幸福絶頂、などという言葉もあるものの。
人間の欲望に天井などあるはずもなく、満たされるときが来ると信じ続ける限り人は何かを求め続けてしまうものである。
それでも、満足しているかどうかは置いておいても幸せなことには間違いなく、そんな状態でどんな不満を言おうともそれはただののろけにしかならないのだった。
第一、世間的に言えば新婚真っ盛りに当たる人間に、誰が好きこのんで関わろうとするものか——
たまにそういうのが好きな人間もいるにはいるが。

なにはともあれここに、一組の新婚カップルがいた。
旦那様の名前はステア・ブーツ、通称トラップ。
見かけ通りにガラは悪く、極限までのひねくれた根性と照れ屋具合を持ち合わせている今時珍しくなるまでの悪ガキをそのまま引き延ばしたようなキャラクター
特に理由もなく伸ばしていた髪を数週間前に切られたばかりの彼は、やけに涼しくなってしまった襟首が気になるのか首筋に手をやるのが半ばくせになりかけている。

それに、気がついているのか、いないのか、おそらくあと数週間後に訪れるであろう秋冬ものの装備をチェックしながら彼の愛妻は呑気に鼻歌を歌っている。
幼妻、という表現がぴったり来る少女に彼はゆっくりと近づき、不意にその名前を呼んだ。
「パステル」
「わっ!」

足音もなく近づき、突然名を呼ばれれば誰だって普通は驚く。
当然、確信犯なのだか、わざとさも不満そうな表情で言葉を続けた
「んだよ、お化けでも見たような声出して」
「普通びっくりするよーー」
ぷうっと頬をふくらませて、こちらを見上げる姿が破壊的にかわいいとトラップは思う。
当然、ちゃっかりと手を彼女の腰に回し込んで、彼女の隣へと座り込んだ。
「ほら、ここゆがんでんぞ」
ザイルの止め金具のねじを指し示すと、たしかに夏の間十分な手入れもなくほったらかしにされていたであろうそこは、錆び付き、傾いている。
「やだ、ホント、オイルとってこなくちゃ」
本来ならここで自分が取りに行っても良かったのだが、せっかくの数少ないチャンスを棒に振るのももったいない気がして、立ち上がろうとしたパステルを引き留めた。

「どうかした?」
「お前が、それ聞くのかよ」
「え?」

全く、この奥様はどこまでいっても、いつまで経っても相変わらずのこの調子なのだ。
トラップは軽い目眩を感じながらも、結局は行動で表すしかないのだと割り切り、再び自分の隣へと座ったパステルの肩を抱く。

ちっとも新婚らしくねえよな、とトラップは思ったが、おそらくそう思っているのは当の本人だけだろう。
自分でも気がつかないうちに口元は微妙にゆるみ、優しい視線になる。
そんな、ほかの誰にも見せない表情を独り占めできることを、パステルはどう感じているのか、語られることは無かったけれども、ただじっとトラップの顔を眺めていた。

その無邪気な顔は出会った頃とほとんど変わっていないように思える。

トラップは相変わらずぽけーっと彼を見上げている愛妻の唇を軽くついばんだ。
すると、パステルは軽く頬を染めると、極上の微笑みで彼を見つめるのだ。

今すぐにでも押し倒したい衝動に駆られたが、今のところは必死に我慢をする。
もともと、忍耐などと言う言葉には縁の無かったトラップだったが、ことさらパステル関連に関してだけはやせ我慢と言われてしまうまでに忍耐強いところがあったりする。
まあ、それにしても限界というものはあるのだけれども。
その限界値すでにギリギリの笑顔を向けられて、つい視線を逸らしてしまう。

なにか気の利いた台詞でも、こんな時に言えれば良いのだろうが、生憎そんな言葉はかけらも思いつけないし、死んでも口に出来ないことも解っている。

なんとか平常心を取り戻したのはたっぷり3分は経ったころだった。
それでも、パステルの肩は抱いたままだったのは本能のなせる技か。

「あのさ、じっちゃんとの約束、おぼえてっか?」
「どの約束?」
トラップ、いろいろと言われてたものね、とくすくす笑うから頬をつねってやった。
「おれのじゃねぇよ、お前と、おれの約束の方!」

すこし、考えて思い当たったらしい
「うん…でも、それがどうした…の?」
視線を逸らし、うつむいてしまった。まあ予想できた反応だが。
「どう思う?」

委ねられたおおきな二つの運命。
出会いと、別離

予想通り、パステルは困り切った顔をしている。
「トラップは?」
「おまえはどうなのかって聞いてんだよ」
思った以上に、真面目な声になってしまった。
拒まられるとは思わない、でも、もし拒まれたらどうしようか、そんな不安がどうしても隠せない。
一度、知ってしまった甘い疼きと、心地よい温もりは、麻薬のように体に染み込み、心まで犯してしまう。
吸い込まれるような甘い香り、触れるだけで痺れてしまいそうな白い肌、柔らかな髪。
そのひとつひとつが愛おしくて、仕方がない。

困り果てた表情のまま、パステルが腕を伸ばし、首元に抱きついてきた。
「神様次第、…じゃだめかな?」
顔を首筋あたりに沈めたまま、ぽつりとつぶやく。

選ぶことが出来ないのなら、自然の流れに選んでもらおう、
ずいぶんと他人任せの運命かと思ったが、実際それが一番自然な選択なのかもしれない。

自分と、彼女が出会ったように
新しい出会いは計られるものではないのだろう

幾多の多くの別れが会ったように
いつか皆、別れるときが来るのだろう

今はただ、そのときを自然に受け入れられるように
悔いの無いように。

 

「…トラップは、どう思うの?」
再び、パステルが訪ねてきた、今度はトラップの番ね、とでもいいたそうに首に回した手に力が込められる。
「さあな」
「ずるい、ひとには強要しておいて」
「わかんねえもんは、しゃーねーだろ」

解らなかったからこそ、自分は聞いたのだ

「でもな」
パステルの背に腕を回して優しく抱きしめる。
すぐ触れるほど側に自分の大事な人がいて、笑っていて
大切にしたいと切に思う
抱きしめたいと願う

重ね合わせた唇を、そっと胸元にずらす。
ほのかに熱をおびた肌に、小さな痣が残り始めると、パステルはきゅっと瞳を閉じたまま服の袖を強く握りしめた。
その指をひとつひとつほどいては自分のそれに絡めていく
「おれは………ほしいぞ」
耳元でも、やっと聞こえるかどうかという小さな囁き
「……しも」
「何?聞こえない」
自分のことは棚に上げて聞き返す。

うっすら開き、見上げた瞳は潤んでいて、トラップを掻き乱すには十分だったのだけれど、期待通り…もとい予想通りに無粋な音を耳にした。
いっそ、気のせいにしてしまおうかとも思ったが、それだとどうにも後が怖い。
ついでに1ミリ1秒たりとも分けてやるつもりもない。

何かを断ち切るように勢いよく立ち上がると、一直線に部屋のドアへと向かい大げさに開け放った。
そのまま首を90度近く曲げて、廊下の先、階段の一番上の段でおろおろしていたクレイへと言い放つ。

「中途半端な気の使い方すんじゃねえ!!」

階下では、おそらく穴に落ちたのか何かしたのだろう、おそらく、泥だらけになってはしゃぐルーミィと、それをなだめるシロの声
「だって、おれじゃあ着替えとか…全然…」
それでも多少は健闘したのだろう、手には数枚のタオルが握られている。
「やだ!ごめん!昨日全部おおきな鞄の方につめかえちゃったんだ!」
様子を見に来たパステルが階下の騒ぎに気がついて、大急ぎで廊下を駆けていく

どうやら運命の神様はずいぶんと焦らすのが好きらしい
それとも、ずいぶんと寂しがり屋なのか
「大家族の神様、か」

多々の不満もあるけれど、このままずっと続けばいいと願えるような幸福な毎日
信頼できる仲間
最愛の人

それと引き替えなら、多少の望みくらい先送りにしても良いか、と、トラップは残念なような、ほっとしたような、実に複雑なため息を吐き出したのだった。