神霊による人生相談

ょっ言。

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-2005年9月25日-
今日は、電話相談(特に、ご家族や身内の中の誰かを亡くされた方)の最中に起きている出来事についてのお話しです。   私の所には、予約されて直接相談に来られる方と、遠方であったり、お仕事の関係上なかなか来られない方 などが、電話にて相談される場合とがあります。  その中で、電話にて相談される方の中で、身内の者を 亡くされた方がお電話される事があります。  その内容的には、亡くなった者への気遣いから、何かして ほしかった事や、亡くなった者が、今どの様な状態になっているのか、今何がしてほしいのか、何か言い残した 事があるなら、それを聞きたいとか等、様々です。  そうした時に、私は受話器を通して、電話をされている 方の周りを探ります。  それは丁度、レーダーでお部屋の中の気を探って、反応があるか確かめている様な 感じです。  それから、亡くなった人の名前を教えてもらい、心の中でその名前を呼びます。   そうすると、レーダーに引っ掛かるような感じで、部屋の何処かにホワッと、薄明るい丸い光の様なモノが浮かび 上がります。  この時、戒名では反応は出にくいです。   やはり、生前慣れ親しんだ自分の名前でないと、「何か、戒名みたいなものを言ってるけど、あれはもしかしたら 自分に付けられた戒名かな? でも違うかも知れないし、名前だったら自分の事だと分かるんだけどな」という感じで 、霊本人も戸惑うみたいです。  だから、戒名で呼ぶと、出て来られるのにも時間が掛かります。   中には、「戒名を呼ばれてるけど、自分は死んだのかな? でも、こうして自分の身体もちゃんとあるし、まだ 死んでない自分に戒名を付けるなんて縁起が悪いぞ」なんて言って、まだ自分がどの様な立場であるかが、わかって いない霊もいます。  しかし、霊は自分の事を呼ばれているという意識はある為、何となく自分の事が呼ばれてい るという事は分かるんです。  また、出て来られた後、直ぐに文句を言う霊や、うんうんと唸って苦しんでいる霊 などは、不満や苦痛の感情意識が心の中に執着として残っているので成仏出来てないです。  成仏するというのは、 安らかな世界の住人となる事で、その世界に入るには、心の状態も安らかでなければなりません。  そうでない 場合は、心の状態にあった世界へ逝くという事になります。  苦しさを残した心であれば、苦しみの世界へ逝くと 言う事です。  まあ、こうして電話を掛けておられる相談者さんの近くに出て来られるんですね。   (しかし、電話を掛けている人には、感じられません) 中には、出て来られない状態の世界に落ちている方の霊もおられます。  そんな時は、その世界を霊視して居場所 をつきとめ、私の声を念の声として伝えます。  すると、何か上の方から声がしてくると思って、上を見上げながら キョロキョロとしておられる霊の姿が見えます。  こうして、やっと霊とのコンタクトが始まるんです。   この間、約数分間です。  早ければ、電話を掛けている方の横や少し後方に、既に立って待っておられる場合も あります。  こういう方の霊は、話もし易いですし、私に挨拶もして下さいます。  霊自体の波動(波長ともいう) が落ち着いていますから、穏やかな感じを受けます。  成仏されている霊です。  だから、この世的な執着は、 もう殆ど残っていません。  そんな霊は、言われる事も、残された家族の和の大事さや、この世的なもの (金銭欲や地位や名誉欲、物欲等)への、心の偏りを心配されます。  成仏の度合いが上がるほど、心の重要さが 魂を通して分かる様になりますから、この世の物欲などは薄れて行き、人間本来(魂本来)のあるべき姿が 分かるんですね。  次回は、この続きをお話しします。  


-2005年9月15日-
今日は、守護霊様を通した想いの伝わり方と、その後の指導についてお話しします。   真理を学び、心も浄化されてくると、日々心に浮かんでくるものは、善なる思いの割合が多くなってきます。   その善なる思い(真理)は、次第にイメージとなって、心の中で信念として固定化されていきます。   それは、自分の目標となったり、言動となって表され、自分なりに真理の自己実現を目指して行こうとする 想いが募ってきます。  また、その想いを神様に届くように念じていると、自分の守護霊様を通じて、 天上界へ伝えられます。  その際の伝わり方は、守護霊様の持つ霊格によっての差は有りますが、大抵は 守護霊様の一つ上の霊格を持つ、指導霊様(神の霊格を持つ高級霊、又は神霊とも言う)へ伝えられます。   また、この世において、皆の為に真理を説き、人を導く事を喜びとしている人や、魂が修行で磨かれピカピカに 光っている人などは、想いのレベルが基本的に高いので、上段階の指導霊様まで、真っ直ぐにドーンと上がって いきます。  そして、伝えられた思いの内容が正しく善なる思いに溢れている場合は、そのまた上の霊格を持 つ指導霊様へと伝えられていきます。  こうして、それぞれの思いを、守護霊様と指導霊様のお考えに照らし 合わせ、天上界へ向けて思いが伝えられていくんです。  そして、その善なる思いのレベルにあった世界まで 上がった所で、善なる思いの検討がなされ、それに対しての指導が、指導霊様から守護霊様を経て、自分の 心の中に降りてきます。  しかし、思いの全てが指導霊様のおられる天上界まで昇って行く訳では有りません。   中には、守護霊様の判断で止められる場合もあります。  そんな場合は、思いが善なるものではない場合や、 まだまだ自分の中で考える問題があるとか、想いの中に取捨選択する要素がある場合等があります。   そうした場合は、守護霊様に上がった段階で選り分けられ、指導霊様まで上げずに、守護霊様からのご忠告が、 心の中にメッセージとして降りてきたりします。  同様に、人間が発した善なる想いを、守護霊様が指導霊様へ 伝えたものを、また人間へ「指導」という形で返答される場合も、指導霊様から守護霊様を通して、メッセージ (最初は、インスピレーションというものです)という形をとって人間の心の中に降りてきます。   このメッセージとして降りてくる感覚ですが、最初は慣れていないせいや、能力の制限等があり、自分の 心の中に、断片的に出てきたりします。   それは、自分の想いとして湧き出てきたような、または、自分で考え出したかのような感じを伴うので、最初の頃は 自分の考えなのか、自分でない意思が入ってきたのかと戸惑う時期があります。  でも、よく考えてみると、 自分では考えもしない事が、自分の発した真理の質問に対して返答として返ってきたり、すごく内容のある教えで あったり、様々な霊界の様子であったりするので、これはどうも守護霊様か、神様からの指導を受けているんじゃないか と思う時期があります。  こうして、守護霊様からのメッセージとして感じ取ったり、受け取ったりするまでは、 ある程度の慣れと日数が掛かります。  しかし、こうして人間と守護霊様との間で、真理のやりとりが出来るようになると、 霊界についての質問や、真理についての疑問点などを、質問出来るようになったりしますので、それに十分対応 出来るように、守護霊様の方も指導霊様にご意見を聞いたり、更に高次元の真理を学んだりして対応されていきます。   この点で、皆さんはお気付きかと思いますが、人間が真理を学び、心の修行を重ねていくと、それに追従する形で、 自分の守護霊様も同様に新たなる修行を積まれ、霊格も上がるのです。  結果、守護霊様から降りてくる指導内容 も、レベルアップされているのです。  その指導を得た人間も、更に真理の知識や認識力が上がり、偉大な人格者となって いくのです。  これが、守護霊様を通した善なる想いの伝わり方と、その後の指導方法の一つです。


-2005年9月6日-
今日は、我が家なりのお命日(月命日)の祝い方のお話しです。  我が家のご先祖様の中で、西岡学校の先生役をし てくれている方がいます。  その方は、私が今のような仕事をやり始めて、最初にお話しできた ご先祖様でした。   当時、私の頭に浮かんだ姿は、白いランニングシャツに紺の半ズボン姿の男の子でした。   それから、毎日私の唱えるお経を勉強したり、我が家に祀られている神様に、霊界の様々な知識を学んだりしながら、 日々成長していかれました。  その後、西岡学校が出来、まとめ役を頼み、班長さんや、学級委員長さん、 生徒会長さん等を経験しながら、現在は、立派な青年に成長され、西岡学校の先生として、大変重要な役割を果たして くれています。  その ご先祖様の月命日を、先日、家族の皆でお祝いしました。  まず、毎朝のお祈り時、 月命日に当たる先祖様には、代表で「般若心経」のお経を唱えてもらいます。  また、月命日以外、日々唱える 般若心経も、私は2回唱えます。  1回目は、私が先祖や西岡学校の子達に唱え、2回目は、先祖と西岡学校の子達 が全員共同で唱えます。  (2回目は、皆が私を通してお経を唱えるので、子供っぽい調子になったりと、声の 雰囲気が少し変わります) 良いお経は、聞いているだけでは効果が半分ですが、自分達(先祖や学校の子達)も同じ 様に、お経を覚えて唱えると、更に効果が上がります。  こうすると、月に一度は必ず誰かの月命日がやってくるの で、最初は詰まりながら唱えてたりしてますが、何度目かには、誰でも立派に般若心経を唱えるようになります。   そうして、神仏より、天上界の光を受けて魂が輝き、どんどんと立派に成長されていくんです。   まずこれが、月命日のお祝いとして最初にする事です。  我が家では、お命日は、お祝い事であり、お祭り扱いです。   神仏の光を一段と受けられる日でもあります。  また今回、月命日に当たるご先祖様は、食べるのが大好き (お肉大好き、チョコ等の甘いものが大好き)な男の子(こういう時は、何故か青年から少し子供に戻るみたいです) なので、お祝いとして、美味しい物を食べに行ったりする事が多いです。  なので、今回の月命日の日は、家族で 琵琶湖岸に建つホテルの38階から、琵琶湖を見下ろしながら、大好きなチョコケーキや、色んなケーキのセットなど を、皆で楽しく食べました。  (生前に見た事も無い所に行くのを、とても喜びます)  その日は、西岡学校の子供達も、一緒について来ていて食べてました。   西岡学校の生徒達が言うには、僕達も頑張って偉くなったら、自分達のお命日には、こういった楽しい経験(子供な ので、もっぱら、食べる事と、遊びに行く事)をさせてもらえるの?って聞いてきました。  私は、「そうだよ。  皆も西岡学校で頑張ってお勉強していたら、美味しいものも食べれるし、その内、立派になって先生なんかにもなれる かも知れないよ。」って言うと、すごく嬉しそうな顔でニッコリと微笑んでいました。  こうして我が家では、 誰かのお命日の日には、皆(先祖や学校の子達・私の家族)を引き連れて、楽しく一日を過ごします。   そして、私達は先祖様達に感謝の心をあらわし、先祖様たちは私達に感謝の念を送ってくれます。   お命日は、お命日に当たる本人だけを祝うものではなく、一緒に修行されているお仲間達、先祖仲間達とも、共に祝う ものであると思うのです。  お命日は、供養をする日に加えて、共に楽しく過ごす日と考えます。   これが、形式に拘らない、我が家なりのお命日のお祝い方であり、過ごし方です。