ちょっと一言。
-2004年4月29日-
今日は、土地家屋に関係する霊についてお話します。
私が受ける相談の一つに、土地と家に関する相談がよくあります。
それは、新しく引っ越した家で霊が出たとか、家を増改築してから家族に
良くない事が続く等です。 これは、その家の土地に棲む霊が騒いでいたり、
気に入らなくて怒っている為に、家族の者に不幸が続いたりするのです。
特に、最近のリフォームブームで、自宅を改築した後のお宅からの相談が多いです。
初めは相談者本人も、自分達の身に起こっている現象や不幸続きが、土地を
不用意にさわった為に起きた現象だと気付きませんが、話を進めていく内に段々と
謎が解明されてきます。 そして最終的に、この場所を、この様にした為に、
この様な霊が怒っています。 という様な回答が出ます。 そして、分かった
だけでは、どうしようもないないので、怒っている霊や騒いでいる霊の不満を
聞き、人間側にも出来る範囲の事はしてもらい、霊の方にも人間側の言い分を
理解してもらいます。 そうすると、霊も鎮まってくれますし、
もう人間に対して霊障害を起こさないと約束してくれます。
大概の霊は、自分達に断りも無く勝手に住処を荒らされたと言って、怒っている場合が
多いですから、よく言って聞かせると鎮まります。 また、浮かばれなくて
成仏出来ていない霊の心の執着が残っている場合、その家に入居した家族の誰かに霊障害が
出てきます。 その場合は、家族の中で自分一人だけが不幸な目に遭いやすくなったり、
病気がちになってしまったりと、精神的に辛くなってしまいやすいので、浄霊を行います。
すると、今迄の家の中の雰囲気が違った感じがします。 例えば、部屋の中が暗く感じていたのが、
明るくなったとか、嫌な感じのする部屋の雰囲気が明るくなり、気持ちよい部屋に変わった等があります。
また、金縛りによく遭っていたのが、それ以来は遭わなくなった。 その様な意見もありました。
どちらにしろ、家は心を安らかに、身体をリラックスさせて休める所であり、家族の団欒にも
とても必要な場所である為に、家族皆の住みやすい家にしたいものです。
明るく気持ちの安らぐ家は、心も身体も充実しますし、社会に出て行く気力も十分に補充されます。
そうして家族の皆が、それぞれの夢に向かって発展して行けるのです。
家運が停滞や下降していると感じた時、不幸が続く時などは、一度よく思い起こしてみると、
案外「あれかも!」と思う事があるのです。
そんな時は、半分以上の確率で当たっている場合が多いのもまた事実です。
もし、心当たりのある人は、一度よく考えてみても良いと思います。
-2004年4月25日-
今日は、もし何かの霊に憑かれた場合に、身体に感じる症状として起こりやすい
事を、何点か例を挙げていきますので、それに合致した場合は、かなりの確立で
憑依されている可能性があります。
また、憑依されやすい場所の簡単な説明もしましょう。
憑依する霊には、憑依する場所やそれによって起きる症状にも、ある特定のパターン
がありますので、憑かれたかそうでないかの判別くらいは個人で出来ます。
それではまず、憑かれそうな所(神社仏閣、お墓、大きな病院、気味が悪い所等)へ行った。
そして、何日か経って体の不調(頭痛、肩や腰が重い、やる気が出ない等)が表れた場合は
大抵の場合、憑依現象です。 これは、その場所へ行った当人が、すぐに思い当たる事が多いです。
そして、先に挙げた憑かれそうな場所ですが、神社仏閣の周りには霊が集まりやすので、
本堂や本殿以外にあちこちと見物してまわったり、境内にある、石碑やお墓の近くなんか
通ったりすると憑かれやすいですね。 大きな病院(総合病院など)は、色んな患者さんが
入院や診断をされます。 その為、難病で苦しんでいる患者さんも居り、不幸にしてその病院で
亡くなられる人も居ますので、病気で苦しんでいる霊や、生きる希望を無くしたまま亡くなった人の霊などが
徘徊していますので、憑かれ易い場所であると言えます。
気味が悪い所は、やはり霊的に見ると、それなりの不成仏霊が居るのです。
人間は、霊的な存在ですので、何となく直感で「あぁ、あそこは気味が悪い所だな、あまり行く気が
しないなぁ〜。」と感じるのです。 そんな時は、出来るだけ行かない方が良いです。
そんな所に潜んでいるのは、良くない霊ですから、近くに寄ると憑かれてしまいます。
次に、身体に出る症状ですが、頭痛がする場合、大抵重なって眼が霞んで見にくくなったり、
耳の調子も悪くなったりします。 それから、後頭部や、こめかみの辺が痛くなります。 これは、霊体が
頭に取り憑いている為に起こる症状です。 それから、肩口が重く背中に痛みがあります。
腰も重く、鈍痛があったりします。 これらは、何時もの筋肉痛の感じとは少し違うので、
薬等では治りません。 また、気分もイライラしたり、怒りっぽくなったり、やる気が
出なくなったりするのも、自分と違う意識(霊体)が身体に取り憑いた為に起きる感情です。
何をしても上手く行かない時は、悪霊によって邪魔されている可能性があります。
今挙げた症状等は、比較的早い時期でのものですから、日数が経つにつれてこの症状も
重くひどくなってきます。 ですから、もし思い当たる事があれば、憑依というものを
疑ってみる事も大切です。 でも、あまり気にしすぎという事もありますので、判らなければ
ご相談して下さっても良いですよ。
-2004年4月22日-
皆様。 いつも、私のHPを見て下さって有難うございます。
二日前にトップページを新しくしました。
そしたら、カウンター数もゼロからのスタートになってしまいました。??
まぁ〜いいや! また、何か新しくしていきますので、これからも宜しくお願いします。
今日は、その中で「念入り腕輪の紹介」のページを新たに作った訳ですが、これは、
いつも良く聞かれる事で、「お守り的な物は無いのですか?」とか「神様の光を
身体に入れて頂いてから、とても身体の調子が良くて気分も良くなったので、それと同じ様な
作用をしてくれる物はないんですか?」等と聞かれます。 私の所では、どこでも売っている様な
お守り等はありません。 また、お供えの台の上に お守りを沢山載せて、一度に御祈祷や経文を
上げて、誰にでも対応する様なお守りは作りません。 何故かというと、人それぞれに悩みの
種類も違い、希望している事も違うからです。 また、購入される人も誰だか分からないのに、
念の入れようも無いからです。 私の所では、購入される人に直接、悩みと希望を聞き、各自に
浄霊や御祈祷や真理指導を行った後、神様の前に来てもらって、その場でその人に合った念を
入れてお渡ししています。 ですから、念入り腕輪は沢山作りましたが、同じ念は一個もありません。
人の数だけ想いがあるのと同じ様に、持った人の数だけ念入り腕輪に入ってい念も違います。
当然、その人専用の念を入れ込んでありますから、他人がその腕輪をはめても満足に効くかどうか
わかりません。 念入り腕輪は、各自に合わせて念を入れますから、作り置きも無いです。
その場で、腕輪を選んで頂いてから、その人の目の前で確りと念を入れさせて頂いてます。
当然、大量生産も出来ませんので、在庫が無くなり次第のご注文となります。
念入れも、それからとなりますので、お待たせする事が多いですが、同じ持つなら良い物を持って
ほしいと思っていますので、ご理解下さればありがたいです。
また時々、私の所へ、何処かで買った腕輪を持って来て、「念が入っているか見てください」と言われます。
でも大抵は、殆ど念が入っている物は少なく、入っていても米粒程の念がちょっとあるだけで、
こちらの気を少し当て出すと消えてしまいます。 この様な腕輪は、台に沢山載せて一度に
御祈祷された物の可能性が大きいです。 その為、本来の役目を果たしていない物が多いという事です。
今日は、質問される事が多い、念入り腕輪についてのお話でした。
-2004年4月18日-
今日は前回の続きで、裏側世界の指導を受けた人間は、どの様になりやすいかというお話をします。
この世で、念力などの超能力を獲得する為に一生懸命になっていると、やがて裏側の霊達が
その人間を指導しにやって来ます。 そして、熱心に練習を続けている内に、だんだんとコツがわかってきて
スプーンや鍵などが曲がったりすると、嬉しくてのめり込んでいきやすくなります。
そうして、この一種の霊力を、自分の興味による自己満足と、他人に自慢したりするのに使ってしまう人が
多いです。 どうしても、他人より違う能力を持ってしまうと、人というのは得意になってしまいがちです。
何故なら、超能力を指導する霊は、自己能力開発に目標を置きます。 これは、他人より自分の方が
偉いという評価や、自己満足による喜びというものに価値観を見出しているからです。
本当は、その先にあるものに重点を置かねばなりません。 それは、多くの人の為に自己の能力を使い、
多くの人々の幸せに貢献していく事です。 しかし、自己能力の発揮のみに心を奪われてしまうのは、
その人を指導する裏側世界の霊人の思想が影響しているのです。 これは、波動合通の法則に当てはまり、
この世で、ある人が出す波動が、あの世の霊人が出す波動とが同じ様なものであると、波動が合い通じる
という法則にしたがって通じてしまうのです。 これが、一種の憑依現象ですが、この場合は指導する
という目的の憑依という形をとります。 その為に、超能力等に興味本位で夢中になっていると、
何においても、どれだけ自分に力が付いたのか、それを確認したいが為に試すという事を繰り返します。
裏側の世界の霊人の多くは、何百何千年とそういう修行をしていますので、この世の人間もその様な
修行や思想や好み等が似てきます。
ですから、超能力を使う人に共通なのは、それによってどの様に真理を説いていくのか、どうやって
悩める人々の力になれるのか、そういう事を考え、救済の教えを説いていく人物が少ないのです。
そうならない為にも、その意識を抑える気持ちが必要になります。 これが、裏側世界でも神と呼ばれる
世界まで上がっていった時に、自己の能力を社会の為に還元していこうとする意識に変わってきます。
ですから、魔法や念力等の超能力を身に付けたいなら、もっと人の為になる様な目的意識を持って、
自己鍛錬をしていってほしいと思います。 実際、裏側のパワーは凄いものがあるので、一歩間違えると
地獄的なパワーに繋がってしまいがちなので、これに一番気を付けなければなりません。
-2004年4月13日-
何時も「ちょっと一言」を読んで頂き有難うございます。
今日は、読者の中から2002年12月30日にお話した、霊界の裏側の世界(魔法界、念力界など)
の事を、詳しく聞かせてほしいというリクエストがありました。
それで今回は、もう一度 その事について詳しくお話させて頂く事にします。
霊界には、表と裏とがあり、その表裏一体という二面性を持つものをまとめて、一般的に「霊界」と言います。
表側の世界は、神仏が説く法(慈愛、友愛、善、美、和、信、勇気など)を基本体系に、
各次元世界において、それぞれを尊重し合って心の修行をしている世界です。
私が、よく書いている神様の世界などは、表側の世界の事が多いです。
表側の世界の事は、その辺を参考にして頂ければ良いと思います。
それでは、今回の話の中心になる裏側世界についてお話をしていきましょう。
裏側の世界は、各個人の力の発展が修行の最優先になってきますので、表側世界の様に慈愛の光に
包まれた世界観ではないようです。
裏側の世界は、各個人の能力を伸ばしていく事が最大の関心事であり、それが修行の目標でもあります。
ですから、能力主義とでも言いましょうか、他人に対する愛の心(神の慈愛に繋がる一番大事なもの)が
不足している世界でもあります。
ある者は、自分の念力の力をどれだけ伸ばしていくかが目標であり、それが達成されると自己満足の
内に済まされ、次の能力の開発に精を出していきます。
また、自己の能力を自慢したい願望も強いので、力自慢などをよくしております。
自己能力の開発に悪い事は無いのですが、裏側の教えには「愛」という教えが不足している為、
人間本来が持つ、心の温かさが薄れてしまい、逆に厳しさ険しさ等が目立ってきます。
修行自体は先にも書きましたが、体力勝負や、魔法・念力・透視術・千里眼等の超能力の習得と開発です。
私も、時々話をしますが、大抵は自分勝手で、言いたい事を私の都合も何も考えずに一方的に
話してきます。 そして、それに対する答えが気に入らないと、直ぐに怒ってきます。
裏側の世界の住人は、何か自分の役に立つ事を聞いて、自分だけが他人より優位に立ちたい為に、
あれこれ聞き出そうとしてきます。 それで、これはというものが聞けると、さっと消えてしまいます。
また、こちらの世界で、念力や魔法等に興味を持って研究したり、超能力などに関心を持っていると、
大体は、この裏側の世界の指導を受ける事になってきます。
そして、スプーンを曲げて喜んだり、厳しい修行にのみ価値観を見つけたりしてきます。
自己の能力を、どれだけの人の幸せの為に使うのかが必要なのですが、大体は自己の能力自慢に
終始する事が多くなるのが欠点でもあります。 それと、特徴的なのが、負けず嫌いの人が多いですね。
次回は、この続きで、この世の人達が裏側の指導を受けていると、どの様になってくるのかをお話します。
-2004年4月9日-
今日は、多賀大社での本殿参拝のお話です。
この日は、平日という事もあってか、参拝客もほとんど居ない中での参拝となりました。
本殿まで歩きながら進んで行く途中にも、心臓がドキドキとしながらも、心はワクワクしています。
そうして本殿の前に立つ前から、私達の周りには既に神様の気が充満していました。
それは、眼に見えない空気の圧力の様な、空気密度がまばらに異なるような空気の流れが、
身体の周りにまとわりつく感じでもあります。
そして、すごく大きな眼で瞬きもせずに見られている様な感じを受けます。
また、身体が熱くなって、祝詞を唱えるのを今か今かと待たれている感じがします。
一度 深呼吸して、さあ始めようかと思った瞬間には、今迄の様々な感覚は消え失せ、
真空の白く輝く空間に自分一人で浮かんでいる様で、何の物音も聞こえず、心に浮かぶものは
白い服を着た二人の男女(伊邪那岐と伊邪那美の神)が並び、その周りに大勢の神様達が立ち並んで
私の唱える祝詞を一心に聞いて下さっている姿だけでした。
この感覚の状態には、心を現実世界に留めた状態を保ちながら、もう一方の心を霊的空間に持って
いく様にしないと、祝詞を唱える自分の声すらも聞こえなくなってしまい、時間や空間や、
自分が今、立っているのか、祝詞を唱えているのかどうか、どれだけの時間が過ぎて行っているのかが、
わからなくなってしまいます。 ですから、あまり深い瞑想状態の感じにならない様に、メインの
心をこの現実世界に留め、外の物音にも反応出来る様にしながら、そのメインの心から伸び出たもう一つの
心を霊界へ飛ばします。 これは、本当に感覚的な説明なので、理解するには難しいかもしれませんが、
この様な感じで霊界とコンタクトを取っています。 でも、本格的な瞑想はこんな簡単ではありません。
心の使い方(魂の使い方、念の使い方)が違うのですが、それはまた今度、機会があればお話します。
そうして一通り済ましてから、次に伊邪那岐と伊邪那美の両神様に感謝の想いと、これからの事を
お願いしました。
即座に、お二人の神様からお礼のお言葉と同時に、感謝の念が流れ込んできました。
そして、いろいろとご指導をいただき、お礼を言って終了とさせて頂きました。
この間、約10分程でした。 この日も、いろんな意味で大収穫の日でした。
-2004年4月4日-
今日は、先月の続きで「多賀大社」参拝でのお話です。
境内に入った私達は、本殿に向かって真っ直ぐに歩いて行くと、右側の小さな社に
「神馬」が祀られているのに気が付きました。
私は、何となく気になったので、その神馬の所まで行ってみる事にしました。
神馬は、じぃ〜っと私を見ながら、「先生、今日はご遠方の所をよく来て下さいました。
今日はお目にかかれて嬉しいです。」と言ってくれました。
神馬という神様のお使いの霊格を持った馬なら、人間の言葉も話せるのです。
また、神馬は「私は年寄りなので、もうそんなに速くは走れないのです」とも言ってましたね。
その後、少しお話してから神馬の所を後にしました。
大体は、仏像でも銅像であっても、その物の形と同じ様な格好をしたものが中に霊体として
入っていますので、霊視を利かせてよく見てみると、ちゃんとお姿が見えるのです。
そのお姿は、作られた物の皮一枚程の厚さを隔てて、中に居られるのが見えます。
そして、その中は「空」の空間である為、無辺の広さがあります。
また、座っている形の銅像であっても、中の霊体は立っておられたりして自由です。
その先をもっと見てみると、中に居られる神様や仏様の出身世界まで辿り着く事が出来ます。
霊視には段階があり、その先、そのもっと先を見て行くには、見る側の霊格が大変影響してきます。
これが低いと、一番最初に見えるもので終わってしまうか、違うものを見てしまうかです。
私は、何時も仏像などに入られている仏様と話をする時は、自分の念を仏像の中に展開されている、
仏様の世界にまで入り込んでお話をしています。
それで、「今度は我が家へ遊びに来てください」なんて約束を取り付けてりして、
ついつい長話になってしまいます。 丁度、仏様のお宅訪問をしている感じですよ。
あっ、つい話が横道に逸れて長くなってしまいましたね。 申し訳ありません。
この続きは、次回にお話します。
次回の話は、本殿参拝の話です。