神霊による人生相談

ょっ言。

前ページへ戻る


-2005年2月28日-
今日は、またまたリクエストにお答えして、人間と食物における霊的関係のお話です。   私達人間は、毎日色んなものを食べて生きています。   私達が美味しく食べているその食べ物も、全て命あるものからの授かりものです。   人間の食べるものは、動物や魚や植物野菜等あらゆる物があり、それらは人間より霊格的には 遥かに落ちるものの、食べて美味しく栄養があります。   食べて美味しいという事は、ある意味それらは食べられる事で、より高次な者の存在維持に役立つという 役割をもって存在しているという事です。   私達人間は、地球の生命体の中で一番の霊格を持つものであります。  その高次な霊格を持つ人間達も、 食肉にしている家畜や農作物なども、全て根源は偉大なる神より創られたものです。   私達は、その神より創られたる様々な尊い生命を犠牲にしながら、食物として日々の栄養を補給し、肉体 を維持しなければなりません。  人間が、人間として、地球上で最も高次な存在としての働きを維持し ていく上で、それらの生き物たちは、無くてはならないものです。  動植物たちは、自分たちが進んで 人間に食べられようとはしませんが、普通に生きて自分の命を全うしていくもの、より強いものの食べ物 として生命を終える事も、それぞれに意味のある事です。  それらの生き物は、いくら集まっても、地 球上の文明の発展には直接関与出来ませんが、自分が人間の食物として取り入れられる事で、より高次な 人間の血となり肉となって支えているという、とても大切な役目を果たす事も出来るのです。  元気に 働ける今の自分があるのも、今の科学文明があるのも、そうした全ての生き物の尊い命のお蔭です。   この地球上の生命の維持、そして文明の発展においても、自然界の食物から学ぶ事が多くあります。   私達は、普段からそうした尊いものへの感謝の気持を持つ事も大事だと思います。  そういう事を考え た時、食べ物を粗末にしたり、好き嫌いしていたりする自分を見直す事もまた大切です。  また、今の 時代、農作物などが豊作で、とれ過ぎて採算が合わないからと言って邪魔物扱いしていたり、捨てていた りする場面をテレビなどでみますが、次の収穫時に天候や気象などの自然災害によって、収穫量が激減し てしまい、以前に野菜などを捨てていた事に悔やんでいたりします。  食肉にされる家畜なども、今の 時代においては様々な病気などにかかり、昔の様に安心して食べられなくなってきたりしています。   これらは、もう一度人間達に、食べ物に対する意識の見直しを要求されているのです。   人間達は、それが判らずに、食肉の管理や病原菌の解明などに必死になっていますが、その他にも、 自分たちの食べ物に対する意識改革が必要だと思います。  何故なら、それらは神の国から人間達に向け ての一種の警告でもあると思うからです。  私達人間は、より高次な存在であるからこそ、多くの霊的 犠牲の上に成り立っているという事を、忘れない様にしたいものです。


-2005年2月22日-
今日も前回の続きで、神様との対話のお話しです。   神様と色々な意見交流が出来始めてくると、内容も今までのお話的なもの、会話的なものから、教えや 指導的なものに変わってきました。  後で考えてみると、神様が私と意見を交わしている間に、 私の心の成長具合や、認識度の具合をみながら、神様達は徐々に指導的な内容に変えていかれたのだと 思います。  また時々、神様が集まって、私の今後の事について何やら相談していたのを遠目で見た 事があります。  その時は、あまり近づく事は出来ず、神様は私の存在を知りながら、ヒソヒソ話で 話されていました。  なので、内容もあまり聞こえてきませんでしたが、それでも時々漏れ聞こえて きたのが、どうやら私の霊的進歩の速さが、当初の計画より早いため、計画の変更が必要であるという事 でした。  これも、わざと聞こえさせているのか、神様達のお考えは、先の事まで考えた上での判断に よるものが多いので、私の思考の範囲を超えたものは判りにくかったです。  そうして時々、神様の 集まりがあり、その際も、私の指導についての話し合いがなされているようでした。  それを私が聞い て、自分なりに解釈して、自分なりの進歩発展に活かしていきました。  その時の私は、神様に直接言 われなくても、これは私に向けて何かの指導的なメッセージであると思い、しっかり心に留めて自身の 発展に役立てて行かなくてはいけないなと思いました。  そう思った時に、自分の心の中(気持の中) で、「うんうん、とか、そうである」などという言葉の様な、気持の様なものが心に響く様な感じでした。   ですからこれは、ちゃんと神様と対話のようなものが出来ているなと思いました。  神様との会話は、 この様な直接会話にならない、心の対話の様なものもあります。  そうして、少しづつではありますが、 霊界の事、真理の事についてのお話がありました。  それらのお話を聞く時、魂の遥か上の方から声が 届き、心全体で聞いているという感じです。  そして、男性の神様は太くたくましい声で、女性の神様 は、優しく美しい言葉で魂に響き渡ります。  特に女性の神様(天照大神様)は、私に、もっと綺麗な 言葉、美しい言葉を話すようにと言われ、まだまだ私の中には、良くない言葉を使う心があると指摘され 、もっと本を読みなさいとも言われました。  私は、まだまだ言葉を話していく時の知識が足りない ようです。  私は、知識を学びながら、神様との対話の中でも、言葉や会話を学ばせて頂きました。   そうして、何とか人前で神様のお話や、霊界や真理のお話が出来るようになってきました。   そういう経過を経て今の私があり、様々な神様達とお話をさせて頂けるようになりました。      


-2005年2月17日-
今日は、私が初めて神様の声を聞いた時、どんな感じだったか、ちょっと一言で書いてほしいと いうリクエストがありましたので、今回のテーマとして書かせて頂きます。   私が、初めて神様の声を聞いたという事を、記念日や何か特別な日など、実感として詳しく記憶している という訳ではありませんが、いろいろ思い起こしてみましょうね。  我が家は、私の幼少の頃から、 初代のお婆ちゃんを通して信仰を続けていて、それを2代目の両親が引継ぐ形となり、私で3代目とな りました。  ですので、私の母親が霊感を貰って、神様の言葉を降ろしてくるようになると、神様の おまつりの日には必ずと言って良いほど、神様のお声を聞いていました。  そうして、普段から神様の お声を通して様々な教えを頂いたりしていました。  それが今度は、自分が真理について勉強し出し、 両親の代わりに神棚の前でお祈りをし出すと、家の神様に向かって、一方的に、「自分なりに、こうしよ うと思います」とか、「こうではないんですか?」等と心の中で決めた事や、疑問などを言い続けていた 記憶があります。  そうしている内に、「一つのお経を2週間で覚えて、神棚の前で唱えられる様に します」と、神様の前に立って約束している自分を勝手にイメージしていました。   その時に、「出来るかどうか見ているぞ。 自分なりに頑張ってみよ」という声にならない気持が 心の中に浮かんできました。  多分これが、最初に神様より受けた啓示であったと思います。   これを初めて体験した時は、「何じゃー!今の感じは! 何が起きたのかな? これって、何時も母親が 体験している事が自分の身に起きたのかな?」って思いましたよ。  何か、変にドキドキした記憶が あります。  そして、今の体験を早く誰かに言いたくなりましたが、自分なりに確信がつくまで黙って いた様に思います。  もしかしたら、自分の思い過ごしか、自分も神様の声が聞こえる様になりたいと 心のどこかで思っている事が、出て来ただけなのかもしれないという気持もありましたね。   以後も、私の一方的な想いを神様に向かって心の中で言い続けていると、時々ぽつぽつと、自分の 気持の様な、でも自分では考えつかない様な事が、心の中にフッと湧いてきます。  そうした事が何日 も続いてくると、次は明らかに自分のものではない気持が、太い声の言葉になって心の中というか、 魂全体に響きわたる感じで聞こえてきました。  その声の感じというか、特徴というのは、今まで 母親が神様の言葉を声にして伝えてきたのと同じでしたので、「あぁ、これは自分の家の神様だな」と 判りました。  多分、最初に気持を伝えてきて下さったのは、家にお祀りしてある不動様だったと 思います。  お不動様は、本当に面倒見がよくて、西岡学校の子供たちも、何時もお世話になっている 頼もしい神様です。  そうして、次は白菊じぃーじ様、白龍様の順だったと思います。  皆、それ ぞれの言葉に特徴があるので、言い回しで判るようになりました。  そうして、少し慣れてくると、 声の様な気持の様なものが心に流れ込んできた時に、それに対して返事をしてみたり、 自分の意見を述べてみたりして、少しづつ会話になればいいかなという感じで試していました。   神様の声は、心の中の上の辺りから、心の壁を通して大きな声が降りてくるようです。   それが、何時だったか、神様のお祭りの日に、母親の口から不動様の声で、「最近は息子も我らに意見を するようになったぞ! ワハハハハー!!」と言われた時に、「これは、時々自分なりに会話したつもり であったり、意見している事が、本当に不動様や他の神様達に伝わっているんだな!」と確信しました。   それからは、少し自信も付いてきて、神様に向かう気持も今までより強くなり、自分の心も見られている、 だから会話もしっかり信念をもった会話にしないといけないなと思いました。  そうして徐々に、神様 との意見交流などが出来るようになってきました。  次回も、神様との対話などについて書こうと思い ます。   


-2005年2月11日-
今日は、自分のマイナス的な心の状態が、身体に悪い影響を及ぼすマイナスの波動を持つ想念体を 作り出してしまう事についてのお話しです。   人は、様々な悩みや苦しみで、心の状態も暗く沈んでしまい、心の中の浄化が追いつかない部分が 増えてくると、次第にそれが身体の表面にまで上がってきてしまい、病気のような症状になったり、 頭や肩などの重みや、だるさ、痛みなどの身体的な苦痛にまで発展してきます。   これらは、霊的なモノに憑かれた時の症状と非常に似ています。   何故かというと、人に憑く様な霊は、大抵はマイナスの感情が働いており、この世を去ってから 何十年や何百年間も同じ様な事ばかり考えているため、霊的な進歩も無く、自分の哀れさや、人への 恨みや憎しみなんかを、今の時代になっても心から取り除けないでいます。   ですから、そういう霊に憑かれると、何故か暗くなりがちになったり、身体が重く感じたりします。   こういう、霊に憑かれた時の症状と似ているため、自分で作り出したマイナス波動の想念が、自分自身を 苦しめている事に気付かないで、悪い霊にとり憑かれてしまったと思い込んでいる人が多いです。   そして、相談者の人が訴える症状も、霊に憑かれている時と同じ様な事を言われるため、その人の 背後に霊がいるかいないかを見ないと、苦悩の全てが憑き物の仕業になってしまいます。   それが判らないと、その霊を取り除けば、また元の様な元気な自分を取り戻せると思ってしまいます。   心の想いや考え方も直せないままにいると、今度は本当に、マイナスの想いが、悪霊のマイナスの 波動を受けて同通してしまいます。  そうなると本当に、自分のマイナス想念が悪霊のマイナス想念を 呼び込み、人間と霊との間で、マイナス同士の繋がりが出来てしまい、その繋がりが太くなると、 直ぐには取り除けなくなってしまいます。   自分で作り上げてしまったマイナスの波動を持つ想念体が、頭の周りを取り囲めば、頭が重くてスッキリ せず、視界の悪さにもなって表れてきます。   後頭部の痛みや、コリにもなってよく出てきます。  また、内臓諸器官も調子が悪くなってきて、 病気かなと思って医者に行っても原因がハッキリ判らず、ただ薬の種類が増えたり減ったりするだけです。   悩みは悩みとして現にあるのですから、後ろ向きに考えずに、悩みに対して前向きに、今の自分に出来る 事を考えて、行動に移せるところは実行してみる事も勇気であり、一つの解決策です。   悪い結果を考えず、上手く行ったイメージを持って、そのイメージに到達する様にするにはどうするかを 考えましょう。  こういう考え方が、悩みの真っ只中では考えにくいので、普段から前向きで建設的な 考え方をする様に心掛けておくのも良いと思います。  そうすれば、自分で悪霊のような想念体を 作ってしまう事も無くなると思います。       


-2005年2月2日-
今日は、言葉の働きについてお話します。   言葉は、色んな所で人間関係に影響してきます。   人と普通に話をしている時や、人と言い争いをしている時、恋人に愛をささやいている時や、 真理を伝える時にも、常に言葉の力は発揮されています。  言葉には、「言霊」と言って、話をする 人の心の状態が、その人の話す言葉に乗って、聞いている人に飛んでいきます。   そうすると、話を聞いている人は、話の内容とは別に、気分的なものまで影響されてきます。   例えば、自分が話をする人に対して、良くない感情を持っていたり、その人が嫌いであったりした時に、 やはり自分の心の感情が言葉に乗って出てしまいやすくなります。   そんな時には相手側の人も、何となく言葉に隠されている感情を、敏感に感じ取っていたりします。   それで、言葉の調子の中に、何かトゲがあったり、イヤミっぽい言葉なんかあったりすると、それを 引き金として口論に発展してしまったりします。  マイナス的な感情をコントロール出来ていない内に 発する言葉は、そのまま相手にマイナスの波動を浴びせてしまうので、受け取る相手が心を調節出来てい ないと、お互いにマイナスの波動を浴びせあいながらの口論となり、気分も良くないですし、やっと磨い た心の状態も、また下がってしまいます。  また逆に、お互いの事が好きで、お互いに相手を思いやる 気持の中から出て来た言葉には、聞く人を安心させ、幸せな気持にさせる力を持っています。   そんな時に話す言葉には、少々キツイ言葉や忠告的な言葉でも、それが相手を思う気持から出た言葉で あれば、相手の人も、言葉の中に隠されている気持が、何となく判ったりするものです。   それで、そう気分を害する事無く、ちゃんと話を聞けたりします。  私が皆さんに、忠告的な言葉や、 少々キツイ言葉で接する時も、真剣に心から聞いて下さるのは、真理を話す者の言葉の力です。   こうして、話す言葉一つでも、お互いの心に何なりの影響を与えているのです。   これが、政治家や有名人など、その人の言葉が民衆に多大の影響を及ぼすものであれば、話す言葉の 重要性が求められます。  それは、言葉上の問題だけではなく、その言葉を発する、その人の心の問題 が問われてきます。  宗教者も、真理を伝える多くは言葉ですから、真理を伝える側の心の状態が良く ないと、真理も自分の都合の良い様に変えて伝えたりしてきます。  それで、多くの人が曲がった真理 を信じてしまう様な事があれば、伝えた側も聞いた側も、どちらも地獄へ落ちてしまいます。   言葉には、心の状態の良し悪しが、言霊として言葉に乗って広がっていきます。   良き心は、良き言葉を生み、悪しき心は、悪言を生むのです。   それを、今一度考えてみる事も必要だと思います。