神霊による人生相談

ょっ言。

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-2004年6月29日-
今日は前回に引き続き、六波羅蜜行の中の「忍辱」と「精進」についてのお話です。   「忍辱」は、「にんにく」といって、耐え忍びの心の修行です。   私が西国巡礼をしていた時も夏場がありましたので、道中のきつい山道で汗は出るし、喉は渇くし、 疲れてくるし、それでも助け合いながら、同行の相手から出る不満にも、文句も言わずに上りました。   こういう事で愚痴や不満を言ったり、我慢が出来なくなって途中でやめてしまったりする事は、 忍辱という修行が、まだまだであるという事になります。  また、信仰心を持って真理の道を 進んでいく中では、その価値を判って貰えない人達や、家族の者達からの愛情から来る心配がゆえに 、その様な宗教や、信仰などやめて欲しい等という事を、言われる事もあるだろうと思います。   その様な立場に立たされた時であっても、神仏に対する心の信仰を続けて行く事が出来るのか、 もう一度、客観的立場になって自分の信じる宗教や、その教え等を考え直して、それでも信じていく事が 出来るのなら続けていくという、柔軟な心の中に強い心を持つ事です。   そして、誰が見ても立派な人格者に成長していけば、もう誰も文句を言わないでしょう。   これが「忍辱」の完成であります。   そして次の「精進」は、弛まぬ努力の修行です。  六波羅蜜行を修行するにも、日々続けていくという 努力がなければ、六波羅蜜行は完成されないので、この「精進」は、他の修行を完成させるに当たっても 必要であり、重要な修行なのです。  巡礼の旅も、この努力という「精進」の姿勢があって初めて、 全ての霊場を巡る事が出来るのです。  冬の厳しい寒さの中や、夏の暑い日差しの中を、黙々と 歩いて行く。  この道中も、人間の人生と同じで、進まなければ達成はありません。   「精進」という修行は、怠け心を改める修行にもなります。  また、先の「忍辱」と合わせて修行する だけでも、人に中傷されて好きな事でも直ぐに止めてしまう様な人には、良い修行方法であると思います。   次は、「禅定」と「智恵」についてお話します。


-2004年6月25日-
今日は、前回の話の中に出てきた「六波羅蜜行」についてのお話です。   この六波羅蜜行も、色んな本等で詳しく解説されていますので、今回は文字の持つ 意味を直接解説せずに、私が西国観音霊場巡りや、良く行くお参り等で実感した体験や 想いなどを、この六波羅蜜行に照らし合わせてお話しようと思います。   まず、六波羅蜜行の最初である「布施行」です。   布施は、施し(ほどこし)といって、困っている他人に対して、何か自分の出来る範囲の事をしてあげる事です。   また、お布施といって少々のお金を置いてくるというのもあります。  これは、募金やお寺の修復 費等にも該当し、「財施」という布施行に当たるでしょう。  あと、霊場巡りには、きつい坂道や階段があり ますので、ご年配の方などが大汗をかきながら「あと、どれ位で本堂まで着きますか?」とよく聞かれます。   その時に、優しい笑顔で出来るだけ気持ち良く答えてあげ、それによって疲れていた相手の心を軽やかに してあげる事も、「顔施」と「言施」という布施行をしているのです。  また、お参りの道中にでも、仏様や 神様のお話や真理のお話をして、人間としての心の重要さを改めて知ってもらう事も、「法施」という 布施行に当たります。  この様に、布施行はお参り時だけではなく、日々の生活の中にも活用して いけるものだという事が解って頂けると思います。  次に「持戒行」があります。   これは、巡礼等をする時の礼儀作法を守り、道中や期間中に淫らな行動や悪口、怒り等を自身の心で 戒めながら、規律を正しく守って巡礼の行程を進んでいくというものです。   これは、日常でも当てはまり、身・口・意という三業を戒め清浄する事を心掛けるものです。   「身」とは、身体で行う(盗み・邪淫・殺生)を戒めるものです。   「口」とは、口から出す言葉で(嘘・悪口・二枚舌・綺語)を戒めるものです。   「意」とは、心の持ち方で(欲・怒り・妬み・不正な見識)を戒めるものです。   これらを自身の心に確りと持ち、規律を守って巡礼の日程をこなしていく中や、正しく日常の生活を送っていく 中においても、持戒行を遂行していく中で、人としての道理を学んでいきましょう。   次回は、「忍辱」と「精進」についてお話します。


-2004年6月21日-
今日は、前回の続きをお話します。   般若心経は、全てを無にしていく思想の中から、後半は無から有を転じさせております。   これは、諸法無我を悟り、そこから涅槃寂静の悟りに移っていくためであり、魂の本質を見極め、 仏の子として本来の在り方を示すものであると思います。  また、三世の諸仏(過去・現在・未来) の仏様達は、この般若心経の教えを実践する事で悟りを開き、般若の知恵を獲得してきたという事です。   そして、涅槃の境地を確固たるものにしていくには、菩薩行という修行が必要になってきます。   これは、進んで人のためにと尽くしていこうとする心であり、「利他行」の心です。   自利即利他といって、自分がしてもらって嬉しい事は、それは他人にとっても嬉しい事でありますから、 自分の利益だけに留めておらず、他人にも分けてあげる心が必要だという事です。   それには、六波羅蜜多行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵)という修行があるのです。   例えば、他人に対する施しの心を養う修行には、布施行というものがあります。   これは、困っている人に対して優しく語りかけてあげる事や、優しい目や顔で思いやりの心を 施してあげるだけでも、相手は心が和むものです。   それらの心は、菩提心という心から発せられる菩薩の心です。   また、一番尊い布施は「法施」といって、生きる意味や仏の慈悲による魂の存在など、その人の 心を導き救ってあげる真理の言葉です。  それは、この世で悪の道に染まっていても、法施で心を回心 させれば、魂を救う事が出来るのです。  そうして、どうしたら困っている人を、少しでも多く導き 救っていく事が出来るのかを考えていく心が、大乗仏教的な思想です。  ですが、その前には、 まず多くの教えを吸収し、自分を出来るだけ磨き上げる事が大事になります。   この段階が、小乗といって自分作りの段階であると思うのです。  小乗で、教学や認識力を高め、大乗 では、世の中に出て多くの人達を救済するという段階です。  これは、学校で勉強した事を、 社会に出て実際に実行してみる、または働いてみるという事と同じであると思います。   これらの修行を、我欲を離れて人々の為に働き、精進していくのが菩薩という立場です。   ですから、様々な欲等による心の執着を離れて、本来の仏の子としての魂に気付き、 般若心経の教えを精進していく事で、仏の世界の心の境地まで達する事が出来るのです。   そうして、「空」という本来の意味を知り、その中での自分の役割、自分の存在を見つける事 ができるのです。  最後に、般若心経の心の修行を行う事は、この様に素晴らしい修行でありますから、 皆と共にこの修行を完成させるべく、共に精進して行きましょうという事です。  以上で、大雑把では ありましたが、「般若心経」というお経のお話をさせて頂きました。


-2004年6月15日-
今日は、般若心経というお経と、その内容の持つ意味についてお話します。   般若心経というお経の名前は、皆さんも一度位は聞いた事があると思います。   このお経は、広く一般的に使われており、本屋さんでも、このお経を解説した本が 沢山並んでいるのを見かけます。   ですから、いちいち細かくは解説しませんが、大雑把な要点だけを説明した中で、 般若心経というお経は、こういう事を言っているお経であると解って頂ければ良いと思います。   また、お経の作用については、内容が解って唱えるお経と、内容も何も知らずに唱えるお経では、伝わる波動が全然違います。   生前にお経を勉強していて、内容や、ありがたさも解っている人なら、その人が霊界に還った時、 子孫等が意味も知らないで唱えたお経でも解りますが、生前にお経など全然勉強もしなくて、 普通に生活していた人の魂が霊界へ還って、その人の霊前で、子孫が唱えるお経を聞いても意味が解らないのです。   この世で勉強した事が無い事は、あの世に還っても解るものではないのです。   魂だけの状態になると全てが解るという事はありません。   あの世の魂が、お経の意味が解るようになるには、お経を唱える側が、そのお経の意味を知る事で伝わります。   理解して解っている部分が、お経を唱える音の波長に乗って霊界まで運んでくれるからです。   ですから、出来れば全てでは無いにしろ、ある程度の部分は理解しておいた方が良いです。   そのお経を霊が聞くと、お経の調子に乗って意味までが同時に流れ込んで来るので、「あぁ、そういう事か」と 解ってくるのです。  それが、霊自身のまだ反省出来ていない点や、執着の残りなど、 上の世界へ上がる為に不足しているところを気付かしてくれる役目を果たします。   そうして、少しでも上の世界へ上がって行かれる様に後押しをしてあげる事が出来るのです。   でも、霊自体も直ぐには全てを理解出来ないので、これも毎日か、数日置きに繰り返して唱えてあげる必要があります。   これが、子孫達が出来る先祖供養などに当たる訳です。  私が、般若心経くらいは意味を理解して唱えた方が 良いですよと言うのは、この作用があるためです。   霊界を信じていない人は、死んでからも自分が霊界にいる事さえ、なかなか信じようとはしないのです。   ですから迷ってしまって、どうしたらいいのか判らなくなって成仏しきれていない霊が沢山いるのです。   般若心経は、肉体の死後、心に残っているこの世の様々な執着や、肉体的執着を取り除くために、 お経の前半は「一切は空である」という理論を掲げています。   それは、諸行無常の理論に共通するものであります。  また、魂が肉体に宿っている時は、目の前に展開されて実在 していたものが、時を経てまた空の世界へと還元されてしまう。  人の心の状態も魂だけの状態になれば、 また、空の世界へと還っていくのです。  空は、それ自体のエネルギーが宇宙を満たしており、 その中で様々な現象が起きているだけの事なので、エネルギーの増減は無く、全てが満たされたエネルギー の循環作用(転生輪廻)に基づく現象であるのです。  これらが「諸法無我」の思想ですね。   空(霊界)というこの世的な執着が無い世界は、唯物的な苦や 肉体的な束縛による生老病死という苦から開放された世界ですよという事です。   それには、自分の心もこの世からの執着を取り除き、神の法則を受け止め認識しいていく事で、 開けてくる世界という事なのです。  これは「涅槃寂静」の思想に通じるものがあります。   次回は、この続きをお話します。


-2004年6月10日-
今日は、「三法印」の三番目の教えである「涅槃寂静」についてお話します。   この「涅槃寂静」の境地を知るには、最初の「諸行無常」と「諸法無我」の悟りを持った結果、 更に、今在る自分という存在の意味を追求していく事にあります。   時間的な観点から見た無常と、空間的な観点から見た無我(空)。   その永遠なるものの中には、自分の力だけでもって存在しているものではない。   しかし、現に存在している自分。  また、本来の自分とは、この世において肉体の中に宿り、 今の時代のみを生きているだけの存在ではないのです。   本来の自分というものは、神によって永遠の時間と空間の中で、生かされる事を許されている存在であります。   その中において、自分「この世、この時代に我在り」という意識から、大いなる神の創りたる 永遠の時空の中で生かされる我を感じ取ろうとした時、そして本当の自分とは何であるのかを感じ取ろうと考え ぬいた時、自分というものを通して、本来の神の想いや、その意図、その姿というものを、 見抜いていく事が出来るのです。   そして我は、「空より出でて空より還る」という色即是空の本来の意味を知り、この世とあの世と いう時空を超えて、永遠に転生しながら魂修行をさせてもらっているという、本来の意味を知るのです。   「涅槃寂静」は、この世に生きながらにして、神仏の境地が解るという枠内(魂の次元)に入ることです。   この世においても、常に心は神仏の世界に繋がっている心情であり、物事を真理に照らし合わせて、 霊的観点から正しく判断出来、また、この世の一切の執着から離れる事が出来る心の状態である事です。   それには、神の想い、神の意志を自分という存在を通して理解しなければなりません。   神を知るには、まず自分という存在を知る事が大事です。   そして、幾転生を生きているという意味の本質を見出していく事です。   「涅槃寂静」は、その事を知った時におとずれる、魂の心の境地であります。  


-2004年6月5日-
今日は、前回の「三法印」の続きで、第二番目の教えである「諸法無我」についてお話します。   この教えは、全ての存在は無我であるという事。  つまり、自分という存在の根本自体を、自らが 全て成り立てているものでは無いという意味においての我なしの心であり、それ自体、自分自体が、永遠なる存在で はない。  この世において、自分が現在、確かに生きており、存在していると思っているであろうが、 その存在さえ確かなるものは無い。  諸行無常が時間の流れの中、全てのものが変転していく中では、 常なるものは無く、その時間の流れの中で執着心を出さない生き方を見出す事でした。   そして「諸法無我」の教えでは、自己の存在、今在る場について、空間的な認識の教えであります。   それはまた、空の教えでもあり、魂の出生、転生輪廻の教え等に繋がり、その先の教えには、 自分という存在を通して、大いなる神の存在を認識するところにあります。   現在を生きる自分は、転生輪廻という生まれ変わりのサイクルによって現世に生まれ出てきたものであり、 それが「時」という時間の流れにのって肉体の死後、霊界へ還ります。  この魂の循環のサイクルが 「空」の空間的法則であり、その法則にしたがって森羅万象は進展していくのです。   そして、現在・過去・未来という空間において、その法則が永遠に流れていくという事実。   その法則をつくりたる者が、「大いなる神」であり、その「神の法則」のもとに生かされているという 自分の存在に気付いた時、我が我がという思いの心でいられるのか。   神が在って我があり、神の法則にのって生きる自分があるのです。   ですから、大いなる神の意識の下に生かされているなら、我が在るのは、生かそうという神の意志が あるからだと気付かなければなりません。   私達人間は、どうしても今の自分、今の世界しか分からない為に、自分の意志によって、この世に 自分なりに生きていると思っているが、神の目から見た本来の事実はそうではないのです。   我無しという事は、本来は自らの力によって存在しないという意味であるが、同時に神の意志によって仮に存在している という事です。  そうして、我らの魂修行の場を提供してくれているのです。  故に、我無しという心が必要なのです。   この、否定の中の肯定という理論は、諸法無我を理解する上でとても重要であり、多少の悟り感も 要求されるのです。    これで、諸行無常の時間的観点から見た教えと、諸法無我の空間的観点 から見た教えを終わります。  次回は、三法印の最後の教えである、涅槃寂静についてお話します。