神霊による人生相談

ょっ言。

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-2005年3月30日-
今日は、西岡学校の旅行(霊界旅行)についてのお話です。   西岡学校の子供たちは、霊界からいつでも出て来られる環境におります。   しかし、いつでも好き勝手に出て来たりしないのは、神様に護られている西岡学校と霊界との規律が、 きっちりと定まっていて、子供たちは、その決まりをちゃんと守っているからです。   そうした日々の中で、西岡学校の子供たちにも、この世の子供達と同様に、春休みや夏休みなどの休日を 設けて、普段出来ないような事も体験しています。  その休みの間は、学校内の友達同士で遊びに行っ たり、私たちと一緒に買い物や、お出かけなどもします。  その中で、西岡学校の生徒達が一番の楽し みとしているのが、泊りがけ旅行(霊界旅行)です。  この旅行は、今の時点では、私がお付き合いを させて頂いている神様の神社にお泊りをさせて頂いて、そこから、この世の色んな遊びの施設や名所などを 、楽しみながら観光していくというものです。  前回は、お伊勢様の所でお泊りをさせてもらい、伊勢 観光をして来たようです。  出発の様子は、西岡学校の校庭に勢揃いした子供たちを乗せて行く乗り物 として、新幹線の列車やバスなどがやって来ます。  新幹線は、我が家にある鉄道模型の列車、バスは ミニカーの玩具を、「子供たちの乗り物とする」という念を込めて供えます。  すると、それらを供え た事によって、霊界にある西岡学校の子供たちの前には、立派な乗り物としてやって来る訳です。   それから、新幹線はレールが無くても、時空を飛びますので大丈夫です。  バスも、時空を走り抜けま すので、道路が無くても平気です。  これらの乗り物は、遠い所に行くには基本的に速度の速い乗り物 である新幹線等を選び、比較的近い所はバスなどの車関係になる事が多いですね。   そうして乗り込んだ車内の椅子に座って、お菓子を食べたりしながら、ワイワイと皆で楽しく外の景色を 見たり、お喋りをしたりしているそうです。  そうして景色の良い所に着くと、そこでお弁当をひろげ て食べるそうです。  このお弁当は、私の母や妹が作ってくれたお弁当をお供えしたものです。   こうして、全てお供えした物(新幹線やバス、お菓子やお弁当)を、実際に霊界で乗ったり、食べたり しながら子供たちは、楽しんでいる訳です。  行き先の選択は、以前私がお参りで行った先の何処かに 決まる事が多いです。  何故かというと、一度お参りしてご縁を結んで帰ると、そこの神社の神様と我 が家は縁続きになるので、西岡学校の子供たちを受け入れて下さるのです。  そうして、霊界の時空を 通りながら、新幹線やバスの車内の窓越しに、こちらの世界の風景を見物しているのです。   そして目的地に着いたりすると、皆でぞろぞろと歩きながら神社の境内や、その周辺にある観光地を見 て歩きます。  でも、こちらの世界に住む私達人間の目には見えません。  だから、皆さんが何処か の神社仏閣へ、お参りに行かれている時に、もしかしたら西岡学校の生徒達が横に歩いているかも知れま せんよ。  次回は、神社でのお泊りの様子から、西岡学校へ帰って来るまでをお話します。


-2005年3月23日-
今日は、久しぶりに最近の西岡学校の子供たちのお話をしましょう。   西岡学校とは、私があの世につくった学校で、身寄りの無い子供たちの霊の中で、我が家の神様や仏様に 認められた子達だけ集めて生徒にした学校の事です。  あの世につくったと言っても、私が直接行って つくった訳ではなく、瞑想時に「学校を建てる」という念を飛ばし、あの世でその念を具象化し、学校と いう建物を、霊界の磁場に定着させたものです。  一度出来ると、後は霊界の子達に対して、その建物 を学校として認識させます。  そうすると、その子達の念も相まって、完全なるものになります。   これは、霊界の「念の法則」を知っている人なら、少しは理解出来るでしょうが、普通の人は、そういう 事も出来るんだなと思っておいてください。  また、生徒の大半は、まだ幼い子達ばかりで、この世 的にいうと幼稚園くらいの歳の子供達です。  あっ、そうそう、学校の横には、子供たちの家も建 ててあります。  でないと、その子達は無縁仏でありますので、お墓も朽ち果てているらしく、草むら や木下で寝ていたと言っていましたから。  よく、古いお墓や、古い小さなお地蔵さんなどが、草 むら等に転がっているでしょ。  あれなんかで、心の清い子供たちは選ばれてこちらへ来たりするんで すね。  また最近では、お参りに行った先で、その寺の本尊様に許してもらって西岡学校へ転入したり する、言わば優等生の子供の霊なんかも居ますよ。  そして誰もが、他人を思いやり、皆のために何か してあげようとする心を持っています。  般若心経なんかのお経も、つっかえつっかえですが読めます よ。  私が毎日、お経を唱えるので覚えてしまうんでしょうね。  まあ、こんなのが西岡学校であり、 その生徒達であります。  先生役は、私もしていますが、私のご先祖様にもお願いして先生役をしてもら ってます。  その他には、不動様や白菊じぃ〜じ様、白龍様、阿弥陀大先生(校長先生)などが居られ ます。  最近の西岡学校の子供たちは、春休み中という事もあり、何時もの寝る時間より少しは遅く起 きていても仏様の先生方に怒られません。  また、春休みという時期は、不動明王様が同行してくださ る「霊界旅行」が許される時期でもあります。  「霊界旅行」は、この世とあの世を結ぶ旅行の事で、 あの世に暮らす子供たちが、あの世の次元を通って、この世の世界の色んな場所に遊びに行く旅行です。   次回は、その旅行についてお話しましょう。


-2005年3月18日-
今日は、お彼岸という事もあり、ご先祖供養の一つとして、ご先祖と一緒にお経を唱えてもらえるように する方法をお話します。  ご先祖様の内でも、生前にお経を読まれた事の無い人がいると思いますが、 その様なご先祖でも、日々の供養をしている内に「般若心経」のお経くらいは、ちゃんと唱えられる様に なります。  それは、我が家でも実行していますが、日々「般若心経」を唱える時に、最初に唱える 般若心経は、自分がご先祖様に対して供養する気持ちで唱えます。  次の2回目の般若心経は、ご先祖 の内で、お経を唱える順番をあらかじめ決めておき、「今日は、誰々さんがお経を唱える日ですよ」と いった形で、順番通りに一日一人のペースでお経を唱えてもらうようにします。  この時、2回目に 唱える般若心経は、感覚的には自分自身で唱えているようですが、ちゃんとその日の順番に当たった ご先祖が唱えているんです。  本当かな?と思うでしょうが、自分で唱えているようで、実はそうでは ないんですね。  実際にしばらく試してみると、何となくではあると思いますが判ると思います。   それで、今日のご先祖が唱えた般若心経は、昨日のご先祖が唱えた般若心経より、上手に唱えられたな とか、今日の般若心経は、やけに引っ掛かりながら唱えたなぁ〜なんて思ったりしますよ。   目には見えないですが、そうして自分たち先祖の中でお経を唱える順番が回ってくると、先祖の方も 「これは、他の先祖の手前、もたもたしてられないな」という気持ちになり、それぞれ一生懸命にお経を 覚えたりして、とても良い勉強になります。   毎日、とてもお経など唱えてられないという人は、毎月一回の月命日の日に、ご先祖と一緒にお経を 唱えれば良いです。  それだけでも、ご供養としては随分と値打ちのあるものとなります。   要は、ご先祖にやる気と希望を持たせてあげる事です。  その上に、自分たち(ご先祖)の事を忘れず 、そういう事までしてくれる子孫からの愛情を受けたご先祖は、すごく温かで幸福感のある気持ちに包ま れ、子孫に対して「ありがたいな」という感謝の気持ちを持つ事でしょう。  その気持ちは、まさしく 天国に通じる気持ちです。  その心を持つ事が、どれだけ大事なことか。  天国に住む人は、皆その 心を持って幸せに暮らしています。  天国で暮らすには、天国に通じる心を持つ事が条件になります。   その条件を満たしてあげれるように、供養という形の助けが必要なのです。   先祖が、自分で努力 しながら天国へと歩んでいく時に、子孫達が供養という形で、歩みの後押し(行く手を照らしてあげたり 、背中を押してあげたり、励ましてあげる等)をする事です。  この供養の仕方は、それが出来るので す。  さらに良く言えば、般若心経のお経の内容を大雑把にでも知っておくと、ご先祖が成仏する時の すごく良いヒントになります。  この様に、一段進んだ積極的な供養の仕方もあるという事です。   


-2005年3月12日-
今日は、頭痛や肩こりなどに悩む人と憑依の関係についてのお話です。   私の所には、頭痛や肩こりで悩んでいて、それが憑依と何か関係があるのではないかという事で、 相談に来られる人がいます。  そのような時は、半分以上の確立で憑依と関係があります。   それは、まず医学的に私の知りえる範囲でいうと、肩こりというのは「ストレス」や「筋肉の緊張等」に より、肩の筋肉が圧迫され、血流が悪くなり、うっ血してきます。  そうすると、血液は筋肉に対して 充分に酸素や栄養を運び難くなり、乳酸などの老廃物が筋肉中に溜まってきます。  こうして、肩のま わりに代謝異常が起きてきます。  これが、肩こりやその他の不快感に繋がっていきます。  肩や首 筋がこったり、さらにストレスも加わってきたりすると頭痛になったりしてきます。  これを、霊的に 見てみると、身体の中を流れる血液がサラサラと滞りなく流れている場合は、魂を包み込んでいる幽体 (肉体の直ぐ下に、人の形と同じ背格好をしている薄皮みたいなもの)を通して、肉体自体も白く光って いるのですが、首や肩のまわりに血液の滞っている場所があると、その部分が黒くくすんで見えます。   人に憑依してくる霊は、霊自体も暗く陰気で、希望も無く不満だらけなので、そういう霊が人に憑こうと 人間の身体を霊の目で見た時、自分(霊)と同じ様に、人間の身体の中の出来るだけ暗い部分に憑こうと 考えるのです。  これで、人間側のストレスや悩みなどが深刻化してくると、その黒くくすんだ場所が あちこちと増えていったり、さらに黒くくすんできたりします。  こうした結果、身体的にも精神的に も、霊に憑かれ易い環境を自分で作り出している事があるのです。  身体も辛い、心も辛いとなってく ると、ますます憑依霊の心の状態と似てきます。  憑依してくる霊は、生前の辛さを未だに引きずって いるので、霊とこの世の人間の心の状態が似てくると、仲間意識(同通意識)が出てきたりして、一緒に 悩んでくれ〜という感じで霊に憑依されてしまうんです。  それで、運悪く霊に憑かれたりすると、 肩や腰等の痛みが増してきたり、お薬やシップを貼った位では治らなくなってきます。   私がそういう人の体を見てみると、頭には霊がグルグルと巻き付いていたり、肩に霊が乗っかっていたり します。  そうして長い間、自分では肩こりだと思いながら、霊をくっ付けている人がいます。   この様に、霊は身体の暗い部分、心の暗い部分に引き寄せられる様にやって来ます。   昔から、「心身ともに健全であれ」と言われるのは、こういう事にも当てはまると思います。   心と身体は、同じ様に関係し合う存在でありますから、片方だけが良くてもいけません。   心と身体のバランスが大事になってきます。  それには、真理を学びつつ、身体も健康に保つ様に 努力してみる事も必要です。  


-2005年3月6日-
今日は、人が亡くなって暫くの間は、一体どうしているのかについて書いてみます。   人は亡くなってから49日と言われる間は、自分の家の中で家族と一緒に居たり、親戚や友人のお宅を 訪問したりしています。  その間に、色々と自分なりに考えたり、もう生きて会えなくなった親しい 人達に挨拶に回ったりしています。  私の所にも、そうした霊が回って来られた事がありました。   そして、生前のお礼や、本人が亡くなって魂だけの状態になって初めて分かった事などについて、 話して帰られました。  そうした挨拶事が、親戚や友人の死後何日かすると行われます。   また、家族の中で誰かが亡くなられた時などは、何時も座っていた椅子や、家の中のお気に入りの場所 などに霊として居たりします。  そして、家族の会話を皆と一緒に聞いていたりします。   そんな中で、自分も時々家族に向かって喋ったりするのですが、やはり霊となった自分の声を聞ける 者はおらず、徐々に、自分はもうこの世界の住人ではなくなったな、自分はもういくら居てても家族とは 話せないから、そろそろ行く所(霊界)へ行かないとな、という考えになってきます。   そんな時に、家族と離れるのが嫌で、何時までも家の中に居座っている霊もいます。   また、残された家族に不安や言いたい事が残っている場合なども、なかなか霊界へは帰り難いようです。   そんな気持になった時、生前に真理などを勉強している人等は、この心の状態を長く続けていると、 霊界へも帰れず、人間界にも当然の事ながら居れないので、成仏出来ないどっちつかずの霊になって しまうなと気付くはずです。  そして、まず自分は自分の人生を反省するところは反省して、心を 浄化していこうと、素直にそう思ってやってみる事が出来ると思います。   しかし、真理を知らない人や、信仰心や宗教的な感心事が無かった人は、なかなかそういう気持には なり難いので、成仏するのに日数が掛かる事になります。  その間で、自分の意志が伝わらない不満や 不平感が出てきたりすると、残された家族や親類の誰かに災いが起きたりします。   また、亡くなった人の霊が夢に出てきたりする事もあります。  また、お気に入りの物(置物等)を 倒してみたり、する時もあります。  家族の中で霊的に敏感な人には、家族の中で亡くなった霊が、 何時も自分のそばに居る様な感じを受けている人もいます。  亡くなった霊は、暫く以前と 同じ様な生活様式をとりながら、徐々にこの世での執着を取りつつ、霊としての自覚を持っていくのです が、そうでない場合は、残された家族に何か霊的現象を起こして、言いたい事を伝えてくる場合が あります。  この様な場合も、残された家族が真理を学ぶなりして、明るく正しく生きていこうと する事で、霊は家族を通して真理が学べるので、霊としての不安も不満も徐々に解消されていくのです。   人は、亡くなって全てが分かる訳ではないので、幾日も掛けてこの世とあの世の事を学んでいきます。   普通、亡くなってからは、そうした新入りの魂として勉強の時期に入っていくのです。