瞳の中の宙
女王試験が始まってから幾つも月が重なり、聖地では相変わらず春のような日々が続いていたが、主星においては本格的な冬に入った時期のこと。
王立研究院に一通の文書が届いた。主任研究員のエルンストにしてみれば、連絡は皆電子で行えば効率的だと思うのだが、聖地では紙とペンが重んじられている。ともあれ、公式な通達ではない事務連絡であり、かつ、研究院に特に関わりない事柄と判断し、彼は目を通して数分後にはその文書の内容を頭の片隅に追いやった。
その日の午後、データを届けに来た火龍族の占い師メルは、エルンストの顔を見るなり、
「ねえ、エルンストさん。クリスマスって何?」
と訊いた。
「ある宗教の聖人の誕生を祝うものです。季節の移り変わりの行事と結びついて、広い地域で重要な祝日の一つになっていますね」
「ふーん、それじゃ大切な日なんだね」
「まあ、そうですが…」
メルは目を輝かせた。
「わかった。ありがとう、エルンストさん!」
嬉しそうに駆けていくメルの後ろ姿を見ながら首を傾げたエルンストに、女性研究員の一人が声をかけた。
「きっと今朝の文書ですね」
「文書…?」
「お忘れですか、主任?」
長い黒髪の女性研究員は微笑んだ。
「今年は女王候補たちのために、聖地でもクリスマス・パーティーを開催するそうです。プレゼント交換も行うので、誰かに贈りたいものがあれば17日までに宮殿に届けることになっていますわ。匿名かつ秘密厳守で渡していただけるそうですよ」
エルンストは眼鏡を持ち上げた。
「女王試験も大詰めとなった重要な時期に、パーティーなどで浮かれている場合ではないと思いますが…」
「でも、女王陛下が自ら提案されたという話ですわよ。外界と切り離された場所で長く過ごしているから、こういったイベントくらい外と同じように経験させてあげたいということらしいですわ。…たまには息抜きも必要じゃありませんか?主任」
「陛下が、ですか…?なら、意味のあることなのかもしれませんね」
つい先日まで普通の少女として過ごされていた女王陛下には、女王候補達の気持ちがより理解できるのだろう、とエルンストは溜め息混じりに頷いた。
いずれにせよ、彼には直接関係のないことと思われたのだが…。
まもなく、聖地中に招待状が配られた。エルンストは自分宛の封筒の中に、日時などを印刷した案内の他に一枚のカードが添えられていることに気付いた。
『貴方の協力のおかげで女王試験が順調に進んでいることをいつも感謝しています。お仕事が忙しいこととは思いますが、女王候補達のためにも楽しいパーティーにしたいと思っています。どうか1日だけ、試験のことは気にせずに、素敵な時を過ごしてください』
「これは…」
エルンストは金の髪の女王陛下の笑顔を思い浮かべた。愛らしい…と表現するのは不敬にあたるかもしれないが、柔らかいさざなみのように皆に広がる温かい微笑。
「…お気を遣わせてしまいましたね」
エルンストは小さく溜め息を付いた。
12月25日の朝。メルに引きずられるようにして庭園へ向かったエルンストは、入り口で思わず立ち止まった。
どこから調達した物だろうか、庭園の中央に大きなモミの木が立てられている。枝々に雪を模した綿がふわりと載せられ、全体に掛けられた小さな電飾がちかちかと瞬いている。よく見れば枝のあちらこちらに色とりどりの包みがぶら下がり、根元には大きめの包みがぐるりと取り巻いていた。
「うっわー。きれーい!」
メルは目と口を大きく開いてクリスマスツリーを見上げた。
「ええ、本当に」
エルンストも頷いた。
ツリーの周りにいくつものテーブルが並べられ、食べ物と飲み物が用意されていた。すでに多くの人々が集い、笑いさざめいている。守護聖や教官達はみな普段の衣装ではなく、思い思いの装いを凝らしている。
「エルンストさん!」
声に振り向くとアンジェリークが立っていた。彼女も普段の制服ではなく、薄桃色の、あちこちにひだをあしらった、ふんわりとしたワンピース姿だ。
「来てくださったんですね。もしかしたら今日もまた研究院にいらっしゃるんじゃないかと思っていたんですよ」
柔らかい笑顔は本当に楽しげで、エルンストは陛下の決定は間違っていなかったとあらためて思った。
「ええ、めったにない機会ですから、たまには」
「ホーント、聖地に本物の雪が降るんじゃないかしら」
よく通る声の持ち主はレイチェルだ。
「それにしても、ま、予想はしてたけど、やっぱり制服姿のままなのね」
そういうレイチェルは髪を結い上げ、スッとしたシルエットの白いワンピース姿。
「他に人前に出られるような服を持ってきていませんから」
エルンストの答えにレイチェルはクスリと笑う。
「ま、いいけどネ!」
パーティは至極なごやかに進んだ。
特に何か余興や催しがあるわけではないが、皆くつろいだ雰囲気の中で、飲み、食べ、話し、笑っていた。エルンストは自ら話の輪に加わることは得意ではなかったが、その場にいて色々な話題に耳を傾けることは、思いの外苦痛ではなかった。
いつの間にかこの聖地に慣れ親しんでいたのだな、などとぼんやり考えていたとき、
「皆様、大変長らくお待たせいたしました」
と声が響いた。
「それでは、ただいまよりプレゼントの時間です。皆様からお預かりしたプレゼントをツリーに飾っています。それぞれに贈り先が書かれていますので、皆様どうぞ、自分宛のものを見つけてください」
庭園にどっと歓声が上がり、ツリーの周りに人が押し寄せた。
エルンストは新しいジンジャーエールのグラスを手にすると椅子に腰を下ろし、その様子をぼんやりと眺めた。
「オイ、そこの堅物のオッサン!」
突然、鋼の守護聖の怒鳴り声が響く。
「これ、あんた宛のプレゼントじゃないのか?!」
…まさか。エルンストはまばたきをした。
「そんなとこボーっと座ってねーで、早くこっち来い!!」
ますます大きくなる声に、エルンストも渋々席を立った。
「ほら、コレ!」
ゼフェルは枝を指さした。
そこに下がっている小さな銀の包みには、確かに「to ERNST」と打ち出された紙片が貼ってあった。
「…私に贈り物があるなんて、思ってもみませんでした」
包みを手にしながらぼんやり呟くエルンストに、ゼフェルは頭をガシガシかいた。
「まったく、このオッサンはよう…」
「こちらにもありますよ、エルンスト。貴方宛のプレゼントです」
そう、穏やかに微笑みながら声を掛けたのは水の守護聖リュミエールだった。
「あっ、もしかして、これもそうじゃないですか?」
品位の教官ティムカも声を上げる。
結局、エルンストのもとには四つのプレゼントが集まった。
「…どうしたらよいのでしょう。私は誰にも、何一つ用意しなかったというのに…」
途方に暮れたといった体で呟くエルンストに、ゼフェルは言い放つ。
「気にすんなって。有り難く受け取っとけばイイんだよ!それより、中味確かめないのか?」
「中味?」
言われてみれば確かに、あちこちで包みを開くガサガサという音が響き、時折歓声が混じる。
「プレゼントはその場で開封して、中味を確かめるのがくださった方へのエチケットなのですよ」
地の守護聖ルヴァが、手に湯飲みやら真新しい本などを一杯に抱えながら、微笑んだ。
「…そうでしたか」
最初に手にした銀の包みの中には、艶やかな蒔絵の万年筆。
ピンクの箱の中にはチョコレートキャンディの詰め合わせ。
水色の薄い紙袋の中には、手編みとおぼしき薄緑色のマフラー。
そして、最後の無地の白い小さな紙袋には…。
「これは…?」
ガラスの小瓶に入っていたのは、赤や黄、青などに着色された砂のようだったが。
「…一体何でしょう?」
エルンストは頭をひねらざるをえなかった。
それから5日後。あと30時間足らずで新しい年となる夜。
他の研究員が帰った後も、エルンストは王立研究院に残り、データを整理していた。
「まーったく、こんな年末の夜に仕事をしているなんてね」
突然、静かだった研究院に声が響く。
エルンストは書類から目を上げた。
「レイチェル…」
レイチェルはすたすたと歩み寄ると、隣の机の上にひょいと腰を降ろした。
「宇宙に年末も新年も関係ありませんよ。…女性が一人で出歩いて良い時間ではないと思いますがね」
言いながら、エルンストは再びデータに目を落とす。
「堅いことは言いっこなしよ」
レイチェルは彼の方に目を走らせた。
エルンストが手にしているのは、蒔絵の万年筆。机の隅にはチョコレートキャンディの箱が置かれ、椅子の背にマフラーが掛けられている。
「早速使ってるのね」
「え?」
「プレゼント」
「ああ…」
エルンストもレイチェルの視線の先を追う。
「マフラーはさすがにつけていると暑いので、こうして置いているだけですがね」
「でも…、試験が終わって、また寒いところにいけば必要になるわね。ここではいらなくても、後で…使えるよ」
「ああ、そうですね」
エルンストは今更ながら気がついた、という顔をする。
「どなたがくださったのかわかりませんが、ありがたいですね。せっかくいただいても、私から何もお返しすることができなくて、申し訳ないですが…」
「エルンスト…」
レイチェルは目を見開く。
「どのプレゼントを誰からもらったのか、ホントにわからないの?」
「え、ええ…」
いかにも驚いた、というレイチェルの声に、エルンストは戸惑いながら答える。
「レイチェルにはわかるのですか?」
「え?…あ、ウン。とりあえず、このキャンディは予想つくよ」
レイチェルは細く長い指で机の上を指さす。
「そうですか」
エルンストは微笑んだ。
「頭が疲れたときに甘い物を摂ることは集中力を高めるためにも有効ですからね。気の利いた品ですね」
「…贈った方はそこまで考えてナイと思うけど」
レイチェルはポツリと呟く。
「え?」
「たぶん、それ、メルからだよ」
「メルが?」
エルンストは思わず眼鏡に手をやる。
「あれから、何回も会っているのに私は何もお礼を言っていない…。早速明日、役に立っていると伝えなくては」
「そうすれば?」
レイチェルは足をぶらぶらさせた。
「…ねえ、エルンスト。もう一つプレゼントがあったでしょ」
「あの瓶ですね」
エルンストは小瓶を机の引き出しから取り出した。光を当てると、中に入ったものが赤や青にキラキラと光る。
「一体中味が何なのか、色々調べてみました。成分を変質させないように気をつけたので大変でしたが…」
軽く息をつく。
「結局着色した細かいガラスの粒と、同じく着色したアルミニウム箔片だということがわかりました。用途はまったくの不明です」
レイチェルはクスリと笑った。
「まったく、らしいわね」
レイチェルは机から降り、エルンストの正面に立った。
「それ、ワタシから、よ」
「え?」
エルンストは間の抜けた声を上げる。
「あ…ありがとうございます。ところで、これは一体…」
「今日、何日だっけ、エルンスト」
エルンストの問いを遮るように、レイチェルは彼の目を覗き込むようにして訊ねた。
突然の問い掛けにエルンストは一瞬戸惑ったが、すぐ落ち着いて答えを返した。
「クリスマスから5日ですから…30日ですね」
「ご名答。さすがに今年は覚えていたわね。クリスマスからこっちそのお堅い頭を悩ませた甲斐があったわ」
レイチェルは満足そうに笑い、ポケットから小さな細長い包みを取り出した。
「誕生日おめでとう、エルンスト」
エルンストは困惑の表情を浮かべ、やがておずおずと手を差し出した。
「あ、ありがとうございます、レイチェル。その…このように受け取ってばかりで私は…」
「気にしない気にしない。開けてみて」
包みを開くと、指を広げたほどの長さの細長い筒があらわれた。両端には蓋がされ、片方だけに小さな丸い覗き窓が開いているが、何か入っているようには見えない。
「これは…」
エルンストは戸惑いの表情をレイチェルに向けた。
ずっと悪戯っぽい笑顔を浮かべて彼を眺めていたレイチェルは
「貸してみて」
と手を伸ばした。
エルンストが素直に筒を手渡すと、レイチェルは片方の蓋を外した。それから小瓶を取り上げ、蓋を取り、さらさらとその中味を筒に注いだ。再び筒の蓋を閉め、差し出す。
「はい、これがホントのプレゼント」
エルンストは手の中の筒とレイチェルの顔を交互に見た。
「…これは、カレイドスコープですか」
「そう、万華鏡よ。この天才少女レイチェル特製のね」
レイチェルは柔らかく笑う。
「覗いてみて」
エルンストは筒を右目に当て、ゆっくりと回した。
レイチェルはその様子をじっと見つめる。
エルンストはゆっくりと、ゆっくりと回し続ける。
やがて筒を下ろし、ほう、と大きく息をついた。
「…美しいものですね」
その口元には笑みが浮かんでいる。
「動かすたびに新しい光の形が生まれ、次々と移り変わってゆく。こんな小さな空間が無限に広がっているように見える。まるで…」
手の中の筒に目を落とす。
「この中に宇宙があるようです」
「…じゃあ」
レイチェルはすっと手を伸ばし、エルンストの眼鏡を外した。
「この中にさっきまで宇宙が映っていたんだ」
エルンストの目を覗き込むようにする。
「…え…?」
「まだ、そこに宇宙はあるかしら」
レイチェルの菫色の瞳がエルンストの薄緑の瞳を見つめる。
と。
レイチェルはエルンストの唇に軽くキスをすると、すっと身を引いた。
エルンストは一瞬呆然としていたが、ややあって目を見開く。
「レ、レイチェル…!一体何を…!」
「お返しの代わり、これでいただいたわ」
レイチェルはクスクス笑いながら、エルンストに眼鏡を返す。
「…レイチェル!」
エルンストはなおも口を動かすが、言葉が出てこない。
「じゃあね」
ぱたぱたと走りかけて、レイチェルは振り向く。
「ワタシの中にもアナタの中にも宇宙はあって、それはつながっているのよ。…忘れないでネ」
走り去るレイチェルの背を、エルンストは言葉もなく見送った。手の中の筒はさらさらと音にもならない響きをたてていた。
やがて、エルンストは窓を開け、夜空を見上げた。いくつもの星が音もなく瞬いている。新宇宙はここからは見えないけれど…。
手の中の筒に目を落とし、そっと目を細めると、エルンストは静かに窓を閉めた。
|