神霊による人生相談

ょっ言。

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-2003年11月30日-
今日は、人間の心に存在する内的宇宙の話です。   人間の心にはそれぞれに内的宇宙が存在します。   例えば、夜寝ている時に夢を見ると思いますが、その夢の中で自分がしたいと思えばそれが 実現し、欲しいと思えば手元に有ったり、空を飛んでる事もあり、水中に潜って 泳ぐなかで息も出来ていたり、話す事も出来たりと様々な事が自分の思い通りに 展開したりします。  また、好きな人と会って話しが出来たり、時にはとても 怖い事が目の前で繰り広げられます。  そんな時に、自分のところに来たら 嫌だな怖いなと思っていると、本当に怖いものがやって来たりします。   この様に、寝て夢を見ている時などは、自分の意識が霊的世界と繋がっている場合が あります。  霊的世界は、思った事がすぐに目の前に展開される世界です。   人間はイメージをふくらまして自分の思い通りの想像をする事が出来ますが、 それが霊界では現実に起こる現象となります。  霊界と人間の心の霊的内宇宙は、 密接な関係であり、言い換えれば、霊界は自分の心の中の内的宇宙でもあるのです。   この内的宇宙を、自分の意志で出入りする事が出来れば、霊能力を持つ人間として 霊界の探訪が出来たりします。  自分の心の中の内的宇宙を見つめる事はとても大切です。   善き心でないと、自己の内的宇宙は低次元の霊界と通じてしまいます。   そして、その結果とても怖い目に遭ったりします。   逆に、善き心であれば自己の内的宇宙も高次元の霊界と通じ、偉人達と呼ばれた人や天使等に あう事も出来るのです。  自己の心を磨いていけば、内的宇宙の成長を促しているのと同じです。   内的宇宙は、神理に則って正しく磨いていく事で、深みや広がりが生まれます。   それが、霊的能力の開発にもなります。  とてもややこしくなりましたが、これを半分以上理解 出来る人は、霊的能力の素質があると思います。  


-2003年11月27日-
今日は、前回の続きでいい加減な祀り方をされた神様の言い分です。  この家族の例は、神棚はありますが年に一度だけお水を供える様な家庭で、お札は 古いものの上に新しいものを積んでいくというやり方。  お水は正月に入れたまま忘れて 乾燥し、器だけが置いてありました。  あと、色んな種類のお札が押しピンで留めてあります。   お社は、数年来の埃を被って灰色になってます。  ちょうど、火山灰が積もった灰色の 家のようでした。  その御社に入りきらず、はみ出したお札が積んであるという感じです。   この様な光景を見た時は、このまま帰ろうかなと思わせるほど異様でした。   これは、その時の神様の言い分です。  引っ込んでおられて、出て来るのも嫌そうでした。   「この家族は、我ら神々の祀り方を知らぬようじゃ。 もっとも我らもこの者達にあれこれ 指図はせぬがな。 しかし、我らに水も与えぬというのは困りもんじゃ。 せめて水くらい 供えてくれてもよさそうじゃがのぅ〜。 まあ、良いわい。 我らもちょっと引っ込んで この家族の行く末を見ていてやろう。 その内、今抱えとる問題や心配事が、今後更に深刻化 して来るでのぅ〜。 その時に我らに頼みに来て、水でも供えてくれるじゃろぅ。でも、 もう遅いがのぅ〜。 わはははぁ〜。」この様に言っていますが、既にお札の数だけの神様は 居られず、最初の神様だけが辛うじて出て来ました。  それは、まだこの家にお年寄り夫妻が 生きていた頃、熱心に神様のお世話をしてくれていたそうです。  その恩があって、その時の 神様が居られるのです。  親の恩は、こんな時にも生きているのです。   ですから、これ以上は駄目というところで、自然と良くない事は止まるのです。   神様は引っ込まれていても、時々はそうして見ていてくれるのです。  本当にありがたい存在なんです。     大体は、家にある神棚を世話をせずに荒れ出すと、家庭内も既に荒れているものです。   この家庭も、問題だらけで行く末は真っ暗という感じでした。    ここまで酷くなくても、これとよく似た所が多いのも事実です。    


-2003年11月24日-
今日は、お家で神棚を御祀りする時の心構えのお話をします。   神棚は、信仰のある家や、ご商売をされている家や会社などによく見かけられます。   しかし、普通の一般家庭には滅多に神棚は見かけることは出来ません。   昔は当然のごとく、家の中には小さくても神棚が飾ってあり、神様と家人が共に生活を していました。  そして、家族の健康や安全、また皆の発展を祈願していました。   神様は、その家族を代々守護していくという役割があり、家族はその事に日々感謝しながら 共に生きていたのです。  それが、昔の人間と神様との素朴な信仰でありました。   今は、神様はご利益的信仰が多く、色々な所でお札を貰ってきて神棚に置き、それが何枚にも なっていたりします。  また、古いお札を処分しない為、年代物のお札が埃を被って積まれて いたりします。  私は見ただけでゾッとしますが、その家の方達は割りと平気で暮らしているよう に見えますが、家内でゴタゴタが絶えません。  それは、あんなに多くの種類のお札が積んでいたり、 壁に押しピンで留めてあったりすれば、良くない事が起きても別に不思議ではありません。   しかし、肝心の家の人達はその事に全然気付きません。  というより、お札がそんな状態である事すら、 忘れているのです。  何故かというと、一回もお水すら上げたことが無い状態なので気付かないのも 当然です。  こんな状態の神棚には、神様は既に居られません。  居るのは、宿無しの霊くらいです。   そんな霊が家に住み着かれたら、当然の事ながらその家は衰退していきます。   そうして、私に依頼が来て出番となる訳です。  そして、上記で書いた事を依頼者に言って、 これからちゃんと、お祀りする事を約束してもらい、宿無し霊を祓い、神棚の御社を清めます。   次に、新しいお札を貰い、神様の気をお札に入ってもらい御社の中に収めて扉を閉めて完了です。   あとは、毎朝お水と洗い米を替える事、お塩は月一回です。  御社の両側には榊を飾ります。   神様のお祭りの日には、お供え物をします。  お野菜類や魚や御酒、甘菓子等を供えます。   これが出来て、やっと普通です。  しかし、現代人は忍耐力が不足しているので、この単純な お世話が続かないのが現状です。  次回は、この家族に祀られていた神様の言い分を少し紹介します。


-2003年11月21日-
今日は、心の反省についてお話します。   反省は心を洗い、魂の輝きを取り戻すのに大変重要な役割を果たします。   人間は、これまでの歴史の中で様々な思想や行動を起こしながら発展してきました。   その中において、人間達は数知れずの失敗を繰り返しながら反省し、発展して きたのです。  ですから、過ちの後には必ずその事について反省し、 それを今後の戒めとして、また糧として今後の発展に役立てて来たのです。   私達人間は、その能力の多大さゆえに反省による改革無しでは進歩しないのです。   この様に、その時々の反省も重要ですが、その反省の中でも非常に辛い反省があります。   それが肉体の死後、この世を去った時に自分の人生の全てを反省させられる事です。   自分の生涯での善い事、悪い事の全てを目の前にさらけ出されて、大勢の観衆の中、 一つ一つ反省させられるのです。  これは本当に辛く、穴があったら入りたいくらいだと 思うほどです。  実際、生前に自己反省が出来ていない人は、こうして死後の世界で反省させられ、 全て反省したところで、総体的に反省点が多いほどマイナスの人生ということになります。   そうして、悪事や人道から外れた人生を見せられた人は、周りから非難の声を浴びせられます。   そして、恥ずかしさや自責の念が湧き、早く何処かへ隠れてしまいたいとか、先程の様に穴があったら 入りたい等と思っていると、本当に真っ暗な穴の中に落ちていってしまいます。   その中で、自責の念に苦しみながら何十、何百年も苦しんでいる人達がいるのです。   ですから、この世を去った時、一度に反省しなくて済む様に、出来るだけ生きている内に反省によって 心の汚れを取る習慣をつけた方がいいのです。  それが、自分の為であり、ひいては社会の為でも あるのです。  


-2003年11月18日-
今日は、守護霊様についてお話します。   人間には誰にでも守護霊という霊人がついています。   この守護霊は、地上界に生きて人生修業をしている人間を、何かにつけて 守っていくための役割をされています。  私達の住む地上界の足元には地獄界が存在し、 人間の悪しき心に吸い寄せられる様にとり憑いてきます。   また、この世の人間社会は善悪が入り乱れた世界ですから、人間一人の魂だけでは 悪霊や、この世のよくない波動を受けた時には、よほど自分自身の魂が鍛えられて いないと、すぐに悪の誘いに乗ってしまいます。  ですから、この様な事にならない為にも 一人一人に守護霊がつくという事が、霊界の法則で決まっているのです。  しかし、中には ハッキリ言ってあまり活動していない守護霊もいます。  自分の与えられた役割を果たしていない ため、霊に憑かれて私の所へ相談に来られる人もいます。  この様に、守護霊も完全ではないと いう事です。  ですから、立派な神の守護霊も居れば、ただ寝てるだけの守護霊もいるのです。   守護霊は、地上に生きる人間を正しい道に導く使命があります。  その為には、守護霊自身も 自分より上の世界に居る神様から指導を受けながら、より良い指導を人間に伝える為に頑張っているのです。   また、人間が正しい信仰心を持ち、神理を勉強しだしたりすると、守護霊も人間と一緒になって 勉強しているのです。  守護霊も年代的に昔の霊人なので、今の時代の様に様々な神理の文献が 無かったので、出来る事なら守護霊も勉強したいのです。  そうすると、自分の守護霊も霊的 知識が増し、指導も一段と良いものが出来るようになるのです。  その指導を受けた人間も、 立派な人物に成長していく事が出来るようになります。  これが、人間と守護霊の関係です。    


-2003年11月15日-
今日は、「気」の使い方の上級編です。   前回で「気」のつくり方をお話しましたが、その「気」を練るのを中級としますと、 今回の上級編は「気」を「光」に変える事です。   自分の中で気を起こし、その気を、おへその裏から胸の中央辺り(心臓の高さ位)に もっていきます。  そして、気の塊にしたところで、更に気を送り込みます。   この時に、イメージとして気の塊に太陽の様な輝きを持つことです。   そうして、気を光の塊に変えていきます。  霊界は念の世界ですから、想い(念)は 即、具象化します。  この霊界法則を自分の宇宙観の中で使うのです。   この世的な考えが頭の中から離れない人は、この現象は決して起きません。   これが出来た人は、胸を中心として体内宇宙に光が放射線状に発散します。   慣れてくれば、この光を自分の幽体(魂を覆っている薄皮状のもの)を通り抜けて 体外へ放射出来ます。  (* 幽体から光を飛び出させる事は、鍛錬が必要になりますが 今回は、気のお話なので省かせていただきます。) また、体外に放出した光を悩める人にも 分けてあげる事で、その人の魂に愛と勇気と希望の光を与える事が出来るのです。   この行いは、神の使いの者やそれなりの霊的力を持ち合わせて いる人だけが出来るものです。  いくら、光のイメージが出来ても、それがイメージだけのものでは 意味がありません。  これは、悟った人はすごく良く解ると思いますが、超霊的な感覚なので 解らない人には解らないかもしれません。  ですから、上級編は自分なりに小さな悟りの一つでも 得られた人が体験できる「気」を越えた光の世界(神の世界)の出来事なのです。   「気」には、まだこの段階以上のものがあります。  ここまで(上級)は、頑張れば出来ない事は ない段階です。  この上は、神級下段〜神級上段まであります。  これは、神格をもつ者以外の 人に教えても多分、理解出来ないと思いますのでここまでで終わりにします。   


-2003年11月12日-
今日は、土地に関するお話です。   私は、車であちこちを走る機会が多いのですが、その時に、そこの土地の持つ 気を感じ取って、ここには住宅が適しているなとか、ここはこんな会社を建てれば 繁栄するなとか、この辺は土地の気が良くないので、この会社は伸びないな等という 事を思いながら運転しています。  また、ここはコンビニが建つと繁盛するなと 思っていると、本当にそこにコンビニが建って大繁盛していたりします。   これは、そこの土地の気がコンビニなどの業種に適しているからで、他の業種の店舗に なっていたら、繁盛しないはずです。  気が合わないのです。   あと、便利の良い土地でも、そこの土地の気が良くないと店や会社は繁盛しません。   そういう所は、灰色の気が会社や店の建物自体を覆ってしまって活気がありません。   案の定、数ヶ月で店舗をたたんでいたりします。  こんな感じで、土地を観ていたりします。   また、その地域の住民の意識感も解るので、ここに自分の家なんか建てたら面倒だろうなと いう事も感じます。  この様に、行く先々で土地の鑑定をしながら車の運転をしています。   ですから、ほんの数秒間の鑑定になります。  またあまり長く意識を集中していると、そこの 土地に棲む者達から何らかの影響を受けるので、長くはしない事にしています。   会社がうまくいかない時は、実際に行ってみると必ずと言っていいほど、一体や二体の 邪霊がいたり、地縛霊がいたりします。  そんな時は、一気に除霊します。   あと、土地の神様や長い間その土地に居る霊体などとも確り話し合い、互いの関係を認めて もらわなければ、良くない事が起こったりしますので、これも確りと話をつけます。   そうすると、正しい運営をしていれば数ヶ月で景気が良くなってきます。   こんな感じで、売り上げを10倍以上伸ばし、店舗も増やした会社もあります。   土地の持つ気は、よく確かめておかないと後々大変なんです。


-2003年11月9日-
今日は、宗教的信仰の自由と信仰心についてお話します。   私は、信仰心というものは本人の自由意志から生まれてくるものだと思います。   そして信仰は、決して誰彼から強制されるものでもないと思うのです。   何故なら信仰とは、神仏を対象にして、その大いなる存在を信じ、仰ぎ見て敬う事で あるからです。  ですから、本人の心の状態次第で、信じるか信じないかの選択が 入ります。  しかし、この時に注意しなければならない事は、本人の自由意志に関係なく宗教的な 事をやらされたり、神は信じないが、超能力や超常現象は興味があるので信じるなどしていると、心が 正しく神仏に向いていない為、悪霊や宗教霊や念力自慢の神等がやって来て、その人に指導を始めます。   悪霊や宗教霊(この場合の宗教霊は、生前何かの宗教をしていながら、慢心や自欲 等による邪心によって本道を踏み外し地獄に落ちた霊)は、修業中の人々に「自分は偉い神である」などと 耳打ちをしてきます。  そして修行者はそれを信じ、「自分は神と話しが出来るのだ、我は神の使いで ある」等と言う様になってきます。  そうして、周りの人々に自分の言う事を信じ、実行しなければ罰が 当たる等と言ってきたりするのです。  こうして、この霊は生前自分が果たせなかったり、 生前と同じ様な事を修行者にやらせて満足しているのです。  超能力信仰は、正しい信仰心からはずれた、念力自慢を目指す 信仰になります。  この様に、信仰は自由ではありますが、正しい信仰心を持って神仏に目を向けて いかなければ道を踏み外してしまうという事です。  ですから、本人の意識を正しく神の方向へ 向ける為に「信仰」という道を選ぶのは自由です。  誰かに強制されたから始めるのではなく、 他人の良い意見はよく聞いた上で、自分なりに結論付ければ良いのです。  これも、良き他人の誘いで あれば、天使や菩薩の誘いとなるのです。  そうして、自分一人では見つける事の出来なかった正しい 信仰による信仰心が芽生える事もあるのです。  正しい信仰心は、正しい自由意識(意志)のもとに 判断して下さい。  それが、自分の人生を良くも悪くもするのですから。  


-2003年11月6日-
今日は、心の思考の違いによる他力思考と自力思考についてお話します。   この二つは、宗教の世界でも分かれていたりするところが在りますが、どちらも 目指すものは神の意識や、神のもとに近づく事だと思います。   他力思考とは、他力信仰と同じで、神の威光や偉大な力にあやかる為に、それらの神や人物をただひたすら 崇拝していく場合です。  この時の思考は、自分より優れた人や霊的力を持った人などを 崇め、教祖様などとしてその人に助けてもらう事を主とした考えを持つ様な思考です。   この時に間違ってはいけないのが、偉人や神様を敬うのは良いのですが、そればかり 念じた結果、他人の能力ばかりあてにして、自分で努力する事を怠る場合がある事です。   自分の願いや助けてほしい事があっても、それに対して神にも祈り、また自分なりに努力していく中で 初めて「神からの助け」いわゆる「他力」が入って来るのです。  大いなる他力が必要であれば、神の力のみを 要求せず、願いは願いとして神に聞いてもらい、自分はそれに対して努力していく事が大事だと思います。   これが、良い意味での他力信仰だと思うのです。   これに対して自力思考、自力信仰は、自分の力のみを信じて突き進む。  また、神からの助けは要求せず、 自分の力で願いを叶えようとする心。  これは、良い意味にとれば、とても前向き思考ですが、他人の助言を聞かずに 走ってしまう事がよくあります。  自力思考の人は、他人と心を共有するところに欠けているので、 自分のみを信じ、自分の事を認めてくれる人、自分と同じ道を突っ走る人しか認めない事があります。  良い場合はいいのですが、間違って悪い事を良きものと信じて走ってしまった時にも、自力の自分を 信じている人は、誰の意見も聞かない事があるので過ちに気付く事が遅れがちになります。    自力、他力共に良い所はありますが、そればっかりに偏るとだめだという事です。   他力は自力の良い所を、自力は他力の良い所を共に見つめ合い、融合して人生を切り開いていこうと する心があってほしいと思います。   


-2003年11月3日-
今日は、何気ない日々の積み重ねによる人生の大切さについてお話します。   私達は、変化の無い毎日を、どうって事無い日々だと思って過ごしています。   そして、少しでも変化のある日が人生において重要な意味のあるものだと思っています。   人生には、困難や苦しみ、喜びや悲しみなどが、人間を立派に成長させる事もあります。   しかし、私はその様な変化に富んだ人生だけが、人間を立派に成長させる事だけではないと 思います。  何でもない日々、平坦な道のりの日々も、ある意味では人間を伸び伸びと 成長させる時期であると思うのです。  人間は、困難や悲しみの中においては、魂を鍛える事が 出来るかもしれませんが、そればかりでは本来の霊的で自由な魂の発展に支障が出てきます。   また、喜びばかりの人生ならば、これ以上の霊的発展は難しく、それは魂の停滞を意味します。   この様に、人間の一生において両極端な人生は、本来の魂の発展向上に無理な力が掛かって しまうのです。  私は、人生をこの様に考えた時、どうしても平凡であり、日記を書く時に困る様な 出来事しかない日々の重要さを必要とする時期が、魂的には必要であると思うのです。   人間には、時には平坦な道を歩く時期があるお蔭で、自分の個性をすくすくと伸ばしていく事が 出来るのです。  この平坦で平凡な道のりを、自分の定めた人生計画(魂修業)を積み上げて いく事が「精進」であり、この努力の期間が人生において非常に大切であると思うのです。   困難な時は、頑張ろうという気持ちを持ち努力していく中で魂は鍛えられます。   幸せな時は、この幸せを社会貢献(自己の能力の提供や、お金による物質的援助など)に役立てよう という様に、自分の幸せを周りに還元していく事で魂は輝きます。   そして、平凡な日々の中では、その環境にいる事に感謝し、自分の個性や才能を伸び伸びと発揮して いってほしいのです。  それが、何かの困難に出会った時、日々の精進のお蔭で心に余裕を 持って乗り切る事が出来るのです。  現代人は、この感謝の気持ちと、心の余裕が必要なのです。   この心の余裕は、愛を育て確認する時期には欠かせないものであり、人生においても必要なのです。   そうでなければ、天上界の純真で愛の塊の様な人達の仲間にはなれないのです。   何も障害の無い平凡な日々が、決してつまらない日々のような価値観に下げないでいてほしいと 思います。