神霊による人生相談

ょっ言。

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-2005年5月26日-
今日は、私が昔見た霊夢の話をしましょう。   私は、自分の中にある霊能力を発揮して、自分なりに使えるまでの間に、よく霊夢というものを見てい ました。  今でこそ、自分の念を霊界の何処かに合わせると、その場所の様子が心の中に浮かんでき ますが、未だそうでない時には、夢の中で自分の意識体が霊界に行って、色んなものを見聞きしたりして いました。  そうして、無理のない状態で霊界へ行って、意識を慣らしていた時期がありました。   夢というのは、霊界によく似ていて、行きたい所を思い浮かべて念じれば、次に瞬間には、もうその場所 へ移動していたりしますね。  また、夢の中では、空を飛ぶ事もありますし、ああなればいいなと思 ったら、そうなる事もあります。  この様に、夢の中の出来事は、霊界の法則に似ていて、自分の 思う事や、心の状態が、自分の居る場所となるんですね。  これが夢で済んでいる内は良いんですが、 自分の死後の世界が、霊界の法則どおり、自分の心の状態に合った場所に定まるという事は、天国に住める 人と、地獄に落ちる人とが出てくる訳なんですよね。  これは、本当にきっちりと心の状態を量られ ますからね。  あの世では、賄賂なんか通用しませんし、もしそんな気持ちを持とうものなら、それ も減点の対象とされてしまいます。  あの世へは、自分の心しか持って帰れないので、自分の 心がどれだけ綺麗か、どれだけ善人の心であるかが重要なんですよ。  この様な事も、まずは夢を 通して学びました。  そして時々、夢の中で、暗くて寂しい場所へ連れて行かれました。   そこは、心の寂しい思いをして亡くなった人の行く所でした。  皆一応に、暗くて寂しい表情をして、 何かを思い詰めている感じでした。  またそれとは逆に、何処かの神社の境内の広場で、七福神様達 が集まって踊りを踊っているところへ案内された事もあります。  それを、私が見ていると、その集 まりに少し遅れたらしく、お腹の出た太った神様が「わはははー!」と笑いながらやって来て、皆に「 いやぁ〜!すまんすまん! 寝過ごしてしもたわい! わはははー!」と、お腹をポンポン叩き、 笑いながらそう言っていました。  私は、その様子を見ながら、「全然、言い訳になっとらんな」と 思っていると、他の神様達も、「また、何時もの事だから仕方ないの〜!」って言って、「お前さんも、 早く踊らんと、もう踊りも終わってしまうぞ」と言ってました。  結構、遅れたらしいです(笑)   そして、遅れた神様が、私が傍で見ているのを見つけると、「あれ? 何で人間がここに居るんじゃ?」 と他の神様達にたずねていました。  私は、急に話題が自分に向けられたので、焦って、もう帰ろう と思っていると、前から居た他の神様達が、「あの子は、今日の見学者の名簿に入っとる子じゃ。 お前 さんは、いつも遅れて来るから聞かなかったんじゃろ!」と、遅れてきた神様に言っていました。   「ははは。 そうであったか。 そんなら、お前もこっち来て、我らと踊らんか?」と私に向かって、 遅れてきた神様が言いました。  次回は、この続きをお話します。    


-2005年5月14日-
今日は、悪霊と呼ばれる霊でも、改心すれば、明るい世界へ上がれるというお話です。   悪霊とは、迷える不成仏霊の中でも、積極的に悪を働きかける者です。   その者達は、何時も周りのもの全てを混乱させよう、迷える者、そうでない者も、地獄の暗闇に引きずり 込もうと画策しています。  それは、霊界においてもそうですし、この世に出て来て、心の弱い者や、 心に悪の波動を持つもの、深い苦悩のある者を見つけると、積極的に憑依してきます。   そうして人間に憑依しながら、地獄から亡者達を呼び込んだり、この世にさまよっている浮遊霊などを 呼び込んで、どんどん憑依させていきます。   そうして、何とか地獄へ引きずり込もうと、色んな嫌な事を本人にしてきます。   例えば、体を痛くさせたり、人間関係を悪くさせたり、眠れない様にさせたり、やる気を無くさせたり と、様々な嫌がらせをしてきて、どんどんと悩みを拡大させ、精神的に追い込んでいきます。   そうしておいて、憑かれた人の人生を不幸のみの人生であるかのように思わせていきます。   この様に、人の不幸を楽しみ、不幸の増進に力を傾け、世の中も自分達の棲む地獄界と同じ様にして いこうとするのです。  これが悪霊であり、悪霊達の仕事でもあります。   この様な悪霊であっても、元はと言えば、明るい世界より生まれ出た魂であり、神仏より創られたる 「神の子・仏の子」であるのです。  皆、神仏の性質を、魂の中、心の中に受け継いでいるのです。   そんな大切な事も、人間は、赤ちゃんとして、肉体を持ってこの世に生まれ出た時に忘れてしまうので す。  幼い時は純粋で素直で、真っ直ぐに生きてきた人(魂)であっても、長い人生の中で、病気や 裏切り、イジメや家庭問題、その他、様々な挫折などで、次第に自分の不幸を他人や環境のせいにしたり して、他人や社会を恨んだり憎んだりしてきます。  また、この世的に成功した人が、肩書きや財産の 多寡、身分の高さを、人間の値打ちと判断したがったり、そうした自分より貧しい人達をあざ笑い、人と して扱わない様な仕打ちをするなどしても平気であったり、心が荒んできます。  そうした人が、一生 を苦悩や悪の道その様な人達が、生涯において反省もせず、この世だけが全てであるとか、自分さえ良け ればそれで良いとか、その様な心のままであると、死後にいく世界は地獄であるのです。  それで、 反省するまで地獄霊として地獄に留まり、中には本当に悪霊となってしまう霊も沢山います。  私は、 除霊・浄霊する時に、その様な悪霊と言われる霊とも話しをしますが、皆、結局のところ辛いのです。   人に憑依した霊は、怖い顔をして脅してきたり、人間の口を通して汚い言葉を吐いたりしてきますが、 それでも大きな愛を持って、「あなたも辛かったんでしょ。 辛いから、幸せな人が憎かったりしたんで しょ。 あなたも本当は、素直で優しい子だったんですよ。 あなた、病気で亡くなったから、まだ身体 が痛いんでしょ。 私が治してあげますよ。」等と優しく語り掛けてあげます。  私は、その霊の心の 痛みが判るので、そうして悪霊の心の中にある仏性に向けて話しかけます。  すると、段々、今まで 言いたい事を言っていた霊が、おとなしくなり、そして自分の心の内を話してくれます。   それから、「人に不幸を与えると、自分にも不幸がやって来るんですよ。  だから、どんどん身体が 痛くなってきたでしょ」と、少しずつ真理を諭していくと、悪霊にも反省心が出てきます。   そうして、今までしてきた事を謝り、もう悪い事はしませんと心に誓ってくれます。   そして私は、その悪霊に向けて天上界の光を投げ掛けます。  すると、その魂を光が包み込むと、 魂を覆っていた黒い影のようなものが、サーッと消えて行くと、魂から光が出始めます。   そして、こんな自分にも神様は許しの言葉を掛けてくれ、優しい光で包んでくれる事に感謝の涙を流しな がら、何回も「ありがとうござます」と感謝の言葉を繰り返し言ってくれます。  こうして、もう悪霊 ではなくなり、改心して明るい世界へ上がれる霊として、私は成仏させて上げるのです。  自分の子が、 悪さをしても心から憎む親はいないのと同じで、私はそんな悪霊だとしても、何とか改心させてあげて、 明るい世界へ戻ってほしいと思いながら、日々頑張っています。  この世あの世も、心次第で幸福に 感じる事が出来るんですよ。  ほんとだよー♪


-2005年5月8日-
今日は、霊に憑かれている人は、真理の本を読む事で、自分も霊も共に助かるというお話です。   これは、まず最初に知らないといけないのが、この世に出て来ている霊などは、基本的に成仏していな くて、それぞれに生前の悩みや不満、怒りや恨み等を未だに持っているという事です。   その為に、それらを判って欲しくて、地獄の中の苦しみから出て来て、この世の人間に憑依してきます。   霊は、人間に憑依して、その時だけ苦しみが少し和らいだりします。   例えば、食べる物が無くて空腹のまま餓死した霊などは、この世の人間に憑いて、生きた人間の口を 通して、食べ物を食べた気になります。  だから、憑かれた人は、普段より一杯食べても、どんどん 食が進んだりして、満腹感がなかなかやって来なくなります。  過食症になるのも霊に憑かれている 場合があります。  また、これとは逆に、食べ物が少ししか食べられない人は、病気で亡くなった 人の霊に憑かれていたりします。  そうすると、お腹の病気で亡くなった人の霊は、未だに「お腹が 痛いよ〜!」と、憑かれた人のお腹の中で苦しんでいます。  だから、そんな時に食べ物なんかが お腹の中に入ってきても、痛くて食べられないので、霊が拒否反応を示すのです。  だから、すぐに 憑かれた人も、自分のお腹が一杯になった感じがして、食が進まなくなります。  これが、霊に憑か れた時に起こる拒食症の場合ですね。  まあ、こういう事が日常の生活の中で起こっているのです。   この外にも、霊に憑かれる事で起きる、色んな症状がありますが、一般的に「病気」と判断されがちで す。  そして、どこの病院へ行っても治らないという事になって初めて、もしかしたら、霊のせいじゃ ないかなと思い始めたりします。  そうして次に、自分なりに、どうしたらいいのか考え始めます。   そんな時に、真理の本を読むという事は、自分が読んでなるほどと解った事柄などは、憑いている霊の 方も「へぇ〜!そうだったんだ!」と同じ様に思っているんですよ。  普通の人は、迷える霊に対し て、心の中で真理を説いてあげるという事は、結構難しくてなかなか出来ないものです。  その点、 憑かれた本人が真理の本を読む行為は、霊にも真理の本を読ませてあげる、又は、読んであげるという 事と同じであり、少しでも真理を理解してもらうのに役立ちます。  これには、間接的に除霊の作用が あるのです。  何故なら、真理を知るという事は、霊が生きている人間にとり憑くという事は、生き ている人間を苦しめる事であり、死んでもなお、自分の罪を重くしている、罪を重ねて行っているとい う事に気付きはじめます。  そして、自分(霊)のしている行為が、良くない事であるという事も理解 し、この様な事(憑依)を続けていても、救われない事を知るのです。  その様な道理が判れば、霊の 方も納得して人間から離れて行きます。  そして、反省する所は反省し、素直な心になって改心すれば 、明るい世界へ上がれるという事がわかってきます。   こうして、この世の人間も救われ、霊も救わ れていくのです。  これは、真理の本を読み、真理を学ぼうと努力し続ける心があれば、誰にでも出来 る安全な除霊(浄霊)方法なのです。


-2005年5月2日-
今日は、「真理の流れの中に人は生きている」というお話です。   私は、色々な人達に真理の話をしていますが、別に私の話を聞かなくても、しっかり生きている人は たくさん居られます。  そして、宗教の力に頼らなくとも、素晴らしい人生を送られている人も たくさん居られます。  しかし、長い人生の中においては、時として嫌な事があったり、何かに挫けた りする時もあると思います。  また、何事に対しても上手く行かないからと、自分の生い立ちや、他人 を恨んで、周りや自分が嫌になってしまう時もあるでしょう。  でも、全ての人が、その様な暗い人生 を送るという事は無く、それぞれに悩みを克服しながら、日々を生きているのです。   また、宗教に入って真理の勉強をしなくても、人としての正しい道を、自分なりにあれこれ修正しながら 歩んでいく事も出来ます。  その様な、誰に教えられたという事も無いのに、自分の力や、時には他人 の助けも借りながら、人としての真っ当な道、正しい道を歩こうと努力するものなのです。  それが、 人間として善い事であるという事も、深層心理的に判っているものなんです。  こうして、人というも のは、特別に真理というものを意識していなくても、人間として、道理として、善悪という正しい判断基 準というものが、ちゃんと自分の心の中(魂の中)にあるのです。  何故なら、それは人間という存在 、または、人間の魂というものは、全て神仏より生まれでた存在であり、皆「神の子・仏の子」なのです。   その様な、根本真理(神仏)の中から生まれ出た魂というものは、この世に出ても、神仏の子には違いあ りません。  ですから、人間というものは、何時如何なる時にあっても、皆「真理の流れの中に生きて いる存在」であるのです。  人は、気付いても気付かなくても、良い人でも悪人でも、全て平等に真理 の流れの中に生きているのです。  宗教や、真理というと、すごく特別な感じがしますが、皆、日常の 生活の中において、真理を基本にしながら生きているのです。  人を苦しめてはいけない、他人の物を 盗ってはいけない、人を憎んだり恨んだりしてもいけないとか、誰に聞いても、皆がそれは良くない事だ と判る事、また、親切にしてもらったら、「ありがとう」の感謝の言葉や気持ちを持とう、自分も人には 親切にしよう、苦しんでいる人がいれば助けてあげよう、自分が幸せなら他人にもその幸せを少しでも分 けてあげよう等、この様な、今更言われなくても判る様な事柄、これら全てが真理なのです。  皆、そ の真理の光の流れの中に生きているのに、非常な苦しみや挫折感などによって、時々自分を見失って、人 生の急流に流されてしまい、身動きが取れなくなってしまう時があります。  そんな時には、それでも 自分は真理の光の中に生きているという事を思い出してもらい、人生の難所を上手く渡る方法を見つけて もらう為にも、真理の話を聞いたり、学んだりするいう事が大切になってきます。  自分が生きている中、その真理の光の流れは、どの様なも のかという事を知るという事は、今後の人生をしっかりと生きていくという事に、大きな意味を持つもの であります。  人生の急流に差し掛かって、前方に大きな岩があったとしても、真理を学んで高い目線 、高い認識力が身に付けば、迫ってくる大岩をも簡単に避ける事が出来るのです。  例えて言うと、 プロの船頭さんと、素人との違いでもあります。  できれば皆が、船頭さんの様に、水の流れを読んで 上手に流れを下ってほしいのです。   その、様々な判断材料を学び、皆が共に発展しながら、幸せに 人としての正しい道を歩める様に教えるのが、宗教の在り方であり、目的であり意味であると思います。   皆が、神仏の光の中に生きている事を思い出し、様々な障害や試練に負ける事無く、しっかりと自分の 人生を歩んで行ってほしいと思います。