ちょっと一言。
-2004年12月30日-
ちょっと一言をお読み下さっている皆様、今年も一年間お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
今日は、今年最後のお話で、前回の「愛」の教えに「勇気」と「智恵」を足した教えのお話しです。
この教えは、私がお祈りの最中に、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)から教えてもらった
「三柱の教え」です。 まあ、教えてもらったと言っても、丁寧に一から十まで
じっくりと教えて頂いた訳ではなく、私の心の中に、武尊からの太い張りのある声で、
「私の教えの専門は、「勇気」の教えであるが、その勇気も「愛」あってのものである。 だから、お前の教え
である「智恵」の教えを足して、「愛と勇気と智恵」の三柱の教えを説いてゆけ!」と仰いましたので、
それ以来、その「三柱の教え」も、私の教えの中に入れて、広く皆さんに説いています。
それでは簡単に、この教えを説いていきましょう。 まず、愛は前回のクリスマスで述べたとおり、
優しく温かな心、人や自然、またその中で生きる生き物等を慈しむ心、そんな尊き心が人間にあるのも、
愛があるからなのです。 そしてこの愛は、全ての人間の魂に織り込まれており、他人を愛する、
社会を愛する、自然を愛する等、愛は人と人、人と社会、人と自然との調和など、全ての法則の基となり
ます。 この愛の想いがあるからこそ、人間は平和を望み、幸福を望むのです。 誰に教えられなくても、
自然とこの想いは、魂の奥底から湧き出て来るものなのです。 次の「勇気」は、日本武尊の教えで
ある勇気の教えです。 この勇気は、愛する者を護うとする勇気、家族を護っていく勇気、社会の中
でたくましく生きる勇気、困難に出会っても負けない勇気、辛くても自分の進む道を歩き続ける勇気など、
色んな勇気があります。
特に男性は、いざという時に愛する者を護る勇気、困難に負けずに進む勇気を、心の底から湧き上がらせ
て対処していく事が必要になってきます。 また、社会の中で、たとえ困難な立場になった時でも、
人生において進退窮まった時でも、この勇気を心の底から出して、自分の進むべき道を勇敢に切り開いて
行かねばなりません。 日本武尊が東征の際、草原で敵に囲まれ焼き討ちにあった時、迫り来る火を
防ぐために「天群雲の剣」を抜いて、周りの草を薙ぎ倒し薙ぎ倒した時に、一陣の風が吹いて火は敵の
方へ燃え広がり、窮地を脱したと言われています。 この様に、絶体絶命だと感じられる時でも、
日本武尊の勇気を思い出して、出来る限りの事を実行してほしいのです。 その時に神風が吹き、
あなたの勇気を、希望の光で包んでくれる時が来るでしょう。 どうぞ、自分に負けない勇気を持って
下さい。 次は「智恵」です。 最初に愛の想いがあり、その愛の想いは勇気を呼び起こします。
その時、実際にそれを実行する際に、この「智恵」が無ければ、せっかくの行為が上手く行かない場合が
あるのです。 智恵は、人生の中での様々な学びの中で得た知識に、実際の経験を積み重ねて
得たものが智恵です。 この智恵を駆使して、色んな危機を脱したり、また他人に真理の話をする
時にでも、この智恵が無ければ、他人に理解してもらう事も困難になります。
結局、他人の為や社会の為にと思い努力する中でも、自分なりに智恵を使って行かなければ大成は
困難です。 智恵が無ければ、同じ失敗を何度も繰り返す事になります。 それは、経験で得た
様々な智恵を使っていないという事で、「無明」とも言います。 無明は、明かりが無いと書きます。
それは、人生を歩む道において、明かりを点けずに暗闇の中を進んでいく様なものです。 その様な
、愚かなことの無い様に、智恵を使って自分の道を明るく照らして進んで行って下さい。
これが、私の「三柱の教え」です。 それでは皆様、良いお年をお迎え下さいね (^_-)-☆
-2004年12月24日-
今日は、クリスマス・イブという事で、クリスマスに係わる「愛」について、お話をしたいと思います。
クリスマスの時期に近付いてくると、何故か心がワクワクしてきますね。
何だか分からないけど、楽しくなってきたり、人が恋しくなったり、恋人はもとより、家族や友人との
関係も、今よりもっと良いものにしたくなったりすると思います。
そこには、人間関係の改善や、愛しい者を、素直に愛しく思える心を育むものがあるのです。
それは、イエス様の教えである「愛の教え」が働いているからです。
この人間としての基本である「愛」は、人を愛し、人を育て、人間関係の調和をはかるものです。
愛は、全ての基であり、希望の光であり、勇気でもあります。 人間は皆、神の性質を宿しています。
神は、愛の光の根源です。 神から生まれた人間の魂は、「神の子」であり、言い換えれば、「神の愛」
から生まれた「愛の子」であるのです。 魂に愛の気質を持つ愛の子が、愛を共有し合うんですね。
それらの勢いが、このクリスマスの時期になると、人々の胸の中に湧き出てくるんですね。
この様な愛の想いは、別にキリスト教的なものだけではなく、人間が本来、魂に持っている性質を、
国民的な祝祭とした中で、それが一種の呼び水の様な役割として、自然に思い出されて来るように
なるんです。 それが今は、世界的にクリスマスという形で受け継がれて来ているんですね。
だからこの時期、今までより心がウキウキしてくるのも、急に人恋しくなるのも、愛しい人を
精一杯愛したくなるのも、人の心、人の魂に刻印された「愛」の働きが活発になるからなんです。
人は、愛で心を一杯に満たす事は出来なくても、心に愛の光を灯し続ける事で、この世は素晴らしい
世界になるはずです。 クリスマスの時期でなくても、変わらず人を愛し、人を慈しむ心を長く
持っていて欲しいと思います。 クリスマスの時期が過ぎて、町にクリスマスの光が消えても、
人間の心の中に、クリスマスの光が消えない様にしましょう。 恋人を、変わらぬ愛で包んであげ
ましょう。 家族を、大事に思う心を持ち続けましょう。 人には笑顔で話しかけましょう。
心に愛の光の灯る人は、他人に対して優しくなれます。 そして、愛の教えのもとに、世の中に
調和の光を灯しましょう。 そして、世界中が愛の光で包まれますように。。
-2004年12月20日-
今日は、我が家から車で30分程の所にある西国札所の「三井寺」へ
行ってきました。 今日は、両親とのお参りではなく、お二人の相談者さんとご一緒でした。
門を入る前に、仁王様にご挨拶をすると、「今日は、よく参られたのー!そこのお二人(相談者の方)も、
しっかりお頼みしてこいよ!」と仰いました。 それから、門をくぐった直ぐ横に、
お釈迦様がまつられてあるお堂があり、ここでもお釈迦様に「しっかり参られよ」と、優しくお声を掛け
てくださいました。 それらの事を、お二人に言うと、「えぇー!」っていう感じでした。
まあ、誰でも最初はそう言われますね。 それが普通ですもんね。 それから少し坂道を上がり、
階段を少し上ると金堂です。 ここでは、お堂の裏側の通路に色んな仏様(不動明王様・大日如来様・
阿弥陀如来様・観音様など)が安置されています。 ここで、お供のお二人が、ちょっと重たいもの
(不成仏霊)に乗っかられたようで、頭が痛く、肩が重くなったと言うので、もう少し行った観音様を
おまつりしているお堂で、観音様にとって貰う事にしました。 お堂の前に着くと、「本日は、特別に
お厨子を開いています」という様な内容の立て札がありました。 えぇー!っと思って、お堂の奥を
見ると、普段は閉まっているはずの厨子が開いています。 私は、何回かここもお参りに来ましたが、
お厨子が開いているのは、初めて見た様な気がします。 あれ〜っ?もしかして、前に一回見たかも?
でも、記憶に定かに残ってない位ですから、珍しいんでしょうね。 何せ、「特別に〜」って書いて
ありましたからね。 だから、一緒に来た二人に、「今日は、お厨子の中の観音様が見れるらしいよ!
これから中に入って、憑いているものを取ってもらおうね」と言ってお堂の中に入りました。
ここの観音様は、十一面観音様で、色んな願いを叶えてくれます。
私達三人は、観音様の前に並んで座って、一緒に来た二人の憑きものを取って下さいます様、お頼みしま
した。 すると数分で、お厨子の中の観音様から、煙の様な光がブワーッと私の横に座っている二人に
覆い被さりました。 そして、頭や背中辺りで、その煙の様な光が動いていたかと思うと、今度は、
スーッとまた観音様の方へ戻って行きました。 それを確認して、私が隣に座っている二人に、
「どう、楽になった?」と聞くと、「ハイ!体が軽くなりました! 頭も痛くないです。 あっ、肩も
軽くなってる」と言ってビックリしてました。 それから、皆で観音様にお礼を述べて、お堂を後にしました。
それから、坂道や階段を上りましたが、足がとても軽くて、上がりの階段が、平坦な道を歩いている位に
感じました。 一緒に来た二人も、「何故か、膝がスイスイと上がってくれるので、階段を上っている
感じがしない」と言ってました。 私がお参りに行くと、こんな事は珍しい現象ではありませんが、
一般の人には、とても珍しく、信じ難い現象だと思いますが、本人達が実際に体験してみると、本当に
よく分かってもらえます。 今日は、三井寺へお参りした時の出来事でした。
-2004年12月13日-
今日は、もし自分が霊に憑かれていた場合の症状についてお話します。
霊に憑かれると、頭が感覚的に重く感じられるようになり、それにつられて
後頭部や後ろの首筋も痛くなったり、重く感じたりしてきます。
それから、目の視界もスッキリせず、何か薄い膜が掛かった様な見え方になります。
耳の方も、肝心な事が聞き取りにくくなったりしてきます。
また、物事の考え方も、悪い方へ考えが向いていく事が多くなり、自分だけ報われない気持ちとか、
疎外感を味わう様な気持ちになったり、何故か直ぐに怒ってしまい、後でハッと気付くなどあります。
肩も、肩こりとはまたちょっと違う痛みや、重さ、ダルさがあります。
背中も、ズシンと重く感じられ、痛みを伴う時があります。
腰も同様に、下半身がすごく重く感じられます。 そして、すぐに疲れてしまいます。
身体的疲労が、なかなか取れにくくもなってきます。
内臓も、病院での検査は何の異常も無くても調子が悪く、何時も気分がすぐれません。
これら、大まかに書き並べましたが、こんな症状に心当たりがあって、お医者さんの薬も効かないと
思っているなら、霊的なものの影響で、その様になっていると考えた方が良いと思います。
私の所に来られる人達は、何年、何十年と医者通いしても治らず、お薬漬けになっている人も多く、その
原因は大抵、霊的な影響です。 ですから、きちんとした対処をすれば、今まで永年の苦悩から
開放されるのです。 この世には、医療では治し切れないものがあるという事も、知っておいて
損は無いと思います。 実際に、それで快方へ向かって新しい人生を送っている人が居るんですからね。
簡単な対策としては、自分の心にも、霊に憑かれる様な要素が有るという事も気付く必要があります。
霊は街中にも沢山居ますので、自分と同じ様な悩みや心の状態を持つ霊に、不幸にも出遭ったりすると、
霊の方が同じ悩みを持つ者としての仲間意識を持ちますので、憑かれてしまうんです。
頼られるんですね。 それで、おかしいなと思って、あぁ〜これは霊のせいだなという事で、
お部屋の中でお線香やローソクなんか点けたりすると、霊が「この人は、供養をしてくれる人だ」と
思ってしまい、長く身体や住まいにまで居座る事になります。 先祖以外の見ず知らずの霊には、
その様な供養の真似事はしない様にして下さい。 もし出先や、それなりの場所で、肩や背中や
腰などが、ズン!と重くなったように感じたら、それは霊が乗っかったという事も考えられます。
こんな時は、自分に頼って来ても何もしてあげられないから、早く何処かへ行きなさい!と心で
念じて、重く感じた所をポンポンと手で叩いて、何処かへ飛んで行くイメージを持って持って下さい。
これは、日数が経つほど効き目が薄れて来るので、気付いたら出来るだけ早く行って下さい。
これをするだけで、霊の方は、「気付かれた!」と思い、おまけに、力になれないと聞かされ、
手で叩かれると、それじゃあ別の人へという事になって、離れて行くんです。 これが、憑いた人から
離れる時の霊の気持ちです。 でも、霊に憑かれないには、あまりクヨクヨと長く悩まない事、
気持を前向きに切り替える事です。 霊は、常に不満や後悔や恨み等、後ろ向きの考えですからね。
霊と、気持を同調させない事、これが基本です。
-2004年12月7日-
今日は、霊界の次元でも如来界のお話になります。
この世界を表現するなら、雲の上と言うよりも、空の上と言う方が当たっている様な感じです。
空の上と言うのは、地球圏内から宇宙を望むという感じになるという事でしょうかね。
それは、地球上に偉大な真理の教えを説くため、または、様々な地上文明の発展を指導するために、
力を発揮している世界です。 また、その世界の偉大な霊人達は、宗教の創始者や、思想家、偉大な
芸術家、大発明家や科学者など、様々な面で、人類史上に燦然と輝く偉人達であります。
それらの人物が、如来界から文明の興隆期や、時代の端境期等の世に出た時、如来界からの指導と自身の
努力により、精神思想や宗教の面、科学や芸術文化などの発展の面で、大きな力を発揮するのです。
それが、如来界からこの世に生まれた(現れた)という意味であり、使命であります。
この様な偉人の霊人達が、如来界にはおられます。 そして皆、大きな光の塊で輝いておられます。
そして、国家規模や人類的な規模、それから地球的な規模までの指導を行うのが役割です。
ただ、全ての偉人達の霊人が、その様な地上世界に影響する役割を果たしている訳ではなく、霊界での
秩序、法体系に係わる仕事もしていますし、さらに上段階から降りてくるエネルギーの繋ぎ役や分配役もして
います。 如来界にも、さらに上の世界から、様々な霊的エネルギーが供給されて来ているのです。
それを、梵天界以降、菩薩界などの世界へ振り分けをしながら降ろしていくという事も、仕事の内です。
(菩薩界以降は、菩薩達がその仕事を受け持ち、その下の世界へとエネルギーを流していきます)
それが、光の生命エネルギーの様に霊界を上から下へと河の様に流れて行ってます。
根本神から流れ出る宇宙の大きなエネルギーを、地球霊界の偉大な神が受けるには、それなりの意識体の
器が必要になり、そこから流れ出るエネルギーを、さらに細かく下の世界へと流していく。 そういう
意識体の器を磨き、大きくしていく事が修行であり、その意識体の器の段階ごとが、次元格差という事で
もあります。 次元の段階は、各霊人の認識度(悟りの階梯)や、意識体の器の大きさに比例します。
(指導方法や、その他の例外はあります) また、如来界は霊界全体の法体系も管理している世界でも
あります。 如来界は、その様な大きな役割も果たしている世界であるという事です。
この世界での偉人達との会話は、今の社会や宗教で教わっている教えが出た以前の意味合いを教わる様な
もので、教えの根源の様なものです。 それが、偉人達の気持ちと一緒に流れ込んで来ますので、
心の器を磨き、大きくしておかないと、全部入り切らないので十分に理解し難い時があります。
これ以上の世界もありますが、霊界探検はこれ位で終了とさせて頂きます。 次回は、また別の話題と
いう事に致しましょう。
-2004年12月1日-
今日は、先月からの続き「梵天界」以降のお話になってきます。
私は、太陽の様なものが輝き、足元に雲が浮かんでいるだけの空間に、静止した様に浮かんでいました。
それは丁度、飛行機に乗って雲の上を飛んでいる時、機内の窓から見る眺めに
似ています。 空は真っ青で、頭上には太陽だけが照りつけていて、足元には雲のじゅうたんが
あるだけの世界です。 私は以前、初めて飛行機に乗った時、この世的にも空高く上って行けば、霊界
によく似た風景が出てくるんだなぁ〜と妙に感心した事を思い出しながら、ただ周りを眺めていました。
この世界は、もう殆どこの世的な生活様式に囚われない人達の世界ですから、この世的な
執着は残っていません。 だから、立派な建物も無いし、素晴らしい景色も無いです。
私達が素晴らしい景色だと思っているのは、この世的な素晴らしさであり、高次元霊界でいう素晴らしさとは
少し違います。 霊界は、「空」の世界でありますから、何も無い訳ではなく、様々なエネルギーが
一杯詰まった、エネルギー空間です。 ですから、景色を出すのも、物体を出すのも全て念の作用で
行います。 だから、もしこの次元を見学に来たお客さんがあれば、御もてなし様に地上の景色を数倍
素晴らしいものにして見せてくれると思います。 それらは、みな光り輝き、まるで宝石で出来ている
様に感じられるでしょう。 そして色彩も、この世では表現出来ないと思われる様な色彩です。
それは、色が有って無い様な色彩です。 例えば、ダイヤモンドを見ると、それ自体は透き通った石に
見えますが、カットの仕方で様々な面に光が反射して、七色の光に微妙に変化して見えるのに少し似ています。
でも少し違うところは、光の反射で色が変わるのではなく、そのもの自体が自由に色彩を変えていくという事です。
それが、もし建物の柱なら、柱自体が自分の意志で様々な色の光を放ちながら、建物自体を明るく照らしている
状態です。 また、その柱に近付くと、今まで光を押さえ気味にしていたのか、急に明るく輝き出し
ながら、人によって違う色の光を放ち始めます。 それは、まるで来る人の好みの色を知っているかの
ようで、歓迎の意味を示してくれているかのようです。 自分の歩く所、すれ違う様々な物自体が、
明るく輝きます。 輝く光の玉で、誰だか分からないなと思った瞬間に、スゥーっと人の形になってく
れます。 皆、軽く微笑んでいて、私が真理についての事を話すと、その人達の身体から光がパァーッ
と出て、また光の玉に戻りそうになります。 ここでは、光の玉の意識状態が、本来の姿である為に、
気を入れて話を聞くという状態になると、本来の光の姿に戻るみたいです。 そして、光った分だけ
周りにはエネルギーが満ちています。 何故なら、ここは光の世界であり、生命のエネルギーが満ち溢
れている世界だからです。 この様な世界が、梵天界以降の世界という事になります。