神霊による人生相談

ょっ言。

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-2023年6月27日-

今日は、孔雀明王のお話です。 孔雀明王というと、あー!はいはい!あの功徳のある仏様ですね!と言える人は少ないと思います。 なので、一般的には知ってる人は少ない仏様かなと思います。

孔雀明王は、不動明王を含む五大明王など、明王の仲間の内の一つですが、多くの明王が忿怒相をされている中では珍しく、慈悲に満ちた優しい表情(慈悲相)をされた菩薩様のお姿をされています。  お姿は、一つの顔と、四本の腕があり、頭には五輪宝冠をかぶって孔雀に乗り、背後には孔雀の羽が広がっています。 

他の明王たちは、持ち物に剣や弓などを持っていますが、孔雀明王は武具を持たれていません。 持たれているのは、四本の手それぞれに、蓮華、具緑果、吉祥果、孔雀の羽の四つです。 
持たれている物を説明すると、蓮華は、愛や慈悲を表します。 具緑果は、レモンに似た柑橘系の果実で、魔を撃退し煩悩を払います。 吉祥果はザクロで表される事が多く、人々に幸せを授けるとされています。  孔雀の羽は、災いや病を避け幸福を招くとされています。 
孔雀明王の真言は、「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」です。 

孔雀明王は、古代のインド時代より、孔雀が毒蛇やサソリ等の害虫を好んで食べてくれる守護的な女神様として神格化されていたのが、後に仏教に取り入れられたものです。  古代のインドでは、毒蛇は煩悩にたとえられていたので、その毒蛇を食べる孔雀が災難や苦悩を取り除き、幸福をもたらしてくれると考えられていました。 

また、孔雀は、雨期の到来を告げることから、恵みの雨をもたらす吉鳥としても尊重されていました。 日本の奈良時代では、雨乞いの際には孔雀明王の真言が用いられていました。 

孔雀が食べてくれる毒蛇というのは、仏教でいう「三毒」という煩悩を例えたものです。 
三毒とは、仏教において克服すべきものとされる三つの煩悩で、「貪」「瞋」「痴」(とん・じん・ち)という三つの毒素の様なものです。  孔雀明王は「三毒」による、貪(むさぼりの心)、瞋(怒りや憎しみの心)痴(真理を知らない愚かさ、無知の心)や、その他の煩悩を取り除き、仏道に成就するという功徳もあり、人々の悩みや苦しみから解放してくれる存在として信仰されてきました。 

孔雀明王は毒蛇や害虫などを食べてくれる事で、毒や病気から人々を守る力があるとされており、邪気払いや健康維持などにも力を発揮されます。  毒蛇の影響から身を守るという事から、現代の感染症の予防や改善にも力があると考えられます。 

私が祓いをする時、特に蛇関係の祓いが必要な時などは、孔雀明王様にお願いしてます。  人間の三毒が凝り固まってくると、その執着の度合いにより蛇のような執着の強い波動が出てきます。 また、そうした偏った思いを持って人生を終えると、そういった同じ様な思いを持つ人の魂の世界へと導かれます。 

そうした世界は、人間の姿が蛇のように変化したり、人間の姿であっても、蛇の様に身をくねらせてる者も居ますし、執着に固まりの様になって、じっとりとした目で睨んでる者や、同じ目でも姿は蛇であったり、頭は人間でも体が蛇の様になってる魂も居ます。  物欲や愛欲など、欲にまみれた人の念は蛇化しやすいので、生きてる人の心に同じ様な思いがあれば、そこに同通して邪霊(蛇霊)が寄ってきます。 

浄化が必要な場所や人物には、そうした沢山の蛇の群れが居る世界と繋がっていて、そこから何匹もやって来るので、孔雀明王様にお願いして来ていただくと、沢山の蛇をついばんで食べてくれます。  沢山の蛇も、霊速で食べてくれるので、沢山居た蛇がスーっと消えて無くなっていきます。  後は、しーんとした何も無い霊的空間の感覚が湧いてきます。 

蛇化した霊体や、それらが出す念は、体の中にも侵入して、あちこちに留まったりするので、重く感じたり、痛かったり、だるく嫌な感覚が体の中に感じます。 特に、頭に憑かれると、頭部を締め付けられる感じや頭痛がしますし、 視界も悪くなります。 自分の考えに偏りが出たり、拘りが強くなったりして執着心も湧いて来たりして、それを中道へ向き直すのが大変になります。 

女性の方は、子宮に入られる事も多く、下腹部の不調や生理不順が続いたりします。 そういった、体内に潜む蛇も食べてくれるので、体が浄化されて楽な感じになります。  また心身の毒素の浄化作用もあるので、心と体を楽な方向へと導いてくださいます。 

最近では、孔雀明王様にお願いする事が多くなってきました。 それだけ多くの人々の煩悩による「三毒」が改善されないまま、昔から今の時代まで来ているんだなと思います。 
孔雀明王は、美しい容姿と共に、煩悩の心や体の毒を除いて、人々の心身を浄化し、人々を救済する信仰の対象となっているので、皆さんも心身共に健康で幸福な人生を過ごせるよう信心していくと良いと思います。 


-2023年6月10日-

今日は、我慢についてです。

我慢というものは、誰でも色んな場面で経験されていると思います。 一般的には、しんどい事などに対して辛抱強く耐えるという感じになります。  特に我慢強い人は、揉め事が苦手と感じている傾向があり、辛い事があっても周囲の人に不平や不満を漏らしません。
また、自分が不満を言っても何も解決しないという事を分かっていたりするので、どんなにしんどくても知恵を絞って、何とかやり遂げようとします。 
そいう言う点から、黙々と進めて行く忍耐力もあるので、何とか結果を出せる事も多いですが、その反面、ストレスや不安を抱え込みやすいという面もあります。 また、我慢強い人は優しい性格でもあるので、自分より他人を優先してしまう事が多いです。

その中で、自分さえ我慢すれば良いという考えは、他人を優先し、自分のことを後回しにする自己犠牲的な人間関係を築いてしまいます。  自分の気持ちや考えを相手に主張せず、それらを心に引っ込めて我慢してしまうという事は、心の中には、自分に対しての劣等感や、諦めの心情を抱えていたりします。 

嫌な事や、好きでもない事、やりたくない事などを押し付けられて、嫌でも我慢してやらなくてはいけない気持ちは、「我慢させられた」という思いとなり、相手に対して嫌悪感や恨みが混じった気持ちになったりするので、周りから見れば、何事も無く事が進んでいるように見えていても、心に大きな不満が残ります。 こういった事が心に溜まっていくと、相手のちょっとした一言や、何かの切っ掛けで感情が爆発してしまうこともあります。 

また、我慢をし続けていると、心に余裕が無くなり、自分の事で一杯一杯になります。  そうなった時、知らず知らずの内に自分の中のルールで相手を判断し、自分の正しさを主張したくなってきます。 そうなってくると、相手や周囲を見る視界が狭くなり、自分の周りに敵を作ってしまいがちになります。 

私たちは無意識に「こうするべき」「こうあるべき」という正しさのルールを持ち、それに従って人を判断しています。 自分の思いが「正しい」と思った時点で、敵味方を分ける思考が動き始めます。  なので、その場面では「常識的には、こうするべきでしょ?」とか、「普通は、こうでしょ?」とか、「これが人として当たり前でしょ?」とか「これが正しい判断でしょ?」という絶対的なルールを主張したくなります。 

そういう時は、頑固になってるので、先ずは余裕を作るという事に気付いてもらって、相手に対して本当の「理解」をしていこうとする事です。  「相手を理解する」という事は、こうした自分が持っている「ルール」や「正しさ」はあるけれど、それを一旦横に置いといて、相手の考えや思い等を聞き、それらを受け入れてみて、「なるほど、そういう思いから出た言葉なんだ。 もし自分も同じ状況の中では、同じ事を思ったり、したかもしれないな」という、相手の立場に立って思うようにするという事です。 

そのためには、心に余裕を持てるように、心に溜め込むような我慢から、少しずつ自分の心を軽く、楽にするためにも、言える事は言ってみたりする事が必要になります。  我慢した思いは、泣いたり、怒ったり、言葉に出したり、不満をノートに書き出したりして、心に溜まったものを少しでも吐き出してもらって気持ちに余裕を持つことです。  我慢を重ねて心が固くなってしまうと、心の余裕が無くなるので、相手を理解する事も、自分ルールに合わない人との話し合いも出来なくなってしまいますからね。 

世の中には、ある一定の割合で、何をしても、どれだけ頑張って気を遣っていても否定的で、気が合わない人も居ます。 その反対に、自分の意見に肯定的な人も居ます。  またその時々の状況や気分などで、気が合ったり合わなかったりという、どちらでもない人も居ます。  一般的には、この状況や気分で、気が合ったり合わなかったりという、どちらにも属さない人の割合が多いと思います。 何をしても気が合わない人は一番少ないと思います。  なので、どうしても気が合わないという少数派の人には、無理をしてまで合わせようとしたり、気に掛けたり、焦点を当て過ぎずにいる事も、自分を追い込む事から離れられるという意味で大事だと思います。 

一定の我慢は、物事を進める上での忍耐として必要ですが、それが過剰になれば、自分自身や、関わる人との関係性をも崩してしまいます。 
理性的な考えの持ち主は、自分の嫌な感情を見ないようにして我慢する傾向にあるので、知らない内に感情を溜め込んでます。 

今の時点で、自分自身が幸せではないと感じているとしたら、何かを我慢しているかもしれませんよ。  今やってる事が、自分が望んだ事なのか、希望を持ってやれているのか、精神的にも肉体的にも無理してないか等を見つめてみた時、あぁ自分は我慢してるんだなという自覚を持つ事が、自分で自分を縛りつけている抑圧した感情に気付く事に繋がります。 

また、お互いの考え方や意見を尊重し合い、自分の考えを相手に知ってもらうようにする事も、我慢によるストレスを無くす事や、無理な我慢をしない自分になる事として大事だと思います。  自分が我慢している感情に目を向けるのは、結構な勇気が要ることですが、まずは自分が何に我慢しているのかを見つめ直してみると良いと思いますよ。