ちょっと一言。
-2004年7月27日-
今日は、前回の続きで、子供の霊を育てる女性霊達のお話です。
幼くして亡くなった子供の霊は、行き場も修行方法も自分一人ではわかりません。
ですから大人の霊体に戻るまで、一種の幼稚園や小学校の様な感じで、同じ様な
年齢層の子供達を集めて、そこの世話役兼、先生役として若い女性の霊が指導しています。
この若い先生は、小さな子供の世話をしながら、自分が生前に体験出来なかった子供の
世話や教育をすることで、自分も子供と一緒に成長していくのです。
女性としての大仕事である子供を育てるという事が、ここの女性霊の魂の成長には必要であり、
生前に、したくても出来なかった事を霊界でする事で、経験の不足を補っているのです。
また、子供は生前に両親から十分な世話を受けられなかったので、その寂しい心を先生役の
女性に癒してもらいながら、魂の成長を進めて行くのです。
そうして、子供達を一人前の大人の霊にしてあげると、その霊達は、今度は自分達の役割を果たすために
先生のもとを卒業して離れて行きます。 そして、自分達の能力や思想に合った霊界で、自分なりに
成長を果たしながら、人のために働く事などを目標とし、喜びとしていくのです。
幼い子の霊達は、こうして子育て専門の女性霊達に育てられているのです。
また教えの中には、何処かの神社仏閣を礼拝しながら巡るという事もしています。
そこで、偉い神様や仏様を知る事で、信仰心を目覚めさせていく教えもあります。
霊界では、信仰心の持たない霊は、地獄霊か幽界霊位のものですから、霊界で暮らす魂としては、
信仰心と善なる心を持っていなければ、より高い世界へと上って行けないのです。
これを、まだ小さな子供の内から身に付けさせる事も、先生達の役割です。
そうして、素直に育っていく子達の喜びや感謝の心を、先生は自分の喜びとしているのです。
人のために働き、人の幸せを自己の喜びとする事を、先生は子供たちに教えているのです。
そんな学校の様なものが霊界には存在し、多くの子供たちがそれぞれに勉強しているのです。
-2004年7月22日-
今日は、身の回りにいる霊の存在についてお話します。
霊というのは、常に私達の身の回りに存在し、何らかの影響を及ぼしているのでしょうか。
霊というのも、様々な霊の存在があります。 神様というのも高級指導霊ですし、人間に必ずついて
守ってくれるのは守護霊ですし、先祖霊は同じ家系で先に亡くなられた人の霊で、その家代々の子孫を
守ってくれる役割も果たす霊です。 これらの霊は、自分の関係する人間を守り導く事が役目であったりします。
この中で、神様を除く守護霊と先祖霊は、人によって働きの良い霊と、働きの悪い霊とに分かれます。
良い方に指導を受けると、物事が上手く運んだり、自分の努力相応の結果が出たり、
危ない目に遭っても寸前のところで助かったりします。 働きの悪い方は、自分なりに頑張っているのに、
どうも良い結果が出ないとか、事故ばかり起こすとか、悪い霊に憑かれやすい等があります。
また守護霊も、全てが完璧ではないので、自分がどれだけの事をすべきか解っていない霊もいます。
そんな場合、人間を守る守護霊の力のエネルギーが弱いので、良くない霊に憑かれ易いという現象が
起き易くなったりします。 先祖霊も、先祖自体が地獄に落ちている場合、子孫援助の期待は難しいでしょう。
それより、先祖霊の内の誰かが、自分が地獄に落ちているのを助けてもらおうと要求してきたり、
子孫の供養が足りない等と逆恨みして、災いを起こす霊達もおります。
これらは、いつでも人間達に何らかの影響を与えています。
また、ご家族の中で亡くなられたばかりの霊も、少しの間は家族と共に家の中に滞在します。
まだ幼いうちに亡くなった子供の霊も、親の所にうろうろとしていたりします。
でも時が来れば、ちゃんと霊界へ上がっていきます。
水子霊も、自分がどういう存在か、これから何処へ行くのか理解出来ずにいたりします。
そして、この世とあの世との狭間で行ったり来たりしている霊もいます。
その中には、母親の腰や肩にしがみついていたりする霊もいます。
腰が重い、肩が重いと感じるのは、その為です。 これら全て、両親兄弟等が、その子の成仏を
願って心から供養をしてあげると、ちゃんと成仏して霊界へ上がっていかれます。
そして、大抵の子供の霊達は、あの世で子供の世話を専門に行っている霊達が面倒を見てくれる様に
なっているのです。 このありがたい霊は、私の知る限りでは若い女性の霊が多いです。
多分、この若い女性の霊達は、生前に子供を育てる事が出来なかった霊ではないかと思います。
次回は、この子供を育てる女性の霊がいる世界のお話をします。
-2004年7月17日-
今日は、お盆のお話をしたいと思います。
お盆の時期は、一時的に霊界の結界が緩まって、多くの霊達がこの世に舞い戻ってくる
時期になります。 その為、あの世とこの世の狭間で迷っている様な不成仏霊は、
地上の人間達に取り憑くという憑依現象や、自分の姿を見せる幽霊現象などが、
各地の心霊スポットや、よく人が亡くなられる場所などで起きたりします。
ですから、普段はあまり霊の影響をきたさない所でも、その場所の念が一時的に強くなって
きていますので、霊的に敏感な人は影響を受けてしまうのです。
また、以前に死亡事故などがあった場所に、未だ成仏出来ていない霊の念が強く出て
きますので、そこで憑依されてしまう人も多いです。
あと、この時期は、海や山などで遭難したり、自殺した人達の霊が出て来て活動を
始めますので、お盆の終わり頃に引き込まれる様に、事故や災難に遭ってしまう事が
多くなるのも、こういう事が関係しているためです。
それから、家のご先祖様の場合は、それぞれのご先祖様に合った霊界から、
家の中のお仏壇の位牌を通して、この世に戻って来て、色々と家の中を見てまわったりしています。
家族が皆で仲良くテレビなんか見ている時も、後ろで一緒に見ていたり、食事している時も、
同じ様に食べていたりします。 お盆の時、ご先祖様は自分達の親類の家の様子を見回ったりして、
どの様に暮らしているのか見ています。 我が家のご先祖様も、あちこちの親類の家を見て回って、
お供え物が無かったとか、仏壇の扉が閉まっていて真っ暗だったとか、家族の気持ちがこの様であった
等と言ってきます。 私は、「へぇ〜、そうなんだぁ〜。」と思いながら聞いてます。
だから、お盆の期間は、色んな霊達に見られていると思っても間違いないと思うのです。
そんな時に、家族が仲違いをしていたり、良くない道へ進んでいたりすると、ご先祖様も心配しますし、
良い供養も出来るはずも無いです。 そんな事が続いたりすると、ご先祖様が不満に思って、
お盆が終わってから暫くすると、家族の者に災いが起きたりします。
これも、自分達(ご先祖様)の不満を解って欲しいという知らせなんです。
この知らせの意味の中には、お墓が荒れている、先祖である自分達の面倒を見てくれない、
自分達(ご先祖様)が暗い所にいるので供養して欲しい等があります。
結局、ご先祖様も自分の至らない所があったのに、子孫達に何とかして欲しいと願っているのです。
これに対して、家族が仲良く暮らす家は、大抵の場合、ご先祖供養も確り行っている所が多いので、
ご先祖は子孫に対して感謝され、同時に子孫の方もご先祖様に感謝の念を持っています。
こういう家庭は、この先もご先祖様の加護を受けて、子々孫々繁栄していくでしょう。
今回は、お盆の色々なお話をしました。
-2004年7月12日-
今日は、六波羅蜜行の「智恵」についてのお話です。
「智恵」は、六波羅蜜行の最後の悟りであり、般若心経にある「般若の智慧」と
呼ばれるものです。 それは、霊界の智慧の宝庫の扉を開く鍵となるものです。
最初の修行である「布施」という、他人に対して施しを与える心、つまり自分から
他人に対して愛という心を与える事、これが菩薩への入り口であり、第一歩です。
それから、様々な誘惑や慢心から真理の道を踏み外さぬ様に、自分を磨いていく事を忘れず、
日々精進していく事の大切さを学びます。
そうして、様々な経験を積んで「空」や「因縁因果」等、霊界の体系や法則を知る事によって、
神仏の心を知るにいたるのです。 そうしたものを知る事、この「智慧」に目覚める事、
これがなければ「菩薩」から「如来」の段階には入れません。
以前、般若心経の教えの中で、大乗仏教と小乗仏教について書いたと思いますが、この六波羅蜜行は、
大乗仏教的な悟り(菩薩から如来への悟り)であると思います。 そして、小乗仏教はというと、
これもまた以前に書いた、八正道の修行方法であると思うのです。 この修行は菩薩への修行でした。
こうして、八正道から六波羅蜜行への修行も、言うなれば自分の悟りの段階に応じた教えであると
いう事が言えます。 そうして、神仏の大智を知る事が出来れば、この世的にも何かの衆生済度の
大乗的教えを興していく事が目標となってきます。 これは、宗教的な言い方ですが、それ以外にも
文化や芸術等を通して、人々の心の救いを求める方法等もあります。 そして、その為には、神仏の
世界から自身の心を通して無限に湧き上がってくる「般若の智慧」が必要になってきます。
この智慧を通して、一切の衆生に霊界の智恵(法則)を教え、人としての心、神仏の愛を説いて
いくのです。 六波羅蜜行を精進していく先には、この大きな目標があるのです。
自分を高め、そして他人をも向上させる事を目指す教えです。
それは、自分を含め「皆が幸せになるように」という、神仏の願いの教えでもあるのです。
これが、六波羅蜜行の最後の修行である「智恵」から「智慧」への修行になります。
以上で、「六波羅蜜行」の全てのお話は終わりです。
-2004年7月8日-
今日は、急きょ話題を変更して、昨日の「七夕」の日についてお話します。
我が家の七夕の日も、皆さんと同様に、短冊にお願い事を書いて笹の葉に吊るします。
そして、昨日の七夕の晩に皆で花火を楽しんだ後、大きな鉄鍋に短冊を入れて火をつけて
燃やします。 そして、皆でその火を見ながらお願い事が空に昇って行くのを見守ります。
これを霊的に見ると、燃える火の中からキラキラ光るものを含んだモヤモヤしたものが、スーッと炎と
分離したと思うと、フワーッと夜空に昇って行きます。 これを家族の皆が、めいめいに確認します。
そして、「あぁー!今お願い事が昇って行くー!」と言ったりしています。 普通の人には見えないで
しょうが、我が家は全員が霊能力を持っていますので、わかったりするんですよね。
西岡学校の子達も、自分達の書いたお願い事が天高く上がって行くのを見て、「僕達のお願い事がお空に
昇っていったよー!」と、とても嬉しそうに空を見上げていました。
また、それらの現象を起こすために、七夕の日の2〜3日前位から偵察を兼ねて、短冊に書いたお願い
事を天に運ぶ役目を持つ、綺麗な若い女性の天女様が来られます。 「今年は、笹の葉に吊るした短冊
が去年より多くなりましたね」と、天女様が言ってこられました。 私は、「今年は西岡学校などの生徒
が増えたので、短冊の数が去年より多くなったのです」と答えました。
そると天女様は、「そうですか。それは良い事ですね〜。」と、にこにこと可愛らしい笑顔で微笑んで
おられました。 この天女様は、我が家の短冊を集めて天まで持って行くのが仕事であり、役目でも
あるのです。 ですから、皆さんの所にもそれぞれ地区ごとに、担当の天女様がおられて、
人間達の書いた短冊を持ち帰っているのです。 それを天の神様の所まで上げて、その後に願いが
叶うか叶わないかは、天の神様がその人間の想いや行いを見て決める事になります。
こういう事が、人間達の知らない内に七夕の日には起きているのです。 次回は、六波羅蜜行の「智恵」
についてお話します。
-2004年7月4日-
今日も先月の続きで、六波羅蜜行の「禅定」と「智恵」についてお話します。
禅定というのは、普通、じっと座って心身を落ち着け瞑想に入る事です。 正座や座禅を組んで心身を統一し、
自己の内なる心を観ていきます。 これは、他の宗派で「内観」や「止観」と呼ばれるものです。
心を落ち着けて集中するというのは、何も座禅を組んで、じっと座って行うだけではありません。
お参りの最中でも、やろうと思えば出来るのです。 お参りの道中に、一心に心の雑念を払って
神仏の事を想い続ける事も禅定の心に通じます。
普段の生活の中で波打った心の状態を、お参りを通して神仏の事を心に念じ、自己の行いや心の想い等
の過ちを反省し、それによって新たなる自己改革へのステップとしていく。
それには、自分というものをよく知る事が必要です。 自分を知る事が出来ると、神仏の想いと
いうものが少しづつ解ってきます。 これを自分の心の内を見つめながら行っていく事が、内観や止観と呼ばれる
ものです。 人間の心は身体の中に入っているだけの小さな存在ではありません。
心の鍵を開く事が出来れば、宇宙大にも広がるものです。 それが悟りです。
話は少しズレますが、精神の集中というと皆さんはとても大変な作業だと思うでしょうが、
普段何気ない所でも、素晴らしい精神の集中をしているんです。
例えば、街中の雑踏の中やファミレスの中でも、多くの人や話し声がある中で、自分達の仲間しか
目に入らないような感じで、必死に話しに夢中になっている人。
誰かが近くを通っても見向きもせず、また見えていたとしても、それらを一種の雑念かの様に振り払ってしまう。
そして、気にせず話に夢中になる。 これは、一つの事に集中している証拠です。
また、部屋で漫画の本を読んでいて、その物語に入り込んでしまうような時です。
頭の中では、自分がその物語の中に居る様な感じで読まれている時があるでしょう。
頭の中で、想像を一杯膨らませて、自分の世界に入っている状態ですね。
これは、一種の瞑想状態に近いものです。 読んでいる内容が、真理のものなら確実に心は神仏の
世界へと向けられているでしょう。 多少霊感のある人なら、霊的現象があるかも知れません。
それほど、心を集中させて一つの事に心の目を向ける(精神を集中させる)事から、想いを発展に繋げて行く
という事は大事な事であり、無限の可能性を秘めているのです。
大分、話がズレてしまいましたので、六波羅蜜行の「智恵」のお話は、次回にさせて頂きます。