自分より下の人に、そういう役目を負わせれば良いという考えが見えますね。
その偉い方も、死後の世界では、阿弥陀様の様な仏になって、人々から尊敬の念を受けているだろうと思っていたようです。
また、そうなるべきだとも思っていたようです。 一番偉くなる為に、お寺で修業したのかと思います。
阿弥陀様は、一切衆生の救済を求めて請願を立て、そして修行の末に如来になりました。
如来になる為に修行されたんじゃないです。 霊格は結果でしかありません。
色々と話を進めて行く内に、その者(大僧正)は段々と元気が無くなってきました。 何やら、小さな声でブツブツと言っています。
何故、自分を敬ってくれないのか、偉い人と認識してくれないのか、来る者といえば、何かをたくらんでる様な奴や、騙そうとしてくる奴らばかりじゃと、
嘆いてました。 その割に、私には上手い事言って、仏様に頼んでもらって引き揚げてもらおうという意識が、媚を売るような顔や、ギラギラと光る眼に
表れてます。 聞くだけ聞いて、やる気を無くし、自分の力で駄目なら、今度は私を利用しようと決めた感じです。
結局は、その世界にいる者は、大僧正も、騙そうとする奴らも全て「心」が同類だという事です。
だから同じ世界にいるんですからね。 この世でも、心の通う者同士が仲良くなるという事がありますが、それは善悪共に言える事です。
悪の心に導通する者同士が集まって悪巧みをすれば、その者達の周りには地獄の想念と闇が渦巻きます。
善の心に導通する者同士が集まって、世の中を良くしていこうとすれば、その者達の周りには天国の想念と光が広がります。
仏国土と言われる真理を体現した世界は、この世でもつくる事が出来ます。
神仏の光を集める人の周りには、神仏の世界が同居しています。
そういう人の周りに、志の高い人が集まり、真理を実践した生活を送っていく事で、小さな仏国土が出来始めます。
その規模を大きくしていく事が、世の中に光を広げるという事に繋がり、仏国土を築き、広げていこうとする事です。
そうして正しい意識で生きる人が多くなり、次第に世の中が明るく(色んな面で)なります。
あの世の霊も、生きてる人間も、自分の心で悟って初めて進んで行けます。
他力に頼る人は、普段から心の想いがそういう波動を出しているので、同じ他力依存の世界の中にいる霊を呼び寄せます。
この世でも、自力を尽くしていく中で、自然と他力を得るという事がありますね。
頑張って黙々と仕事をしてる人や、大変な中でも文句を言わずに頑張ってる人、他人との調和を図りながら、自分のやるべき仕事を
こなしていく人などは、社内の同僚や仲間内、また、周りから見てる人からすると、手助けや、お手伝いなどをしてあげたくなります。
これを快く受ける気持ち(器の広さ)があると、進めている仕事や、希望や願望の達成に向けて歩んで行く速度が早くなります。
自力が他力を呼び込み、困難な事でも自助努力の果てに実を結ぶという事に繋がります。
自他力の調和を持つと、他人の同意や援助も受ける事も自然と多くなりますし、そうした中で感謝の想いも起きますし、それを心に留め、
感謝の中でする努力は、意外と楽だなという事にも気付くはずです。
努力は、気持ち次第、心次第で、辛くなったり楽になったりするもんです。 辛い事の中に、楽しみを見つけることもできます。
自力の楽しさ、他力のありがたさを心に留めて、謙虚に、急ぎ過ぎず、焦らずに心に余裕をもって進んで行きましょうね。
自分の過ちを受け入れる心の広さを持っておきましょう。
今の立場に固執せず、基本に戻れる心の余裕を持続させておきましょう。
そして、他人の幸せを妬まず、良かったねと言える心の余裕を持ちましょうね。
そういう人には、自然と、他人も神仏も寄り添い集まってきますよ。
神仏や良い人が沢山集まると、心も身体も温かいしね。
寒い時は、皆呼んで温まりましょう(●^o^●)