神霊による人生相談

ょっ言。

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-2003年10月31日-
今日は、良い「念」のお話です。   「念」は神理に則って正しく発していけば、自分の人生において大変重要な 役割を果たします。  良い事をすれば、それに対して良い結果が得られる。   反対に、悪い事をすれば、それに対しての結果は悪いものとしてかえってくる。   これらは、すぐには結果として表れないかも知れないが、後々必ずその様な結果と して自分の身に起こって来ます。  何故ならば、それが神理だからです。   この世、あの世を通して、この「絶対神理」が「神の法則」として我々に働いているのです。   ですから、何事かを判断する時でも、行動を起こす時でも、必ずその前には自身の心の内で 小さいながらも「念」を抱き、そして物事に対処しているはずです。   何も考えずに、無心で物事を判断、行動出来るはずがありません。  以上の様な事を考える時、 人間は皆、上記の様な「神の法則」の中で生きているならば、出来るだけ良い「念」を心に 抱き、自分の人生を進むべきだと思います。  人はすぐ、良い事をしても、直ぐに自分に見返りが こないと、何か損をした様に考えてしまいがちですが、そうではありません。   何気ない生活の中で、自分の犯した過ちが大きな事件にならずに済んでいたり、危うく大怪我になるところが 擦り傷で済んでいたり、大難が小難に止まっている事がよくあるのですが、本人が気付かないだけなのです。   良い念は、自分作りにも大きな意味を持ちます。  それは、人間として正しく生き、皆との調和を図り、 自己の才能を社会の発展に寄与する様な人物になれるようにと、念じて日々行動していけば、個人差はありますが それに近いものが実現出来るものです。  それが、本人の才能であるところが多いですが、自分が得意な 歌や、絵や、文学や、科学や政治などの世界で自分の才能を発揮すればいいのです。   それが、大きくはなくとも何かしら社会の発展や、人々の生活の潤いや助け等に繋がっていけば、 それはとても意義のある事なのです。  「念」は、自分の為からみなの為に出来る事を心に持ち始めた 時から、大いなる神の助けを呼び込み、あなたを成功へと導いてくれるのです。   良い「念」は、あなたに幸福と成功をもたらします。  後は、あなたが周りの人達に幸せを分けてあげれば 良いのです。  


-2003年10月28日-
今日は、念の作用のお話です。   心の中に在る一つの想いを、集中させて想い描く事によって、更に強烈な想い に成長させていったものを「念」と言います。   この「念」の作用をもって、霊界との通信や交流も可能になります。   この時に良く考えなければならないのが、その時の自分が放つ「念」が良いものであるか、 悪いものであるのかという事です。  もし悪いものであれば、あなたが放つ念は低級霊界へ 通じてしまい、その念の波動を伝って低級霊がやって来ます。  その結果、憑依という現象 を起こします。  これは、興味半分や自分本位の考え方をしている人が試した結果そうなることが 多いのです。  良くない想いを持って、神という未知の存在や、その恩恵を受けようとする人等が この念を使うと、動物霊や低級霊などが近寄って来て「我は神である」などという事を耳打ちしてきたり します。  そうすると、自分は神と話しが出来るなどという事を本気で思ってしまうのです。   そうして、霊的なものが見えたり、次第に当て物程度のものが出来たりします。   憑かれた本人は その事に気付きません(悪霊は人間を利用する為に気付かせないようにする)ので、自分を神の使いなどと いう様に思い込んでしまい、占いや霊感の商売をはじめたりします。   これは低級霊に憑依された為に、人間という肉体を通して霊が行っているもので、それらの霊は憑依された 人間を通して、自分を神の様に崇めてもらって満足していたりします。  しかし、あまり高度なものを 要求すると急に怒り出したり、その場しのぎ的な言葉であやふやにごまかされてしまいます。   あと、その様な人に近づいたり相談などをしていると、帰りに頭が痛くなったり、体調が悪くなったり する事があります。  これも結局、その人からの悪念を貰って来たという事です。   悪い場合は、その人の周りに居る悪霊に憑依されて帰ってくるという事もよくあります。   この様に「念」というものは、悪い方へ傾くと自分ばかりでなく、他人までも不幸にしてしまうのです。   次回は、良い「念」についてのお話です。


-2003年10月25日-
今日は、西岡学校の子供たちの初めての遠足のお話です。   霊界での遠足は、この世では考えられない様な事や、実現不可能な事も 普通に行われます。  子供たちの着る服なんかは、念の作用で出す事も出来ますし、 服を絵で書いてお供えしておいても、向こうの世界ではそれが自分達の物として存在します。   そうして遠足に必要な道具類を揃えて準備を整えました。   今回は、新入生全員で海まで遠足に行く予定であり、また大人数なので子供たちの為に遊び道具として 買った新幹線を、海までの交通手段として使う事にしました。   それは、私たちがこちらの世界で普段乗っている様なものと、一見変わりないものに見えます。   違っている所は、「西岡学校専用列車」と書かれたボードが掲げられているのと、行き先表示が 直接行きたい所の表示になっている事、(例えば、何々さんの家)と表示されておれば、その人の家の前 に到着するという具合です。  こうして、皆が新幹線に乗り込んでドアーが閉まると、プォーンと 鳴って走り出しました。  子供達が窓から手を振っています。  その後、新幹線はフッと浮いた様な 感じとなり、映画の「バックトゥーザ・フューチャー」のデロリアンの車みたいに、空間を走り去って 行きました。  次元空間移動です。 (映画の様な火花は出ませんよ)   空間移動中の新幹線の中は、子供たちの騒いでいる声が溢れています。   中には走り回っている子供もいます。  こうして、新幹線は海の近くの砂浜に到着しました。   まず、海の近くに居られる神様達にお参りを済ませてから、遊びます。  それが、西岡学校の決まり でもあるからです。  こうして、子供達は日が沈む頃まで遊んでから帰って来ます。   もちろん、行きも帰りも護衛に神様が付き添ってくれていますので、とても安心です。   霊界の西岡学校の遠足は、この様にして行われているのです。 


-2003年10月22日-
今日は、西岡学校の事をお話します。   最近、霊界での西岡学校の生徒が40人ほど増えました。   私の御先祖様の一人が連れてきたようです。   それと生徒と一緒に引率していた先生もお越しになりました。   ですから、西岡学校も校舎を新築し3階建ての校舎になりました。   生徒達は皆、小さな子達ばかりで、ほとんどが幼稚園へ上がる前位から小学生までです。   先生は22〜23歳位で、おしとやかで、しっかりした女性です。   また、子供達は幼くして亡くなっており、自分達の面倒を見てもらう人がいない霊達、 いわゆる無縁仏になっているようです。  ですから、今までは自分が休む時には竹やぶの中に 入って行ったり、道端で寝ていたりしていたようです。  でも、西岡学校へ入学してからは、 学校の宿舎でフカフカのお布団で寝ているようです。  帰る所が無いのはかわいそうなので、 そういう施設をつくってあげました。  皆、喜んで「私達、あったかいお布団で寝られたよー。 ありがとー!」と言ってくれました。  これから、ここで色んな経験をしながら、お勉強を するんですよ。と言うと、「ハーイ!」と元気な声で嬉しそうに返事をしていました。   皆、今とても幸せなんだそうです。  それを聞ける私も、とても幸せです。   今、霊界では西岡学校がとても有名な進学校として名が通っているようです。   ここに来る生徒達は、神様と接する事が出来、神の教えも受ける事が出来るので、皆それなりに 選ばれた生徒達のようです。  ですから、心のきれいな子達ばかりです。   現代の様な、貧富の差や、学歴、身分の差なんか全然ありません。  ここ(霊界)は「心」の状態が、 その人の価値を決める世界です。  次回は、西岡学校の新入生の初めての、遠足の話をします。


-2003年10月19日-
今日も前世について、幾つか例題を出しながらお話します。   例えば今現在、何をやってもうまくいかないという人は、前世に他人の自由を奪うような 事をしたか、他人の未来の希望を奪うような事をした可能性があります。   その為に、今世において自分の想いどうりの事が出来ない、また出来そうになっても肝心な時に うまくいかないという現象がおきます。  そうして、前世で他人に犯した過ちを、今世の自分に 置き換えて経験させられる事で、その時の相手の心の傷みを身に受けながら生きていかねばなりません。   それが魂に刻み込まれた過ちの記憶を消す事になるからです。   また、今世で非常に裕福な環境や、美しい容姿に生まれた人は、前世ではそれ程でもなかったかもしれません。   しかし、前世で貧しくとも正直に生き、他人や社会のためにつくしたり、人間として精一杯に美しく生きようと 努力して人生を終えた人は今世において、他人も羨む様な美人に生まれたり、一代で財産を築くような 人物になったりします。  人間の人生にはこの様な事が数多くあるのです。   そして、もし今世において、良い生活や美人などに生まれている人は、出来るだけ今の自分に得意にならず、 前世の苦労が今世に花開いている事をしっかりと認識し、今の自分をより良い自分へと高めていける様に 努力していく事です。  そして、少しでも世の中の為になる様に、自分の才能を発揮していく事です。   それが「過去・現在・未来」を視野に入れた「魂の発展」に繋がっていく事になるのです。   私達は今の環境や立場の中で、自分に課せられた役割や使命をしっかりと果たしていく事で、 明るい来世があるのです。  人生には、原因があって結果があります。  ですから、私達には過去があって 現在、そして未来があるのです。  自分の未来(来世)が輝ける未来(来世)であるように、 過去の原因を現在の自分の努力によって、良いものとしていこうではありませんか。 


-2003年10月16日-
今日は、前世というものに付いてお話します。   前世とは、今より昔の時代に、自分の魂が違う肉体をまとって出ていた存在の事です。   これは転生輪廻という、あの世とこの世とを時代を経て、魂が霊界と人間界とを繰り返し 循環している事によって起きます。  ですから、昔に亡くなった人の魂が、現代に生まれ変わって いるという事であります。  もし、それがなければ私達は二度と生まれ変わってこないという事になり、 前世も何も無しという事になってしまいます。  時々、自分の生まれる以前に住んでいた所の記憶や、 自分は昔、こんな事をしていたという記憶が残っている人が世界中に数多く居るのも、前世があっての話ですし、 これが即ち「転生輪廻」という、魂のサイクルに乗ってきたという事の証明にもなるのです。   この様に、魂のサイクルがあるという事は、前世の魂の「業」、カルマとも言いますが、自分の魂の よい面や悪い面も含めて、魂に刻み込まれたものがあります。  これが、因縁などと呼ばれ、前世で 悪い事ばかりして他人を陥れたり、傷つけたりした人は魂の業(因縁)により、今世でその罪を報いる為に 辛い環境や、不自由な暮らしを余儀なくさせられていると、世間的にもよく言われます。   生前、他人に対して辛く当たっていた人は、死後、霊界でその事を反省します。 そして、次回生まれ変わった時には、今度は自分がその様な苦しい立場となって体験する事により、 魂の悪業を消す事が出来ます。   また、苦しい中でもしっかり人生を生きていく事で、魂の発展を促す事も出来る為、霊界で、 あえて厳しい環境を選んで生まれ出て来る事もあるのです。   前世の業は魂の記憶として残っていますので、今世で前世と似たような環境や場面が現れた時、 前世の自分と同じ様な行動をとる事があります。  そして、それが悪ければ、また前世と同じ失敗を 重ねていくという事になってしまいます。  ですが、結局は前世は過去の自分であり、前世での欠点を 知ったとしても、現在自分が置かれている立場を乗り切る事が出来なければ、悪業は持ち越されます。   ですから、現在の立場環境を受け入れ、苦しみを乗り越えていく事が出来れば、悪業を持ち越す転生は消え、 来世に転生を果たした自分は、明るく素晴らしい人生を送る事が出来るでしょう。  


-2003年10月13日-
今日は「気」のおもしろい利用法のお話です。   最近は朝晩の気温もすっかり低くなってきて、夜寝る時に足元が寒くなってきた と思われる方がいると思います。   そんな時、私は自分の気で足元を温めています。   これが結構温まるので、熱くなりすぎて布団から足を出したりする時がよくあります。   それでは、一体どうやって自分の足元だけを「気」の力で温めるのかを説明します。   まず布団に入った状態で、瞑想時と同様に深呼吸して吸った息を「おへそ」の辺りに溜め、 そこに「ミニ太陽」の様な「光の塊」があるイメージをしながら意識を集中します。   そして息を吐きながら、光の塊を維持する様にします。   次に、その光の塊をゆっくりと「おへそ」の部分から下半身に下ろしていき、両方の足の付け根で 二つに分けるイメージをします。  そして、二つに分かれた光の塊が両足を通って、最終的に 足の裏まで届くようにイメージします。  そして、足の裏に届いた所で光の塊の光量を上げます。   その際には、光の塊が「熱い光」となるようにイメージし意識をそこに集中します。   もちろんこれは、おへそから下ろす時に「熱い光」をイメージされても構いません。   即ち、「光の塊」これが「気」です。  気(光の塊)は、自己の意識を一点に集中させる事でつくりだす 事が出来ます。  こうして出来た「気」を、自分の好きな場所に移動させ、その場所から「気」を 放出させる事も出来ます。  この様にしてつくり出す「気」は、一種のエネルギーであり、単に身体を温める事から、 トレーニング次第では、身体の痛みを和らげたりという様な簡単な治療をする事も出来るのです。   これは、人によって出来る人もいますが、それにはそれ同様の「魂の下地」が必要なのです。   ですから、全ての人が出来る様になるとは言えないのです。
*(今日お話した事は、気という霊的作用 の事なので、実行されている時に、もし、嫌な気分や変な感覚になりそうでしたら、外部からの良くない 霊作用が降り掛かるおそれがある為、実行を中止して下さい。)


-2003年10月10日-
今日は、うつ病と霊的憑依についてお話します。   現代社会においては、仕事や家庭環境や様々な人間関係などで心的ストレスが溜まり、 その結果「うつ病」といわれる病気を発生したりします。   この症状としては、霊的憑依現象と非常によく似たものがあります。   例えば、一日中嫌な気分が続き、何をしてもうまくいかず、好きな事をしても気が晴れなかったり します。  また、食欲も落ちてきたり、不眠が続いたりして、何かを考えても悪い方向へしか 考えられない、この先に希望が見出さない等で、最悪は自分の存在自体を否定するような考えを もったりします。  そして、孤独感や絶望感などが次第に膨れ上がってくると自殺を考えたり、 実際に行動に起こしたりするのです。   ですから、うつ病に近い症状が自分に出てきたと感じた時は、同じ様な境遇や想いで、この世に さ迷っている霊に憑依されやすい状態になっているのです。  この為、今迄に霊感や幽霊なんか 見た事も感じた事も無い人でも、霊に憑依されてしまうのです。  一旦、霊に憑依されると、軽いうつ病でも段々深刻な悩みを抱える症状を発生します。   何故なら、さ迷える霊は死んでまでも悩み続けている霊なので、それに憑依された人は知らず知らずの内に 自分で悩みを作り続けてしまうのです。  これも、憑依霊の仕業です。    こうして、現代社会における「うつ病」から発生した場合、憑依という現象によって さらに悪循環へと導かれてしまうのです。  この様に、現代社会において発生する心的ストレスが、 霊的にも悪影響を与えるという事が解ると思います。 


-2003年10月7日-
今日は「神の愛」についてお話します。   愛には、自分が好きになった人を愛するという「愛」や、家族や兄弟姉妹を愛するという「愛」も あります。  また、自然を愛したり、社会という大きな組織を愛するという「愛」もあります。   イエス・キリストは、「汝、隣人を愛せよ」と言いました。  私は「愛」の原点は、この様なところに あると思います。  人間は、色々なものを愛する事が出来る為に、全ての生き物の頂点に立っているのです。   神から与えられた様々なものを愛し、それらを自分達人間に提供してくれている神に感謝しなければなりません。   その中で、イエス様の言われる「隣人を愛せよ」というのは、隣人(他人である者)を愛す事が出来る者は、 人として大きな心、寛大な心を持っていなければ難しいと思います。  「愛する」という事は、その人の 持っている「善い心」や「悪い心」を全部含めて愛するという事であり、自分がその人に対して好意を抱いているなら ともかく、そうでない人(他人)をも愛していく事が出来るかという事です。   その位、隣人を愛するという事は心的(心情的)にも、高次元的な思想が要求されます。   それは他人をも、自分の家族や兄弟と同じ様に考えられる意識が必要だからです。   すなわち、隣人(他人)をも、自分と同じ「神の子」であるという事、「魂の兄弟」であるという事(神理)を 認識出来るかという事にかかってきます。  人間は皆、神より創られたる者であるという事を理解し、 心から納得する事が出来れば、それは神の心(神の想い)を知る事が出来たのだと思います。   そうする事により人は、他人の良い面も悪い面も含めて愛する事が出来ると思うのです。   神の愛は、全てを許し、全てを包み込むほどの愛であり、今は悪人でも反省して立ち直れるように、神は 何時でも見守っていてくれます。  その神の心が解らないのが人間であります。  ですから、争いごと等が 絶えないのです。  私達は、もう少し「愛」という事について考えねばならないと思います。   他人の全ては愛せないまでも、他人の良いところを少しでも見出せるように、自己の心を磨いていきましよう。   それが他人を、偏見の無い目で見る事に繋がり、その延長線上に神の愛(隣人を愛する)を実践出来るように なっていくと思います。  


-2003年10月4日-
今日は、瞑想による自己実現についてお話します。   前回に、瞑想は積極的な瞑想をしたほうが良いと言いました。   何故かと言うと、神理に適った正しい目的を持った瞑想は、自己の想いを実現する事が出来る 力が、自分の中に生まれてくるからです。   積極的瞑想によって自己の心の曇りを見抜き、反省とそれによる自己改革の心が、さらなる 神理の吸収に繋がり、またそうする事で、教学という「認識力」と「心」のバランスが 非常に良い感じをとりながら発展していく事が出来るのです。   そして、自己の努力の積み重ね(自力)を見て、神の応援(他力)が入って来るようになります。   その結果、天上界からの応援(指導)として、物事の判断力や認識力が、自己の中で非常に高いレベルで 発揮する事が出来るようになります。  また、心の状態も常に神と向き合う事により、自己中心的な 考えが薄れ、より他人の為、社会の為に、自己の能力を発揮しようとするようになります。   こうして、日々努力を重ねる事で、理想的な形となって自己の想いが実現していくのです。   瞑想は、自己の心を見つめ直し、正していく事で本来の魂の輝きを取り戻す事が出来ます。   この輝いた心が、神の意識と同通した時、神の愛の光があなたの身体に降り注いで来るのです。   この時の感覚は、身体が熱くなり、そして、暖かい日の光の中に包まれている様な感じを受け、 とても幸せな気分になります。  精進次第では、守護霊を通して何かのインスピレーションが 心の中に降りて来る場合があります。  そして更には、直接的に神様からのお言葉が聞ける ようになります。  これは、天上霊との通信が可能になった為であり、より高次元な指導が受けられる ようになる事で、これまでの能力が飛躍的に向上します。  これにより、大きな役割を果たす事が 出来るようになります。  この様に、積極的瞑想は神の力を呼び込む力があり、理想的な自己実現を 果たす事が出来るのです。  


-2003年10月1日-
今日は、瞑想についてお話します。 瞑想には、宗教や宗派によって違いはあるでしょうが、今回は私なりの瞑想の仕方に ついて簡単にお話します。   まず瞑想に入る前には、自分なりに心が落ち着けるようなスタイルをとります。   立っていても、座っていても構いません。  そして手の位置も、別に決まっている訳ではなく、 両手を合わせていても、膝の上に置いていても構いません。  要は、自分が心平らかに、心の波を 静めていける様な状態を「よし」とします。  何故かというと、決められたスタイルばかりに心を しばられていると、肝心な「心の波を静める」という、瞑想の第一段階に到達する事に時間が掛かり 、それによって心に焦りが出始めてきます。  その為、心を平静にするどころか、かえって心の状態が 乱れてきたりします。  瞑想をする時、結構この様な状態に陥る人が多いのです。   この様な時は一旦、瞑想をやめて気を落ち着けてから、もう一度チャレンジしてみると、案外早く 心の第一段階まで到達出来たりします。  実際に自分でやっていると、自分なりのスタイルが 自然と決まってきます。  以上が、瞑想に入るまでの心づもりです。   では、実際の瞑想に入っていきます。  まず、呼吸のイメージとして、地面(地球)の気を吸い上げるような 感じで「スゥーッ」と胸のあたりまで引き上げて止め、すぐに引き上げた空気の塊の様なもの (感覚的表現です)を、胸から「おヘソ」のところまで下ろして、そこで止めます。   そこから、身体全体に空気という「気」の血液が流れ出るようなイメージで、気を身体全体に行き渡らせます。   これで、「心」を静めながら「気」を身体全体に行き渡らせる「積極的瞑想」の状態に入る、第一段階が 完成します。  その次に、その時に自分がやりたい瞑想(反省を目的とする瞑想や光明を目的とする瞑想など) を試していきます。  瞑想は、心を「無」の状態に保つ事だけではないのです。  心を「空」の状態 にし、そこから積極的に何かを生み出していくのです。  そうした時に、自分の守護霊の指導が入るのです。   ここまでは、普通の人でも「やる気」と「向上心」さえあれば出来るのです。   まずは、反省的瞑想をして「心」の曇りを取っていく事をお勧めします。