神霊による人生相談

ょっ言。

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-2016年4月29日-
昨日は、不動明王様の御縁日でしたね。  お休みの長い方は、今日からゴールデンウィークに入られた方も多いと思います。   九州の熊本では大きな地震災害が起きてしまい、避難をされている方々は、不安やストレスを背負いながら頑張って生活されてます。   地震で亡くなられた方々には、お釈迦如来様、阿弥陀如来様、薬師如来様、それに不動明王様や観音様等の仏様方に頼んで、九州の熊本の上空辺りに滞在してもらって、亡くなられた魂達の 救済に当たってもらっています。  また色々としていく事もあると思うので、それまでは仏様方の救済力にお頼りしてあります。   今後は、九州地方の他にも、日本の天地の浄化を進めていく事も必要になります。   私的には、普段お詣りに行けてなかった神社仏閣にも出向いてお祈りし、自分の意識改善から大きな霊力を発揮出来るようにしていく事も、九州の浄化の他に、今後の様々な浄化には必要になります。   我が家も、色々と悪影響を受けていて、家族の身体にも不調が続いています。   今、日本は厄介な想念の中に入り込んでいて、それを浄化していかないと、先の熊本だけではなく、色んな地域に影響が出るでしょう。   色々と厄難続きの中から脱出できるように、苦しい生活から早く抜け出せるように、安定した生活へ早く戻れるように、それぞれの分野で自分の得意とする力を発揮していく事も大事だと思います。   また、自分には、これしか出来ないと思わずに、今出来る事、支援の中で何が必要かを総体的に考えて、出来る範囲でやってみる事も必要だと思います。   苦しい想念が熊本の土地や、県民の心の中に永く残らない様にしていくような、時間を掛けて行う癒しのサポートも、これから必要になるでしょうね。   また、霊的サポートとして、苦しい魂達を楽な世界へと導いていければ、また明るい熊本に戻るでしょう。   そうなる為に、皆が力を合わせて取り組んでおられる事に合わせて、私が出来る役割として、霊的な面からのサポートを進めていく事で、生きて頑張る人も、亡くなられた魂も、共に明るい希望の光 を見つけていけるように努力していこうと思います。  熊本地震については、また色々とお話させて頂きますね。
  今回、そういう事も含めて、先日、無動寺(むどうじ)にお参りに行ってきました。   無動寺は、滋賀県大津市にある比叡山延暦寺東塔の無動寺谷にある塔頭で、千日回峰行の拠点でもあります。   今回、お参りに行ったのは、無動寺谷に点在するお堂の中の「明王堂」と「弁天堂」の二か所で、初めてお参りされる方と同行しました。   「明王堂」は、不動明王様をお祀りされてるお堂で、「弁天堂」は大弁財天様をお祀りされているお堂です。   いつもより早めに家を出て、ケーブル坂本駅の横に車を止め、ケーブルカーに乗って山頂駅まで上ります。   ケーブルカーに乗れば、11分で比叡山上駅に到着します。  ケーブルカーに乗り込んで直ぐに、重い空気が身体の周りに感じられましたが、途中の霊窟がある辺りを過ぎると、スゥーッと消えて いって楽になり、比叡の神仏に見守られてる感じになりました。     乗車の途中、ケーブルカーから雄大な琵琶湖の景色が眺められますよ。   比叡山上駅を降りて、右の道を緩やかに上って行けば、比叡山根本中堂の方面への道になり、今回、私達は無動谷方面へ行くので、左側の坂道を下っていく事になります。   この日は気温も高めでしたが、山頂駅に着くと少しヒンヤリしていて、駅横の鳥居をくぐって坂道を下って行くと、少々肌寒く感じられるようになりました。   山道を歩いてる途中、私達の前後を無動寺の神仏が警護して、一緒に歩いてくれているのが分かりました。  何時もながら、有り難く心強いです。   坂道を10分程下って行くと、左「明王堂」・右「弁天堂」の分かれ道に差しかかります。  先ずは「弁天堂」へ行くので、右側の道(石段)を下って行きます。   途中、大きくて丸々と太り、艶々した綺麗な身体のトカゲくんに出会いました。  この日は、往復の道中で3回もトカゲくんを見ましたが、どれも大きくて体長20cm位はあり、顔を近づけても 全然逃げず、綺麗な身体をじっくり見せてくれました♪  一緒にお参りされた方は女性の方なので、トカゲくんは苦手なようです(^^;)   弁天堂への行き帰りの時は、トカゲか蛇が出て来る事が多く、私や家族の者は、お出迎えや〜♪とか、お見送りしてくれてるんやで〜♪と言ってます。   冬場の寒い時は、蛇やトカゲの代わりに猫が出てきてくれて、先頭に立って歩いては止まり、ついて来てるか確認するように振り向いて、暫く一緒に参道を歩いてくれて、お堂の鳥居の前まで来ると、 どこかへ帰って行きます。  そうして毎回、無事に弁天堂に到着します。  弁天堂の鳥居の入り口横には宇賀神、お堂の周りには、白蛇や白龍などの祠が幾つもあります。   お堂の外にある腰掛に座っていると、中から大きな蛇さんが、にゅ〜っと私に向かって顔を近づけてきてくれたので、ご挨拶しました。   それから、お大人の太もも位の太さの赤い舌をペロペロと出し入れして、おねだりしてる感じなので、頭と喉の辺りをナデナデしてあげました。  暫く気持ち良さそうにしてましたが、 弁財天様に呼ばれたのか、私の前からゆっくりと遠ざかる様に帰って行きました。   お堂では、住職がお経を唱えておられたので、持参したお酒と生卵をお供えし、お祈りを済ませました。  そして、祠の数だけ、小さな紙コップにお酒を入れてお供えしました。   お酒をお供えすると、それまで寒くて暗く感じた祠が明るく感じられ、全部の祠にお酒を供え終わると、お堂周囲に感じていた霊気が明るく温かい感じに変わりました。   みんな喜んでるようです。  お酒を供えると、それまで感じていた「霊気」が変わるという事を、同行した方は体験されたようです。   神社仏閣どこでも同じですが、受け入れてくれると、穏やかな気が湧き出てくる感じです。  周囲が明るく見え、気持ちが楽になり、身体も軽く気分良くなります。   これは、実際に体験してもらわないと、言葉でだけの説明では実感が湧かないと思うので、お参りの時でしか味わえない経験だと思います。   そうしてる内に、お堂内でのお経が終わっていたので、私達はお堂に入って再度、お経を唱えさせてもらいました。   お経が終わって、色々と話し込んでいると、先程までお経を唱えられていた御住職がお堂に入って、堂内の明かりを点けてくれて、奥の部屋の扉を少し開けてくれて、「ごゆっくりお参りされてくだ さい」と声を掛けてくださり、そのまま出て行かれました。   私達は、またこれから奥の弁天様の部屋で、お祈りか何かする為に、奥の扉を開け、弁天様のお部屋に灯りを点けられたんだと思ってましたが、何もせずに出て行 かれたので、二人でキョトン(゜o゜)!としてました。   そのお蔭で、滅多に見れない、奥の間にお祀りされている弁財天様のお姿を拝見する事が出来ました。   こういう事は滅多に無い事なので、大変ありがたかったです♪  いつもは扉は閉じていて、周りは暗くて何も見えないのに、奥に灯りも点けてくれたので、弁財天様がよく見えました。   弁天堂の弁財天様は、どっしりと落ち着かれた肝っ玉母さんの様な感じで、とても安心感があります。   あと、白金色に光る大きな蛇も居ます。  先程の蛇さんですね。  正面から見る顔の幅だけで2メートル位でしょうかね。  身体全体だと、お堂を何周も巻いてしまう位の大きさですね。   その蛇が、弁財天様を護っている感じです。   お堂の中でお経を唱えている際に、般若心経のところで、自分の光を増幅させて、天の光と融合させてから、お堂と比叡の山全体を浄化するイメージで天より光を降ろしてみると、お堂や、 その周りと山全体も明るい光りに包まれて、少し重い気が残っていたのが、軽い感じの気に変わりました。   弁財天様とは、これからの護りのイメージを頂いて、課題である霊的意識の改革のアドバイスも頂いてきました。   今、九州に限らず、日本を取り巻く想念の浄化と、九州地方の復興もお願いしておきました。  九州の次は、また違う地方へ影響が移る可能性がありますからね。   色んな神仏の世界に通じて、それらの世界の神仏の力を借りての浄化も進んで行くと思います。  昨日から一週間、お家の神棚に神仏が集いますので、毎日の祈りの中にも九州地方の浄化と 発展を進めて貰えるように、神仏の力を降ろして、復興への取り組みや、復興に対する物事が早く進むように、皆の心が癒える様な力も降ろしてもらいながら、多くの善意を無駄にする事なく、 進んで行けるようにお祈りを続けていきますね。
次は、不動明王様の所へお参りに行くので、先ほど下りて来た道を、今度は上がって分かれ道まで引き返し、明王堂へと歩いて行きました。   次回は、明王堂でのお話をします。


-2016年4月8日-
先月のお彼岸も終わって、2週間以上経ったというところで、色んな霊的影響が、ようやく落ち着いてきました。   お彼岸の期間に霊界から出て来た魂も、元居た霊界へ戻り落ち着いてきています。   その中で、念仏地獄という霊界がありますが、大勢の人が集まって、色んな念仏を、何千回、何万回と延々と唱えています。   今回は、代表的な「南無阿弥陀仏」と唱える念仏集団地獄のお話をします。   「南無阿弥陀仏」とは、「南無」と「阿弥陀仏」に分かれていて、「南無」は帰依するという事ですから、「阿弥陀仏に帰依します」という意味になります。   帰依は、信じてすがる事なので、阿弥陀仏を信じて全て(身も心も)を任せて、おすがりしますという事になります。  これが、たんに言葉上だけの解釈ですね。   言葉には、内容の中に本質や価値があり、その言葉を成り立たせる意味があります。   そういった意味で考えると、阿弥陀仏を信じてすがるという言葉の中には、阿弥陀様の教えを全面的に信じて守り、阿弥陀様に認めて貰えるような人間になるよう精進する、という意味が含まれて いると思うんです。  これが、一番大事な「教えの始まり」の部分であり、阿弥陀様に対する「心の誓い」であり、根柢のところだと思います。  阿弥陀仏を心の指導者として敬い、そのお弟子 さんとして相応しい精進(努力を重ねていく)をしていく者となります、という誓いの言葉としてもあります。   ここから、心の出発点を定めて、阿弥陀仏の教えを信じて、素直に真面目に、ただひたすら取り組んで行けば、必ず救われるという約束事が達せられる、そういう導きの教えであると思います。   この南無阿弥陀仏という言葉の誓いを忘れないように、毎日繰り返し、再認識しながら精進を進めていく中で、念仏の中に阿弥陀仏を観る(阿弥陀仏からの想いを感じ取る)という事で、阿弥陀様が 身近に感じられ、大いなる安心感に心が救われていくと思うんですね。   これが、なかなか難しくもあり、意味を知らないで念仏を唱えてる方が殆どだと思いますので、この機会に、新たに考えを巡らせてみて、阿弥陀仏の教えの有り難さを学びながら、南無阿弥陀仏と 繰り返し唱えてみると良いかもしれませんね。   神仏の教えは、自分の人生に活かす事で価値を発揮します。  そして次の段階、他人を活かすという事に使う事が出来れば、教えの光は最高の価値を発揮します。   自分の為から他人の為にと思える心が出て来たら、だいぶ精進が進んでるという事です。   多くの人の為に奔走される観音様、そして人間も観音様も、全てを見守られる阿弥陀様の大いなる愛の想いがあります。
しかし、ここに「帰依」のもう一つの意味である「依存する」という意味が大きく出てしまっていて、自分は阿弥陀様の様な偉い人ではないから、阿弥陀様を信じて全て頼っておけば良い。   あとは阿弥陀様が何とか救ってくださるという解釈に陥ってしまい、何時まで経っても念仏地獄から抜け出せない状態の人達が大勢います。   生きてる人も、お寺や、自分の家のお仏壇の前で「南無阿弥陀仏」と何回も繰り返し唱えてると思います。   そこに、阿弥陀様の依存心だけが先行してしまうと、阿弥陀様に頼りなさいよ〜と繰り返し言ってるだけの事になってしまいますし、 唱え終わったら、それまでの事は忘れてしまって、また普段の生活スタイルに戻ってしまいますね。   生きてる時にそうだと、亡くなって霊界へ戻った時、阿弥陀様にすがる事しか頭の中には残ってません。   それで、生きてる時と同じ様に、阿弥陀様信仰を続けていれば、いつかは楽な世界へ引き上げて貰えるはずと思い込んで、何十年、何百年と、ただ念仏だけを唱え続ける事になってしまっています。   それが「念仏地獄」とう現状です。   念仏地獄は、自分で行う念仏以外は何もしない、だから何も変わらない、そういう世界です。  何も変わらないから、反省心も出ないし、自分で自分を変えて行こうという思いは自力なのでしない、 だから未来を向いてもいないので、何時まで経っても何も変わらない、でも悪い事はしないので、下がる事はあまり無く、大体は、ずっと同じレベルのままです。   全ては阿弥陀様に任せ切りの、完全な他力本願の人達の集団です。   時々、「これだけ念仏を唱えてるのに、阿弥陀様の顔すら拝めないのは、どういうことじゃー!」って怒ってる人が居ますが、周りから、「そんなに怒ると阿弥陀様が来てくれんぞー」って、 たしなめられて、そうだったな〜って考え直して、また皆と一緒に念仏を唱え始めてるという具合です。   みな、一応に穏やかに見えますが、心の中は一刻も早く阿弥陀様に来てもらって、救い上げて欲しいという一念が渦巻いてる状態です。   阿弥陀様にすれば、生きてる時に、熱心に南無阿弥陀仏と唱えてくれて、あなたを信じてますと繰り返し唱えてくれるのは良いけど、それだけ信じてくれているなら、私の教えを活かしてくれよと いう想いで居られます。   念仏を唱える時は熱心で良いけど、終われば、やれやれ終わったわ〜といった感じで、全てまた元通りじゃないかと、阿弥陀様は、そういう情景を遥か上の世界で眺めながら、この世・あの世を 通して同じ様に残念に思われています。   霊界でも、今日はこれだけ唱えたから阿弥陀様に随分近づいたのー♪って皆で喜んでたり、疲れて寝てる人もいます。   偉い人にすがるのは良いですが、その偉い人に全部を任せ切りで、自分はお願いしますだけを言い続けて何もしないでいたら、偉い人はどう思うでしょうね。   まあ、あの世の世界も、こちらと同じ感じです。  生きてる時の想いや人格が、死んでもそのままの想いと人格でいるので、意識改善をするという事が修行であり、そうする事によって、 成仏の段階を上がって行く事が出来るんですね。  そして、迷える魂を導いて行く先導者へと成長していく事も出来るんです。   念仏を唱えるには、阿弥陀様に救ってもらえるだけの自分でいようとか、他人に対する言動を正しく直していこうとか、他人には優しく接しようとか、いつも笑顔を忘れずにいようとか、 何か出来る事をしていくだけでも、阿弥陀様は、そういった努力の過程を見てくださっているんですよ。  その長年の努力の評価が、最終的な救いの評価になるんですよ。   何かあれば、阿弥陀様を思い出して、これではいけないとか、過ちを訂正する気持ちが湧くような自分であれば、阿弥陀様はいつ何時でも救いの手を差し伸べてくれます。   そして、阿弥陀様を全面的に信じて、その教えを生活に取り入れた人生であれば、それがそのまま南無阿弥陀仏を体現している人という事になり、正真正銘の阿弥陀信仰をされている方であると 思います。   今回は、「南無阿弥陀仏」という念仏の言葉から、本質の意味に当たる事を簡単に探って書いてみましたよ〜(^_-)-☆   真理の上級者さんは、この記事(入門〜中級編)を参考に、更に本質の奥深いところを感じ取ってくれると嬉しいです♪