ちょっと一言。
-2004年9月30日-
今日は、愛情を掛けられて亡くなった動物の死後の世界についてお話します。
皆さんは、自分達で飼っていたペットが亡くなった後、一体どの様な世界にいるのか?
まだ自分達の傍に居て、飼い主を見ているのかな? 等という疑問があると思います。
その辺の事を、私が以前飼っていた犬の、実際の死後の様子を例にとってお話します。
それは、私の飼い犬が死んで約一年位してから、今どうしてるんだろうな?と思って、
瞑想時に探ってみた事が始まりでした。 瞑想時、まず最初に見えたのは、緑の草原や花咲く小高い丘や山があり、
その間を細長い川が流れているという、とても美しい場所でした。 そこは、犬の霊界らしく、大型犬や
小型犬がそれぞれ何頭かの群れをつくって、各々が穏やかに過ごしているという感じでした。
私は、飼っていた犬がポメラニアンでしたので、小型犬の数頭の群れの中に、小さなポメラニアンを
見つけました。 何故か一目で、自分が飼っていた犬だと直感しました。 そして、当時の名前を
呼ぶと、以前と変わりなく、耳がピクッとしてから、こっちを振り向いて尻尾を振りながら、ワンワン!と
吠えています。 私は、久しぶりに愛犬の体を撫でてやりたくて、こっちへ来いと思うと、
犬の体が丸い光に包まれてフワッと浮き上がったかと思うと、スーッと私の元まで浮き上がって来ました。
あっ、そうそう。 その時、私の体(意識体)は、数十メートル上空に浮かんでいました。
その時、私も光に包まれたいたと思いますが、愛犬を包んでいた光と私を包んでいた光とが触れると、
私と愛犬を包む一つの大きな光の玉となりました。 そうして、その大きな光の中で生前と変わりなく抱きしめて
あげました。 愛犬の仕草は、生前と全く変わる事無く、無邪気に私を見つめて、私の顔をペロペロ
なめてくれました。 そうして、どの位か時間が経って、両方が満足したなと思っていると
(何故か、不思議とお互いの気持ちが解るんですよね) 愛犬は
二人を包む大きな光の玉から離れて、また元の大きさの光の玉に包まれて、スーッと私から離れて
元に居た場所へ降りて行きました。 そして、他の犬達と仲良くじゃれ合ったりしていました。
私も、結構満足したので、元の自分の意識に戻ろうとすると、犬達の姿がスーッと小さくなって
瞑想時の自分の意識に戻りました。 これが、犬の世界を見た最初の出来事でした。
次回は、動物の世界を護ったり、世話をしたりする観音様(見た目です)のお力添えで、
先とはまた違った愛犬との合わせ方をさせて頂いた事をお話します。 その後、愛犬は西岡学校で飼われる事に
なります。
-2004年9月24日-
今日は、「愛」という事についてお話しましょう。
私達は普段、あまり「愛」について考えたりする事は少ないと思います。
普通、「愛」を考える時、人間は誰かを好きであったり、誰かに愛されている事を感じ取って
いたりします。 愛するという心は、自我が出てきた時から出始める本能のようなものであり、
大事な心の働きであります。 また、人間以外にも、飼っているペットや草木などにも愛情を注ぐ事が
出来ます。 この愛情という愛は、人間同士の「愛する」という愛とは、また違った愛になります。
動植物に対する愛とは、霊的にも文明的にも高度に発展した人間という種族が、霊格的に低い動植物などに
対して、守ってあげたい、お世話してあげたい、成長の助けをしてあげたい等と、人間の様々な智恵を
活かしながら与え続ける、愛情という「愛」であります。 ただ、動物や自然が好きだから愛している
という事もあるでしょう。
それでもその意識の根底には、美しいものを守りたいとか、大事にしていきたいという様な心が働いていると
思います。 それが、人間誰しもが持つ「愛」であり、魂の心の本質であるのです。
愛は、その対象になるものを優しく包み込み、護り、癒し、そして育てます。
愛は、慈しみ育てる中に、指導する、教育する、という意味も含まれていると思います。
それは、ただ単に好きという段階から更に発展した、より高次元の愛の要素であります。
人が生まれ、心身ともに立派に育っていくには、親の愛が必要であり、その愛の中に人を育てるという
「教育の愛」があります。 この愛によって私達は、立派な人間に育てられ成長していく事が出来るの
です。 また、この教育の愛を超えた愛があります。 それは、私達人間を遥か昔より慈しみ、
護り、育ててくれる大きく偉大な愛の存在、それが「神」と呼ばれる存在であり、「神の愛」と
いうものです。 それは例えて言うなら、太陽の様に何時も休む事無く、気分によって輝きが変わる
事無く、日々変わらず輝き続けてくれる様な存在であります。 「神の愛」は、文句や悪口を言われ
ようと、別に減る事も無く、人間や動植物などという事に関係なく、地球上全てのものに平等に降り注いでいます。
愛は、霊的に高みにあるものから低きものへと流れるものであり、愛の流れは、緩やかな滝の様に上から
下へ流れて行きます。 そして愛の流れは、水が蒸発する様に下のものから上のものへと還元されてい
きます。 自分が愛情を持って飼っているペットの喜ぶ姿を見た時、心が癒される思いがあるでしょう。
また、自分の子である赤ちゃんが、あなたの顔を見てニコッと笑ってくれた時、全て許せる様な気持ちに
なったり、それまでの疲れが一時、癒される思いがあるでしょう。
この様に、愛は積極的に与えようと思わなくても、その存在自体が愛である事もあるのです。
愛を与え、育てるものに、愛を一杯貰っているのです。 人間が護っていると思っているものからでも、
愛を貰っているのです。 これら全てが、自然と愛の循環になっているのです。
神より出た愛は、地球上の全てに行き渡り、そしてまた神へと還っていきます。
私達は、何時でも何処でも、様々な愛に包まれて生きている事に感謝して生きていきましょう。
-2004年9月19日-
今日は、お墓についてのお話です。
基本的にお墓は、亡くなられた人の住まいではありません。
人間の魂は、お墓の中の骨と一緒に、暗く寂しい所で住むものではないのです。
でも、お墓参りにいくと、様々な所で自分の家系のお墓の敷地や墓石の周りに、
へばり付いている霊達がいます。
そして、そのお墓の前に通路があったりすると、通る人達を睨んでいます。
死ねば、お墓に入るもんだという意識や、自分の名が刻まれているお墓に
執着して、霊界へも還れずにこの世のお墓にずっと住んでいます。
この様な先祖がいる場合、お墓が汚れているとか、お墓が立派でないとか、お墓参りの回数が少ないとか、
常々色んな事を不満に思っているものです。 だから、先祖がその様な事を子孫に分からせようと
して、障りを起こしたりしてくるんです。
そんな時は、お墓参りの回数を増やしたり、きれいにするのは良いのですが、其ればかりではなく、
肝心の先祖の意識を、この世のお墓から離して、霊界という明るい世界へ上がってもらう様に
する事です。 そうすれば、毎月お墓へ来いとか、お墓をもっと立派にしろなんて、あまり無茶な
事を言ってきたりしません。 と言うより、「お墓の周りには、色んな危険な霊が一杯いるから、
そんなに度々来なくても構わないよ、自分達(先祖)はもう成仏して明るい世界で、楽しく暮らして
いるからね。」と子孫を気遣ってくれるのが普通であり、本来の姿です。
また、お墓の形も様々で、代々何人も入られますから、無難な形にするのが良いでしょうね。
故人の趣味で、その人限りのお墓を造るなら、形は問いませんが、あまり奇抜な形や原色の派手な色の
墓を造るのは賛成しかねますね。 何故なら、その様なものに惹かれる心というのは、心がその様な
世界に通じていた為に好んでいたのでありますから、亡くなって真理を諭された時に、お墓の事で非常に
悔やむ事になったりするからです。 また、お墓の敷地が狭くて、先祖の数やこれから入るであろう
人の数を考えた時、あまり多くなるようなら、五輪塔というお墓を建てるといいです。
五輪塔は、空・風・火・水・地の五大要素を表した塔です。
亡くなった魂を供養する供養塔ですから、先祖達をまとめるのにも良いと思います。
よく、お墓の後ろに、木に字が書かれた長い板状の物(卒塔婆と言います)が立ててあると思いますが、
あの形は五輪塔の形を表しているんですよ。
宗派などは、特に女性は一般的に男性の元に嫁ぎますので、その家の宗派に変わるという事です。
そして、お墓もその家のお墓になるか、旦那さんと相談して自分達の代から、その横に新しいお墓を
建ててもいいです。 その際は、先祖代々のお墓よりも若干低めに設定した方が良いです。
先祖より大きく立派な墓を建てて、その後、あまり芳しくなくなったというのもありますからね。
-2004年9月14日-
今日は、お仏壇とお墓について色々と教えてほしいというリクエストがありましたので、
今回はまず、お仏壇についてのお話からしていこうと思います。
お仏壇とは、霊的に言うと、ご先祖様が安心して落ち着ける場所、即ち、家と同じであります。
その中に、体の様な役割をし、あの世とこの世の出入りの定点とする役割を果たす、位牌というものが
あります。 宗派によって、お仏壇に位牌が無い場合がありますが、お仏壇の中に位牌が無いという事は、
自分達の家の中に、自分の落ち着く居場所が無いという事です。 つまり、先祖達の安定した居場所が
無いという事なので、家族の者に安定がなく、皆バラバラである、子供たちの職が安定しない等の障害が
出てくる場合もあります。 先祖が、自分達の宗派はこういうものだと解っていれば問題無いのですが、
そうでない場合は、先に書いた様な事が起きる可能性があります。 これも、先祖が生前、信仰心
が有れば自分の中で納得出来る範囲ですが、何の関心も無く亡くなられた場合、お盆などにこの世に
戻ってきた場合、自分の落ち着く場所である位牌が無いと、どこに腰を据えて良いのかわかりません。
位牌は、あの世とこの世を繋ぐ役割もしますので、何時も位牌に居られる訳でもないのです。
普段は成仏したせ界である霊界におられますが、何か(お供えや、お経をあげた時など)の時に、
位牌を通して出て来たり見たりしているのです。 また、そこから出てきて家の中を、悪いものが居な
いか見回って、それからまた位牌を通して霊界へ還るという事をされるのです。
御供え物は、亡くなられて日の浅い魂というものは、まだこの世的な習慣に未練があったりしますので、
食べ物(お茶やご飯など)のお供えをして、食に対する欲求を癒してあげます。
お仏壇は、家族の者が集まる場所の近くに置くのが良いです。 お仏壇は陰気だからと、離れ等に置い
て、お世話する者以外の家族の者が、滅多に見に来ない様では、先祖が寂しがって出て来たりします。
もし、位牌が無いご家庭で、その事が心配なら、ご先祖さま全ての名前や命日等を記した、過去帳というものが
あると思いますので、それをお飾りすると良いでしょう。 カレンダーの様に、1日から31日まで、
それぞれ亡くなられた命日の日に、ご先祖の名前が記されてありますから、今の日付順にめくっていき、
今日と同じ日に名前があれば、その日がそこに書かれている先祖達の月命日という事ですから、
判り易いと思います。 これも、大切なご先祖様を忘れない、大切なご供養の一つだと思います。
-2004年9月9日-
今日は、先祖の障りについてお話します。
先祖の障りという言葉を、たまには耳にする事があると思いますが、先祖の障りとは一体どういう
ものでしょうか。 先祖の障りは、大体のところ、結局は先祖があまり良くない世界で
迷っている場合に起き易いものです。 先祖が迷っているのは、生前のこの世に対しての執着が未だに
残っているからなんです。 その執着は例えば、お金であったり、病気の
苦しみであったり、事故などの突然の死や戦争などで、この世でやり残した事が未練となって残っていた
り、事業の不振やその他の苦しみから自殺したり等、色々な場合があります。 そういう事を、
死んでからもずっとあの世で悩んで苦しんでいたりします。 そういう事を、死後何十年、何百年と
苦しみ続けているんです。 だから昔の人が未だに幽霊となって、恨み辛みを持ってこの世に出て来る
という現象が起きるのです。 そういう暗い世界にいる先祖は、自分達の心の執着を取る事をせず
(まあ、先祖にすれば、どうしたら良いのか判らないというのが本音ですが)自分がこんな暗い世界に
ずっといるのは、子孫達が供養をしっかりしてくれないからだと思う様になってきます。
そうすると結局、縁の繋がりという事で、頼る所は自分の子孫である家族の者の誰かに、
という考え方に先祖はなってきます。 こうして、残された家族の者の誰かに先祖の苦しみが
掛かって来るのです。 これが、先祖の障りが起きるまでの先祖達の考え方と経過です。
先祖の苦しみとは、例えば先祖が内臓の病気で亡くなられた場合、家族の中の誰かが同じ様な
病気で苦しみだすという事が起こります。 また、自分の苦しみを判って欲しいという想いから、
家族の者が頻繁に怪我や事故などを繰り返すという様な事も起こります。 こういう事が繰り返されると、
残された家族の者は、ちょっとおかしいと思い始め、色々と調べたり、私の様な者に相談を持ちかけたり
するのです。 そうして、やっと家族の者は先祖が何か訴えているのではないかという事に気付くのです。
そして、それまであまりやらなかった、お仏壇の仏の世話や、長い間放っておいたお墓などにお参りしたり
する様になります。 そうして、先祖供養を始めて少しすると、これまでの障りが和らいできます。
でも、ここで大事なのは、自分達がよくなりたいからの先祖供養ではなくて、先祖達があの世で
迷わない様に、もう亡くなっているのだから心の執着(未練など)から離れ、苦しむ心を軽くして、
早く明るい世界へ上がっていって下さいと願う事です。 これが、本当に先祖の成仏を願う先祖供養
です。 これらを、日にちを掛けて根気よく続ける事で先祖は成仏し、先祖から来る障りは消えて
いきます。 これが出来ている家庭では、先祖と子孫が調和した明るい家庭が出来ていると思います。
本来、先祖というのは、子孫を代々護っていく事を喜びとし、使命としているからです。
-2004年9月4日-
今日は、うつ病と霊障についてお話します。
一般的にいわれる「うつ病」とは、精神的なストレスが長く続いたりすると、気持ちだけが落ち込んでし
まう様な気分的な障害から、身体全体の調子まで悪くなってしまう病気です。
人間というのは、人生の中で何度も落ち込んでしまう様な気分の時があります。
少し落ち込んでブルーになってしまっても、長く引きずらずに気持ちを切り替えていけば、
またそこから立ち直って歩いて行けるのです。
でも、なかなかそうはいかない人がいます。 同じ事を堂々巡りの様に考え続ける人、悩み癖の
ある人や心配性な人などは、どれも考えの発端が、悪い事が起きたら如何しようとか、良くない事が
起きた場合の手の施し様を今から考えたりしています。 でも、考えるほどに暗く悩んできて、
頭が一杯になってしまうのです。 そうした精神的なストレスが溜まってくると、うつ的な病状を
発しているようになってきたりします。 それが、人によって様々な病状になって出てきます。
そうなると、一日中気分が優れず、特に朝起きがけがひどいです。
好きな事をする気も無くなってきて、家に引きこもりがちになります。
また、食欲も減退してきますし、やる気が起きないので仕事も続かなくなります。
何か考えれば悪い方へ考えが行き、そうした自分に嫌気がさし、自分は何の役にも立たない人間だ。
生きていても仕方の無い人間だから、いっそ死んでしまってもいいんじゃないか、なんて思っていると、
本当に死にたくなってしまいます。 そんな考えの中、闇の声が聞こえてきたりします。
これが、悩みの中の人には、自分の考えの様に思えたり、自分の心の中の声の様に聞こえたりしてきます。
こうした心のマイナスの波長が、同じ様な悩みで亡くなった人の霊の出す波長と、とても似通って
きたりするので、どうしても必然的に霊に憑かれてしまいやすくなるのです。
そうなると、生きている人間が出すマイナスの波長よりも、地獄で苦しむ霊が出す波長の方が暗くて
重いので、憑かれた人は更に暗くなり、気分は重く、希望の光すら見出せなくなってしまいます。
そうして、地獄の霊は人間にとり憑き、自分達の世界へ引き込んでしまおうと働きかけてきます。
そうしたものに負けると、自殺をしたりして命を落とす様な事にまで発展してしまうのです。
ですから、物事の最初に掲げるイメージを、悪くなる様なイメージで、それに対してあれこれ悩むんじゃ
なく、よくなる自分や成功した自分という様に、明るい希望をイメージの前提にする事です。
その明るいイメージを達成する為に、今の自分の出来る事を、出来る範囲でやっていこうと思う事です。
何でもそうですが、良くなる思いで、それに対して前向きな考えや行動を起こしていこうとする事が
大事です。 自分の考えが、マイナス思考だなと気付いたら、そこで考えを止める勇気が必要です。
いくら考えても堂々巡りする様な考えは、今の時点で潔くカットする事も、これから前進して行く為に
は必要です。 そうして考えを改め、前向きな希望のある想いを抱き、それに向かって前進して
行こうとする想いを持つ事で、地獄霊は退散して行くのです。 地獄霊の大嫌いな、明るいイメージや
希望や勇気、前向きな心、これらをどうぞ心に持って歩んでいって欲しいと思います。