砂漠の夜は凍るように寒い。

あちこちに掲げられたたいまつはこうこうと赤い炎を燃やし、色とりどりに敷き詰められた陶磁器のタイルを一層美しく照らし出しはするものの、それでも体の芯から冷えるような冷気を多少和らげただけに過ぎず、パステルは身にまとったケープの前尻を力強く握りしめた。

この地方一番の名士の娘、それが彼女の肩書き。
この広い邸宅も、数多くの宝物もすべて、彼女の父親が1代で築き上げたものだという。
そんな彼と結びつきをほしがる人間は数多く、今夜も招かれた客人は地方の役人から王都の貴族まで、その顔と名前を覚えるのにパステルならゆうに3日はかかる。
それを日替わりに、メンバー総入れ換えで行いつつ、彼らの打算と思惑を読みとっているのだからしてやはり彼女の父親は間違いなく大人物であった。
毎夜繰り返される宴は、その饗宴ぶりとは裏腹に、どこまでも打算的でいて、儀礼的なものでしかない。

きらびやかなその世界に幼い頃は憧れたこともあったけれども、
今はただ、幻のように過ぎ去っていく毎日をただただ眺めているだけだった。

数多くの客人への挨拶を済ませ、 パステルはあてがわれた椅子に座り、女官の差し出した果実を口へと運ぶ。
すぐ隣では、相変わらず彼女の父親が数多くの貢ぎ物を前に見せかけだけの失態を演じている。
酒に酔い、女に溺れたふりをして、相手の本心を聞き出すのだという。

なぜ、そこまでしなければばいけないのか、 パステルにはまだわからない。
「お父様、もうそれくらいにしないとお体に触ります、今宵はもうお休みになった方が」
これも本当は用意されていた台詞だったのだが、さも心配そうに父親の体を支えて、退室を促す。
それが”父親想いの娘”である自分の役割だった。

 

父親を送り出した後、早々にパステルも部屋を出ると、廊下の向こうに人影を発見すると、急にパステルは少女の顔に戻って駆けだした。
「お兄さま」
お兄さま、と呼ばれた黒髪の青年の涼やかな目元と彫りの深い顔立ちはちっともパステルに似ていなかったが、それもそのはず、彼は男子のいないこの家に養子にもらわれてきた遠縁の青年であった。
養子とはいえ、幼い頃から有能だった彼は父親にも気に入られ、齢12の頃には既に正式な跡取りとして認められていたという。
冷静沈着で才気に富み、剣の腕も立ち、商売に対する知識も覚えが良かった。
一見、近寄りがたい雰囲気を持つ容姿も時折見せる柔らかな微笑みが、彼を魅力あふれるものにしていた。

彼はパステルを軽く抱きとめると、その蜂蜜色の柔らかい髪を優しく撫でる。
「今夜はもういいのか?」
「ええ、今日は小物ばかりでつまらないって、さっさと書斎に引きこもってしまわれたわ」
「まったく、父上は相変わらずのようだな」
今日の客人の中には今町を騒がせている御仁も、才気溢れると噂高い人物もひとりやふたりいたはずなのだが、それを小物の一言で一蹴してしまったのか。
しかし、そのおかげで今夜は面倒な縁談の話もなく、パステルとしてはずいぶんと気が楽な日でもあった。

パステルにはまだ婚約者がいなかった。この歳の名家の婦女子としては珍しいことであったが、パステル自身がそういったことに疎かったということと、それすらも彼女の父親はひとつのコマとして有効に活かしたかったからである。
縁戚を結びたがっている名士達はそれこそ星の数ほどいたし、誰が選ばれるのか、パステルには全く遠い世界の事のように思えていた。

一方跡取り息子であるはずの兄にも実はまだ決まった女性はいない。
こちらも外交としての手段なのかはわからないが、この事実が以前からとある噂話を広めている要因のひとつには間違いない。

「彼は養子ではなく、実の息子にしたいために、
このふたりの婚姻を望んでいるのではないか」

その真意の程はともかくとして、実際彼らはとても仲が良く、パステルとしてはどこぞの誰とも知らない親父に嫁ぐよりは100倍こちらの方が素敵だとあえて否定する気にもならない。

少なくとも兄は、パステルを現実につなぎ止めてくれる数少ない人間だった。

「兄さまは今夜も番を?」
兄は既に防寒服を何重にも着込み、腰には愛用の剣が携えられている。
「ああ、近頃はやたらと夜盗が増えているようだしな、パステルも十分気を付けてくれよ」

表立つことで、あらぬ混乱を招かぬよう兄が宴に出席することはほとんどない。
いつも入り口の警備を行いあくまでも「父親の片腕」を演じることが彼の役割だったからだ

許されること、許されないこと、与えられた役割とそれを演じることがこの家では当たり前のように行われていた。
だから時々、家族の関係まで演じられているものなのではないかと時々不安になるのだ。
「それなら、わたしも兄さまと一緒に番をしたいな」
「パステルはもう寝る時間だろう?カゼをひいてもしらないぞ」

パステルはそれを了解の言葉と受け止めて、その日の夜は兄と共に邸宅の巡視に付き合うことにした。
たいまつの灯りを離れると、夜空の星々は眩しいまでに輝いていて、見上げるたびに目が眩みそうになる。
砂漠の冷たい夜も、この星の輝きがある限りパステルは耐えることが出来るのだと思う。
宴の喧噪も、たいまつの温もりも何もないこの砂漠の中で、ただ星の灯りだけはじっとすべてを照らし続けているのだ。

星はなにを見ているのだろう。

ふとそんなことが気になって兄に尋ねてみる。

「さあ、俺も天までは登ったことがないからな」
兄にはこの寒さは堪えないのだろうか、鼻を赤くしているパステルとは対照的に、彼はいつも通りの涼やかな表情のまま、同じように星空を見上げている。
「兄さまでもわからないことがあるんだ」
それが少し悔しかったのか、兄はパステルを自分のマントにくるみ、抱きしめると、触れそうなほどの至近距離でこう囁いた
「おれが夜空に輝く星だったなら、お前を見つめていよう、どこにいようとも、パステルがおれを見てくれる限り、おれはずっとパステルを照らし続けるだろう」

抱きしめる腕も、優しい声も、いつもと同じ兄のものなのに。
いつもとは違うなにかが兄の瞳に映し出されたことに、パステルは気が付きながらも、その真意を理解する前に兄の方から視線を外されてしまった。

「さあ、そろそろ交代の時間だ、部屋に戻ろうじゃないか」
取り繕ったような笑顔だと、パステルはそう思った。

 

熱された石が配置されたパステルの寝室は、外と比べると格段に暖かい。
くるまっていた外套を脱ぎ捨てると、そのまま寝台へと転がり込んだ。
最近、時折兄がわからなくなることがある。

兄さまはわたしに優しいし、大好きだ
でも、時々知らない誰かのようにも思えるときがある、たとえば今夜のように
そして、 パステルがとまどいを見せるたびに兄は再びいつもの兄にもどってしまう。
幼い頃、生まれてすぐに母親をなくしてしまったパステルが、わがままを言うたびにみせた、困り果てた兄の顔。
あのころは兄さまの方もわたしにどう接して良いのかよくわからなかったのだろう。
機嫌を取ろうと多くの話を聞かせてくれたことを今でもよく覚えている。

裕福な環境で育ったパステルにとってのなによりの宝はそんな兄のもたらした多くの話だった。
地精の棲む森や神々の塔の話。空駆ける天馬に美しく響く精霊の歌声。
それはどれも伝えられ聞くだけの不確かなものだったけれども、夢見る少女であったパステルにどれほどのものを与えただろうか。

「やっぱりわたしも兄さまも演じているだけなのかな?」

口に出してしまうとますますその思いが強くなってしまう。
わたしと父様はたしかに血のつながった親子だけれども、兄さまは違う。
演じているだけの、にせもののきょうだい

「つーこたあ、やっぱりあのウワサは本当だったわけだ」
誰もいないはずの部屋から声がして、パステルはこのとき心底驚いた。
「誰かいるの!?」
きょろきょろとあたりを見回すが、それらしい人影はない
次に、部屋の灯りをともして、そこでやっと不審な影が視界に飛び込む。

「…あなた、なにしているの?」
窓枠のすぐ側で、ゆらゆらと揺れる…赤毛の青年。
両足をロープが複雑に絡み合い、それを必死にほどこうとしたのだろう、中途半端にほどけたロープが両腕にも絡み合って、まるで蓑虫のような姿だった。
「これが遊んでいるように見えるか?」
パステルにはそのロープに見覚えがあった。たしか、外からの侵入者にそなえた罠で、かかったものは即座につるし上げられ、縛られる。

そういえば、兄さまが最近夜盗が多いと言っていたことを思い出す。
そこまで思い出してしまえばあとは簡単だった。

「残念だったわね、ここはわたしの私邸。あなたが望むような金品は何一つ置いてないわよ」
パステルの言うとおり、灯りに照らされた部屋は名家の令嬢の寝室とは思えないほどに質素なものだった。
「ちぇ、どーりでやけに警備が甘かったわけだ」
あんまりにも悔しそうにその侵入者が言うものだから、パステルはつい吹き出しそうになってしまうのを何とかこらえる。
「それで捕まっていたんじゃあ、あなたの腕も大したことないんじゃないの?ここがわたしの部屋で良かったわよ、もし、これが本邸の父様の部屋だったりした日には、あなたとっくの昔に殺されてたわ」
「うんちくはいいからよ、とにかくここから降ろしてくれよ、頭に血がのぼっちまう!」
やれやれと、パステルはつるし上げるためのロープを下ろしてやることにした。もちろん絡め取ったほうのロープはそのままにして。

「兄さまを呼ぶわ」
「ああ、あんたの愛しの兄ちゃんか」
床に転がした男がやけに意味深な言い方をするのが気になり、パステルはつい相手をしてしまう。
「何が言いたいの?そう言えばさっきもなんだかおかしな事を言っていたみたいだけど」
「ああ、ウワサの話か?市井じゃあもちきりだぜ、あんたと兄ちゃんはデキてるってな」
[まさか!まだデキてないわよ」
「ということは、その気はあるのか」
「さあね、いっそそうなってしまえばって思うときもあるけど…って何でこんな話しなきゃいけないのよ!」
そのとき、パステルは相手は縛られているのだという先入観にとらわれていたために油断していたのだと思う。
縛られ、床に転がっていたはずの男はいつの間にか自由の身になり、足下には刃物で切られたらしいロープが散乱していた。
装備をすぐに改めるんだったと思い立ったのも後の祭りで、一瞬の間に男に両腕をねじり上げられ、動きを封じられた。
ギリギリとねじり上げられる手首が悲鳴を上げるのに、男はさらに力を込めてパステルの喉元にナイフを突きつけてくる。
灯りに反射する刀身が視界をかすめ、恐怖が体を支配しそうになるのをぐっとこらる。
「人質にしようとしても無駄よ、どうせそのときは父様はわたしを見捨てるから」
「やってみなきゃ、わかんねーだろ?」
「そう言う風に、決めたから」
脅しには屈しない、それが父の教えであり一家の約束事であった。
冷たいと思うかもしれないが、自分の身は自分で守ると割り切るにはそれも必要だったのだ。
家族の愛よりも、絆よりも、父は何よも力を望んでいることは十分すぎるくらいに知っている。
誰にも侵されることのない絶対的な力を。

「興ざめだな」
あまりにも当然のように言い放つパステルに毒気を抜かれたのか男はナイフをその場に放り投げた。
「どうやら、おれは忍び込む屋敷を間違えちまったみてーだ」
「わかってくれてありがとう」
パステルは心底本気でそう言ったのだが男は変な顔をする
「ずいぶんと複雑な環境にいらっしゃるようで」
「なんだか嫌味にきこえるんだけど」
「さあ、金持ちには変な奴が多いっていうけど本当そうだなぁと思ってな」
手近なクッションを抱え込み、座り込むこの男の方こそずいぶんと変わった夜盗ではないのか。
「盗みに入った屋敷で突然くつろぎ出す盗賊も相当変わってるとは思うけど?」
追い出そうにもなんと言って追い出せばいいのか、加えて同じようにすっかりと興を削がれてしまったパステルも男に向かい合う形で座り込んだ。
「どうせなら茶菓子でも出して欲しいもんだが」
「なんで盗賊をもてなさなきゃならないのよ」
そう言いながらもパステルは確か見回りに行くときに懐に忍ばせた干し肉がまだ少し残っていたことを思い出して、取り出した肉を火炉でかるくあぶると男に差し出す。
「ずいぶんといい肉だな」
「そんなことないわよ、市場でのたたき売り品」
「あ、そう…」
もさもさとふたりで肉をかじっているといったい何をやっているのだろうかと思う。
「んじゃ、おれ帰るわ」
「え、あ、もう帰るの?」
これまた変なことを言い出してしまったとパステルは言ってから後悔した。
むこうもそれを感じ取ったらしい、居心地悪そうに頭をかくと何も言わずに深緑の布で頭から肩をグルグル巻きにすると、ぶら下がっていた窓から飛び降りて行った。

何を盗るわけでもなく、何も残すことなく男の姿は消えた。
たまにはこんな夜もあるのだろう。

 

翌朝、寝不足の頭をぺちぺちと叩きながらパステルは本邸への渡り廊下を歩いている所だった。
今日も朝から来客の予定は詰まっているはずだった。一刻でも早くいつもの令嬢の顔にならなければいけないというのに、どうにも今朝は気分が乗らない。
きっと、昨夜の珍客のせいだろう
どうにも調子の狂う夜だったと思う。

「パステル、調子でも悪いのかい?」
廊下を渡りきったところで兄がパステルを見つけ、駆けよってくる
「おはようございます、兄さま。大丈夫少し寝不足なだけだとおもうから」
そういえば兄とは昨夜変な別れ方をしてしまったことを今頃思い出す。
心配そうなその顔を見ていると今までそれを忘れていた自分が非常に恥ずかしくなってきて、いつも以上に令嬢の顔をしてしまった。
「それは安心したよ、大事をとって今日は一日ゆっくりと休むと良い。そう父上には伝えておくから」
「兄さまは今日のお仕事は?」
「相変わらず父上について挨拶回りさ、季節が変わるたびにこれじゃあたまったものじゃないね」
兄の申し出はありがたく受け取ることにしてパステルは本邸での昼食の後、早々に私邸へと戻ることにした。
本当は、兄のほうも多少気まずかったのかもしれない。
せめて兄の重荷だけにはなりたくないことをパステルはただ祈るしかなかった。

軽く、一眠りをしてしまうと、後はとくに何もすることはない。
元々本当に具合が悪かったわけでもなくただ単に寝不足だっただけなのだ。
かといって、今夜も開かれているだろう宴に顔を出す気も更々なく、ただごろごろと暇をもてあそんでいる。
こんな時市井の少女ならどんなことをして時間をつぶすのだろうか。
窓に目をやれば、そこには今夜も輝く夜空が見えるだけ。
窓枠に寄ってみても、身を乗り出してみても星はなにも語らないし、手が届くこともない
ただ、先の見えない夜空が広がるのみ。

ところが、突然その夜空ににゅっと白い手が生えた。
「…なっ」
あわてて窓から見下ろすよりもはやく見覚えのある顔が現れ、なんの躊躇もなくパステルの部屋へと足を踏み入れた。
「あなた…昨夜の!?」
「よお、今日はちんけなトラップはないみたいだな」
2夜続けて夜盗に入られるなんてどうかしている。しかも同じ人間に
「何しに来たのよ」
「そりゃ、泥棒しにじゃないの?」
男はさらりといってのけた、この部屋には進入するだけの価値など何もないと昨夜わかったはずなのに。
おかしな盗賊もいたものだ
「それにしても、ほんっとーになんもないなぁ、この部屋」
装飾類のひとつもない、とてもうら若い娘には似つかわしくない部屋にはただ、暖を取るための火炉があるだけで、あとは家財道具すらどれも質素なものばかりだ。
「ああ、でもこれは流石に高級品使ってるな、かなり具合がいい」
そういって手に取ったのは昨夜も抱えていた絹張りのクッションで、やはり昨夜と同じように男はそのまま絨毯の上にごろりと横になる。
パステルは、だんだんとばからしくなってきて、部屋を出ようとした
「おい、どこいくんだよ」
「なにか、食べるものをもらってくるわ、おなか空いてるんでしょう?」
「ああ、頼むわ」

この盗賊はやっぱり変わっていると思えた。
ここで、パステルが人を呼びに行ったらとは思わないのか、食物になにか混ぜものでもされているのではないかと疑わないのか。
目の前で菓子を遠慮なくほおばる男を見つめながらパステルはそう思う
それでも、この男といるのは決して嫌ではなかった。

「ねぇ、なにか話をして頂戴」
「やだよ、めんどくせえ」
「じゃあ、その菓子返してよ」
「うわっ、やめろって」

「…んな、たいそうな話は出てこねぇぞ、たわいもないよた話ばっかりだ」
彼のいうとおり、それはどれも他愛のない話ばかりで、ただの世間話のようなものだったけれども、それでもパステルにとっては十分満足できるもので
くだらない、水屋の親父の浮気話だとか、関所の役人の捜し物の話などにうんうんと相槌を打っていた。
客人達がパステルの気を引こうとする仰々しい話ではなく、まるで女官の噂話に耳を傾けているような、そんな気分だった。
そうして、その夜も彼はなにを盗るわけでもなく、なにをするわけでもなく帰っていった。

闇に紛れる彼の背中を眺めながらパステルは思う。彼はまた来てくれるのだろうかと。

翌日も、パステルはまだ気分が優れないと言い訳をし、自分の夕食を部屋に持ち帰り、窓際で彼を待った。
約束をしたわけでもないし、何か目的があるわけでもないけれども、それでもなんとなく、あの男はまた当たり前のような顔をして、この部屋へやってくるとパステルはなんの根拠もなく信じていた。
部屋を暖め、飲み物も用意し、今か今かと待ちわびる。

と、かすかな物音が聞こえたような気がして、パステルは窓へと一目散に駆けよる。
彼女の望んだ姿がそこにあることを見つけ、思わず叫びそうになるのをぐっと我慢していると、彼と目があった。
よお、と声には出さずに手を挙げるその表情は相変わらずののふてぶてしい顔なのだけれども、それがこんなに待ち遠しかったのかとパステルは思う。

ロープを引き上げ、男が部屋に入り込むのを確認すると、パステルは用意していた言葉を投げかけた。
「こんばんは、トラップ」
彼は困惑したような顔をするが、それは予想通りのこと。
「なんだ、それ」
「あなたの名前よ、聞いておけば良かったとも思ったんだけど、どうせ教えてくれないだろうから自分で考えたの」
はじめ、あなた罠にかかってがんじがらめだったし、と付け加えると彼はかなり不本意だったのか憮然とした顔のまま黙り込む。
それでも、とくにダメだとも言われなかったので、パステルは今後彼をそう呼ぶ事にした。
あまり、名を呼ぶ機会は無いのだけれども。
世間話といっても、男はそれほどおしゃべりというわけでもないし至って普通だ。
だからこそ、パステルにはそこにトラップがいることがごく自然なことに思えてしまう。
まるで、昔からずっとそこにいるみたいにして、彼はそこでくつろいでいるように見える。

 

それ以後も、トラップはほぼ毎夜のように部屋にやって来た。
相変わらず、何も盗らず、何をするわけでもなく、
ただ、ひょっこりやってきては帰っていく。

そして、あの夜以来、パステルの別邸に新しい罠が設置されることも無くなった。
夜の毎に繰り返される退屈な宴も、もうじき彼がやってくるのだと思えばそれだけで楽しく見えてくるから不思議だ。
目前に並べられた料理の中から臭いの少なく、持ち運びが楽なものをこっそりと選んでは懐へと忍びこませる。
女官の間などでは、当たり前のように行われていたその行為もパステルにとっては初めてのことで、興奮してしまう。
そうして持ち込んだ菓子をやってきたトラップの前に広げてはしゃいでみせる。

説明することの出来ない、不可解な関係。
トラップがなにも盗らない以上盗賊と金持ちでもない
なにもしないから男と女の関係でもない
でも、それで良かった。

説明的な関係ならパステルはいらないと思っていた。
彼はかれでわたしはわたしに他ならない。
ただ、そこにいるだけの関係。

しかし、そんな風に毎日パステルの様子がおかしいことに回りの人間が気が付かないはずはなく、お付きの女官から、庭師から、自然に新しいウワサは立ち昇っていった。
”パステル嬢にはどうやら通う男がいるらしい”
はじめはそんな風にウワサが広がり初め、今や屋敷は彼女の意中の相手は誰なのかとその話題で一色になっていた。
警備の者もそんな男の姿を見かけたことはなかったものの、毎晩彼女がひとりで食べるには多すぎる量の食べ物を持ち帰っていたし、翌朝寝不足気味の顔をしていることもしょっちゅうだったので、夜、誰かが彼女の元を訪れているのは明らかと思えた。

最有力候補は以前から噂のあった彼女の義兄
彼なら、警備に見つかることもなく彼女の部屋に行くことも容易いだろう。
父親もいよいよ縁談を組むために兄の新しい養子縁組先を探し始めた等々、日が経つにつれて、その噂は具体的になっていく。

それらの噂が、父や兄、さらにはパステル本人の耳に入ることもあったが、それが以前からあった「兄と妹」の噂であるとしか思っていなかったために、ひとりを除いて、本人達の知らない場所で噂は一人歩きを続けることになったのである。

そうして、トラップが来るようになって1月と少しが過ぎた頃
その日、いつもよりずいぶんと遅い時間に現れたトラップは機嫌の悪さ隠そうともせず部屋に乗り込んできた。
珍しい異国の果物を見せても、ただ何かを考え込むような難しい顔で黙り込んだままだ
さすがに、パステルも不安になって、いつもなら絶対に聞かないようなことを聞いてしまった。
「何かあったの?」
彼について、パステルが知っていることは実は全くと言っていいほど無かった。
話は聞くものの、彼についての話は聞いたことがなかったし、尋ねたこともなかったから。
「おまえさ…」
「わたし?」
何かを聞こうとして、やめる。そんな風に見えた。
「いや、いいわ」
頭を軽く振り、窓に手を掛ける
「帰るの?」
今来たばかりではないか、あまりにも早すぎる。
パステルは引き留めようと思ったものの、なんと言えばいいのかわからず、ただ彼のマントの裾をつかんだに終わった。
トラップがそれに気が付いて振り返っても、やはり言葉は出てこない。
なぜなら、彼は自由だから
パステルには引き留める権利など無い。

いかないで、ただそれだけのことなのに、どうしても口にすることが出来ない。
一度口に出してしまったらすべてが終わってしまう気がする
そんなパステルをしばらく見ていたトラップだったが、だんだんとその瞳が険しくなっていく
「おれが、知らないとでも思ってたのか?」
「え?」
腕を強く握りしめられる。
「おれをバカにしてるのかって言ってんだよ」
初めて会ったときにすら感じられなかった恐怖がパステルを襲う。
「ちょっと、なんの…ことっ」
必死にその手を振り解こうとしてみたが、視線すら逸らすことが出来ないというのにどうして腕を振り解くことが出来ようか。
彼の長く骨張った指はパステルのやわらかな腕に食い込み、赤い跡を残していく。
どうして、そんな目でこちらを見るの。

まっすぐな、針のように突き刺さる瞳が体中を縛り付けているようだ。
突き抜けたところから、四肢が麻痺していく感覚はいつしか感情までを支配して、世界は暗転する。

窓から覗く緑の葉がかすかにざわついた
遠くのオアシスに集まる人々の炎が揺れる
冠雪のちらつく山々が月明かりに光る
そんな一瞬の合間の出来事

瞼を下ろすよりも早く、彼の唇が目元を優しく撫で、鼻筋に吐息がかかる。
彼の名を呼ぶよりも早く、音を紡ぐはずだった唇は塞がれて、絡め取られた。
それから、耳元で囁かれた言葉

「もう、ここへは来ない」
何が起きたのかわからずに、まだ呆然と立ちすくむだけのパステルを残してトラップは窓枠から飛び降りた。
いつかと同じように、その姿はすぐ闇に紛れ、消えてしまう。
なのに、どうしてこんなに体中が彼で埋め尽くされているのだろう

 

親子が、噂を正確に知ったのはそれから3日後のことだった。

 

虚実が真実を生むこともあるとはいうものの。
今回の様なケースはごく珍しいもので。
寝耳に水だった「若旦那婚約成立」の噂は以前からこの家と懇意にしていたとある王族の気を大変引くことになった。
養子と実娘のままでは婚姻は不可能だったから、どちらか一方を一時的にとはいえ正式に養子縁組の便座を計らせて欲しいと申し出があり。
実はその打診があって始めて一家は今回の騒動を正確に知ったのだ。

ふたつの名家よりもひとつの王族と父は大変喜び、幾日もたたないうちに長子の養子縁組は整えられた。(現在の王族に兄と釣り合う年齢の婦女子はいなかった)
一族の繁栄と、権力はさらに揺るぎないものになることは確実なものに思え、
街では気の早い商人仲間達が成婚セールなどをおっぱじめるし、便乗した旅芸人達が続々と集まり出す始末。

まだ、日取りも決まっていないのに。とつぶやいたのは一体誰だったのかパステルにはよく思い出せない。
ただ、気が付くと毎日が過ぎている。そんな感じだった。
何を考えるのもおっくうで
何をする気にもなれない

パステルは一日のほとんどを自室で過ごすようになった。
幾度夜を迎えても、月が消えるそのときまで待ってみても
あれ以来トラップは現れない。

手つかずの果物盛りの前にごろんと横になり、最期の夜を思い出す
彼は「もう来ない」といった、だからきっともう来ない
第一、彼がここに来る理由などはじめから無かった。
ここには金目の物などなにもおいていない
ただ、パステルがいただけだ。

どうして、わたしは彼にもう一度尋ねなかったのだろう
もし、聞いておけば、今こんなに彼に会いたい気持ちも少しはましになったかもしれないのに。
夜明けを待ちながら、うたた寝の中彼の夢を見る。
そこでは、いつものように彼はそこにいて、そして去っていく。
行かないでと引き留めようと思っても、彼を呼ぶ声は声にならず、マントに包まれた背中はすぐに闇に消えてしまう。

にわかに廊下のほうが騒がしくなる。女官達の声だ、
少しして、兄がいくつもの絹織物を抱えて部屋に入ってきた。

かんじんの本人同士だというのに、兄に会うのもずいぶんと久しぶり、というか話が進み初めてから顔を合わすのはこれが初めてだった。
部屋に籠もりっぱなしのパステルとは違い、面倒な養子縁組の手続きや、儀式の準備などで忙殺されているのだろう。
すこし、やつれたかもしれないとパステルは寝不足の頭で考えた。
兄さまはいつでもわたしのためにしてくれているというのに、わたしは何をしているのだろうと思う。
何を無くしたかもわからずに、ただ大切なものを無くしてしまったと泣き明かすばかり。
「兄さま」
「諸侯達には参るな、何ひとつ頼んじゃいないのにこう次から次へとまるで贈答品の見本市のようだよ」
本当に困ったような顔でパステルの目前に一反ずつ織物を広げてみせる。
どれでも気に入った物を選べばいいよと言われ、何となくすぐ目の前にあったものに手を伸ばす。
金糸と、色とりどりの糸で織り込まれたきらびやかな織物はとてもあでやかで今のパステルにはあまり似合いそうになかった。
婚礼用の織物はどれも、喜びと未来への期待に溢れる花嫁を包むもので、どれも同じように派手な物ばかりそろえられている。
命の赤も、花のような黄色も、むなしさしかパステルにはもたらさない。

「パステル」
ずっと、黙っていた兄が意を決したように呼びかける、パステルは返事はせず、視線だけをそちらに向けた。
「おれに、なにか話すことがあるんじゃないのか?」
いつもと同じ、幼い頃からずっとパステルを見守ってくれた大好きな兄さまの優しい目がそこにはあった。
凍える夜、親しい友や母のいない寂しさに震えたとき、
いつでも兄はパステルの救いだった。

今も、この兄はパステルを気遣い、パステルの方から話し出すのを待っていてくれる。
噂はもちろん兄の耳にも入っていたのだろう、そして噂の本当の相手が自分ではないことも重々よく知っている。
だから、こうしてわずかな時間を作り、わざわざ自らの手で届け物をしてくれたけれど。

「いいえ、何も。すべて兄さまにまかせておけば心配はないから」
これ以上、兄さまの手を煩わせたくなかった。
すべて終わってしまったことを、ぐちぐちと兄に伝えても混乱させるだけだし、そうすることできっと兄はわたしのためにまた、いらない苦労をしてしまうことになる。
「…それならいいんだがな」
兄は手際よく広げた織物をまとめ、部屋の隅にまとめる。
「急がなくて良いから、ゆっくりと気に入った物を選べばいいよ」
軽く、パステルの頭を撫で、部屋を出ていこうとする
「それから、……もう”兄さま”はやめないとな」
冗談めいた口調で、兄は笑ったけれども、パステルは口の箸で笑顔を浮かべるのがやっとだった。
「いや、すまない、悪い冗談だった」
そんなことはないのに、悪いのは全部わたしのほうなのに。
それすら上手く言えなくて、パステルはただぶんぶんと頭を振るのがやっとで、兄は一旦離した手を再びパステルの頭へと載せた。
「パステルが、おれのために何かしてくれたいと思っていることは充分すぎるくらいわかっているよ」
そのまま、優しく髪を透くと、パステルの柔らかい金髪は、指の隙間を流れて、滑り落ちる
「身よりの無かった自分に、はじめて家族が出来たとき、おれは本当に嬉しかったんだ。
大きな屋敷も、充分すぎる学びの場も、小さなかわいい妹を守ることの栄誉に比べたら些細なことに過ぎなかったよ」
ゆっくりと、見上げると、そこにはやはり優しい兄の顔がパステルを包み込むように見つめていた。
「だから、パステルには笑って欲しい、幸せになって欲しい、そうしてくれることが一番嬉しいから。」
このとき、パステルは久しぶりに素直に微笑むことが出来たのだった。

宴は、普段とはずいぶんと違ったものだった。
まず、なにより今は夜ではない。まだ太陽は屋敷の煉瓦をこうこうと焼き付けていたし、立ち上る熱気は蜃気楼となってゆらゆら揺れる。
やってくる人々もいつもの倍以上だった。
出入りの商人から、立ち寄った旅人まで。
ありとあらゆる人々がやってきては、祝辞を述べ、出された料理の数々に舌鼓を打つ。
そして、父はその日だけは、演技ではなく、本当に楽しそうで
それはパステルにとってとても意外なことだった。

上座の中央で来客からの祝いの言葉を満足そうに聞いて酒を飲む
その脇に座り、パステルは注がれた果実酒をちびちびとすすっていた。
向こう隣では兄が客人となにやら談笑している。

これでよかったのだとパステルは思う。
人々もこんなに嬉しそうではないか。

兄はよく知っているように、優しいし、有能だ。
望む物はなんだって手にはいるし、皆も祝福してくれている。

けれど、けれども…

謁見を申し込む来客の列は、屋敷の入り口まで続いているようだった。
贈り物を捧げる者、深々と頭を下げる者。
ひとふたこと言葉を交わし、宴の中へと次々に紛れ込んでいく。
時には、その言葉がパステルへと向けられることもあったが、それはたいてい儀礼的なものだったので、パステルはただ、微笑みを返すだけで良かった。
今も、でっぷりと太った商人風の男がおおきな花かごを差し出すので、席はむせかえるような花の香りで溢れかえる。

パステルは目の前が原色の花で埋め尽くされて、目がちかちかするのに耐えながらなんとか、「ありがとうございます」とだけ言葉を返した。
そうして、どこに一旦この花を置こうかと考えているうちにも、次の客人が前に進み出て、父の前に軽く傅いた。
「此度は跡継ぎとご息女の婚約、おめでとうございます」
パステルはその声に聞き覚えがあった。

まさか、と思い抱えた花の合間から客人の姿を見ようとするが、腕は震えて、かごを支えるだけで必死になってしまう。
花の香りが起こした幻聴なのかもしれない、そうも思ったが、声はさらにはっきりと聞こえてくる。
「何かお祝いの品を用意したかったのですが、私はこの通り、一介の旅人に過ぎません 」
「なに、そなたのその言葉だけで娘達も十分に満足するだろう」
父は、これまでと同じように挨拶を返す。
「しかし、私にはほかのだれにもない、私だけがもつ魔法の力があります、それをもって祝いの品に変えたいと思うのですが、受け取っていただけますでしょうか」
「…それは、いったいどんな魔法なのですか」
震える声を押しとどめ、花に埋もれながらもパステルはやっとのことでそれだけを返す。
男が立ち上がるのが気配で分かる

「それは、あなたが望む、最高のものを差し上げることが出来る魔法です。
どんな宝もあなたの望みを叶えることは出来ないでしょうし、
どんな物語もあなたの心を癒すことは出来ません」
朗々と、芝居がかった声で歌い上げる。

「けれども、私には、そのすべてを満たす術があります」
そして、おそらく男が持ち上げたのだろう、目前を埋め尽くしていたはずの花かごが一瞬のうちに取り払われて、旅人の顔が目の前にあった。
ずっと、待ちこがれていた男の姿。
「さあ、あなたの願いを叶えて差し上げよう」
パステルは迷わずその胸に飛び込んだ。

 

「よお、会いに来てやったぜ」
はじめて陽の光の元でみる彼の顔はここ数日彼女が夢見た姿と寸分変わりなかった。
心の中で幾度も呼ぼうとした名前は、ここでもなかなか声にならない
「…どうして、来てくれたの」
その代わりに、ずっと聞けずに後悔したままだった質問を投げかけると、男はパステルの肩を抱き、いつしか浮かんでいた涙を指で拭う。
「会いたかったから、お前の側にいたかったから、それじゃあダメなのか?」
パステルはぶんぶんと首を振る
「わたしも…ずっと会いたかったの、側にいて欲しかった…トラップに」
自分で決めた彼の名前。
名前を呼ぶことで、そのとき男はパステルだけのものだった。

だれにも替わることなど出来ない、あの晩、彼女の元へとやってきて、そしていつも何を盗るでもなく、なにをするわけでもなく。
ただ、そこにいるだけの盗賊が、ただ一人のトラップ。

回された腕も、見つめる瞳も彼以外の誰がパステルにこれ以上の喜びを与えてくれるだろうか。

「たいしたもんだよ、あんたの”お兄さま”は」
その一言で我に返り、パステルははっと兄の方へと振り向く。
「流石に、なんの手がかりもなく盗賊の一人を捜し出すのは骨が折れたな」
そう言いながら、大げさにポーズを取る兄の姿を見たとき、パステルはやっとすべて仕組まれていたのだと気が付いた。
「兄さま…」
なんと言えばいいのだろう、礼を述べるべきなのか、それとも謝るべきなのか。
兄はパステルだけを照らす星にはなれなかったけれども
「お前が一番輝けるように、おれはずっと見守っているよ」
そうして微笑む兄は間違いなくパステルを照らすお星様だった。

星に照らされ、浮かび上がった宝を探し出したのは、さすらっていた盗賊。
無造作に扱えばすぐに壊れてしまいそうなその宝を盗賊はそっと包み込んだ。

目の前で繰り広げられたどんでん返しにしばらくの間、人々はあっけに取られていたが、肝心の本人達がどうやら納得済みの事らしいと判断すると、再び、いや、それ以上に場は盛り上がりを取り戻した。
なんだかよくわからないけど大団円らしいと、騒ぎ、歌い出す。

「なかなかに面白い余興だったぞ」
笑いを必死にこらえていた父親も豪快に笑い出す。
「お前が、すべてを任せてくれないかと言い出したときには、一体何をする気なのかと思ったが、さすがはわしの息子だ!」
たしかに王家の血筋は魅力的だったが、そんなものに頼らなければならないような人間だったら、初めからここまで成功することなど出来なかっただろう。
「お褒めにあずかり光栄です、父上」
この分なら、少なくとも2代目までは安心できそうだ。
「娘一人を支払うには、多少高い出し物だったけどな」

それでも、父親はいつの間にか客座の方へ移動し、多くの者に囲まれ、楽しそうに笑う娘の姿を確認すると、満足げにクッションの張られた座椅子へ身を沈める。
彼にしても、ここ数年、すっかりと覇気のなくなってしまった娘のことを彼なりに気にはかけていたのだ。
娘の隣りに寄り添う赤毛の男が軽く頬に口付けると、すぐ真っ赤になっては回りの者たちにからかわれている。
今までの令嬢の顔ではない。一人の少女の自然な姿だった。

 

「ねえ、今夜はきてくれるの?」
今までに見たこともない豪華絢爛な料理を目前にして、何から手を付けて良いのか悩んでいるトラップにパステルは尋ねる。
が、パステルのその発言になぜか回りにいた客人達までが反応した。
皆、一瞬硬直したかと思うと、なぜだか微妙な笑いを浮かべる。
「お前なぁ…自分で何いってんだかわかってんのか…?」
トラップも口から焼いたパンをはみだしながら、呆れた顔をしていた。
「いや、まあ、積極的なお嬢様で…」
脇に座っていた男がそうつぶやいたものの、誰もそれに同調しようとしなかったのは、ひとえにトラップが強くその男をにらみつけていたから。
「そんなんじゃねぇよ」
そうつぶやきながらもトラップは返事の代わりに机の下でパステルの手を握りしめる。
その温もりは確かにそこにあって、現実のものだ。

凍る夜に見つけたひとつの宝は一体どんな幸をこの盗賊にもたらすのだろうか
朝を迎え、太陽に照らされたこの世界で何を築いていくのか
広がる砂漠のように、そこにはまだ何も見えないけれども、決してそこは暗く冷たい闇ではない。

照らす星や、太陽のある、人の生きる世界に
自分の生きる本当の道を見つけることができるのか。

彼らの物語はまだ始まったばかりだった。

 

END