神霊による人生相談

ょっ言。

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-2003年9月28日-
今日は、ちょっと話題を変えて最近の西岡学校の子供達のお話をします。   西岡学校の子供達の中で、一番小さな女の子は最近5歳に成長しました。   この子の性格は明るく、ちょっとカンシャクもちのところがありますが、素直であり、 近頃は色々と家のお手伝いをしてくれます。   これが、魂の目覚めとでも言いましょうか、   自分なりに私や、私の家族達に対して、これまで自分にしてくれた事の感謝の気持ちを 「お手伝いや、お世話をする」というかたちで表現しているのです。   この世とあの世との存在の違いだけで、一人の子供の成長を見ているのと同じです。   また、魂的に成長してきますと、この世の子供達と同様に色々なものに興味を持ってきます。   最近は、西岡学校の裏山で栗拾いやブドウ狩りや梨狩りなんかをしてきたようです。   これも、私が栗の木や梨の木なんかを、念の力で霊的につくり上げたものです。   この子達は、まだ幼い内に亡くなっているので、栗の木も、イガイガの中に入っている栗の実も 知りません。  ですから、私が心で念じた物(今回は栗など)を、西岡学校の近くに自然な形で つくり上げていくというかたちです。  この作業は、霊界に及ぼす念の力がある程度強くなければ 形にならないか、直ぐに消えてしまいます。  これら果実の木は、私の念が続く限り成長し続け、 果実は実り続けます。  そうして、こちらの季節が変わる頃になると、私の念も次の季節のものを 出す用意に入るので、それまでのものは一旦休止状態になります。  こうして、一旦念の力で出したものは、 次に使う時になると、また初めから出さなくても直ぐに使える状態にする事が出来ます。   子供達がとって来た、梨や栗やブドウと同じ物を、こちらでも買ってお供えした後に食べてみると、すっごく 甘く美味しくなっています。  霊界のものは感謝の念や愛情が一杯詰まっているので、この世の物より 格段に美味しいのです。  今回は子供達からの、おすそ分けという事で、その要素がお供えの果物に影響 しているのです。  そして、私がブドウを食べていると、「ちぇんちぇ〜!私がとってきた ブドウは美味しいでしょー!」と、すごく得意そうに言ってきます。  私が、「すごく美味しいよー。 ありがとねー!」と言うと、満面の笑みを浮かべて嬉しそうにします。  人の役に立つ、又は人に 喜んでもらうという事が、この子達の幸せの基準になっています。  


-2003年9月25日-
今日も「心」のお話の続きです。   「心」を常に良い状態にしておくには、日々の自己反省と、それによる自己改革が必要に なってきます。  自分の、今日一日の出来事に対して、自分の思いはどうであったか。   他人に対して、自分の思いや行動、言葉遣いは適切であったか。   他人に、嫌な思いをさせていなかったか。  今日の日というものを振り返った時、神様に 対して自分の言動は、胸を張って言えるのかどうか。  この様な事を考えた時、今日の反省を 糧にして、明日への自分の発展に活かしていけば良いのです。   全部の悪い所を直す事が出来なくても、自分の出来る範囲で少しでもいいから修正していけば いいのです。  その積み重ねが「精進」というものであり、「心の修業」であるのです。   この様に、自己の心の点検というものは、日々の生活の中でも出来ることであり、その思いが 発展していって瞑想であるとか、神理探求などの、本格的な修業への道へ進んでいく事になるのです。   歴史上の偉人と言われる人達も、最初はそういったところ、基礎の部分から徐々に発展していって 「偉人」と言われる人物になっていったのです。  全ては基礎があり、努力と精進によって 、達成という結果があるのです。  物事には、基礎や努力抜きには「成果」という 自己の発展はないのです。  私の所にも、努力しないで神の力で金持ちになりませんか?   この様な事を考えて頼みに来られる人もいますが、実際にその様な事は神理に反する事なので、 「出来ません」と言います。  そして、その人に対して必要な神理の話をします。   そうすると、今までの自分の考えが間違っていた事に気付かれ、恥ずかしそうにしながら徐々に 反省されていかれます。  そうして、正しい基準の目標が出来ると、それに向かって努力されて いかれます。  実際、その人は「心」と同様に経済力の面でも発展し続けておられます。   この様に、今までの心の状態を見直し正していく事で、自己の思いを達成させる事が出来るのです。    


-2003年9月21日-
今日は、「心」の重要性についてお話します。   人間には、皆それぞれに「心」があります。  心は人間の精神を司るところであり、霊的な意味で 非常に霊界との関係が深いところであります。  何故なら、人間には心と同様に「魂」があり、その 魂は自分と同じ様な形をとったものが、肉体の中に入っているのです。  そして、その中に心が あるのです。  また、人間を霊的構成でいうと、まず肉体としての「体」があり、その中に「魂」 があり、その中心に「心」があるのです。  ですから、心とは魂にも影響を与え、肉体人間として 生活している自分自身にも影響を与えるものです。  言い換えれば、深層意識から表層意識まで 「心」というものは全てに於いて、その人自身に影響を与えるものであるという事です。   この為、人は心の持ち様によって、自分の人生を変えていく事が出来るのです。   日々の生活の中で、心がすさんでくるような状態を続けていると、次第に心の状態も悪くなり、 物事の思想や考えが良くない方へ傾いてきます。  そうすると、心が今まで良い波動を出していたのが、 段々悪い波動を出してきて、それが自分の行動や言葉に表れてきます。  こうなると、他人から見ても、 あの人は態度が悪い人だとか、いつも他人の悪口ばかり言う人だとか言われるようになってきます。   それが本人の耳に入って、また他人を攻撃したりします。  こうして皆との調和を乱し、心が悪に染まった人は、どこかで 改心していかなければ、死後の世界は地獄行きという事になってしまいます。   あの世(霊界)は、生きていた時の心の状態に見合った場所に行かされるので、生前の心の状態がとても重要に なってくるのです。  ですから、人間は「心」という存在を、もう一度見つめ直して考えるべきなのです。   そうすれば、「人間はこの世限りだから生きている内に好きな事をすれば良い。」と、自分勝手な想いで 他人に迷惑を掛けてばかりいると、死んでからは地獄だったという事があるのです。   私の所に、霊障害(悪霊の憑依)によって相談に来られる方には、先の文に書いた様なものが原因で、 地獄で苦しむ霊が、すがって憑いている事が多いです。  心の反省は、死んでからでは遅いのです。   次回も「心」についてのお話です。


-2003年9月18日-
今日は、仏教でいう「空」の思想について、私なりに簡単にお話します。   「空」とは、漢字で「から」と書きますが、決して何も無い、空っぽという意味ではありません。   「空」とは、何も無いどころか、神の意識エネルギーが一杯詰まった場所なんです。   この神のエネルギーは、一粒一粒が素粒子よりも小さな光の粒の様なものです。   ですから「空」というものを霊的な目で見ると、空間自体が無数の光の粒で埋め尽くされた様に 見えます。  その「空」なる場所より私たちの魂は生まれて来たのです。  それは、神の念によって 人間の魂を形成させるべく意識の下、光の粒が集まって凝縮していき、一人の人間の魂を形成していくの です。  全てのものの魂は「空」という神のエネルギー空間より誕生しています。  「空」は魂の 故郷であり、現世は魂の一時的な修業の場なのです。  現世で、わずか数十年間、肉体を魂にまとった 生活を経て、また生まれ故郷である「空」(あの世と同じ霊的空間)へと還っていくのです。   例えば、私たちが呼吸する大気中には空気があり、その中には酸素をはじめとした色んな元素が浮んでいます。   この見た目に何も無い空間から、雨という目に見えるものが降ったりします。  そして、雨は水となって地面に落ちて乾けば、 蒸発して元の大気中へと還元されます。  また、人間という肉体を「氷」に例えると、溶けた状態が 肉体の死であり、蒸発して気体となったものが「魂」です。  そして、大気という「空」にかえります。   これら水や氷は、水素と酸素というものが組み合わさって出来たものであり、大気中にかえる時は、それまで くっ付いていたのが、ばらばらに分かれます。  そして、それぞれの状態で、ちゃんと存在しているのです。   この様に、目には見えないが「空」という魂の故郷があり、そこから来たものはまた「空」へと還って行く のです。  「色即是空・空即是色」という有名な言葉があります。  色(肉体など、この世のもの)は、 空(全てを生み出す神のエネルギー磁場)に異ならず。  この世のもの「色」は、「空」より出てきたので、 結局は「空」と同じである。  「空」から出て「色」になり、また「空」に還る。  よって、「色」は「空」なり・ 「空」は「色」なり。という思想が出来たのです。  これは、転生輪廻の思想にも関係してきます。 今日は、欲張って色々書いてしまいました。    


-2003年9月15日-
今日は、私の所で取り扱っている、数珠の腕輪について説明してほしいというリクエストが ありましたので、数珠の「念入り腕輪」についてお話します。   この腕輪には、自己の性格の悪い面を矯正させ、良い面を伸ばしていく作用があります。   また、日々の暮らしの中で降り掛かる災難を除去する作用もありますので、病気や怪我といった 災難から身を守る事が出来ます。  中でも、やはり一番は、自己の願いを叶える手助けをする力 が入れられている事です。  これは、私の所に来られた相談者の人が、自分の心を見直し、 新たな気持ちでこれからの人生を進んでいく為に必要な力を、念として腕輪の中にお入れしたものです。   ですから、開運や厄除け、病気平癒や人間関係の改善など、人によって込める念が違います。   また、強い気運が必要になるので、私の所では不動明王のお力の念を腕輪にお入れします。   特に霊障害に悩む人には、不動明王の力はとても頼りになります。  悪霊に憑かれにくくなり、結果として 霊障害に悩む事が無くなります。  霊に憑かれやすい人は、人がよく、面倒見が良かったり、自己の念が 弱い人が多いので、不動明王のお力を入れる事が多いです。  その為、腕輪の玉の数は、不動明王のお祭日 である28日の数を取って、28個としています。  そうして、月に一度の28日の不動様の月祭りの日 くらいは不動様に対して、感謝の念を持って頂きたいのです。  また、水晶をベースにして各自に合った 石を3箇所に配置します。  水晶は、浄化作用があり、付けた人の気をきれいに浄化し整えてくれます。   3箇所に配置する自然石は、その人の能力を引き出したり、願いを叶えやすい石にします。   この自然石は、ある程度は各自の好みの色を選択出来ます。  水晶や石の大きさも、各自で自由に選択出来ます。   ですから、完全オーダーメイドになります。  あと、病気でお悩みの方には、薬師如来のお力の念を 入れたりします。  この様に、人それぞれ腕輪にお入れする、神の念が違うという事です。    これら神様の念は、私を指導して下さる指導霊団の神様達であります。  この神の力を、お分けして 皆様に提供しているものが、「念入り腕輪」なのです。


-2003年9月12日-
今日は、竜宮の魚達が海面に上がってきたところからのお話です。   私が「この海に住むモノ全てに幸あれ」と願って光を放った念を受けて、竜宮の魚達が 私に親愛の念を持って、自ら進んで海面に上がってきてくれたのです。   それまで、日の光を浴びてキラキラ光っていた海面の代わりに、色とりどりの魚達の背がそれぞれに 輝き出し、また違った幻想的な風景が目の前に広がっています。   それは、水平線の彼方まで続き、竜宮とはこんなにも多く魚達が棲んでいるのかと思わせるほどでした。   そして、私を見た魚達は、各自にお礼と感謝の念を私に向けて送ってきてくれました。   私は、海一面に浮ぶ魚達全てに向かって、わざわざ海面まで上がって来てくれた事や、私の想いに共感 してくれた事などに対して、感謝の念を送りました。  そうして、私と竜宮に暮らす全てのもの達との間に、 魂の信頼関係が出来上がりました。  竜宮の魚達は、しばらく波間に浮んで、揺られながら私を見つめておりましたが、 徐々に海の中に消えていきました。  そうして、全ての魚達が波間に消えた後、竜宮の乙姫様と呼ばれる方が、 「今日は、私どものお魚達に、大変良い物をお与え頂きまして有難うございます。 これからも、何時でも お越し下さいませ。」と、私に感謝の念と、これから竜宮界の往来を許可する事を認める念を送って頂きました。   私は、大変嬉しく思い、「また、何かの勉強の折には、ここへ寄せていただきたいと思います。 本日は、 皆様、どうも有難うございました。」とお礼の念を送りました。  霊界の通信は、全て念で行われます。   口で言葉を話すような事は殆どしません。  通信速度があまりにも遅いからです。  言葉を念として 送る時に、ビジョンも同時に送ります。  テレビの様な感じの映像と音声を会話でする様なものです。   それも、一瞬で相手の言いたい事や想いが伝わります。  感度を上げれば、これからしようとする事や、 次に言うであろう事まで読み取れます。  霊格が高まるとこんな事まで普通に出来るのです。   白菊様は、「竜宮の魚をいっぺんに釣ってしもうたの〜。 こんな釣り方をする奴は初めてじゃ。」 今日は、ほんに良いものを見せてもろうたわい。 ほっほっほー。」と言って笑っていました。   これで、白菊様と私の釣りは終わり、元の世界へ帰りました。  この数日間のお話は、毎朝のお礼の 時間の中の、約10分程の出来事です。      


-2003年9月9日-
今日も前回に続き、念の力で竜宮の海の世界を見たところからお話します。   「どうじゃ〜。よく見えたかのぅ〜? いろんな魚がおるじゃろ〜。」と、白菊様は私の横で そう言いました。  「お前は、どんな魚が釣りたいのかのぅ〜。 大きなやつか?」どんどん 白菊様は聞いてきます。  私は、大きなやつがいいな〜と思っていますと、「ただ、釣ろうと思う だけでは釣れんかもよ。 向こう(魚)も、だてに竜宮に住んどる魚じゃないからのぅ〜。」と言われました。   えっ? この前(川釣り)の時は、釣ろうと思って釣ったけど、今回は違うのかな? あれは、お供えの 魚(この時は、鮎でした)だから釣れたのかな?と、色々思い考えていました。   「ほっほっほっ。さぁ〜て、どうするかのぅ〜。」 白菊様は、私の顔を覗き込んで、私が次に 一体どうするのかを、楽しそうに待っているようでした。  私は、軽く深呼吸して念を更に集中させ、 釣り糸に付けた光の玉を光らせました。  そして、その玉から幸せの念の光を、竜宮の海中に行き渡らせました。   その時、竜宮の海の世界が明るい光で照らされました。  その幸せの光は、極小さな光の粒であり、それが 海中にばら撒かれたので、海の中全体が光ったように見えたのです。  私は、その小さな光の粒の一つ一つに、 私は、あなた方(魚達)を釣ってどうしょうという気は無い。 しかし、この光を持つ者全てに幸あれ!  私に釣られるもの、そうでない者に係わり無く、全ての者に幸あれ! と心の中で叫びました。   すると、一匹の5〜6mもある様な「飛び魚」が、海の中からジャンプして私の目の前に飛んで来ました。   「おおー! 釣れたのぅー!」と、白菊様が大きな声を出して叫びました。   そして、次の瞬間、私は竜宮のキラキラ光る大海原全体に浮かび上がってきた、魚の大群が視界に入りました。   それは、竜宮に住む魚達が、進んで私に釣られようとして、海面まで上がって来てくれたのです。   今日は、この辺で終わりにします。  次回で、この竜宮での釣りの話は最終回です。      


-2003年9月6日-
今日は、前回書きそびれた釣りエサの話から始めます。   私の手に釣竿は出てきましたが、糸の先に付けるエサがありません。   私は、エサはやっぱりミミズみたいなものを付けるのかなぁ〜。 あれ、気持ち悪くて 嫌いなんだけどな〜。と思っていると、「そんなもの付けないよ、竜宮の魚なんじゃからのぅ〜。」と 白菊様は言います。  じゃ〜、何付けるんだ〜?と思案していると、「ほれ!これじゃよ!これ。」 と白菊様は、私の目の前に、丁度、ビー球位の大きさの光る玉を釣り糸にぶら下げて、嬉しそうに ニコニコ笑っています。  えっ!そんなもので本当に魚が釣れるの? と思いましたが、ここは 竜宮という世界なので、これでいいんだ。と自分を納得させていますと、「ほっほっほっ」:白菊様は 何時でも私の心を先読みされて、私の考えている事や、これからしようとする行為などを楽しみながら、 それでいて、私が考えを誤らない様に気を使ってくれているのです。   「早よぅ、光の玉を出して糸に付けんかい。お前、その位出来るじゃろ。」  私は言われるまま、 念の力で糸に付いた光の玉を出しました。  「ほっほっ。そうそう。それでいいんじゃ。」と 白菊様は満足そうです。  こうして、やっと一通りの支度が終わり、前回の様な釣りが始まった訳です。   数分が経ち、釣れないなぁ〜と思い出し始めていると、「ただ、糸を垂らしとるだけじゃ釣れんぞよ。」 と白菊様が言われるので、私は、どうするのかと考えていると、数日前に白菊様と川釣りをした事を思い出しました。   その時に、白菊様に川の中の様子を、念の力によって見てみろと言われた事を思い出し、前回の川から 今回は海に変わっただけだから、きっと同じ様にするんだなという事に気付きました。   白菊様といると、いつも何かを教わります。  少しづつ実地経験させながら、心の念の使い方や、心による物事の 捉え方などを、楽しそうな様子で、私に気付かせる様に教えてくださいます。   これは、白菊様独特の教え方のようです。  そうして、私が念を集中させて海の中を覗いて見ると、 綺麗な魚が一杯泳いでいます。   さすが竜宮の魚だけあって、どれも皆輝く様な、色とりどりの身体を持った魚ばかりです。   今日は、これまでにします。  次回は、やっと魚を釣り上げる時のお話です。    


-2003年9月3日-
今日は、前月の続きで白菊様との魚釣りの話です。   高さ約10m程の海に突き出た岩場の上に、白菊様と並んだ私は、こんな高い所から釣り糸を 垂れるのかと思いながら、手に持った竿を見てびっくりしました。  それは、3m位の長さ しかない、ただの竹で出来た竿だったからです。  しかも、糸の長さも5〜6m程でしかありません。   こんなんじゃ海面まで届かないなぁ〜。  神様、ちょっとボケてんじゃないの? と、私は失礼な 事を思いながら、どうしたもんかなぁ〜と悩んでいると、「ふおっほっほっほー。」と白菊様特有の 笑い声の後、「海面まで届くと思えば届くのじゃ。」と言われ、「しかし、お前が届かんと思えば届かんがのう〜。」 と言って私を見てニヤリと笑いました。  私は、これでも霊界の法則を少しは知っていますので、 それじゃあ白菊様がびっくりする位遠くへ、釣り糸を投げてやろうと思って竿を力いっぱい振り下ろしました。   ビユッと竿が鳴って、5〜6mしかない筈の釣り糸が200〜300m位の沖合いでポチャッと音を立てました。   やった!と思って白菊様を見ると、うんうんとうなずいて満足そうでした。   私は、あっ、これでまた一つ白菊様に教えてもらったなと感じました。  私は、この様な実体験などを通して、 霊界の法則を、教わる事もあります。  そして、白菊様はこの様な教え方が得意なようです。   というより、私と楽しく時間を過ごしながら、あれこれと勉強させてくださるのです。   白菊様は、ご老人の姿をされており、穏やかでとてもやさしい神様です。  私は、失礼ながら白菊様を 「白菊じぃ〜じ」と呼んでおります。  ですから、最近は自分から、「白菊じぃ〜じ じゃぞ〜!」と 言って出て来られる時があります。  こんな感じで、じぃ〜じと私は仲良く釣り糸を垂れながら、 キラキラ輝く海を眺めておりました。  すいません。  話が長くなったので、魚が釣れる話は次回に させて頂きます。  それと、書きそびれた、釣りエサの事も次回にお話します。