「……ありがとう」
その言葉の本当意味を、そのとき理解できた者は誰もいなかった。

開け放たれた窓からは、すこし湿った森の風。
「ほら、ルーミィ、ちゃんと服着ないとダメでしょう!」
屋敷にパステルの声が響いた。
長い廊下は絶好のかけっこコースになり、多くの部屋はかくれんぼにもってこいだった。
興味は尽きることなく、疲れ果て、倒れ込むようにして眠るまでこの小さな天使は走り回っている。
子どもの体力という物はどうしてこう底なしなのか。

やっとの事で下着1枚で走り回るルーミィを捕まえた頃にはパステルはもうへとへとだった。
「世の中のお母さんって、ホントにすごい…」
そのパステルをさんざん疲れさせた張本人、ルーミィは少しも悪びれた様子もなく、パステルの腕の中で短い手足をばたばたさせている。
3〜5才くらいの幼い少女。
「やだぁ、つぎるーみぃがオニやるんらぁ」
どうやらオニごっこのつもりだったらしい
「それじゃあ、部屋までかけっこしよう?」
苦心の末、なんとか風邪だけは引かせずに済みそうだった。

「悪くない人生だった」
突然ノックもなしに入ってきた無礼な訪問者は、部屋の主が何かと尋ねるよりも早くそういい放つ
「なんのことかな」
「アイツからの伝言だよ」
それを聞き、思わず起きあがりそうになったが、彼の意志とは反して体はぴくりと小さく身じろぎしただけだった
「……ほかには?」
視線を逸らし、目をあわさないように尋ねる
「おれが聞いたのはそれだけだ」
用件はそれだけだった、それさえ済めば、自分がここにいる理由はもう無い
第一、男の涙なんて見たくもなかった。
来たときと同じように、無言のまま出ていこうとして、ふと足を止める。
「言ったろう?女のわがままの一つや二つ、かるーく聞いてやれないようじゃ、モテる男にはなれねえぜってな」
せめてもの慰めだった。

そのとき、何が起こったのか、それすら誰もすべてを理解することは出来なかった。
理解することの出来ない言葉での短い詠唱の後、現れた霧のようなモノが辺り一面をすっぽりと覆い、一歩先すら見えなくなる。
何が起こったのかわからないままにやがて、霧が晴れ、目前には、一組の男女が冷たく横たわっていた。
二度と形取られることも無いかと思われた、魔王クレイと、どこか見覚えのある幼い少女、深く考えるまでもなく、消去法で彼女の正体は推測できる。
分かたれた、もうひとつの存在を、一つに戻しただけのこと
しかし、そんなことは残された者は何も知らなかった。
それでも、最後にルーミィが一言だけ漏らした言葉を思うと、おそらく、もう彼女はここにいないのだとわかってしまった。
ふたりとも、横たわったままぴくりとも動かない。
駆け寄りたい衝動を押さえ、そっとパステルが近寄ると、かすかながら彼女の父親には鼓動があることがわかり、同時に一度止まっていたはずの涙が再びあふれ出す。

人間と同じように、彼には体温があり、呼吸があった。
けれども、もうひとりの少女の方は…
クレイの事はキットンに任せて、冷え切った少女を抱き上げる。
柔らかいシルバーブロンドの下にはまだあどけない顔
ただ眠っているようにしか見えないのに、手足は垂れ、かすかな温もりすら残していない。
死、ではなかった。
ただ、彼女はもうここにいなかった。

残されたのは魔力の抜け殻、元々、強大な魔力によってほとんど彼女の肉体そのものは侵されてしまっていて、妖艶な美女の姿は彼女の魔力によって作り出されたかりそめの姿でしかなかった。
魔族としての契約を解除してしまった今となっては、それを制御するどころか、本来の自分のもつ魔力にすら耐えることは不可能で
パステルは、抱きしめたままのルーミィの額に軽く唇を当てた。

「ごめんね、わたし何も知らなかったの…」
屋敷の奥で、何も見ず、何も知ろうとしないで、ただ夢の中だけに生きてきた自分
守られていることにも気がつかないで
与えるだけでも、与えられるだけでもいけないと気がついたのはほんの最近。
十分に満たされている人なんて本当はどこにもいないのだと。
「ずっと寂しかったんだよね」
皆、満たされない心を抱えながら、渇望に生きている

わたしをみてくれてありがとう
ひつようとしてくれてありがとう
みとめてくれてありがとう
しんじてくれてありがとう

そして、すべてが満たされたとき、奇跡は起きた。

 

 

あまりの鳴き声のうるささに、関わるまいと思っていたトラップはしぶしぶとパステルの部屋の扉を開いた。
「お前、なにやってんだよ」
「あ、トラップ、良いところに来てくれた!もうルーミィがごねちゃって…」
見るからに困り果てた顔のパステルの前には、涙で顔をべしょべしょにしたルーミィがベットに転がっていた。
「お父様のお見舞いに行くんだってきかなくって」
「るーみぃ、くりぇーにげんきだしにいくんらおう…」
ルーミィが必死に主張する。
短い両手を振り回し、 ぼすぼすと柔らかい羽毛布団を叩いた
「ほら、ね、ご本読んであげるから…ちょっと!元はといえばトラップのせいなんだから責任とりなさいよ」
「はぁ、なんで俺のせいなんだよ」
部屋に入ってしまったことを深く後悔したトラップが、これ以上の面倒はごめんだと扉の前でUターンしようとしたのだけれども、それはあっさりと妨害されてしまった。
「だって、昼間みんなで行こうって行ってたのに、トラップがふたりきりにしてくれとかいうから…」
「んだよ、じゃあ連れてきゃいいんだろう?」
「無理よ、もうこんな時間だし…それにキットンが会わせてくれないわ」
時計を見上げながらパステルが言った。
ただでさえクレイは絶対安静なのだ、無理は絶対にさせられない。

「明日行った方がクレイも元気出るのにな」
「…」
ぴくり、とルーミィが反応した
「きっとすっげー元気出て一気にケガも治るのにな」
「ちょっと、適当なこと言わないでよ」
小声でパステルが袖を引っ張った
「ルーミィ早く寝るんだお!早くねて早くあしたにするんだおう!」
そう言うとすかさずルーミィはベットへと潜り込んだ。
「…そっか、おやすみ、ルーミィ」
「おうよ!とっとと寝ちまえ」
ルーミィさえ何とかしてしまえばあとは野となれ山となれ、である。

「さぁ、パステル、行こうぜ?」
うきうきとパステルを部屋から連れ出そうとした背中にかけられた非情な言葉
「ぱーるぅもいっしょにねるんだお!」
「…ああ、そうかよ…」
「トラップ、また明日ね」
にこやかな笑顔でパステルが送り出す。
「……」
トラップは無言のまま部屋を後にした

手先は器用な方だと自分でも思っていた。
けれども、やはりなれないものはなかなかうまくいかなくて
「うまくいかねぇなぁ、くそっ」
これで一体何度目になるのだろうか、やっとの事でそれが完成した頃には、もう東の空は明るくなり始めていた。
予定をずいぶんと過ぎてしまったことに多少の焦りを感じながら、部屋の片隅に放り投げてあったザックを背負い込む。
あの、執事が起きてくる前に屋敷を出なければならない。
物音を立てないよう、忍び足で部屋を出、長い廊下を歩く
出口とは、逆の方向に向かって。
元々、自分は招かれざる客だったのだ。
正面から出入りする資格など無い。
頬にかかる髪がすこしうざったかった。

この屋敷に来るまでに一体誰がこんな事になるのだと予測できたのだろうか
「どう上には報告したもんかな」
まあ、適当に言っても支障はないと思う、少なくとももう当分の間この町が魔物のたまり場になるということはないだろうから。
なにしろ、この森には彼らの敬愛する偉大な主人がいるのだから
そして、その主人を支えるのは彼の愛するふたりの娘。

強大な魔力を秘めたエルフの少女ルーミィと、未だその力は未知数のパステル。
結局、なぜルーミィが蘇ったのかは解らなかった。
パステルがただ彼女を抱き、祝福のキスをした、それだけで人形のようだった少女は再び笑顔を取り戻した。 ただ。今この屋敷にいるルーミィと、あのルーミィは決して全く同じ存在ではない。

素体は同じなのかもしれないが、彼女の生きた人生はもうここには存在しない
ここにいるのはこれから先、輝ける未来をつかむことの出来る幸せな少女。
本来ならもてあますほどの魔力も、すぐ近くに低燃費きわまりない魔王がいるのだから、使い道には困らないはずだ。
失ったもの、手に入れたもの、数え出せばきりがないほどの出来事と想い
ただ解ることは皆必死に生きているという現実を再確認したと言うことくらいか

結局一度もこのドアをノックすることはなかったな
そんなことを思いながら奥の部屋の扉を開けた、鍵は昨夜からかけていない。
壁際の、屋敷の豪華さとは反対に広いだけの質素なベットの上
柔らかな毛布にくるまれて眠るふたりの少女。
昼間、さんざん暴れていただけあってその眠りは相当深いようだった

「最後くらい、ちゃんと挨拶したかったんだけどな…」
パステルの手を取り、そっと指先に口付ける。
かすかな花の香りを思う存分吸い込んで、手放せなくなるその前に、その場を離れた
「じゃあな」
振り返りもせず、一直線に扉へ、少しでも早くこの場から逃げ出したかった
自分はいつまでもここにいるわけには行かないし
彼女をここから引き離すことは出来ないのだ

これ以上後に退けなくなるその前に…

「また明日っていったでしょ」
おそらくトラップが今まで生きてきた中でこのときが一番驚いた瞬間だっただろう
少し怒りを含んだような語感におそるおそるそっと振り向く
「…なんで、起きてんだよ」
やっとの事で出てきた台詞はやたらと間抜けなものになってしまった
「だって、眠れるわけないじゃないの、トラップが…でていっちやうかもとか思ったら」
自分で口にだすうちに、それがただの予感では無かったと言うことを実感し始めたのか、だんだんと涙混じりになってくる。

やべぇ、泣かれたらおしまいだ
今、ここでパステルに泣かれたら、トラップは絶対に抱きしめてしまう自信があった。
そのまま、抱きしめたまま二度と放せなくなることにも
「夜中に、何度もトラップの部屋の前まで行って、ちゃんといるかどうか確かめてっ」
「…それは、気づかなかった…」
それだけ作業に必死だったと言うことなのだが、プロとして なんか微妙に傷ついてしまつた。
そのおかげで少し平常心を取り戻す
「そうしたら、トラップすっかり荷造りしてて…わたし、置いてかれるんじゃないかって…」
「で、お前はどうしたいんだ?」
窓枠に手をかけて、トラップは尋ねる
「え…?」

突然の質問にパステルが顔を上げた。
そして、一直線にこちらを見つめて
「あなたが、好き」
パステルははっきりとそう言った。

「上出来だ」
それだけ聞ければ、もう満足だった。
背後のカーテンを一気に引きあけると、真っ暗だった部屋に昇ったばかりの朝日が差しこみトラップの背後を照らした。
「トラップ?」
パステルの視線が自分の髪に引きつけられる、肩越しまであった細い赤毛は今やもうトラップのあご下ほどしか無くなっていた。
透かした光がまるで夕日のように赤く輝く
「トラップ、その髪…?」

その輝きにパステルが目を奪われている間に、トラップは素早く窓を開けそのまま飛び降りてしまった。
あわててパステルが窓に駆けよったけれど、既にトラップの姿は林へと消えかかっていた
「その台詞、忘れんじゃねぇぞーーー」
最後に、一度だけ振り返って大きく手を振る。
「ばか」
その姿が妙に小憎らしくって、泣く気も失せてしまう
目尻の涙を拭おうとして、パステルは指先の違和感に気がついた。

「で、彼はそのまま行ってしまったのかい?」
昼、ルーミィとふたりでクレイの部屋を訪ね、ことのあらましを説明し終わると、クレイは意外だという表情だった。
「本当、最後まで好き勝手ばかりしてる人だったわ」
クレイとしてはすんなりとパステルが納得してしまっているのが不思議で仕方なかったのである。
クレイ本人としても、まだ動けない体の自分ではルーミィの世話を焼けないし、キットンも自分への薬草の調合に毎日必死ということもあって、今パステルに家を出られては困ってしまう。なにより、まだ嫁になど出したくはない。
おまけに相手は天敵とも言えるプロのハンターだ、
それでも、 聞いてしまうのは本人の性格なのか
「パステルは、それで本当に良かったのか?」
「うん、今のわたしには他にやることがたくさんあるからね」
「たくさんあるんらぉう!」
ルーミィの両腕を持ち上げてふたりで嬉しそうにガッツポーズを取る

「まず、お父様の看病でしょ?あとルーミィのしつけ」
そう言いながらベットに登って、ひっくり返ったままのルーミィの靴を脱がす
「それに、地図の見方や冒険の勉強もしないと」
「パステル…!」
「きっと、そのころにはお父様も元気になってるよね?」
にっこりと笑ったパステルの指に、赤く編まれた指輪がはまっていたことをクレイは気がつかなかった。

何かを約束した訳じゃない、確かなものなんて何もない。
それでも人が願い続ける限り、諦めることなんて出来やしない
本当に欲しいものはひとつきりじゃなくて
手に入れようとすることが一番大事なことなのかもしれない

 

だから…

いつか、きっと幸せに。

 

fin