神霊による人生相談

ょっ言。

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-2018年4月27日-
今日は「愛と執着の違いや関係」について、信者さんから質問がきましたので、信者さんとやり取りした内容を、対話形式で(信)と(私)という感じで書いていこうと思います。
先ずは、信者さんの質問で、愛と執着との違いや関係を知りたいという事から始まりました。

(信)先生、質問があるんですが、愛と執着とは違うものなんですか?
また、その関係はどうなってるんですか? 
(私)愛と執着とは本来は全然違うものやけど、関係性としては繋がり易いものでもあるよ。 
(信)そうなんですか。 混ざってるんですね。 
(私)愛にも段階があって、好きというものから始まる初期の愛から始まって、仏の慈悲というまでの愛の段階があるよ。
(信)あ〜なるほどね。 愛って一つと思ってました。
(私)愛は大きな視野(神様の目)から視たら一つの塊でもあるんやけど、人の意識にも高低差がある様に、愛の塊の中にも高低差という段階の様なものがあるねん。
(信)うんうん。
(私)それは、好き、好むという、人や動物、物などを気に入るという段階から始まってくるね。  次に、それらが大好きになると、手に入れたいという気持ちや、自分だけのものにしたいとか、相手に対して求めていく気持ちが大きく、常に気になる様になってくる。  それらは、この世的な愛、肉体的な愛というもので、その段階になると、愛と執着は繋がり易くなってしまうねんで。 
(信)その辺が愛と執着とは同じ様に感じて、くっ付いてるんじゃないかと思ってしまう所の段階なんですね。
(私)そうやねん。 この世的な愛を見た時には、常に愛と執着は隣り合わせ的になってるから、そう感じるんかもね。 でも、相手を思いやり、相手の気持ちを尊重して考えられる様な心であったり、ただ大きな気持ちで相手を包んであげれるようになると、この世的な価値の愛、肉体的な愛よりも、精神的な繋がりを 求めるように価値観が変わってくるねん。 それが「精神的な愛」または真理に目覚めて来た時の愛でもあるねん。  そして、我が子を想う母の気持(母性)のような視野で物事や他人を見れる様になって、それが見返りを求めない無償の愛に昇華していくんやで。  そして、それは「仏の愛」に繋がる慈悲という大きな愛にまで繋がって行くねんよ。
(信)そうなんや〜 精神が高まると、大きな愛に昇華していくんですね。 
(信)あと、恋愛の場合、相手の気持ちが離れそうになったら執着し出すってインターネットに書いてました。 
(私)ネットね〜、愛の中で執着になるという事は、自分のものにしたい、自分を好きになって欲しい、理解して欲しとか、そういう事も人間の心の成長段階の一つとして神様は見ているから、 それを執着にならない様な心を経験から学ぶという事も必要なんやで。 好きが先走り過ぎて、自分の気持ちが優先してしまい、相手を振り向かせることに夢中になると、相手には負担になってると いう事も気付かないでいたり、自分の満足する様に愛して欲しい、愛の証を見せて欲しいという願いを求めたりすると、自分本位な愛になりやすいから、対応出来ない相手は離れて行くな。  それで余計に執着したり、もうそうなってる事自体が執着であったりするな。
(信)そういう執着から出るコントロールを感じて、相手は余計に離れて行くんですね〜
(私)自分の気持ちが優先になると、気付かない内に色々と相手を拘束する様な言葉を発していたり、我がままに聴こえる様な事を言ってしまったり、自分を満たして欲しいという想いが強く出てしまって、 それが相手を苦しめるという事になってしまう事もあるね。 愛して欲しいという心の欲求が満たされれば満足であったり、それは低いレベルの「求める愛」でしかなくなるね。  愛されてる証拠を、贈り物の値段に照らし合わせて判断する人もいるしね。 
(信)離れて欲しくないから頑張ろうとしてるのに、変な方向へ行くんですね。
(私)そやね。 悲しい事やけどね。 相手の心が高い所にあれば、低い所の愛は潜在的に受け入れたくないと感じるもんやねん。 それが、好き嫌いにも繋がっていくねんよ。 
(信)愛は、良い時ばっかりでないですしね〜 
(私)忍耐も必要になるしね。  だから色んな面で自分磨きをして、心の想いを高く持っていければ、互いに成長して行ける愛、与えても損だと感じない愛、そういう本当の愛「与える愛」になるよ。  そういう心の本質的な部分は、人間なら誰しも心に持っているので、そういう心情を判断基準に取り入れて過ごしていると、心も優しくなるので、何故か他人に好かれたり、沢山愛して貰える人に なったりするもんなんですよ。  それが真理からくる心の作用やね。
(信)愛って、「貰えるもの」って思ってるからかもですね。 同じ方向見て支え合って行けば、前むいて歩けますね。 
(私)そうそう、支え合う心は大事やね。 支えて欲しい〜だけやとね。 相手もしんどいからね。
(信)今回は愛の大きさや、本質や、愛の段階なんかも分かりました。 私も、もっと向上していきたいです。
(私)もう、大分上がってるやん(笑)

まあ、こんな感じで愛と執着について、信者さんとのやり取りを書いてみました。  愛は、強く想うほどに執着の切っ掛けをつくりやすく、その愛の強さによる想いの苦しみの段階を抜けると、愛と執着とは別物に感じられると思います。  強く想う側と、想われる側の想いや心情、そういった心の高低差が遠くなるほど、分かって貰えない、自分が思う理想の展開にならないという苦しみを生みます。  愛は、自分や相手をも成長させる学びにもなり、幸せを倍増する作用もあります。  またその反対の作用もあります。  愛は、自分を磨くものとして受け入れてみるのも良いですよ。 そして、誰かを好きになったら、自分も好きになって貰える様な人に成長していこうと思えると、ファイトが湧いてきます。  そうして、自分を高めていくと、相手の方から歩み寄ってくるようになります。 また、更に上の段階の人が、自分のもとにやって来るようになりますよ。  恋愛の愛は、そうして実を結んでいけると一番ですね。

愛は寄り添う事で、お互いを向上させるものでもあります。 癒し合い、生きていく希望にもなります。  小さな愛が集まると大きな愛になって、その愛は多くの人を動かし、多くの感動と感謝を生む事もあります。  人は、一人一人の心に、神仏より与えられた大きな愛を持って生まれてきていますが、それを色んな理由で小さなものにしてしまっている事もあります。  心の中の愛を出すのは、ちょっと勇気が要りますが、その勇気は周囲に伝染し繋がっていく事が出来ます。  そういうイメージを持って過ごして行くだけでも、心は温かく、大きな愛に繋がって行きますよ。  そうしたら、小さく狭い感情や視点で物事を見なくなっていたりして、自分の心が大きくなったような気になりますよ。 心が広くなれば、自分が、自分がという意識は薄まり、逆に大きな意識と 繋げやすくなり、大きな視点で物事を判断し、何をするべきか分かる様になってきます。 だから他人の為に動ける人になるんですね。  まだまだ自分の事で精一杯な人ほど、愛を与えるという意識が持てないだけです。 本当は、ちゃんと与える愛は誰もが持っているんですよ。  そうした真理に気付くという事が、心の中にある大きな愛を引き出していく鍵になります。  愛は神様そのものです。 愛の精神は神様に繋がり、素直な心をつくり出して行きます。 執着が有ったとしても小さくなって消えて行くでしょう。  結局、愛と執着は、狭い心の時点では繋がり易いが、広く引っ掛かりの無い心の状態では、執着という状態は存在しなくなるという事です。 


-2018年4月17日-
今月も、早くも半ばを過ぎましたね。  何かと忙しくしていると、月日があっという間に流れて行く感じがします。  真理の学びを進めて行く中では、日々精進していても満足した結果が得られず、ただただ時間や日にちだけが進んでいき、自分だけが取り残されているかのような感覚を持ってしまう事が よくあります。
真理の歩みの中では、進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのかも分からなくなる時があり、グルグルと同じ所を回っている様で、その感覚が増してくると段々と不安になってきて、 それがまた悩みの種となってしまう事もあります。
真理を学び始めた頃は、日を重ねる毎に理解が増してくると楽しくなってきたりして、自分は以前より進んでる、良くなってきていると感じられるんですが、それもある程度したら行き詰まり 感を感じます。 何故かブレーキが掛かったように、学びの速度が遅く感じられます。  それは、真理の道の途中で誰もが一度は経験する出来事です。 精進して基本的な理解が増してくると、それを踏まえて、この問題を解きなさいよという時がやって来ます。  そうして進んでいるからこそ、次のレベルの問題が出て来るんですね。

最初は、何も分からない状態から、色んな事が分かり始めてくると、ようやくそこに疑問という想いが出て来ます。  進んでいるからこそ疑問も湧いて来ますし、これまでの道の前方に疑問や、これまで気付かなかった自分の中の問題事が、見えない壁として見えて(認識されて)くるんですよね。  自分の人生においての課題に気付かない人は多いですが、真理を始めて行くと、その問題に気付いてきて、それを乗り越える必要があるんだと気付かされます。  その為に、今の苦労があるんだとも、今生かされているんだと、結構、次元の高い気付をする人もいます。  それも、前に進んでいるから気付けるんですよね。 そうして、その気付きを高め、問題を解決するまで、行き詰まり感は少しずつ薄らぎながらでも続いて行きます。

これが真理を始めて行って、最初の方に行き当たる、見えない「壁」というものです。  開けていたように見えていた道の途中に、ある時、知らない内に目の前に壁があった様な感覚を受けます。 これまでの学びから、何となく、これを乗り越えないといけないんだなと直感します。  この壁は、避けて通ろうとしても、ぐるっと周囲を取り巻いている様な壁なので、乗り越えたくない人は、その壁に沿って歩いたり、周辺をウロウロしてるという状態です。  更に壁を嫌う人は、後戻りしていきます。 そうして壁から遠く離れて行くと、問題事からも遠ざかる事になるので、気持ち的に一安心してしまいます。  そうして楽を選び、苦労して壁を乗り越えるのが嫌になったりすると、更に楽な道、妥協や諦めの道の方向へ進んでいかれます。

学校の試験問題でも、解らない問題は飛ばして、解る所だけ解いていく事は出来ますが、また同じような問題が出て来ると、やはり解らないので飛ばすしかないのと同じです。  その時点で解らない問題は飛ばしても良いんですが、後で解らない問題の解き方の要点を、先生に教えて貰うなり、自分でも解く努力を重ねていく事が、その問題を解く鍵になります。  そうして、解らない、解けないという壁を乗り越えるという事に繋がって行きます。  試験問題では、答えを導き出せれば、それはもう自分には解らない問題ではなくなり、苦手な項目では無くなります。 応用を利かせて更に難しい問題へ進む(挑戦する)事も出来るでしょう。  人生も、それと似たようなもんです。

私が以前、よくやっていた事は、壁というものを意識した時、足でまたいで越えてしまうイメージを持って、悩み事を自分の意識の中で小さなものにしてしまいます。  そうして心で負けないようにして、もう足でまたいで越えているんだから、越えられる壁だと思って、取り掛かりやすい所を拠点にして改善を図りながら壁を消して行きましたね。  大きな壁を認識したら、乗り越える前に自分を大きくさせる為に必要な気付きを得る努力をして、それを身につける様にすれば、いつしか壁は低く小さい壁に変わっていたりしましたよ。  頑張って乗り越えるだけでは無理な事もあるので、この壁を越えるには、これ位の力を必要とするなと感じたら、その力を得る努力をして行けば、必ず前に進んでる事になりますし、その前向きな 進みも力となって、気付かない内に壁を小さく低くするよう、壁にダメージを与えているという事も気付きました。  それで、さあ乗り越えるぞと思ったら、小さなミニチュアの様な壁しか見当たらず、それを摘まんで放り投げて、おしまいという感じでした。  これは、人それぞれのやり方があるので、私のは参考程度で良いですよ。

壁が来たと感じたら、これまでの学びを纏めて、その壁の乗り越え方や、壊し方を探りながら、手に負えそうな部分から昇って行くとか、壊して行くという気持ちで進めて行くと良いですよ。  壁を乗り越えようとする時、これまでの学びを力にして、心(想い)を前向きにさせて、乗り越えられない壁は来ないと思って踏ん張ってください。  この壁は、次の段に上がる為の試験であり、ステップアップに必要な力を磨く壁であり、自分を成長させるチャンスの壁なんですからね。
壁は、真理の歩みが深まった段階、段階で、目の前にやって来ます。 歩みの中の、その段階で訪れた壁ですから、その段階での実力に相応した壁という認識を持つと良いですよ。  だから、基本的に乗り越えられない壁なんか来ないんですよ。

何でも独りでクヨクヨと考える人は、どんどんと自分の中で穴を深く掘っていって、自分独りの狭い想い(小さく狭い基準から生まれる偏った狭い空間)の中で凝り固まってしまい、 身動きがとれない様な状態に自分で追い込んでしまう人もいます。  そして、そこから逃れたくて更に深く掘り下げてしまうという事を繰り返す人もいます。  そこから抜け出すには、自分の中にある偏った見方を見直し、広い視野で物事を見るという意識を持って考えて行けば、今まで気付かなかった違った道が見つかりますよ。

自分独りで難しい時は、誰かと一緒に解くという問題かも知れません。 何でも自分独りで出来ると思ってる人、その問題を解決していく為に、苦し紛れに自分の理論を掘り下げていく事のみに 執着する人、そういう人には他人と協力して問題を解いていく行くという課題が来たりします。  ずっと頑固に一人で頑張っていても、その問題だけで一生掛かってしまうような事になったり、直ぐに行き当たったりして進むに進めない問題であったりします。  そうして他人の助けなくしては、この世は生きていけないんだという事を学ぶ問題であったりします。 人と人との繋がり、他人との和を学ばせる為の問題であったりします。  (人と人との繋がりは、和を持って大きく広げていくと、社会と社会の繋がりになり、それは国と国との繋がりから世界規模での発展と調和をもたらします。)   固い心を開いて他人の意見を取り入れて、広く柔軟な心で諸事に当たって行く、そういうテーマの問題であるという事に気付きなさいよという学びであったりします。  これを受け入れると、その問題は思った以上に楽に乗り越える事が出来たりして、「あー、こういうもんなんだな」と感じさせられるでしょうね。  これで、心の幅が大きくなったりするんですよ。  結局は心(気持ち、考え様、意識)を良い方向へ向けて努力して行くと、物事は良い方向、解決の方向へ進んで行くんだなと判ります。  そうして物事の進め方が自分なりに分かってきますよ。 そうして、人としての器も大きく成長させて行く事も出来ますよ。

先に上げた考え方などは「垂直思考」と「水平思考」という考え方によく似ています。  垂直思考とは、問題を解決していく中で既成の理論や概念を、どんどんと掘り下げていく事で解決を図っていくという考え方です。  これに対して「水平思考」とは、既成の理論や概念にとらわれず、幅広い視点から物事を見ていく事で、色んなアイデアを生んだりして新たな世界観を生み出すのに適している考え方です。  どっちが良いとは限りませんが、その時々に柔軟に考えられる様な心作りをし、思考を調節しながら進めて行くと大きな飛躍に繋がるでしょう。  全ては心の調節が肝心となってきます。  それを学び、自分の人生に活かしていく事が真理の学びの大事な部分です。

これからも、心に余裕を持って色んな角度から広く見れる様になっていきましょう。  物事を広く見て、それらを真理の教え(心の判断基準)に照らし合わせる事で色んな気付きが生まれ、様々な悩みが来ても、心が負けないで対応出来る様になりますよ。  ちょっとずつでも、前に進んでみましょうね。 諦めずに前へ進む事、進んでる自分を心に強く想っていると、前(未来)へ進む力が湧いて来たり、与えられたりしますからね。  大丈夫です(^_-)-☆