神霊による人生相談

ょっ言。

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-2003年7月31日-
今日は、以前に我が家で飼っていた犬の命日の話です。   犬や他の動物の霊達も、死に方はどうであれ、人間に可愛がられた末に あの世へ旅立っていった動物達は、皆それぞれ同種の仲間達と一緒に 楽しく暮らしています。  また、生前に病気であった飼い犬や飼い猫なんかも 霊という存在になれば、初めから病気など無かった様に元気に走り回っています。   私の飼っていた犬(ポピーといいます)も、広大な平原で気の済むまで走って いました。  それで、名前を呼ぶと私に気が付いて、笑顔で(飼い主には笑顔に見える) 私の所まで走って来ました。  最後は病気で走れなかったのに、今はもう走れるんだなと 思うと、何だか急に嬉しくなりました。  動物でも人間でも、生きている時に病気なのは 肉体の身体だけで、魂の方は元気なんです。  その事を、もう一度認識し直した感じです。   犬のポピーの月命日を毎月やってますので、最近は私の姿を見つけると先に向こうから走って来ます。   それまでは、動物界の担当である神様に連れられて私の元へ来ていましたが、最近は自由な 感じがします。  そして、生前好物であったハムやカニかまぼこやアイスクリームなんかを お供えすると、とても美味しそうに食べていました。  ですから、皆さんも自分の飼っていた ペットの事が供養の時に気になるでしょうが、可愛がって共に暮らしていれば、ちゃんとした 動物霊界の天国の様な所へ還っているはずです。  私は、動物霊界の世界も少しは見る事が 出来ますので、こういう事が解るのです。  そこでは、みな飼い主達に感謝をしている 動物達が沢山暮らしています。  皆、とても穏やかで、違う種類のもの達とも喧嘩などしない 様です。  でも、仲間同士で集まっているので、気の合うもの同士と言う感じでしょうか。   その様な世界が動物達の霊界です。  でも、いくら良い世界だと言っても、お命日くらいは ちゃんと供養してあげて下さい。  飼い主の良き念いが伝わって、ペットの喜びは倍増しますから。


-2003年7月28日-
今日も、前回の続きです。  本当に、神仏が人間に降りてきた場合やその人間を 神が指導しているのか確かめたい場合、その人の人格を見れば大体わかります。   また、霊や神に関する考え方や知識、言葉遣いなどをじっくり観察していれば、 わかる事もあります。  霊界事情や法則などの質問をすると、すぐ話を外そうと してくる場合もあります。  結局、わからないからです。   わかっていれば、得意になってあれこれと話をされるのでしょうが、知らないので 話せないのです。  ですから、相談に行って、なんだかもう一つ解らない、話を はぐらかされた気がするという時は、この類であると思います。   悩みや苦しみも、自分の人生の中で、正しい信仰心を持って努力して行く事(自力)で、 神が指導をしようと、その経過を見ていて「頑張って精進している様だからもういい時期だな」と 思い、神の指導(いわゆる他力)が始まるのです。   自己の精進が「自力」であり、神の助けが「他力」という事です。   神は、人間がそれぞれ発展していこうとする努力と精進の姿を見、援助という神の助けが入るのです。   この、バランスが神の道を進もうとする者には、非常に大切であると思うのです。   また、この関係が偏って実行された場合が「自力信仰」や「他力信仰」と言われるものになるのです。  信仰というものは、その時代時代の環境や風潮等に合った宗教が持てはやされるので、 一つの神理から、「この時代はこれを、次の時代にはあれを学ばそう」という様に、何々信仰や何々宗教などの 神理の一端が出てくるのです。  しかし、基には大きな「神理」があるのです。   この事を心に留めて、日々の信仰、日々の精進に役立てて下されば嬉しいです。


-2003年7月25日-
今日は、祈りと信仰についてお話します。
私達人間は、信仰心の有る無しに関係なく、年に何回かは何処かの神社や仏閣などで、 神様や仏様に対して、お祈りをされた事があると思います。   その、お祈りの中身は、健康の願いや恋愛の願いであったり、勉学や仕事関係の願いで あったり、人それぞれであると思います。  そうした各個人の願いが、祈りとなって 神仏の所まで届くか届かないかは、その人の祈りの真剣さ、純粋さに大きく係わってきます。   また、祈りによる願いが神仏に届いても、その人の願いに対する念いや行い等を観て判断され、 次に、願いを叶える時期というものが来ているのか、これらを総合判断して、適切な時期に その人の願いが叶うのです。 また、信仰心を持つて、日々神仏に祈りを捧げていると、 神様の方も、毎日欠かさずによく祈っているなと思い、何か良き助言でもしてあげようかと、 今度は神様の方から人間に対して、祈りの答えを返そうとされます。   その時に、神の答えを受けられるだけの精進と、心の器(心の容量)が出来ていないと 折角の神様からの答えを聞く事が出来ないのです。  私は、神社仏閣で祝詞やお経を唱えますが、 その後、神様が「ほら、あそこで拝んでいる人がいるだろう。 あの人は、よくあそこで我等に 経文を唱え、我等(神)と話をしたがっておるのだが、まだあの者にそこまでの力量と、心の 修業が出来ておらん為に、声を掛けてやってもあの人には我等の声が聞こえないのじゃ。」と仰っていました。   そして、その様な人達が殆どであり、中には境内でウロウロしている動物霊なんかに憑依され、 神の声が聞こえたと言っている人もいるようです。  そして、「食べ物のお供え物をしろ」とか 言われて、言うとおりにしている内に簡単な占いの様なものや、当て物の類が当たったりします。   これはただ、自分達の判る範囲で人間に耳打ちして当てさせているだけで、そうする事でお供え物や 感謝の気持ちで、自分達(動物霊)を偉い神様の様に敬ってくれるからです。  ですから、慈悲や愛や神理の言葉なんかは、伝える事が 出来ません。  何故なら、「神理の法」の事は全然、何も知らないからです。  しかし当の人間の方は、 ますますこれはとんでもない偉い神様が、自分に降りてきていると勘違いして、それで自分まで偉くなった様な 気になってしまっている人がいるのです。   今日はこの位にして、次回に続きたいと思います。


-2003年7月22日-
今日も前回の続きで、神様とのお話の話題で進めたいと思います。
神様とお話する時の話題は、その時によって違い、また神様の位(如来様や菩薩様など)に よっても違います。  大体は、私の願い事に対する答えや、精進に対してのお言葉等が 主です。  あとは、神の世界を見せてもらったり、世間話的な事からそれに対する神理の 説明などに入ったりしていきます。  ですから、どんな話題でも神理の面からすると、こう 考えるのだよ。 という具合に常に心の思想を神の思想に合わせていける様に指導して下さるのです。   この指導のお蔭で、何時も特別に改まって「神理に合わせるとどうかな。」とか思わなくても、 普通に考えるだけで、神の考え(神理)で物事を判断出来るようになるのです。   そして、考えに詰まった時だけ、神様に聞けば良いのです。  以前は、何でもかんでも神様に 聞いており、今考えると随分失礼な事であったと思います。   それでも神様は、辛抱強く私の言う事をお聞き下さり、それに対して解り易く御説明して下さりました。   この様に、神様は何時も私達人間を見守り続けておられ、指導をしようと思われているのです。   しかし、肝心の人間の方が「神なんか迷信であって、本当は神なんかいないんだ。」と思っていると、 人間と神様との間に共感する心が通じ合わない為に、神様の御言葉も通じなくなってしまうのです。   ですから、常日頃から信仰心が厚く、神様に感謝の心と敬う気持ちを持っていれば、神様は何時も 傍であなたを見守られ、あなたを想って、「どうにかして指導してあげたいなぁ。」と思って おられるのです。  これは、特別に霊感がなくても、困った時、妙に他人の助けや、良い考えが 浮んで来る時があると思います。  これ等は、大体、自分の守護霊や何時も信心している神様などが あなたへの手助けとして、他人を遣わしたり、良きインスピレーションを与えてくれたりしているのです。   ですが、この事に気付かない人が多く、ましてや自分が助けて貰った事に対して感謝などする筈も無く、 暮らしているのが殆どであります。  この様な事が言えると思います。


-2003年7月19日-
今日は、先日私が京都・大原三千院へ行った時に体験した事をお話します。
大原三千院へは、私の住む滋賀県の草津市から車で約 1時間程の所にある全国的に 有名なお寺です。  そこは家から近いせいもあり、年に何回かは、そのお寺を訪ねています。   何回行っても飽きません。  それは、お寺の中に居られる阿弥陀様や観音様や不動様などの 仏様に会って直にお話をするからです。  今回、阿弥陀様がおっしゃった言葉は、「日々、怠り無く修行は 精進出来ておるか」で、私が「勉強の方は少々サボっております」と答えると、「ハハハ。 お前は 正直じゃのう〜。 しかし、悩んでおる者を諭す時には、確りと知識を積んでおらんと良き指導が出来 んぞ」と言われました。  確かにその通りです。  観音様は「先生!お久しぶりでございます。  また今度、説法をお聞かせ願いたいのですが」と言われましたので、私は「では、近々いたしましょう」と お答えしました。  不動様は、私が暑がって手でパタパタと扇いでいると、「その位で暑がっている様では まだまだ修業が足りんのぅ〜。」と言った後、「ワハハハー! でも暑い中よく来たのぅ〜。 確り 精進せいよー。」と言ってくれました。  神様や仏様は指摘するところは、要点を絞って指導されるので、 自分自身で「そうか!」と気付かねばなりません。  普通に聞いていたのでは、おっしゃられた言葉の奥に 隠された意味に気付く事が出来ません。  確り聞いて、その時の神様の想い(これこれ、こうだから こうなってしまうので、その様にしなければならないのですよ。)という意味が、短いお言葉の中に 秘められている事を、その短時間の話の内に読み取り、時間を空けずに直ぐ、返答するのです。   これも、とっても有り難い修業の内だと思っています。  ちなみに考えて返答するまでの時間は、最長でも 約10秒位です。  それ以上は、その言葉に対して返答出来るほど、精進が進んでいないと見なされ、 直ぐに違う質問やお言葉がかかります。  今では、私も少々の精進を積んで来ましたので、2〜3秒の 内に返答出来、普通にお喋りが出来ますが、以前は、一つのお言葉に一日かかって考えていた事もあります。   皆様が御相談の中で質問されると、直ぐに返事をしていますが、本当は質問に対して神にお聞きし、その返事が 降りて来て、私が皆様に良く解る様に言い直して返答をしているのです。 この間が大体3〜5秒程だと思います。   ですから、皆さんは私とだけ話をしている様に感じられるはずです。  ただのお喋りと区別がつきにくいと思います。   こういう事が普通に出来るのも、神様との問答修業をしている精進の結果だと思うのです。   こんな感じで、次回もこの続きをお話したいと思います。     


-2003年7月16日-
今日は、八正道の最後の道である「正定」の説明をします。
正定とは、正しく定(じょう)に入るという事であり、解り易く言うと正しい精神統一を するという事です。  正しい精神統一とは、心静かに瞑想する事であります。     この、静かに自分の心と向き合う時間を、一日の時間の内に設ける事で、自分の心を正しく 神の方向へと軌道修正する事が出来るのです。  そして、これには「反省」という作業が 係わってくるので、しっかり自己反省をする事が出来ます。  自己反省によって、自分の 思想や行いが「神理」に適っていないとするなら、今後どの様にしていけば良いのかという 疑問が出て来ます。  その時に、正しく精神統一されておれば、自分の守護霊様が、その 疑問に対して最も良い答えを知らせてくれるのです。  こうして、天上界からの霊界通信 を受けられる様になり、様々な悩みに対してのアドバイスや、願いの後押し等をしてくれるのです。   自己の能力を飛躍的に伸ばす様な人は、皆何らかに守護霊の指導があるからなのです。   正定は、正見から正念までの神理の道を実践してきた総決算に当たります。   正しい習慣を身に付け、正しい信念や思想を心に植え付ける事で、身も心も神の子として 正しく生きて行く事が出来るのです。  そうした、今迄の努力があるからこそ、正定という 正しい精神統一によって、天上界との通信が可能になるのです。  昔から、天上界との 通信(指導)が修行者の目標となっていたので、これを完成させる為に正見から正念までの 修行があるのです。  本当に霊界の天上界との通信が出来る様になるには、この様な行いの 修行から心の修行までという様に、外と内の修行が必要であるので、それだけに難しいかもしれません。   しかし、ある程度のところ(その人の霊格に合ったところ)で、霊道が開ける場合がありますが、 それが完成では無い事も知っておいて下さい。  それから先は、天上界からの指導により限界は 限界で無くなるのです。  言い換えれば、修行には、まだまだ先があり、霊格の向上もまだまだ 可能性が残っているという事です。  ですから、よく修行者や悟りを開いた人でも、「人生、死ぬ まで精進だ」と言われるのがその事であるのです。  精進に終わりはありません。   今がどんなに善くても、それが続かずに明日、悪くなるのでは意味がありません。   何事にも、努力して続ける精神が大事であるのです。   以上で「正定」の説明を終わります。  これで「八正道」の全ての説明を終わります。
皆さんの中で、「ここをもっと詳しく教えてほしい」というのがあれば、私にメールして下されば お答えします。    


-2003年7月13日-
今日は「正念」について説明します。
正念とは、正しく念じる事です。  この場合の正しく念じるというのは、今迄の信仰心に適った 道を精進品しながら歩んで行く中で、神の子として理想の自己実現を常に念頭におくという事です。   これは、何時も理想の自分の姿を思い描き、それに向かって努力精進する事で念いが実際に実現して くるのです。  この「正しく念じる」という事が出来る様になってくると、しっかりと自分が神の子 として、他人や社会の為に貢献出来る自分を目指して修行していこうという想いが定着されます。   そうして、これまでの「正見」〜「正精進」までの修行が、きっちり神の想いに適った(神理に適った) 正しい理想の方向へと進んで行く事が出来るのす。  例えると、人間は人生という急流の流れに浮かぶ 一艘の船であり、その中でどんなに船頭さんの腕が良くても、正しく進もうとする方向が違っていれば、 座礁したり、ひっくり返ったりしてしまいます。  そして、最終的に滝壺に落ちてしまったりという 様に、人生を台無しにするかもしれません。  しかし、人生の急流の中に在っても、常に正しい方向 (神の方向)へ船の先が向いておれば、神はちゃんと理想の航路を指し示してくれるのです。   そうして、努力精進しながら人生の急流を漕ぎ切る事が出来るのです。   正念は、正しい「心」の念いである方向性が問われる修行であり、これが誤った方向であれば、行き着く先は 天国では無いと言う事です。  どんなに善い事をしても(船頭の腕が良くても)、心が悪い方向へ 向いていれば、次第に転落の人生を辿ります。  それ程、「心」は大事なものであるのです。      心の中の「念」は、地獄の悪魔にも通じれば、天国の神様にも通じるものなのです。 また正念は、正しく自己実現した未来の理想の自分に向かって進んで行く事でもあります。   ですから、神の想いに同通し、正しく自己実現を果たす事を目標としていれば、念というものは 常に正しい方向へ向いているものなのです。  でも、人生には様々な誘惑があるので、この 「正念」という修行があるのだと思います。  次回は、八正道の最後の道である「正定」です。


-2003年7月10日-
今日は「正精進」についての説明です。
この修行は「精進」という、「日々の努力を積み重ねる」という修行になります。   今までに様々な修行がありましたが、この「精進」という修行は、信仰心を絶やさずに 地道な努力を積む事が、人生を正しく生きる上に於いて非常に重要であるのです。   やはり何に対しても、自分が決めた事に対して努力し頑張るという事が大切であり、 それによって自分の想いや願望が実現していくのです。   ですから、「正見〜正思」まで、またそれ以後の修行である「正念」や「正定」の修行にも 日々変わらずに努力する、「精進」するという事が大事であるのです。   また、あなたの身体が日々順調に成長する事が出来ているのも、体内の臓器や、それにまつわる 細胞組織が、日々怠りなく頑張って働いてくれているからに他なりません。   細胞という小さな存在であるけれども、それらが精一杯、自分の役割をこなしてくれているからこそ、 今、立派に成長し続けているあなたがいるのです。   あなたの体の中の小さな細胞達は、これからもずっと与えられた役割を果たしていってくれるでしょう。   そうでなければ、あなたの体の成長は止まり、それどころか生命維持に必要な栄養の供給や働きが止まって しまい、あなたの肉体は死んでしまうでしょう。   ですから、どの様な存在であっても、自分の役割や使命を怠る事無く続けるという事が大事であるという事です。   同様に、人生の中で、正しく生きていくとか、仕事をするとか、簡単であるけれども続けるとなると、 難しい事になってくるので努力が必要になるのです。   しかも、これまでの神理に適った修行を、正しい努力で続ける必要になってくるので、「正精進」の 「正しい日々の努力の積み重ね」という修行があるのです。
次回は「正念」について説明します。  


-2003年7月7日-
今日は「正思」について説明します。
この「正思」からは、今迄の様な肉体的な行動を伴う修行の実践ではなく、もっと内的な精神面 (心)のあり方についての修行になってきます。  正思とは「正しく思う」ということ であり、正しく思うとは、他人や物事を判断する時に「神理に適った思考をする」という事です。   これは、言い換えると、自分の偏った思いや欲得等の思いを基本に据えず、この世的で利己主義的な 思想を持って他人や社会の物事を判断してはいけないという事です。   私達は、ともすれば自分の都合の良いように物事を考えてしまいがちです。   そして、自分の気に入らない人の悪い面ばかりを捉えてその人自身を判断したり、皆の為になる 役割でも、嫌な役割だとしたくない。 という様な、利己主義的な損得勘定をする等です。   この様な、神理から外れた思いを心に持たず、人間として、神の子として、他人や社会を見る 事が大事であるのです。  この思いは、神の心に通じるものであり、神の心を自分の心の目標として いこうとするものです。  そして、心の調和が取れ、人間は皆「神の子」という思いが心の中に満たされ た時、他人というものが自分と同じ神の子であるという、本来の姿として見る事が出来るのです。   そこには、差別や利己主義などは姿を消し、本当の意味での愛と平等の精神があらわれて来るのです。     正しく思うという「心」の修行は、人間として正しく成長していく中で、とても大事な精神修行であり、 今迄からの修行は、この正思という「心」のあり方によって左右される程、重要な意味を持つ修行であるのです。   次回は、「正精進」についての説明です。


-2003年7月4日-
今日は「正命」についての説明です。
正命とは、「正しく生活する」という意味であります。
今までの「正見・正語・正業」を踏まえて、それらを正しく活用し、自己の生活の中に 生かす事が「正命」の修行になります。  ですから、今までの修行をしっかりと自分の ものにしなければ、正しい生活とは言えないのです。  人間として正しく生き、与えられた 「命」を全うしていく中で、一日の時間を有効に使い切れたか。  正命は、正しく生活する と共に、正しい命の使い方でもあるのです。  一日の内で、自分に与えられた役割を、どれだけ 精一杯にやり遂げたか。  その精一杯の努力の姿勢を見て、他人もまた見習う所があるのです。   皆の為に、一生懸命努力する姿こそ、無私の愛で他人を指導する神の姿の表れではないでしょうか。   また、日々の生活の中で、どれだけ他人や社会の為に努力し、貢献出来たか。   人は、日々の生活の中での心がけや、生き方を通して、人々の心を正す事も出来るのです。    正命は日々の生活の中で、自欲や悪の誘いに惑わされずに、何時も 心に「神」を、そして信仰心を絶やさずに、与えられた一生を正しく営んでく事です。     これが、「正命」という「命」の正しい使い方だと思うのです。
次回は、「正思」について説明したいと思います。


-2003年7月1日-
今日は「正業」について説明します。
正業とは、「正しく仕事をする。」という意味であります。
人々は、現代社会の中で、何らかの仕事をしながら生活をしていると思います。   その仕事が、はたして社会の役に立つ様な仕事であるのか。   自分の能力が、皆の生活や社会の幸福に役立つ仕事に発揮されているのか。   これを、考えなければならないと思うのです。  自分に毎日課せられた仕事は、社会にとって 今直接は役に立たないかもしれないけど、自分が手掛けた物は、最後に立派な形となって 人々の生活に役立つ製品になるという事もあるでしょう。   中には、もっと大きな、直接社会に係わる様な仕事をして、人々の役に立っている人も いるでしょう。  そして、中には人を堕落させ、悪の道へ誘い込む様な仕事をしている 人もいるでしょう。  人間が多くなればなる程、仕事の種類は増え、需要と供給が溢れ、 人類や社会の発展に必要な仕事から、そうでない仕事まで、あらゆる仕事があります。   その中で、自分に与えられた仕事が、人々の幸せに繋がる様なものであるのか。   また、社会の発展に役立つものか。  「正しく仕事をする」というのは、人々や社会にとって、 良い影響を与え、発展していくという事を前提として判断し、その中で自分の能力を発揮していく という事です。  自分の能力を正しく発揮している人は、社会の中でも、また会社の中でも、 他人や部下の良き指導者となり、「人を生かす」という事を実践出来る人です。   この様に「正業」は、人を成長させ、社会を発展させる事が出来るのです。
次回は、「正命」について説明します。