穏やかな聖地の日の曜日の午後、火龍族の占い師メルは王立研究院を訪れていた。本来、日の曜日には研究院は休みなのだが、毎週のように主任研究員のエルンストが登院してきて何かしら仕事をしている。時折メルもそこに顔を出すのだった。エルンストは特にメルを構うわけではなく、黙々と自分の仕事を片付けるだけである。それでも、故郷では大家族に囲まれて暮らしていた淋しがり屋の小さな占い師は、近くに誰かがいるというだけで安心するようだった。
この日もエルンストが机に向かって書き物をしている一方で、メルは資料棚から大きな分厚い本を一冊引き抜いて、膝の上に載せてめくっていた。こういった資料に書かれている内容はほとんどわからないが、中に挿まれている星雲や星団の写真を見るのが楽しみだった。元の場所にきちんと戻しておけば、エルンストは何も言わない。
ふと開いたページを目にして、メルは
「うわぁ、きれい!」
と思わず大きな声を上げた。
それは写真ではなく、人の手で描かれた絵であった。薄物を纏った長い髪の乙女。剣を手にした逞しい若者。様々な獣や鳥。それらが色鮮やかに描き出されていた。
メルは「きれい…」とつぶやきながら一心に見入っていた。やがて首を傾げ
「でも、これ何の絵だろう…」
と呟いた。
ふと顔を上げると机に座っていたはずのエルンストが横に立っていた。 「あっ、ごめんなさい。…メルが大声出しちゃったから、エルンストさんの邪魔しちゃって…ごめんなさい!」
「いえ、いいのですが…」
エルンストはメルの膝の上の本に目を落とした。
「これは、ずいぶん昔に描かれた星座の絵ですね」
「えっ星座?…でも、メルが知ってる星座がぜんぜん無いよ?」
「ああ、そうですね。それは…」
メルの戸惑いを前にして、エルンストは辺りを見回した。近くの机の上にあった小さな円錐形のペーパーウェイトを手に取る。
「たとえば…」
エルンストは水色のクリスタルガラスのペーパーウェイトをメルの目の前にかざした。
「メル、今これはどのような形に見えますか?」
不意の問いではあったが、柔らかい物言いに促され、戸惑いながらもメルは答えた。
「え、あの、三角、に見える…けど?」
エルンストは少し微笑むと、今度はペーパーウェイトの底面をメルに向けた。
「それでは、これは何に見えますか?」
「え?あっ、丸だー!?」
メルはペーパーウェイトとエルンストの顔を交互に見つめた。
「同じ物体であっても見る角度によって見え方が違ってくる、それはわかりますね」
「うん!」
メルは勢い込んで頷く。
「宇宙の星々の位置関係は変わらなくとも、貴方の暮らしていた星と主星では見える星空が異なってくる。だから星座が違うのですよ」
「ふーん、そうなんだ!」
メルは目を輝かせた。
「ねえねえ、エルンストさん、この星座ってどんな意味があるのかな」 ひときわ目立つ白い翼を生やした馬の絵を指さしながらメルはたずねた。
「ああ、それはですね…」
エルンストはいくつかの星座を示しながら一つの物語を簡潔に話して聞かせた。
己の慢心により女神の怒りを買った王妃。国を襲う怪物と生け贄に差し出された王女。怪物の顎から王女を救い出した、翼のある馬に乗った旅の途中の英雄…
「すっごーい。エルンストさんって何でも知ってるんだね」
自分に向けられた素直な賞賛の瞳に、エルンストは少しはにかみの表情を浮かべた。
「いえ、実は私もこういった星座にまつわる物語について知ったのはつい最近のことなのです。私は赴任した先々での星座の名前を皆覚えていますが、私にとってそれらはただの記号に過ぎませんでした。それぞれの星座に物語があり、人々のさまざまな想いが込められているということを知らなかったのです。まったく、何歳になっても学ぶべきことは尽きませんね」
メルは目を丸くした。
「えー、エルンストさんでも勉強するの?もう何でも知ってると思ってたのに」
エルンストは苦笑した。
「学ばなければならないことは、いくらでもありますよ」
「メルも勉強する。もっとみんなの役に立つようになるんだ」
「そうですね、頑張ってください、メル」
エルンストはメルの膝の上の重い本をすっと持ち上げた。
「ところで、そろそろ一休みしませんか。最近、紅茶の淹れ方を覚えたんですよ。お茶を飲みながら、今度は貴方の星に伝わる星座の話を聞かせてください」
「えっ、エルンストさんがいれてくれるの?」
「ええ、お茶受けが何もなくて申し訳ないのですが」
「あ、メル、クッキー少し持ってるよ。さっき商人さんにもらったんだ」
メルははしゃぎながらエルンストの後についてスタッフ休憩室に向かった。
もしメルがエルンストの机の上をよく見たならば、素っ気ない背表紙の本に混じって薄く小さな、だが装丁の凝った「星の神話・伝説」という題名の本に気がついただろう。そしてもしそれを手にしてみたならば、挿まれた手作りの押し花の栞と、それに書かれた文字を目にしただろう。
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