京の町に。我々の前に。彼のひとは突然舞い降りた。
京が滅びようとするときに、京を守護する龍神が人々につかわす神子であるという。
その身の内に何かしらの不可思議な力を秘めていることは確かなようだが…。
齢十五といえば、一人前の女性であるものを、この神子殿はどうにも幼い。殊に男と女のことにかけてはあまりにも物知らなすぎる。
その言葉も態度も、奥ゆかしいという言葉から対極にある。
あまりにも開け広げに笑い、泣き、怒り、戸惑う。
およそ、まっとうな女性と認めることはできない。
髪も尼そぎ、膝が見えるほどの丈の短い衣。
町の童のように駆け回り、大の男も逃げ出す怨霊に立ち向かう。
呆れの気持ちを抱えながら、私は神子から目が離せずにいた。
退屈で澱んだ日々の中にいるよりも、よほど面白いではないか。
神子は常に軽やかに私の目の前に現れた。
「龍神の神子」であり、異世界から訪れた異人であるから、常の女性と異なる行動をとっても、咎めだてられることも少なく、なかば諦めの中で見守られていた。なんといっても京を救うことは神子にしかできないのだから、彼のひとを諫め罰し閉じ込めることは誰にも出来はしなかった。
そう、誰も彼のひとを縛り付けることは出来なかった。…いや、初めから、あらゆる戒めから…あらゆるしがらみから…彼のひとは無縁だった。
「何にも縛られぬひと」というのは、私に捧げられた言葉のはずであった。
結うべき髪を垂らし、纏う衣をくつろげ、与えられた任を適当にあしらい、女房たちと浮き名を流す。「風のように流れ、何にもとらわれぬ」と、悪意を伴って言われたこともある。
だが、種々のきまりごとにあえて逆らって見せたのは、それらが心から離れなかったから。様々なしがらみに誰よりもとらわれていたのは私だったのだ。
神子は…月から降りてきた天女は、しがらみなど初めからこの世に存在しないが如く、心のままに動く。神子こそ風のようなものだ。
神子のことを目で追えば、必ず視界の中に一人の青年が入ってくる。左大臣の屋敷の敷地の中に居を構えていることもあり、毎朝のように誰よりも早く神子のもとを訪れ、その外出に当然の如く付き従う、人並み外れた長身と硬質な美貌を持つもののふだ。私は自分で言うのも憚られるが、おのれの顔立ちが女性の気を引く造りであるのを知っていて、それをせいぜい利用させてもらっている。だがあの武士はおのれが人目を引くなどと夢にも気付いていないようだ。
あの男、源頼久とは以前から面識があった。左大臣殿の警護を常々勤めている男だからいやでも目に入る。
あの男は私とは異なる種類のしがらみに縛られているようだった。見えぬ糸でぎりぎりとおのれを締め付け、縛り上げ、あともう少し力を入れれば自らを縊り殺してしまうように見えた。
だが、彼は神子の側に仕えることに生きるよすがを見いだしたようだ。迷子の童がようやく自分に向かって差し出される手を見つけたような、すがるような目をして神子を見ている。
神子の姿が私の冷め切った胸に、あこがれ…いや羨望という炎を点したように。神子は彼の腰の太刀ではなく、その笑顔と言葉で彼を縛る糸を断ち切ったようだ。頼久は少しずつ、どこか身軽になっていくように見える。
ある時藤姫は…星の一族の最後の一人である幼くも聡い姫君は「頼久は笑うようになった」と口にした。この姫ならばあの男が心を閉ざした理由も、いかに神子がそれを解きほぐしたかも存じているだろう。だが、私がそれを聞く謂われも、必要も無い。
無口で愚かしいほど実直なあの男は、軽々しく神子に語り掛けようとはしなかったが、彼のこぼす言葉は金の重みを持つであろうし、なにより彼のひたむきな行動は彼の想いを語っていた。おそらく、神子にも届いていたに違いない。
望む望まざるに関わらず、我らを取り巻くすべては激しく動き続け、ついに結末へと流れ着いた。
最後の戦いに私もお供させていただいたにも関わらず、忌まわしき黒龍の暴走をとどめることができなかった。京の町を、我らを救うため、神子は龍神を呼んだ。龍神とともに天へと昇っていく神子を、我らはただ見上げるだけだった。その時、神子の名を激しく呼んだのは頼久だった。神子は我らのもとに、いや頼久のもとに再び舞い降りた。
そして、神子と頼久は私の前から消えた。月へと帰っていく天女に頼久も付き従っていった。霞の中へと溶け込んでいく二人は、晴れやかな、静かな笑顔を浮かべていた。私は…最後までしがらみにとらえられたままだった。私は私自身の手で自らを縛り付ける物を振りほどくべきだったのだ。そうすれば、あの時、この腕を差し伸べ、名を呼ぶことができたのに。
これから私は月を見るたび、彼のひとを思い出すのだろうか。桜が咲くたびに二人の面影がよぎるのだろうか。それでも、彼のひとに出会う前のように眠るようにして生きていくことを思えば…。
「ありがとう」
夜空を見上げ、私はつぶやく。
この胸の痛みさえ彼のひとの残した贈り物なのだから。