ちょっと一言。
-2016年6月29日-
今日は、前回お話した瞑想に関して、もう少し書いていこうと思います。
瞑想に入る前には、先ず精神統一から始め、心を落ち着かせ、雑念が湧き難くする状態へ誘って行きます。
これを一般的に「無」の状態へ導くと言われますね。 無の境地は、心を落ち着けて雑念を消していくと、何もない空間に自分の意識だけが、小さくポツンと存在するだけの感覚になります。
その感覚も消していくと、何もない空間だけが残り、気付くと、それまでの自分の意識は空間の中に溶け込んで融合したような感覚になります。
次に、その感覚も消滅していくような感覚になってきて、何も見えない、何も聞こえない、何も考えられない様な、考えたとしても、直ぐに消え去って行く様な感覚(それは時間が吸い込まれてるから
です)を伴う、とても頼りない大きな孤独感が襲って来るので、あまり長い時間、我慢出来るものではありません。
自分という存在自体が、この世から消えてしまったように思えて、もう戻れない様な気になって怖くなって目を開ける事もありますよ。
そうしたら、瞑想どころではなくなりますからね。
(宇宙には本当の「無」もありますが、その「無」は時間を吸い取り、空間という場を無くし、意識も消されていきます。 その先は、魂の存在自体が無かった事になります)
地球次元でいう、護られた「無」の世界は、何も生み出さない、思考すらも無い、真っ新な空間に、ただ何も考えられない自分の意識が浮かんでるだけとなります。
今回は、瞑想という事がテーマなので、無で終わらせたら、何も考えられないという時間だけが無駄に過ぎて行ってしまい、自分を良くしていく方法も浮かんできませんし、神仏よりのメッセージも
降りてきませんので、瞑想に持って行く前には「仮の無の状態」で止めておき、ある程度の自分の意識を残しておく必要があります。
(霊的能力の高い人は、「精神統一から無へ」という意識に捉われて、やり過ぎてしまう事があり、奥まで行ってしまうと危険なので書いておきました)
何も考えない事が大事ではありません。 無という雑念の湧かない状態で、素直な心の状態に近づく事によって、自分という人間を離れた視点から観察出来る境地に心を持って行くという事が
大事になってきます。
これは、霊界から見てるような感覚でもあり、霊的な目で自分の本質を見ようとするという事と原理は同じ感じです。
霊は、その人の心を見て寄って来たりするので、心に弱い部分や暗い部分があると寄って来ます。 そういう弱い部分を客観的に見つけ出したり、見直しを掛けて、改善しようと
気付いて努力していけば、魂の成長に繋がります。 それが人間としての成長に繋がって行きます。 自分の心を見直す事によって、自分自身を成長させて行ける術を身に付けるということですね。
それが瞑想の役割であり、霊的成長を促す術でもあります。
なので、最初に書いたと思いますが、一般的には瞑想に入る前にする事は「雑念が湧き難くする状態」や、「落ち着いて物事を考えられるような状態」というので大丈夫と思いますし、
もう少し先に踏み込んで行きたいと思われる方は、「何もない空間に自分の意識だけが有る」という、無の前の有の状態をキープされれば十分と思います。
瞑想は、こうした「無」に似た状態から「有」の状態へ移行する事で初めて行えるもので、体内霊界(心の中の意識の世界)に自分を置く事で、空の世界(霊界)と通じて、普段では出来ない
高次元のメッセージを受けたりして、自己反省から自己改善を経て、成長発展へと繋げていく事が瞑想をする上での心得と中心な作業です。
そして、日常の色んな雑念から解放された穏やかな心の状態から、正しい判断をする為の切っ掛けや、考え方のプラス転換になる様なイメージを導いたり、気付かなかった自分の欠点を
見つけたりと、自分の心としっかり向き合う事に時間を使っていきましょう。 これが八正道の最後の「正定」という事でもあります。
時間の余裕を見て、長く座れるような状態(私は、あぐらを崩したような、ゆったりした座り方をしてます)で座り、深呼吸から始めて行きます。
心を落ち着ける簡単なやり方は、鼻から ゆっくりと息を吸って肺に溜めていきます。 この時、目は半開きにして、何処かに焦点を合わせず、宙を見る様な状態にします。
仏像の半眼みたいな感じですね。
そして、肺に8分目程度(苦しくない程度)に溜まった感じで息を止め、肺の中に溜まった空気を下腹に降ろすようなイメージで降ろしていきます。
そしたら、下腹が膨らんできますので、おへその下の「丹田」に気を集中していけば、溜まった空気がエネルギーとして変換されます。
下腹に力を入れたまま、そのエネルギーを体中に巡らせるイメージを持ちます。 エネルギーを体中に巡らせると、ポカポカと温かくなってきますよ。
これを数回繰り返せば、大抵は他の事を考える余地は無くなってきてる筈なので、意識も集中されてます。 これで、大抵は瞑想に入る入口へ来てると思います。
(精神統一は、単に目を瞑って無意識な状態へ持って行くのは、時間も掛かり、色んな事が思い浮かんでしまったりと難しいので、何か単純なイメージ作業を行っていく事に集中していく事で、
短時間で精神集中が出来ます。) 自分に合った精神統一で心を落ち着けたら、素直な心で自分と向き合い、客観的に自分を見つめ直すというところから始めて行きます。
後は、その時々の自分への課題を持って、瞑想に入って行けば良いです。
瞑想は、自分を見直すという事でしたので、自分の心の中にスゥーっと降りて行くようにイメージしても良いです。
そこに、もう一人の自分が居ます。 それが潜在意識の自分の姿です。 心の中の声の主という感じですかね。
悪い事を考えたり、しようとした時に、一瞬心の声が止めると思いますが、その正しい判断をしてくれた声の主ですね。
人としての道理が湧いてくるのは、本来持っている仏性とか神性とかが魂には備わってるからです。
そこから客観的に自分を判断するという事も、普段の判断よりは、瞑想での判断を受ける方が奥行きの違いがあります。
普段の判断は表面的で、直ぐに違う判断に置き換えられたり、欲得が混じった判断も浮かんできたりしますが、瞑想では、そういう邪魔なものは湧いて来難いです。
なので、素直に自分の間違いを認め、その先に、やらないといけない事も浮かんでくると思います。
間違いに気付けば、自分の弱点に気付いたのと同じで、それを少しずつでも直していく事が出来たら、一回り大きな自分に成長するでしょう。
問題事は心の大きさに比例して、悩みが大きくも、小さくも感じたりするので、小さな自分から脱出して、大きな自分に成長していきましょう。
また、瞑想の中で、自分の希望する未来像を心の中に強く印象付けていけば、潜在意識に染み込んでいき、その様になるにはどうしていけば良いかという考えのもとに判断し行動していける
様になります。
身体にあるチャクラにイメージを集中すると、各色の発色が悪く感じたり、綺麗な丸い形(横から見るとラッパ型です)をしていないとかのイメージがあれば、そのチャクラの関わる身体の部位の
調子が悪かったりします。 それで、チャクラの形状を整えるイメージをしたり、綺麗な色で発色しているイメージに置き換えると、チャクラの調子も整いますので、身体の調子が改善したり
しますよ。 意識のコントロールをする事で、色んな改善が望めますので、瞑想の中で、そういった良いイメージ作りを練習していくのも良いですね。
信仰のある人は、瞑想の中で信仰する神仏をイメージして、メッセージを受ける事も出来ます。 最初は、自分から言葉を掛けていくだけですが、その内、言葉を返してくれるようになりますよ。
私が神仏と話す時は、即座に軽い瞑想状態に入ります。 普段から神仏との繋がりが出来ていると、意識の扉を開けるだけで同通します。
瞑想状態では、意識は霊界にも繋がるので、霊的な作業も出来ますし、霊界の情報も聞けるようになります。
そうして古来より、宗教者などは、瞑想という霊的作業を通して、神仏の世界より「真理の教え」を伝え聞いて、人間達に伝えるべくまとめ上げ、それらが色んな経典として残ってますね。
瞑想では、単に自分だけの視点ではなく、神仏に似た視点で物事の価値や判断をするという習慣が身につきます。 それが大きな視点で物事を見るという習慣に繋がり、目先の事に惑わされず、
正しい価値基準で見て、そして判断出来るようになりますよ。
瞑想では、普段見えない点や、心に留まらない事も、落ち着いて観る事が出来たり、感じる事が出来たりするので、上手く行かない時は、何かの修正の時期に来ていると思って、瞑想の中で
自己改善を図ると良いと思いますよ。 しくじりを成功に変え、ピンチをチャンスと捉えられる様な意識が持てる様になれば、半分は願いが叶ったようなもんです。
あとは、そうなる努力を淡々と実行していく事です。 結果も大事ですが、努力する過程で捉える考えや意識が大事です。
瞑想では、直接、心に働きかけるので、実行するという強い意志を湧かせる事も出来ます。
その意志のもとに努力を続けて行けば、その先に明るい未来が開けてきますよ。 瞑想で心と身体のバランスを取りながら、生きやすい人生を送っていきましょうね(^_-)-☆
-2016年6月9日-
今日は、家内でする日々の祈りに関する様々な面や、祈りの進め方等についてお話します。
私の「ちょっと一言」を読まれている方々は、それぞれに信仰心の深い方が多いと思いますので、日々のお祈りを日課とされてる方も多いと思います。
毎日する祈りは、一般的に大きく分けて、神棚の前でする祈りと、お仏壇の前でする祈りがありますが、 その他にも、短時間で内容的にも感謝の念が概ねである朝夕の祈り等があります。
神棚に祀られている神仏に対しての祈りは、先ず、祈りを奉げる(供える)という気持ちで唱えます。 その時の自分の気持ちや、考え方がマイナス的であったりすれば、その気持ちが祈りの
調べに乗って神仏の所まで飛んでいきます。 それで、今日は気持ちが入ってるなとか、気持ちが変な方向へズレてるなという想いを神仏は持たれます。
忙しい合間にバタバタと祈りをしても、直ぐに違う事を思い浮かべたり、次のする事が思い浮かんだりで、祈りに集中出来なくなると、せっかくの祈りが心の入っていない祈りとなり、これでは
仕方なしにする祈りや、自分に課したノルマをこなしているだけの、儀式的、形式的な形だけの祈りとなってしまいます。
なので、祈りに入る前には、少しの時間を取って、ゆっくりと深呼吸をしながら、吸い込んだ空気が身体に巡るイメージを数回していくと、心を平静な状態へと近づけて行く事が出来ます。
それから、祈りに入ると楽に進める事が出来ますよ。
ある程度、心に落ち着きが出て、集中が増したと感じたら、フッと力を抜いて、今保っている意識を、イメージの中での高い位置に自分の意識をぐーっと持ち上げて固定し、その高い意識の位置
から、お願いや感謝の念を神仏に想念として送ります。
これは、自分の意識を高みに上げるというイメージ作業で、一時的ですが、祈りを始める前の心の状態が、霊的に見ても上位に上がってるという事になります。
これで、より高い位置から、高い心(澄んだ心)の状態を自分でつくる事で、願いや想念が届きやすい状況を、自らがつくり出せているという事になります。
この先は瞑想という形に入りますが、祈りで終わらせても大丈夫です。 自分の心の状態を引き上げるという作業も出来ますので、そいった心の修業にもなりますよ。
面倒に思われるかも知れませんが、これらをしないお祈りは、色んな思いが混じった低いレベルの祈りであって、それが高い位置へと昇華させていく事が出来ずに、自分の周りにモヤモヤと
した意識の中に包まれた願いの想念が浮かんでるだけの状態であると言えます。 それが家中に広がって浸透していき、その家の雰囲気を変えていってしまう事もあります。
(こういうモヤモヤに包まれた願い事の想念が、神社仏閣にも浮かんでる事が多いので、他人の悩みや病気や色んな想念等を受けてしまって、身体の調子が悪くなる人も居ます。)
お家での時間は、あっという間に過ぎてしまうので、最初はお願いをする時間も取れないかもしれませんが、段々と精神集中の仕方に慣れてきますよ。
毎日出来なければ、週に一度だけでも、ゆっくりと祈れる時間を取る事が大事です。 慣れたら15分程度で、精神集中→般若心経等のお経を唱える→お願い事や感謝の気持ちを述べるまで
出来ますよ。 お経が唱えられない時は、阿弥陀様とか、不動明王様とか、観音様など、気に掛けている神仏の名前を3度繰り返して唱えるだけでも大丈夫です。
日々は、朝夕の感謝を1分〜5分程の時間でまとめて、心から今日一日の「お願いと感謝」をするだけでも良いです。
祈る祈らないは、自分の自由ですから、無理の無いところから始め、それが日課になれば良いという感じです。 日課になるまで精進していけば、良きことは、後々色んな時点で起きてきます。
また、祈りを長くやっていると、自然と神仏との交流が盛んになってきます。
それに応じて神仏の光(白色か金色が多いです)が体内に入り出しますから、心の中に隠れている思考の偏り等があれば、神仏の光の力によって歪んだ想念(灰色や黒色)は渦となり塊となりながら、
モクモクと身体の奥から追い出されてきます。 体内から出てるイメージが出たなら、大抵そうなってると思って間違いないです。 何もないなら、イメージも湧いてこないです。
追い出された良くない想念の塊は、神仏に頼んで引き取ってもらいます。 神仏が想念の塊を持って、自分の身辺から遠く離れていくイメージを持つと良いですよ。
錫杖を持たれている方は、その時を見計らって強めに振ると、背筋がゾクゾク〜っとなってきますので、その塊を引き抜くようなイメージで錫杖を高く振り上げると、想念の塊は身体から抜け
てしまいます。 後は、神仏様に頼んでおけば、想念の塊を浄化して消し去ってくれます。
錫杖を持たれていない人は、神仏様の手が身体の中に入って、その塊を握って引き抜いてくれるとイメージして、フゥーッ!っと大きく息を吐き出せば、出にくい場合でも強制的に出してくれるので
良いですよ。
胸の底から大きく吐き出す息は、心の想念を息の一部として一緒に出す事が出来るので効果的ですよ。 それも、神仏に頼んで浄化して消してもらいましょう。
一度で駄目なら何回かチャレンジして、コツを掴んでも良いですね。 後で、ゲップが出るのも、先に書いたのと同じ排出効果の現れです。
私の所に来られて、浄化の最中に何度もゲップをされる方が居ますが、何度も出さないといけないほど、良くないモノが身体の中に溜まっているという事です。
ゲップを出すと、胸が楽になります。 同時に心も楽になります。
心が楽になれば、辛さを感じた事も軽減されたり、心の体力が高まりますので、心が折れていた事に対しても、何故か「大丈夫!」という意識に切り替わるようになりますし、細かい事が気に
ならなくなります。 自分の中に溜まってしまったマイナス想念が軽減される為ですね。
毎日やれば、少しづつ自信が湧いてきます。 神仏と一緒に頑張ってるという意識でやれば、段々と、自分は一人じゃないと思える様になり、努力を続ける力が出てきますよ。
歪んだ想念を長く持っていると、身体の不調に繋がり、そこから病気を引き起こす原因になります。 これは、マイナス想念には、マイナスの霊的影響を受けるからで、影響を受けた身体は、
病気がちになったり、原因が判らない痛みや、気持ち悪さや、苦しみにさらされたりします。
心が辛い時は、マイナス想念が溜まりやすくなってるので、日々の祈りの中で、少しづつでも浄化をしていると、身体の不調に繋がる原因を自ら排除出来ますし、祈りが終わった時に、不思議と
心も身体も軽く楽になっていたりしますよ。
これらは積極的な祈りの実践による効果というものです。 努力に応じた結果を、神仏と共に導き出すというものですね。
(霊能者や神職・仏職など神仏に近い心の人ほど、積極的な祈りから奇跡と呼ばれる「良い結果」を生み出せる事もあります。)
神仏の力を体現するという事は、祈りを更に深い世界(神仏の世界)へと入って行く「瞑想」という、心の修業が形になってきたという事であり、人間的にも高い次元に成長されているという事です。
祈りは、単に願い事で終わらせるのではなく、祈るという心境から、自分を律するという心境へ意識を移行していくという点が、最も重要になってくるという意味を理解してもらえたらと思います。
自分を成長させるには、自己の根本にある意識改革が必要になるので、それをしっかりと心の中に芽生えさせ、改善させていく事で、
自分を律する事が出来るようになります。 不動心も、そういう心の状態から生まれてきます。 心が強く太くなれば、ストレスに対する抵抗力も増えますし、生きやすさも倍増します。
あと、お経の唱えながら意識を集中して、高い世界へ意識を上げるという事も出来ます。
私的には、お経は般若心経だけでも良いという感じです。 般若心経の教えの意味が、しっかりと心に入っていれば、心は神仏霊界へ通じる切符を手に入れてる
という事になりますしね。 瞑想をされてる方や、これから瞑想を始めようとされる方は、心を静めて、普段の自分を見直していくという反省瞑想から、発展志向の瞑想に入る事も良いですね。
次回は、もう少し瞑想に関するお話をしようかと思います。