飛空都市の日の曜日の穏やかな午後。蜂蜜色の陽射しが窓から差し込み、淡いブルーで統一された部屋の中に紅茶の香りが漂っている。二人の女王候補、ロザリアとアンジェリークはロザリアのばあやの用意したロイヤル・ミルクティーとシフォンケーキを楽しんでいた。
お互いの趣味や好きな食べ物など、二人の話題はたわいのないところを漂っていたが、ふとアンジェリークが口をつぐんだ。
「どうしたの、アンジェリーク。何か考えてるの?」
「あ、うん。女王試験が始まってもうすぐひと月経つんだと思って」
「ああ、そうね。昨日初めての審査でしたものね。もちろん、この私の方が優秀だと認められたけど」
「うーん、まあね。でも、次は負けないわよ」
「ふふ、せいぜい頑張りなさいな。私も張り合いがありますもの」
アンジェリークは紅茶を一口飲むと、少し首を傾げてから切り出した。
「ねえ、ロザリア。守護聖の皆さま、ちゃんと名前を読んでくださる?」
「オスカー様のこと?確かに素敵な殿方なんだけど、人のことをお嬢ちゃんと呼ぶのはやめてほしいわね」
「ああ、うん、そうね…」
アンジェリークの煮え切らない様子に、ロザリアは目をしばたたく。
「何?あんた、まさか、他にも名前を呼んでくださらない方がいらっしゃるの?」 「え?えっと、うん、まあ…」
「いいこと?大陸を育成するには、守護聖の皆さまのお力が必要なのよ。女王候補として皆さまとの関係に気を配らなくてどうするの」
「うん、わかってる…」
「なら、しっかりなさいよ。…ところで、紅茶のお代わりはどう?」
「ありがと、ロザリア」
明けて月の曜日の朝。聖殿の廊下でアンジェリークは大きく息を吸い込むと、執務室の扉をノックする。…が返事はない。再びノックする、が沈黙。体の向きを変えかけたとき、「…入れ」と低い声がした。
「失礼します」
濃い色のカーテンを閉め切り、小さな炎の揺れる部屋。夜を切り取ったようなこの場所に、自身も夜そのものが蟠ったように、部屋の主は水晶球を前にひっそりと座っていた。
「…お前か」
「クラヴィス様、こんにちは」
「何の用だ」
「育成をお願いしにきました」
クラヴィスは吐息と共に言う。
「闇の力など、お前の手に負えるものでもあるまい」
アンジェリークは翠色の瞳で闇の守護聖をしっかり見返す。
「…でも、大陸の民が安らぎを望んでいましたから」
「まあ、よかろう。いかほどだ」
「えっと、たくさんお願いします」
「後で送っておこう」
「よろしくお願いします、クラヴィス様」
「では、な。金の髪の女王候補よ」
アンジェリークは執務室の外に出ると大きく息をついた。
「やっぱり名前を呼んでくださらないなぁ。別にロザリアのことを『蒼い髪の女王候補』って呼んでる訳じゃないみたいなのに…」
木の曜日の午後。クラヴィスは森の湖から流れ出す小川に沿って森の中を歩いていた。森の湖には普段から様々な人が憩いを求めて訪れるが、周囲の森は結界により普通の人間は足を踏み入れることはできない。木々のざわめきや水音、鳥の声以外に静寂を破るものはない。
川幅が少し広がり、木々がやや開けている場所で、クラヴィスは立ち止まった。彼が普段佇むことの多い、ひときわ太い木の根本に人影が見えた。
「あれは…」
金の髪に赤いリボン。木の幹にもたれて座り、目をつむっている。
クラヴィスは足音もなく近付いた。アンジェリークの胸は規則正しく上下運動を繰り返している。
クラヴィスは大きく息をついた。
「結界がゆるんでいるのか、それとも…」
目を細め、アンジェリークを見下ろす。
「う…ん…」
アンジェリークは身じろぎし、ゆっくりと目を開いた。
目の前にうっそりと立つ人影に気付き、「きゃっ」と飛びずさる。
「あ…クラヴィス…さま?」
尻餅をついた格好のまま、大きな目をさらに見開くアンジェリークをクラヴィスは黙って見下ろしていた。が、目を細め薄い唇の端をかすかに上ると
「無理もない」
と低い声で呟いた。
そのまま背を向け、歩きはじめる。
「あ、あの…」
アンジェリークの口からは、戸惑いに満ちた声がこぼれた。腕を伸ばしても振り返ることをしない闇の守護聖の目には入らない。アンジェリークはしばし呆然とその場に座り込んでいた。
明くる日。
闇の守護聖の執務室の扉を叩くものがあった。
クラヴィスは物見の水晶球から目をはずし、入室を促した。
「育成か、金の髪の女王候補よ」
「いいえ、今日はお話をしにきました」
「…そうか」
クラヴィスはどこか疲れたような表情でアンジェリークの顔を見た。
アンジェリークは口元をきゅっと引き結び、目を見開いている。と、ぺこり、と頭を下げた。
「昨日はすみませんでした」
クラヴィスは手元の水晶球に目を落とした。
「…あやまることはない。仕方のないことだ」
「そうですよね。仕方ないですよね」
「…何?」
顔を上げると、アンジェリークの口元は朗らかに笑み、翠の瞳にはいたずらめいた光さえ浮かんでいる。
「だって、目が覚めたら、いきなりそばに大きな人が立っているんですもの。誰だってびっくりしちゃいますよね。きっと、そこにいらっしゃったのがジュリアス様でも、悲鳴を上げちゃったと思います」
クラヴィスが何も言葉を返せないでいると、アンジェリークの顔から微笑が消えた。
「でも、あそこでちゃんとクラヴィス様にあやまることができなかったのが、申し訳なくて…。ぼぉっとしている間にクラヴィス様が行ってしまわれたから。礼儀知らずだと思われても仕方ないですよね。ほんとに、すみませんでしたっ」
再びぺこりと頭を下げる。
「今日はこれだけを言いにきました。それでは、失礼します」
軽やかな足取りで部屋を出るアンジェリークをクラヴィスはただ黙って見送った。やがて閉められた扉を見ながら
「…おかしな娘だ…」
と呟いた。
次の週の金の曜日。
クラヴィスはまた川のほとりを歩いていた。さわさわ、と木の葉がそよぐ、その音よりもクラヴィスの歩みは静かだった。
ふと足を止める。それは予感、というより確信に近かった。
再び歩き出し、すっと目の前が開けると、例の木の下にアンジェリークが座っていた。
アンジェリークはにっこりすると、すくっと立ち上がり挨拶した。
「こんにちは、クラヴィス様」
「…また、お前か」
「ええ、なんだかまたお会いできるような気がしていました。よく、こちらを散歩されるんですか?」
「ああ、外の空気が吸いたくなった時にたまに、だが。ここなら人に会うこともなく静かに過ごせるからな」
アンジェリークはパッと顔を曇らせた。
「あの、それじゃ私、お邪魔でしたでしょうか」
「…まあ、よい。わざわざ立って話する必要もなかろう」
クラヴィスはその場に腰を下ろした。
アンジェリークも座る。
普段、執務室の机をはさんで話すよりやや距離がある。
「本当に、ここ静かですよね」
アンジェリークがそっと口を開く。
「水もキレイだし、風も気持ちいいし、ここにくるとほっとするんです。人もあまり通らないから、ちょっと疲れちゃったときとかに息抜きに来るんです」
ぺろっと舌を出す。
「ロザリアに負けてるから、あんまりサボっちゃいけないんだけど」
次の瞬間、はっと口を押さえた。
「あ、あの、別にクラヴィス様が、お仕事をサボっている、とか言いたい訳じゃないです!」
くるくる変わるアンジェリークの表情を見ながら、クラヴィスはくっと喉を鳴らした。
「かまわぬ。たしかにあの者の言うとおり、私は職務怠慢に違いない」
「そんな」
「まあ、よい。ここはお互い、口を閉ざしておいたほうがよさそうだ」
「そうですね…」
急にアンジェリークの瞳がくるんと動く。
「私とクラヴィス様の、ナイショ、ですね」
突然投げかけられた笑顔にクラヴィスが戸惑う間に、アンジェリークは大きく伸びをし、勢いよく立ち上がった。
「もう行かなきゃ。それではクラヴィス様、失礼します」
軽く頭を下げると、アンジェリークは金色の髪を木漏れ日に光らせながらパタパタと走り去った。
静寂を取り戻した川のほとりでクラヴィスは再び呟いた。
「おかしな娘、だ」
次の週の金の曜日。クラヴィスは川のほとりを歩いていた。日は傾き、空の色彩は青から朱へと取って変わられている。静寂が彼の供連れだった。
「私は…何を期待している?」
ここ数日、気がつけばこの場所を訪れていた。
出会ったのは水に映る己の影だけ。
「…私ではあるまいし、そうそう逃げ出すこともない、か」
ゆらり、と動く背は、忍び寄る夜と同じ色をしていた。
次の週。
クラヴィスは毎日執務室に座り続けた。
木の曜日、アンジェリークが訪れた。
「ご苦労なことだな、金の髪の女王候補よ」
クラヴィスの声にアンジェリークはパチパチとまばたきをすると、笑顔を浮かべた。
「ええ、でも、もっと頑張らないと」
「…そうか」
アンジェリークは育成の依頼をすると立ち去った。
クラヴィスは黙って扉を見つめていた。
日の曜日の午後。
クラヴィスは館を出ると森へ向かった。
木々の間からのぞく空を見上げれば、どこまでも高く青い。
「眩しい、な」
湖のそばを通れば、人々の声がざわめいて伝わる。
足はまた、湖から流れる小川に沿って進んでいた。
そして、いつかと同じようにクラヴィスは足を止めることとなった。
木の根本に、今度は体を横たえて、アンジェリークが眠っていた。
一つ息をつくと、クラヴィスは歩み寄った。
見下ろせば、アンジェリークはかすかに眉をひそめ、首を動かしている。木々の間から漏れる陽射しが、まともに顔に当たっている。
クラヴィスは木の周りを半周し、アンジェリークのそばに腰を下ろした。その大きな体が陽射しを遮り、アンジェリークの顔に影を落とした。
アンジェリークの表情が和らぎ、静かに寝息を立て始めた。
クラヴィスはその様子をじっと見ていたが、ふっと目を細め、笑みを浮かべた。
「…似てはおらぬ、な…」
「ん…」
どれだけの時がたったのだろうか。ようやくアンジェリークが体をもぞもぞと動かす。ゆっくりとまぶたが開き、翠色の瞳が現れる。
「あ…れ…?」
半分体を起こし、ぼんやりと辺りを見渡す。
と、パチリと目を開ける。
「あ、あの、クラヴィス、さま?」
「…目が覚めたか」
クラヴィスはすっと立ち上がった。
アンジェリークはあわててぺたんと座りなおした。
「やだ、私ったら…。またクラヴィス様に恥ずかしいところ見られちゃった」
かっと血がのぼる頬を両手で押さえると、頭上から静かな声が降ってきた。
「頑張るのもよいが、あまり無理はしないことだな」
「は、はい…」
こくり、と頷く。
「では、な。アンジェリークよ」
「…え?」
顔を上げると、クラヴィスはすでに背を向け、歩きはじめていた。
アンジェリークはしばらく呆然とクラヴィスの後ろ姿を見送っていたが、やがて満面に笑顔を浮かべた。その顔は金の髪に絡まる陽光を全て集めたよりも輝いていた。
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