神霊による人生相談

ょっ言。


-2003年4月30日-
今日は、人間の死後についてお話します。
人間は、肉体の死後、魂だけの存在となって数週間の間、この世に残って家族や親類、 友達等の間を行き来したりして、皆の気持ち等を感じ取ったりしながら過ごします。   この間を、昔から三十五日や四十九日と言い、この間で自分の気持ちの整理をし、肉体が無くなった と言う事実を受け止め、あの世と言われる世界への旅立ちを決心するのです。   この時に、この世に心配事や、仕事や所有物等に執着心が必要以上に残っていると、それ(執着心)が 魂に「おもり」となって、上の世界へと上がって行き難くなってしまうのです。   これは、昔から言われている「三途の川」を渡る時に、自分の身体が重くなって川で溺れそうになる というものと、同じ事なのです。  これも、結局は自己の執着心が重石となって身が重くなって いるのです。  私も一度、以前に「三途の川」を、上空から見た事がありますが、山間を緩やかに蛇行する 非常に美しい川であり、川幅は広いですが、深さは膝位に見えました。   丁度、四国の「四万十川」に良く似ているな〜と思いました。       そして、とても透明度が高く、川の中間程にはキラキラ光る宝石や、お金などが沈んでおりました。   その様な中で、一人の男性が溺れていました。   川は、立って歩ける位とても浅いので、溺れるはずがないのに、その人は器用にも溺れていました。   結局、この人は物質欲や金銭欲がまだ多く残っているのです。  そして、身を軽くしようと必死に ポケットから水に濡れて重くなった札束を川に捨てておりました。  こうして、必死の思いでやっと向こうの川岸まで 辿り着いていました。  この後に私は、ちょっと川の水に触れようと思い、空から降りてきましたが、川面からほんの数メートルの 上空の所でストップしてしまい、それ以上に下には降りられませんでした。 
次回は、この続きで「三途の川」を渡ってからの事についてお話します。  


-2003年4月27日-
今日は、人の運命と人生修行について少しお話をしたいと思います。
人には、それぞれに持って生まれた運命というものがあります。   この運命の中には、その人固有の魂の傾向性というものがあり、言わば性格の様なものです。   ですから、この人は、この様な性格・気質であるので、人生を成功や失敗を含めて、大体こういう風に 過ごして行くだろうと予測されるものが、その人の魂の傾向性であります。   次に、運命としてあるのは、家庭環境であります。  これは、生まれてから成人するまでは、子供として どうしょうもない問題であるのも事実です。  次は、どの国に生まれたか、という事になります。   これは、その国の社会事情に左右されてしまう事があるという事です。   これらの諸事情が、一人の人間に絡み合って運命になるのです。   ですから、才能があっても家庭環境が悪く、社会事情(戦乱時や思想の抑圧された国)等で、 自分の持つ力が思いどうりに発揮出来ない事があります。   しかし、この運命の中にも自己努力というものがあり、この未開発の部分がその人の持つ運命の 残り半分に、影響を及ぼすのです。  これに、友人や師となる人の援助が加わる事によって、 運命を良い方向に転換する事が出来るのです。  自己を磨き、努力を惜しまなかった人が、 他人の助けで更に発展していく事が出来るのです。  これには、神の助けがしっかりと関わって いるのです。  努力を惜しまない人には、神は必ず力を貸してくれるのです。   神の力は「他人の援助や、良きインスピレーション、良き機会を得る」等に表れてきます。   人の運命とは、持って生まれたもの半分と、自己努力に神や他人の助けといった半分が、複雑に絡み 合っているという事なのです。  ですから、何の努力もせずにいると、持ち合わせた運命に ほんろうされた、人生になるでしょう。  こうならない為に人間は皆、自分で自分の人生を責任を持って 切り開いて行くのです。  それが、この世の運命の中で人生修行をするという意味なのです。


-2003年4月24日-
今日は、先日にお話した「西岡学校」の子供達の、最近のお話をします。
この頃の子供達は、学校で一生懸命に字を学んでいるらしく、お供えしたノートに字を書いて きています。  そして、所々に漢字が入ってくる様になりました。  まだ一番小さい子 (3歳〜5歳位)でも、漢字が一つ書けていました。  それは、「字」という漢字で、今迄は 「じー」と話し言葉で書いておりましたが、今日見ると「字」と漢字で書いてあり、文章の後に 「わたちたち、いっちょうけんめい、べんちょうちてるよ。」と書いてあったので、この子なりに 頑張って一つの「字」という漢字を覚えたんだなーと思いました。  ちなみに上記の文は、 「わたしたち、いつしょうけんめい、べんきょうしてるよ。」というもので、小さい子の話し言葉で 、普段私に話しかける様な言葉の文面で書いてきます。  ですから、ちょっと読みづらい時もありますが、 勘を働かせながら読んでおります。  皆、確実に進歩しているようです。   それから、この子達は、私と一緒にお経も唱えられる様になりました。  毎日お経を唱え、また 同じ子供として先輩格である、私のご先祖の子供にも教えてもらっている為に、結構早く覚えて しまったようです。  私は毎日「神様」とお話をしていますが、その中でも「西岡学校の 子供達は偉いのぅ〜。」と言っておられます。  こういう事も、私の日々の生活の中で、当然の事の様に 起きているのです。  我が家には、現実世界の生活感の中に、霊界の世界観が、かなり入った 感じであり、霊界の世界観や常識を、ちゃんと認識していないと、「なんじゃ〜?」という事に なってしまうでしょう。  私の家族には、ちゃんと理路整然と受け止められているようですが。   でも、しっかり神理を学んでいれば理解出来る範囲なので、全然大丈夫なんですけどね。


-2003年4月22日-
今日は、ご相談に来られた皆さんが、ご祈祷を受けると顔色が白っぽく明るく 見える訳についてお話します。  これは、私がご祈祷をし終わって何時も思う 事なんですが、特に女性の方が相談に来られた時の表情と、終わって帰られる 時の表情に違いが現れる事です。  家に来られた時は、どうも体全体が暗く 顔色も、うす暗い感じがしていて、私も「どうしようかな」という感じでお迎 えしたりします。  でも、神棚の間の隣の居間で、一対一で話しをしている 内に、「真理」の光が私の言霊に乗って相手の体に入り、縛られた心を解放し ていきます。  これだけでも、十分に心の中に真理の光が入るので、気持ち と体が楽になり、前向きな希望が湧いて来ます。  そして、体から内なる光 が射してきて、体全体が明るい感じになります。     更に、ご祈祷を受けると魂から発する光が一層強まり、特に衣服を着けていな い顔の部分に明るさが際立ちます。  女性的に言うと、急に1〜2番くらい明 るめのファンデーションに塗りかえた感じでしょうか。  その様な感じを何 時も受けます。  そして、言葉のやり取りまでに自信が感じられる様になり ます。  この様に、神の心にかなった神理の光は、人が生まれながらにして 持っている魂の心の光を、一層輝けるものにするという事です。   この内なる魂の光が心を浄化させ、内心から人を美しくさせ、その光は体の表 面まで照らしだし、顔色などを明るく白く浮き立たせているのです。   女性の真の美しさは、外見だけではなく、内面を磨けと言われるのは、心の状 態をも美しく磨けと言う事なのです。  そうすれば、外見以上に内なる光の 作用で、その人自身が、より輝いて見えるはずです。  


-2003年4月19日-
今日は、先日お話した「西岡学校」の内の、一人についてお話します。
その子は、私の所に一番最初に現れた事もあり、学校の子供達の中では、一番しっかりとしています。   そして、女の子でもあり、年は十歳にも満たないのに、皆の世話をするのが好きで、いつも誰かの為に 自分の出来る事を一生懸命しています。  その女の子が、「今日は、おじいちゃんの命日だから、 「おはぎ」と「パン」を作ったの。」と言って、私が朝起きて来た時には、すっかり出来上がって神棚と 仏壇に供えてありました。  ここで「作る」と言っているのは、私の家族の者に入って何かをすると言う 事になり、その為、私の家族の誰かに頼むという事になります。  今回は「おはぎ」と「パン」でしたので、 私の妹という事になりました。  大体何時も、料理やお菓子作りなどは、女の子が妹に頼み込んでおります。   そうやって、出来る人に付いて教わりながら、初めてのパン作りなども体験しているのです。   妹が言うには、何故かいつもと味が違った物が出来、妹は「私が作るより美味しいよ。」と 言っています。  多分、いつも作るパンが、小さな女の子の「神様やおじいさんに美味しく食べてもらおう。」 という愛情が、一杯、パンに詰まっているからだと思います。   また、作る時に水の量や味付けの仕方が、妹だけで作る時よりも、少し違うらしいです。   この辺は、その女の子の考えが働いているのだと思います。   そうして、出来た「おはぎ」と「パン」を、朝から食べさせてもらいました。   女の子が「ちぇんちぇー(先生)!美味しかった?と聞くので、「すっごく美味しかったよ。」と 言うと、顔から笑顔が、こぼれそうなくらいニコッとして満足しておりました。   この子は、人が喜んでくれるのが一番嬉しいのです。  喜んで食べてもらえれば、それだけで満足なのです。   「他人の為に、自分が何かをする」というのは、奉仕の愛情であり、決して何かの見返りを求めない 心なのです。  現代の人間は、他人に何かをしてあげても、心の中では、褒めてほしいとか、 お礼に何かを返してほしい等と願っているものです。  結局は、「他人の為も、自分の為」になって しまっているのです。     私は自分の小さい時とは違い、「この女の子は偉いなー。」と感心し、反省した次第です。   この様に「純粋な、ひた向きさ」「奉仕の心」は、感謝の念と相まって素晴らしい信仰の心になるのです。   私も、ずい分と感嘆させられる事が多いです。  


-2003年4月18日-
今日は、我が家の子供達の霊の成長についてお話します。
私の所では、先祖の他に、幼くして亡くなられた子供達の霊が居ります。   その子達は、不運にも何かの事情で亡くなり、供養もされずに居ましたが、誰も恨む事無く、 一人暗い所で寂しい想いをしていました。  これを知った私の先祖である子供霊が、いつしか 自分の所で遊ばしてあげる様になりました。  しかし、時が来れば、やはりその子達は自分の所へ 帰らねばならず、また寂しい想いをするので、私が「西岡学校」と言う名の学校を霊界に建てて あげました。  学校の横には子供達の宿舎があり、もう暗く寂しい所へは帰らなくて済む様になりましたので、 子供達はとても喜んで、何十年ぶりかの温かい布団でぐっすりと眠れたようです。   そして、今では「西岡学校」で色々な学問を学び、我が家であげるお供えの食べ物を皆で食べ、 明るい校庭(小さいので庭の様です)で気が済むまで遊び、そして勉強をするという毎日を送っています。   最近はメモ帳と鉛筆をお供えしたので、昨日くらいから皆、字が書ける様になりました。   子供達は嬉しかったらしく、自動書記で「ありがとう。 ぼく、じ(字)が、かけるようになったよ。」 とメモ帳に書いてくれました。  私も、「学校を建てて本当に良かった」と思いました。   でも、この学校の生徒になるには、素直で、心に善き想いを持った子達しか入学出来ませんので、 この辺の審査というものが重要になります。   霊界では念いの世界なので、しっかりした霊能力があれば、この世からでも霊界に建物などは建てられるのです。   先日も、出先で綺麗な花を買って来てお供えすると、学校の自分の机の上に飾ったそうです。   この様に、最近ではとても明るい世界で、楽しく学びながら暮らしているようです。


-2003年4月14日-
今日は、私の所で取り扱っている「念入り腕輪」についてお話します。
私の所へ相談に来られる人達は、殆どの皆さんが何かしらの憑依霊を憑けておられます。   憑依霊の種類や憑かれた人に及ぼす影響等はともかくとして、やはり憑かれるには、それなりの 理由があるのです。  例えば、街中の雑踏の中で憑かれる場合や、お酒を飲んでいる時に憑かれる 場合や、神社仏閣を訪れた時や、嫌な感じのする場所に行った時などがあります。   これらの理由を挙げると、街中の場合は、多くの人恋しい霊が人間達に交じって徘徊しており、 お酒の席では酒で身を滅ぼした人の霊が、また神社仏閣で憑かれるのは、様々な人の念い(我利我欲の念い) が漂って、一種の悪想念帯を形成しており、嫌な感じのする場所などは、当然、悪霊が潜んでいます。   この様な環境の中で生活する場面が多い現代の人達に、「念入り腕輪」は非常に効力を発揮します。   「念入り腕輪」は、これら日常生活の場で、悪霊に憑かれるのを未然に防ぎ、また、自己内部での 悪想念の発達を抑える役割をします。  特に、霊障で困っておられる方には、お持ちになられた方が 良いと思います。 何故なら、腕輪の中には悪霊の嫌いな善の波動(神の波動)の念が入り、厄除けや除災に効力があり、 持たれる方の各個人に合わせて念を入れますので、その人の出す乱れた波動を善き波動に直そうとしてくれます。   これが、日数を増すと少しづつ感情や性格、物事や環境等に現れてきて、自分が善き方向へと進んでいるなと、感じられる でしょう。  しかし、腕輪に頼りすぎて、自分の内面を善くして行こうとする心が無ければ、 折角の腕輪の効力も半減しますので、自己の内面を見直していく事も大事なのです。   これは、真理指導によって、分かりやすく説明していますので、皆さん実践しておられます。     「念入り腕輪」の写真は、”先祖供養について”の項目を開いて見て頂ければ載っています。


-2003年4月11日-
今日は、「あの世(霊界)の世界に於いても、人間の魂は成長する」 という事について お話します。
人間は、この世だけに於いて成長するものでは無く、あの世に於いても魂的に成長しているのです。   ですから、幼い時に亡くなられた「子供の魂」などは、生前学べなかった事をあの世の世界で学び、 体験しながら大人になっていくのです。  そして、年月を重ねて一人前の大人の魂状態にまで成長しながら 戻っていきます。  これはどう云う事かと言うと、人間の魂は転生輪廻(生まれ変わり)の過程で、 大人の魂は一旦、過去の記憶を封印され、この世(肉体を持った世界)へ出た時、皆平等に一から 「赤ちゃん」として、肉体的にも精神的( 魂 )にも、初めから数十年間の人生修行を行っていくのです。   そうして、数十年間の人生修行を終えた肉体は焼かれて無くなり、魂だけの状態で霊界へ旅立っていく のです。  普通は、このサイクルでこの世で成長し、大人の魂になってから霊界へ戻っていきますが、 幼い時点で亡くなられた子供達は、魂が未発達のまま霊界へ戻っていくので、霊界で魂の成長の続きを 行わなければなりません。  そうしないと、一人前の大人の魂にはなれず、転生輪廻の法則に乗って この世とあの世とを行き来できず、魂の新たなる智識の積み重ねに支障をきたすのです。   ですから、幼い魂は霊界に於いて、生まれ変わる以前の大人の魂にまで、成長しながら戻っていかな ければならないのです。  この様な「転生輪廻」というサイクルを、人間を本来の霊的魂から観た 場合に、「永遠の命」と言うのです。 


-2003年4月9日-
今日は、最近特に私の所に来る信者さんや、メールを送ってくれる人達の 皆さんが、よく質問される件(アメリカ・イラク戦争問題)についてお話します。   直接私の所へ来てくれた人には詳しくお話出来ますが、なんとか短くまとめる様にします。
まず、この両国の戦争ですが、現実的には様々な軍事的問題や経済的問題の利得などが絡み合って、 それに他国の利害関係なども絡んだ戦争になっています。  しかし、あまり放送されませんが 両国の宗教に関する問題が係わっております。  そして、この戦争の裏には、実は両国の宗教 観に対する過去の長い因縁があり、キリスト教とイスラム教との戦争でもあるのです。   この辺は、あまりお話すると他宗教問題の批判になるので、このページでの話はこの位にしておきますが、 私には、この戦争があとどれ位の期間で、どの様にして終結されるのかは「神」より、 大体知らされております。  しかし、この戦争は起こるべくして起こったものであると言う事だけは 言っておきます。  ですから、いくら反対運動をされても、この戦争は止められなかったのです。
次に、戦争等で亡くなった人達は死後どうなるのか? この質問についてお話します。
戦争などの戦で亡くなられた人の魂は、あの世に逝っても死んだもの同士が戦っております。   爆弾などにより一瞬で亡くなった人達は、自分が死んだ事も分からないまま、未だにあの世の世界に於いて 戦争の続きをしています。  そして、銃で撃たれて倒れても、少ししてから起き上がってまた、 敵に向かって突進しています。  これを、戦争が終わった今でも繰り返しております。   この世界は誰が見ても天国ではありません。  (戦後供養などで成仏する魂もあるので、これが全て ではありません。)  戦争などで死ぬと、大体の人は敵や相手に対して憎しみを抱いて死にますから、「他人を恨む」という 念いを、心に深く刻み込んであの世へ逝かれるので、どうしても安らかに成仏する事が出来にくいのです。   ですから、戦争等で亡くなられた人達には、まず戦争が既に終わっている事を教えてあげ、それから、 無念の念い等をじっくり癒してあげ、不安や心配事などを自分の意志で吹っ切れるようにしてあげる事です。   この様に、戦争とは終わった後にも長く憎しみや怨念が残るので、やらない方が良いのですが、これを きっかけに、過去の歴史上幾度も国が新しく生まれ変わっているのを見ると、地球的規模に於いての荒療治 でもあるのではないでしょうか。      


-2003年4月8日-
今日は、霊界の更に高次元である「神の世界」に入っていきます。
神の世界でも、それ程高次元でない世界に居られる神々は、まだ生前の様な人間の姿をとって 暮らしておられます。  ですから、自己の目の前に現れる風景は、自己の修行課程に合った 場所(お堂や、教会や精神修行の場など)であります。  そこから、一段下の世界の人々 に教えを説くために降りていくという感じです。  丁度、現在のお寺や神社、教会で指導され ている人が、一般人信者さん達に説法をしに講堂などの施設に来て下さるのと似たようなものです。   これが更に高次元の神の世界に入って行くと、認識力も更に高度になり、霊体としての本来の活動 体系「一即多・多即一」の原理の中で、自己の体(霊体)を目的に合わせて何等分にも分けて 活動する事が出来るのです。  そして、本体の自己意識の下に於いて、何等分にも分けられ、 それぞれ思い通りに活動していたはずの自分という者の意識の統一が出来うるという存在であるのです。   これは、霊格でいうと仏教では如来の境地であり、キリスト教的には、大指導霊的大天使に匹敵する 境地であります。  ですから、頭で理解するのは困難であろうと思います。   ですが、簡単に例えると、自分の体の手足や各内臓諸器官に人格があるとすれば、それぞれがめいめいに 動いている様に思っているかもしれませんが、実は本体である脳や精神の指令によるもので、 それらの各諸器官を統一意識の下に置いているという事です。  これが、一人であって多数、多数でありながら一人 という「一即多・多即一」と言い、世界規模的な数量にまで増大します。  お釈迦様やキリスト様などは、世界中何処からでも 見守ってくれているのは、この原理を実践されているからです。  まことに想像し難い現象ですが、 如来格にまで達すればこういう事が日常的に出来るのです。  そして、如来としての霊体は「光の塊」であり、如来世界の風景は 光り輝く空間の中に、各自が「光の塊」として浮かんでいるだけなのです。   これが、本来の霊界の姿であるのです。  すいません、今日の話は、少し難しくなってしまいました。


-2003年4月4日-
今日は、霊界の風景についてお話します。
霊界という世界は多次元の世界であり、各次元世界に於いて霊界の風景は少しづつ違ってきます。   また、霊界は念いの世界であるので、同じ世界に居ながら他人とは微妙に違った見え方をします。   この辺は、普通の人間には少し難しいかもしれませんが、同じ物を貰っても、感謝の念いの持ち様で 素晴らしい物になったりします。  しかし、それを見ている他人の目には、それ程でもない様に見えたり するのです。  また、非常に興味のある物は繊細に見え、そうでもない物は、おおよその外観しか見えません。   また、今の季節は桜の花が咲くので、霊界の人も桜の花が観たければ、桜の木が自分の周りに現れ、 花を咲かせたいと願えば、自分の思い通りに花が咲くという現象が起きます。   この様に、念いの世界は自分の力量によって、様々な現象や環境を創り出す事が出来るのです。   霊界は、心の持ち様によって良くも悪くもなるので、その人の心の状態によって、天国と地獄とが 別れているのです。  そして、肉体の死後、どちらの世界にいくのかは、本人の生前の心の状態次第という 事になる訳です。  ですから、地獄なんかに落ちるのは、別に誰のせいでもなく自分のせいなんです。   自分の心の状態が、勝手に自分の周りに地獄世界を創りだしているだけなんです。  この辺を勘違い して、他人を恨んでいる人が多いのです。  ですから、何時まで経っても自己の地獄から出られないんです。   少し話が広がりましたが、この様な事に興味のある人は、私が霊界について詳しく書いた物がありますので 連絡して下されば、お見せします。  


-2003年4月2日-
今日は、私のお参り時の話をします。
私は、よくお寺や神社にお参りするので、御本尊様や御神体の神様とお話をしてきます。   最初は、大体何時もの様に神様の方から「ご苦労!よく来たな!ご苦労である!」と私達を ねぎらって下さいます。  あっ、そうそう、この言い方は男性の神様の言い方です。   女性の神様や仏様は「先生、ご苦労様です。 本日はお越し頂きまして誠にありがとうございます。」 と言うような感じになります。  やはり女性の神様や仏様は、言葉が柔らかく、私のような者にでも 丁寧な口調で、お話して下さいます。  こうして、最初の挨拶が終わると、それぞれのご神仏様の 持っておられる想い等や、私達に対してのご忠告的なご指導、また最近では、私が書きまとめている神理の文献 を見せてほしい等のご注文をされたりします。  やはり、神様や仏様という存在であっても、現代の 人間の書く神理の文章を読んで、勉強をしたいのです。  今の神様や仏様というのは、何百年も前の 時代であるので、現在の風習などは分からないところがあるのです。  特に数百年ぶりの御開帳などで この世の世界を見られた仏様は、人間の多さに驚かれます。  そして、現代の人達の「信仰」の無さに 落胆され、それより「自分達(仏が宿る御仏像の事)が、ただの美術工芸品の価値としてしか、今の人間達には 見えないのか。」と言っておられます。  「この多くの人間達は、一体何をしに来ておるのか。」とも 言っておられます。  私はこの状態を見ると、つくづく末法の時代だなと思います。   私は、この様に神様や仏様とお話をしながら、数分間の時間を過ごしています。  今のところ私は、 神様や仏様達と良い話し相手になっている様であります。


-2003年4月1日-
今日は、神様の次元についてお話します。
神様の居られる次元は、私達のいる三次元世界から数えて最低でも三段階以上の、上位の次元世界に 居られます。  そこから先は、上位の次元になるにつれて、神様独自の役割や使命が重要なものに変わってきます。   ですから、上位の神様になる程、大きな使命と認識力を持つ事になり、当然の事ながら、大きな霊力と それに伴う大きな影響力を持ち合わせていると言えます。  この様に、神様と言えども幾つかの段階があり、その段階によって様々な指導方針や指導力などを研究したり、 自分より上位の神様に指導を受けたりされております。  そうして神様も偉くなっていくのです。   また、神は何百年や何千年という長い年月の末、天上界より人間世界へ転生してきて、一人の人間として 世の中の為に活躍したり、多くの人を助けたり、法を説くというように、ある程度この世での 人生修行の計画を立てて出てこられます。  そして、この計画をある程度満足させてかえられると、 使命によりますが、昇進という事になるのです。  この様な感じで、神様の世界も人間界と同じ様な 制度があるという事です。  但し、自分の為の昇進ではなく、皆の為の昇進であるという事です。   人間界の様な、利己主義の人達はいないのです。  神は、自己の発展が皆の発展に繋がる様な、指導を 目指して日々精進されているのです。  そして、神は天上界より、神の思想と共感する人や、世の為に なろうと頑張っている人達を、指導されているのです。  


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