ちょっと一言。
-2017年3月20日-
今日は、20日の春分の日という事で、お彼岸の中日ですね。
今月は東北震災の起きた月(3月11日)でもあり、お彼岸の月でもあります。
なので、東北以外の震災で亡くなった魂達も、一般的な魂達も、お彼岸という事で出て来られていますので、何かと影響の多い月でもあります。
信者さんにも色々と影響が出てきていて、しんどいという知らせが増えてきています。
私の所にも、震災関係の魂達がやって来るので、11日は神棚にお供え物をして、ご供養をしました。
特に津波で流された人達は、今も海の底で沈んで引き上げられていない人が多く、骨になった遺体が海底に埋まっていたりするので、海の底から訴えてきます。
この世では、復興が進められてきていますが、あの世では、まだ地震直後の壊れた町が瓦礫の山と共にあります。
亡くなった魂達は、埋もれている人も居ますし、ウロウロと歩いている人も居ます。
あの世では、亡くなった魂の記憶が、その時点で止まっているため、最後の記憶の情景が目の前に広がっています。
あの世は、亡くなった人達の心の状態が、そのまま目の前に現れるという世界なので、苦しい世界が目の前にあるという事は、その魂の心が苦しい事を意味します。
震災で亡くなった魂達が見ている世界は、地震直後の瓦礫の世界なので、それは気持ちの中で、まだまだ心の復興が出来ていないという事です。
あの世の魂、特にまだ成仏が出来ていない魂は、死んだ時点の記憶が一番新しく、その時点での心残り(執着)が強く、またそれ以降の過去の記憶にも執着しています。
これは、いくら神仏の光を受けても、引き上げてあげても、本人たちの心が暗く苦しみに向いていれば、明るい世界や、明るい心の人達と折り合わず、また暫くして同じ様な苦しみの人の居る世界へ
落ちて行かれます。 これは、本人の自由意思によるものなので、仕方のないことです。 落ちたくて落ちるんじゃなくて、心の状態に合った所で落ち着いてしまうという事です。
そこで、同じ様な世界や、同じ様な心の人達と、気持ちを分かち合ってしまうんです。 だから、心を切り替えないと抜け出せないという事になるんです。
不成仏霊となってしまう霊達は、この法則や意味が分かっていないので、自分達では何とも出来ないと感じてしまい、この世の人間に憑依して、何とか成仏させてもらおうと訴えに出てくるんですね。
人は亡くなれば、肉体は焼かれて消滅してしまいますが、魂は生きているので、亡くなった人は、ここが難しいと考えます。
死んだ自分には、もう未来はないと考えているようです。 霊界で、今の状態のままで居るしかないと思っている事が多いです。
なので、考える事は過去の事ばかりです。 それは悔いる心が殆どで、心は全て過去の自分や、他人や社会の不満に傾倒していき、苦しみが増えてくると更に恨みも出てきます。
そうして、段々と暗い世界へ降りていく事になってしまいます。 これも本人の自由意思によるものです。 でも本人は、こんな世界へ来たのも、誰々が悪いからだとかという事で、他人のせいに
して、自分の心を正そうとしなくなっています。 この状態が、何年、何十年、何百年と続いて行って、未だに成仏していない魂が沢山居ます。
人は亡くなってしまえば、肉体は無くなりますが、魂は肉体から抜け出して霊界へ帰って行きます。
なので、霊的に見れば生きています。 亡くなった本人も、死んでから目を覚ましたら、生きてるのか?と感じるでしょう。
肉体は無いですが、魂という意識体として生き続けています。 それまで生きてきた時代は、過去として後方へ去っていくのものでありますが、魂は生きているので前へ進んで行かねばなりません。
魂には未来があるんです。 そういう事に気付く事が出来れば、霊界において未来へ進んで行く事が出来る様になります。
過去、人間として生きていた時に出来なかったことは、霊界で出来る様にもなります。 生きていた時に好んでしていた事は、霊界でも出来ます。
生きていた時と同じ職業をしてる人も多いです。 未来へと進む自分への希望が高まり、過去は過去として心に執着が無くなると、更に気持ちも楽になり、霊界で自由にやりたい事をし始めます。
気が付けば、周囲は明るい光が満ちている世界になっています。 寄り添って来る人は、皆心の優しい人であり、苦しい顔で歪んでる人も居なければ、愚痴や恨みを言ってる人も居ません。
いつまでも、過去の心に捉われていては、明るい世界へと進んで行けないんだと感じる事でしょう。
死んだ肉体には未来は無いですが、魂には永遠に進める未来があるので、魂の状態になったら、残してきた肉体や過去には囚われず、心の目を前へ向けて進みましょう。
霊界で楽しく暮らす魂は、不便な人間界に生まれ出る事を嫌がる魂も多いです。 それは、本当の自由という「楽」を知っているからですね。
また新たな人間に生まれ変わって、この世で出来なかった事をやりたいと願うなら、霊界で修行をして早めの転生を獲得する事も出来ます。
今生きてる人も、この記事を読んでくれてる人も、皆、過去に亡くなった魂が未来へ向けて努力し、その結果、転生をして肉体に宿り、今生きてるんですよ。
亡くなられた魂達は、いつまでも心を過去の時代に止めておかず、気持ちを未来を向けて進めて行きましょう。
霊界の瓦礫は、気持ち次第で無くなります。 心の復興が出来始めたら、目の前の風景は震災以前の平和な状態に戻って行きますよ。
回りで苦しんでる人それぞれが、そう思える様になれば、この世で復興を頑張る人と同じ様に、亡くなった者同士で霊界の復興を進める事が出来るでしょう。
魂は、拘っていた過去の悩みや苦しみ、それらに拘る執着を外して行けば自由になれる、そう気付けば、瓦礫の下で苦しむ想いも、海底で苦しむ想いも、全て心の中の苦しみとして薄れて行き、
次第に過去の記憶としてのみになっていきますよ。
そうして、心を軽くして自由に明るい世界へ上がって行きましょう。
その前向きな気持ちは、自分を救う事になる大きな力です。 供養が無いから上がれないという事もなく、自分の心が楽になれば、楽な世界が目の前に広がるという事です。
心に勇気を持って、しっかり前を見て、気持ちは上向きに頑張りましょう。 心に光が溢れてきますよ。 それは、人間が元々持ってる魂の光です。
それまで暗かったのは、苦しみが魂に被さり、一時的に光が閉ざされていただけです。
また、自分の未来は、自分の心が開ければ、未来へ向けての道が照らされます。 光は自分で招くものです。 供養という助けは必要ですが、本来は補助的なものと捉えましょう。
供養は、迷える魂ほど、進む道を照らし示してくれる真理の教えが一番有難いです。
今、全体供養で日本の上に大きな救いの光があります。 下を見ている魂には見えませんよ。 上を向いて気持ちを未来へと切り替えて、もう自由なんだと感じ取って、霊界で生きて行こうと
決めて上がって行きましょう。 そうして、お彼岸の時期の前より、沢山の魂達が導きの仏と共に大きな光の中へ上がって行かれています。
本来の自分を取り戻し、勇気と希望を持って進んで下さいね。
先に上がった魂達は、本当に自由なんだと、早く気付けばよかったと、色々と思われているようです。
それで、その事を知らせたいという事らしいです。 皆、笑顔で並ん手を振ってくれています。 良かった(^^♪ 気付いてくれて良かった(^^♪ 楽になって良かったね(^-^)
皆で協力して、霊界を住み易い世界へ変えるんだと、これから上がって来る魂達に住み易い世界を提供出来るように頑張るんだと、皆で団結しているそうです。
大変頼もしい人達に生まれ変わったようです。 霊界が明るくなれば、この世にも明るさが戻ってきます。
お彼岸の残り半分、より多くの魂達が救われる様に、それぞれに気付きの光を照らしていきたいと思います。
今回の記事は、まだ苦しみに囚われ、苦しみの世界に残っている魂に、先に上がられた魂が、この記事を通して伝えて欲しい、この世で生きて残された人達には、霊界で頑張る自分達を
忘れないで、勇気を持って希望を捨てずに未来を向いて生きていって欲しい、自分達は大丈夫だよという皆の想いも書かせてもらいました。
お彼岸が終わらない内に、伝えたかったそうです。
お彼岸に出て来た色んな魂達も、出来てきた世界より、少しでも楽な世界へ帰れると良いですね。
-2017年3月3日-
今日は、前回の「岩間寺」参拝の続きで「石山寺」での事を書いていきます。
石山寺は岩間寺とも近くて、私の家からも近いですが、岩間寺への道中は、細く狭い山道をクネクネ上がって行きますが、石山寺は平地にある駐車場に車を
置いて直ぐに行けるお寺なので、信者さんとお参りするのは石山寺へ行く事が多いです。
何時もの様に駐車場に車を置いて、他の車のナンバーを見ると、他府県ナンバーが多いですね。
始めて見るナンバーもあったり、北海道や九州のナンバーを付けた車を見ると、遠い所をよく来られたな〜って感心します。
山門前では、いつもの様に仁王様が出迎えてくれました。 そして私が来た事を、本堂の御本尊様や、お山に大声で伝達されていました。
仁王門をくぐって本堂へ向かう参道は、温かい雰囲気で出迎えられている気が満ちていました。 本堂へは、急な階段を少し上らないといけないのですが、いつもあと少しの所で足が重くなります。
運動不足なので、もっと歩かないといけないかも知れませんね(^^;) 階段を上がって直ぐ右横のお堂には、三十三か所、全部の札所の御本尊のミニチュアサイズの観音様が並べて祀られてあります。
「よく来てくださいましたね。 今年は初めてですね(^-^)」と観音様達が声を掛けてくださいました。 修業時代に御朱印を頂いてから、お参りに行けていない遠方のお寺が沢山あるので、
「また機会を見てお参りに行きますね」と、お伝えしました。 「はい。 ゆっくりとお待ちしています」とお返事されました。
今まで、お参りに行きますと言ったのに行けなかったので、だいぶ待って貰ってるようです(^^;) 最近、仕事も落ち着いてるので、お参りに行けそうです。
そうして、石山寺の「石山」という名称の由来になった天然記念物の大きな岩を横目に見ながら、本堂へ続く階段を上がって行きました。
本堂へ入ると、午後4時を過ぎて閉門が近い時間でしたが、まだまだ沢山の人が訪れて来て御朱印を貰ってました。 やっぱり札所なんだなと感じるところでもあります。
御本尊の如意輪観音様の「如意」とは、想いのまま、意のままに智慧や財宝や福徳をもたらしてくれる「如意宝珠」という、水のしずくを丸くした様な形の珠のことで、「輪」とは煩悩を打ち砕く
と言われる法輪を指しています。
如意輪観音は、福徳や財福の他に、安産や良縁、延命長寿にも御利益があるとされている観音様です。
昨年は、御本尊の特別御開帳をされていましたが、今、厨子の扉は閉まっているので、中に居られる御本尊様を直接目で見て参拝する事が出来ません。
その代わり、御本尊様の両手に結ばれたヒモが、お堂の中央のお賽銭箱の辺りに垂れ下がっていて、それを握って拝む事で観音様と意識が繋がるということで、参拝者の人々は、そのヒモを握って
お祈りをする事が出来ます。
お賽銭を入れて、参拝者の人達の邪魔にならない様に、いつもの様に端に寄って目を瞑ると、御本尊の観音様が頭に浮かんできます。
頭に浮かんだ観音様の所へ意識を向けていく(観音様の所へ近付いて行く)と、観音様の居られる世界の中に入って行く感じになります。
すると、身体の周りがフワ〜ッと浮いたような感じになります。
そして、空間自体が明るく光っている様な空間に御本尊の観音様が浮かんでいて、私も同様に目の前に居られる観音様と向かい合って浮かんでいるイメージが出てきます。
そのイメージの状態を固定して、観音様とお話していけるように集中していきます。 この間、目を瞑ってから10秒程度です。 お家の様に、ゆったりと構えてられないので、外出用の
軽いイメージ(瞑想)対話です。
石山寺の観音様は、いつも優しそうに微笑んでおられます。 私の言葉にも、ゆっくりとした口調で、ゆったりと優しく丁寧に答えてくださいます。
ゆったりした観音様の言葉は、せかせかした気持ちで過ごしている人にとっては、心が落ち着いて癒されますよ。
観音様が言われるには、私が石山寺へお参りに来ている事は、同時に全ての札所に伝達されていて、石山寺を除いた残り三十二か所の観音様も、同時中継で観られているそうです。
それで、次は自分達のお寺へも、先生にお参りに来て欲しいと言われていますよという事でした。
あと、信者さんのご病気の方々の回復と御守護もお願いしました。
今、メール等で対応されている方々のご病状とご回復をお願いする旨を伝えると、「分かりました」と微笑んで言われました。
また、日々、衆生の皆の御守護にお力を注いでくださる観音様に感謝の念を送り、これからも衆生の皆の御守護を宜しくお願いしますと、重ねてお祈りしました。
後は、観音様や仏様方のご判断とご援助にお任せするという事になりますので、お近くのお寺にお参りされて仏様に御縁を繋がれると良いと思いますよ。
皆さんに観音様のお力の御加護があるようにと、光の祈念をしたところ、如意宝珠が明るく光った感じがしました。
福徳や延命、病気回復等の願いを受けて、了解したという御光なのかなと思いました。 同時に、「そうですよ」というお返事が返ってきました。
あと少しお話をして、お礼を述べると、観音様はスゥーっと厨子の方向へ後退して行かれ、光の中へ消えて行かれました。
観音様とは数分間の対話でしたが、大変有り難く優しい気持ちになりました。
次に、観音様の横に祀られている不動明王様の所でお祈りをし、不動明王様に身体浄化をしてもらいました。
身体が軽くなりました。 いつも有難うございますm(__)m 帰りに、岩間寺に引き続き2個目になる鳥の鈴(石山寺は孔雀でした)を購入して帰りました。
段々と春に近づいてきて、お参りしやすい気候になりますね。 お参りの最中、どこかで会うかも知れませんね。 たまに声を掛けられる事があってビックリします。
お参りは大袈裟に考えず、先ずはお寺観光という気分から始めてみて、段々好きになって行くという事もありますよ。
人それぞれに色んな道順が合って神仏と繋がって行きますから、心が落ち着いて良いなと感じたら、心が癒されているので、それで良いと思います。
また行きたくなったら、機会をみて行けば良いだけです。 心が欲してるという事なので、手を合わせる事も自然と出来る様になります。
段々と神仏と繋がっていけますよ(^_-)-☆