神霊による人生相談

ょっ言。

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-2005年8月26日-
今日は、西岡学校の子供達の最近の様子をお話しましょう。   今の時期、西岡学校は夏休みです。  霊界に建つ西岡学校にも、地上と同じように夏休みを設けました。   ですから、子供達(特に小さな子)の苦手な、神の世界についてのお勉強はお休みです。   それで、夏休み中やる事と言えば、朝の体操と、朝のお祈り(私と一緒にします)、後は自由研究をしたり、 自分で課題を何か一つ見つけて、それが上達するように頑張っているようです。   この様な事は、霊界でも地上界でも、流れている真理は同じですので、魂の向上の為の努力精進は、同じ なんですね。  また、子供達は、特に男の子達ですが、今は虫取りに夢中になっているようです。   昨日も、西岡学校の裏山に、皆でカブトムシをとりに行くんだって言ってました。   でも、まだ小さな子は、カブトムシを知りません。  何故なら、生きていた時に、赤ちゃんだったり、 まだまだ小さかったので、カブトムシを捕りに行った経験が無いのです。  亡くなった時、赤ちゃんだった子が、 西岡学校に入ってから成長して、今は幼稚園児くらいになってますが、カブトムシ捕りを生前に経験した事が無い子は、 何の事だか判らないんですね。  でも、楽しそうなので皆と一緒に連れて行ってもらって、初めてカブトムシ捕りを 体験し、すごく喜んでいます。  そうして、今まで経験出来なかった事を、魂の状態で、思う存分経験し成長して いってます。  また、子供達の性格もバラバラで、カブトムシが好きな子や、クワガタムシが好きな子、中には、 虫が苦手な子がいますよ。  だからね、カブトムシが触れない子がいて、僕は虫が気持ち悪くて苦手なんだよ!って 言ってます。  その子はね、自動車のおもちゃ(ミニカー)なんかが好きで、私のミニカー集めの趣味と似てます。   女の子は、髪飾りや、縫いぐるみ等、可愛いもの、きれいな物に興味があり、子供なりに、お洒落をするのが好きみた いですね。  だから、可愛らしい物をお供えしてあげると、それが霊界の子供達の元へ届きますので、皆大騒ぎで す。  後ね、最近まで言葉をしっかり話せなかった子が、随分成長してきて、会話出来るようになりました。   子供達の中で、上の子達(上級生)は下の子達(下級生)の、お世話をしながら面倒を見ていくという事が、 西岡学校の決まりとして私が定めていますので、皆がその決まりを守って、助け合って楽しく学校生活を送っています 。  そして、何より嬉しいのが、言葉がしっかり話せるようになると、私に童話の本や、昔話の本などを読んで聞かせて くれる事です。  時々、言葉の言い回しに苦労しているようですが、頑張って私に読んでくれているのが、ほほえま しくあり、愛しくもあります。  そして、読み終えた後、私が「ありがとう! よく読めたねー! 上手だったよ!」 って言ってあげると、満面の笑みでニコー(●^o^●)ってしてくれます。  そして、満足したのか、「先生! また読んであげるねー♪」って言って、自分達の世界へ戻って行きます。  大体、何時もこんな感じで、霊界の世界を 楽しんでいるようです。  私も、楽しいですけどね♪


-2005年8月20日-
今日は、気のコントロールと霊力についてお話します。   最近、私の所に通ってくれている人達の中で、神仏の御加護もあって、随分と気が充実してきている 人が多くなってきました。  元来、霊感を持っていた人などは、我が家の神棚の前で座っていると、 不動様や観音様などの「気」が、守護霊を通して判るようになり、簡単な意思の疎通が出来るように なってきています。  また、その様な事が判らなくても、神仏より送られてくる気のエネルギーを 受けて、体の中が熱くなったりするのが判ります。  この神仏から発せられる「気」を受けた人は、 不成仏霊が憑いていても、直ぐに離れてしまうので、実体験として、神仏の存在はもちろんの事、自然と心の中に、 ありがたみ(感謝の念)が、すごく湧いてきます。  そして、これらの積み重ねにより、普段から良くない霊に 惑わされていた人等も、精神的にも霊的にも強くなり、霊的オーラの強さも増して、惑わしに来たりする霊から 自然と身を護れるようになっていきます。   そして次第に、霊感の有る無しに係わらず、霊界や真理の知識力の向上に伴って、信仰心を続けていく中でも、 気のコントロールをも意識して行く時期になっていきます。  これは、その後に続く、霊力との関係も あって、とても重要な前段階の時期です。  しかし、前段階で「気」のコントロールを間違うと、良くない方向へ 気が流れてしまい、心身ともに良くありません。  気のコントロールは、底辺に真理知識という大きな 土台があって初めて行うものであり、真理知識レベルがある一定の水準を満たしていないと、無闇に「気」を 操る事を意識したり、興味本位で霊的な力の開発を意識し出したりする事は、避けた方がいいです。   「気」のコントロールを上手に行う為には、精神の乱れを静め、自分の心の内側に入っていく事が必要です。   これは、一般的に言う「精神統一」と言われるものですが、こういう事をする際に「無心」という ものが、その最終目標となってはいけません。  精神を静めて心の乱れ(心の波長の乱れ)を整え、そして、 落ち着いた心の状態に持っていきます。  その状態から「気」の流れを正常化させる作業に入っていきます。   そうして、身体にきれいな状態の気がめぐっている状態を保つ事を、日々の精神統一の中で定着させていきます。   こうして、日々努力の積み重ねを根気よく続けていった時に、自分の魂が入っている位置(胸の中央部分)が、 熱くなってくる時があります。  こうなってくると、霊的な力が目覚め始めてきている状態になっています。   神仏よりの光も、この魂の部分に差し込んで来ますので、精神統一を解いた後も身体は熱く、目に映るものが スッキリ明るく見えます。  これは、身体にまとわり付く霊や、良くない気を、心の浄化と神仏の光によって 消し去った(祓った)為に、自分の感覚として感じる現象です。  この能力を高めていくと、自然と霊的な 力を持つ事が出来、簡単な霊的浄化作用(簡単な除霊を含む)を行う事が出来るのです。   しかし、これ(霊力)を目的として心に持った時には、真理の道から外れやすくなるでしょう。   しかし、そうならない為にも、正しい真理知識を自分の心の判断基準とし、正しく気をコントロールするに見合う 心の状態をつくり出す事が先決です。  自己の内面を磨く事で、気をコントロールし、そして霊的な力に発展された、 気の善なるエネルギーは、体外に発散させる事で、霊から身を護ったり、人を癒したりする事が出来ます。   こういう段階になる事は、多くの人が可能でありますが、その状態を維持し、続けて行く事は難しいのです。    


-2005年8月10日-
今日は、霊に憑かれている時、又は、憑かれたかな?と感じた時に行う念じ方(心の持ち様)です。   人に憑く霊は、基本的に成仏出来ていない霊で、心に何らかの執着が残っていたりしますから、霊の心に残っている 執着と、生きている人の心の中の悩み等が、両者の間で同通した場合、憑かれるという現象が起こります。   また、霊本人が一人ぼっちで寂しがっている場合は、優しくて心の不安定な人に憑きます。   あと、自分が死んだ事に気付いていない霊、死んだ事に納得出来ていない霊は、家族や仲の良かった友人なんかに 寄り添うように離れないでいます。  そして、生きている人と同じ様に、一緒に生活を共にしています。   霊本人は、憑いてるという事を特別に意識していませんが、これは結果的に憑いているのと同じです。   この様な、生前からの執着や、不満や苦しみを持つ霊や、自分が今どんな状態なのか判っていない霊などが、何時も 傍に居ると、不成仏霊から発するマイナスの気を受け続け、気持ち的にも身体的にも、様々な苦しみとなってあらわれ てきます。  ですから、心で念じて霊に真実を気付かせ、離れてもらうという作業(除霊)をする為に、この念の 作用を活用するには、前回8/4に書いたのと、上記のような霊に憑かれる原因や要素を、しっかりと理解しておく事 が大事です。  霊達は、苦しさや不満を紛らわす為や、何とか助けて欲しくて、すがり付いてきます。   人に憑くという事によって、その人を苦しませている事、それを続けている霊は、死んでからも良くない行いを 続けているという事、これまでの行いを素直な心に戻って反省した時に、導きの霊がやって来てくれるから、何も 心配する事はないよ。 そう心の中で念じる事によって、霊界の法則というものを、何も判らない霊の心に認識させる 必要があります。  憑いている霊も、言わば必死の想いで人間に憑いている訳ですから、念力等の強い力で、 強引に引き離そうとしても、霊が怒ってしまったり、怖くなって余計必死にしがみ付いたりしてくる場合があります。   ですから、しっかり真理を学び、心の中で念じながら、その念の言葉で説得する様にします。   霊にしても、何時までも不成仏霊として苦しんでいるのは嫌なんです。  霊としても、自分の力ではどうしようも ないと思ってるからこそ、人に憑くことで助けを求めてきたり、自分の苦しさを、人にも味わわせる事で、その場 限りの気分転換をしたりしています。 そんな事を、この先、何十何百年と続けていくのか。  今、自分(霊)が している事は、神様がご覧になった時、どう思われるのか。  そんな事を続けていても、ますます心が暗く寂しく なってくるでしょう。  苦しさから抜け出して、今の心の状態で、天国に上がれたとしても、また直ぐに落ちて しまうんですよ。  何故なら、天国に居る人達は、皆心が明るく素直で、心が真っ直ぐに神様の方向を向いています。   そして、他人の事を気遣い、真理の勉学に励み、向上心を持って、皆仲良く調和をもって暮らしています。   あなた(霊)も、初めから今の様な心では無かったでしょ。  生まれた頃は、綺麗な心であったはずでしょ。  それが、人生の中で苦悩の時代があった時、心が暗く荒んでしまったんですよ。  もう、その様な生前の苦しみに 満ちた心は、洗い流してしまいましょうね。  今後、心を覆っている暗い煤を、反省によって拭い去り、 魂が輝いていた頃の綺麗な心に戻って、明るい世界へ戻って行きなさいよ。  苦しみから、楽な世界へ。   素直な人(心)に戻って、心を楽にして考えましょう。  苦しみは過去のもの、肉体を持っていた時の事。   今は、魂の状態です。  そんな苦しい時代の事など、魂の経験として持つだけにしなさいよ。   これより、小さく縮まった心を解き放ち、神の光を受けて、輝ける魂に戻りましょう。  そして、導きの霊と共に、 明るい世界へ戻って行きなさい。  これは、お盆を迎える先祖の霊達にも有効です。  この想いを、光が輝く イメージの中で念じると、更に有効です。     


-2005年8月4日-
今日は、霊に憑かれやすい人の心の状態、そして、不成仏霊の心の状態、そして、普段の心掛けについてのお話です。   最近は、お盆の時期(関東は過ぎましたが、関西はこれからです)が近いという影響もあって、私の所に、 「肩や首がすごく重くて、もしかしたら霊に憑かれたんじゃないか」とか、「霊が離れてくれない」等という メールや電話での相談事が増えてきています。  そんな時には、私の所で用意する、除霊・浄化作用の念が入った、 「御塩・御神水・御神酒」で、その都度しっかり対応すれば、大抵の霊なら離れていきます。   でも、これらに頼り切っていても、自分の心が霊を引きつけている場合には、ある程度の霊障害は治まっても、 スッキリと元の状態には、なり難いです。  霊に憑かれるのは、憑かれる側にも、それなりの理由があって 憑かれるんです。  心に色んなストレスを抱えている人は、当然悩みも多く、心の状態も深く落ち込んでいる 事が多いので、言いたい事も満足に言えず、不満や不安の中で生活しています。  この心の状態、心が後ろ向きの 状態、これは、成仏出来ずにさ迷っている霊の心境と全く同じ状態なんですよ。  不成仏霊は、生前の悩みや不満、 怨み事等を、何十年、何百年と持ち続けていて、未だに自分の中で解消出来ないでいるんです。  だから、生きてる 人間も、同じ悩みを繰り返し悩み続けていたり、不満や不安の中で、心の安らぎが持てない場合が長い間続いたりして いる人は、どうしても、不成仏霊と心境が似通ってくる心の部分が出てきてしまいます。  この似通った心の部分、 私の言葉では「意識世界」と言いますが、ここに不成仏霊の意識が同通してしまいます。  これが、憑依現象です。   霊は、この心の後ろ向きな部分に感応して寄って来ますので、この後ろ向きな心を改善していかないと、憑かれた霊 を離す事は難しいです。  たとえ、私の力で離れたとしても、本人の心が全然治っていないと、また何処か違う場所 で、似た様な霊にくっつかれる事になるでしょう。     ですから、時々でも良いですから、自分の心(想いや考え)を、客観的に見直す事も必要です。   また、霊界(死後の世界)は、本当にあるという事を信じる事、これも非常に重要です。   霊の中には、自分がもう既に死んでいるのに、死後の世界を信じていなかった為に、成仏出来ずにいる霊も多いんです。   それは、肉体は無くなっても、魂は生きているので、意識はちゃんとあるし、考える事も出来るので、自分は未だ死ん でいないじゃないかと思っている霊がいます。  肉体が無くても、お腹痛いよー!って泣いてる霊。   病気や事故で亡くなった霊は、痛みの意識が強烈に魂に残っているので、痛かった想いだけを霊界に持ってきてしまっ ています。  本当は、肉体だけの痛みから解放されて元気な魂に戻れるので、痛くは無い筈なのに、苦しみの意識まで 霊界に持ってきて、まだ痛いと思い込んでいるんです。  これ、困った事に結構多いんです。  また、生前に、 人を苦しめる様な悪い事をしたら、地獄へ落ちるという事を信じないまま、死んでから実際に体験して後悔している霊 達。  こんな霊達も、地獄の苦しさから抜け出て人に憑いたりしています。  死んで尚、人間にとり憑き、生きて いる人を苦しめる。  この真理に反した事を、未だに判らずにしている霊に、そういう事をしては、何時まで経って も明るい世界へ上がれないよと、真理を心に念じてあげる事で、霊に、ハッと気付かせてあげる「きっかけ」を与え てあげる事です。   次回は、この念じ方のお話をします。