坂本の町なみ
−歴史と景観−
編 集 大津市教育委員会文化課
 目     次
はじめに…………………………………………………
坂本の位置と環境………………………………………
坂本の歴史………………………………………………
 1.古代の坂本………………………………………
 2.中世の坂本………………………………………
 3.近世の坂本………………………………………
 4.近・現代の坂本…………………………………
坂本の景観………………………………………………
 1.里坊 ………………………………………………
    里坊の歴史……・………………………………
    外観−みち景観…………………………………
    外観−主星・入口・平面………………………
 2.里坊の庭園…………………………………………
 3.民家 ………………………………………………
 4.坂本の町なみ景観…………………………………
 5.坂本のみち景観の構成……………………………
坂本の保存修景計画……………………………………
1.里坊地区の保存修景計画…………………………
   里坊の保全 ………………………………………
   穴大衆積みの石垣………………………………
   桟敷の保存修景…………………………………
   里坊地区の保存修景……………………………
2.町家地区の保存修景計画…………………………
   町家の保存修景…………………………………
伝統的建造物群の保存について………………………


        は  じ  め  に
 大津市は、琵琶湖と比良・比叡・長等・音羽・田上の山々によって囲まれ、その豊かな然と歴史にはぐくまれ発展して来ました。このような中でそれぞれの地域の歴史の中から生まれ、つちかわれた町なみが伝えられています。例えば、坂本の里坊と町家、本堅田の町家群、膳所の土群などがあります。そしてこれらの町なみは大津市の多様な顔の一つ一つを構成しています。
 このような町なみは、我々にとってうるおいを与える趣きのあるものとなっていますが、都市化の激しい波によって、その良さを知られないまま次第に姿を消そうとしています。このため、我々の祖先の知恵のつみ重ねによって形成されてきた町なみを保存し、現代の町づくりに生かすことが緊急の課題となっています。
 大津市では、これら地域の歴史的景観である町なみを生かした町づくりを進めていこうとしています。その第一歩として、昭和54年度に国・県の補助を得て坂本の里坊地区を中心とした伝統的建造物群保存地区保存対策事集を行いその中で町なみの実態調査等を京都大学工学部の西川幸治教授と保存修景計画研究会に依頼し、結果を報告書「坂本町なみ報告」としてまとめました。
 今回の冊子は、昭和55年3月に刊行した調査報告書の成果を広く普及し、坂本の町なみが坂本のこれからの町づくりに役立ち、活用されんことを願い、報告書から抜粋、再編集してまとめたものです。
 なお、当冊子では紙数の関係上、抜粋したものですので、より詳しく調査の成果を知られたい方は「坂本町なみ調査報告」をご覧下されば幸いに思います。
  昭和57年3月
             大津市教育委員会
              教育長 中 島 二郎
 坂本の位置と環境
 坂本は大津市の北部地域に属し、大津市と京都市を区切るように南北につらなる比叡山の東麓に位置している。
この比叡山は標高約700メートル前後の山なみがつづき、主峰の大比叡岳(標高843.3メートル)をはじめ四明が岳、横高山、水井山、三石岳などの峰がある。この比叡山から、足洗川、大宮川、権現川、四ツ谷川などの小河川が東方の琵琶湖に注いでいる。この中でも特に足洗川、大宮川、権現川の形づくる扇状地に坂本の町かつくられている。
 坂本といっても、広くは、山麓附近の坂本本町、穴大、湖岸の下阪本、比叡辻、木の岡をさすことがある。かっては上坂本、下坂本(浜坂本)という表現があったように、山麓から湖辺までの広い地名であった。しかし、行政上の地名の分割などから、今では、狭義に坂本本町(上坂本)を指すようになった。
 さて、坂本の集落ぱ、比叡山側の日吉大社、滋賀院、延暦寺里坊などの社寺関係の集中する地域、その東側の民家の集中する地域に分けることができる。そしてこれらの集落ぱ、東西の道路=日吉の馬場、八条通り、滋賀院通り(御殿の馬場)、権現の馬場、松の馬場と、南北の道路=つくり道をそれぞれ主軸として町づくりをされているようである。
坂本の歴史
1.古代の坂本
 坂本の地は、比叡山系を背後にもち、前面に琵琶湖を控えるという地形的奸条件を背景に、生活の場として近江のなかでも比較的早く開けたところであった。
弥生後期には、古代人がすでにこの地で農耕生活をはじめていたのである。そして、人々の定着が進むにつれて、南部から飼込・穴大・塚穴・裳立山・裳立山東・天神山・東照宮比叡山高校裏山・日吉大社境内・木の岡の各古墳群がそれぞれ分布し、その生活の繁栄ぶりをものがたっている。横穴式石室の構築方法は、はるか朝鮮半島にその起源を求めることができるという。
 『和名類聚抄』によると坂本付近は大友郷に含まれ、在地ならびに渡来人系の諸氏族が居住し、すぐれた生活文化をはぐくんできた。なかでも渡来人系の三津首家(みつのおぴと)から最澄(伝教大師)が出自したことはよく知られている。
延暦寺・日吉社の創建
 古くから坂本の人々から原始信仰の対象となったのは比叡山であった。『古事記』上巻は「大山咋神、(おおやまくひのかみ) 亦の名は山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、此の神は近淡海国(ちかつあふみ)の日枝の山に坐(ま)し」とあるように、日枝(比叡)山の神は大山咋神で、牛尾山(八王子山、小比叡峰)にまつられたのである。牛尾山は神の降臨地にふさわしい磐境をもち神奈備山として脚光をあびた。のちに山麓に祭祀され東本宮となった。
また、668年に天智天皇が大津に都を定めたときに、大和の三輪山の大巳貴神が勧請し西本宮としている。
 その後、東本宮には牛尾・三宮・樹下、西本宮に宇佐宮・白山宮の各社が祭祀され、あわせて「山王七社」とよばれた。本地垂迪思想の盛行につれて、中世には「山王二十一社」に、さらに「内の百八社」「外の百八社」と次第に体系化され発展していったのである。
 一方、坂本に生まれた最澄は、南都で修行したあと延暦7年(788)に比叡山寺を創建した。比叡山は、奈良時代の漢詩集『懐風藻』に「藤原守神叡山先考の旧禅処に柳樹を詠ずるの作に和す」とあるように、すでに庵室が設けられていたのであった。この霊地を幼少のころより仰ぎみていた最澄が、入山し根本道場として開いた。
 比叡山に人った最澄は、山学山修の確立とともに修学僧の育成に力を注ぎ、多くの門弟を輩出させ、それらの門弟が東塔・西塔・横川の三塔十六谷の組織を整備し、多くの堂塔伽藍を創建し、平安末期には興隆期を迎えた。
 そして、社会経済の発展にともない庄園が全国各地にでき、比叡山が支配する山門領は多かった。坂本は山門領からの年貢米の輸送、ならびに巨大な山上の消費をまかなう経済的な兵糧基地の役割りをはたすことになった。
また、坂本には日吉社の参拝をはじめ、山門の運営を補助する諸機関も配置され、門前町としての初期的機能はすでに古代にみられたといっても過言ではない。
2.中世の坂本
坂本の繁栄
 中世を通じ上・下両坂本は、上坂本は延暦寺・日吉社の門前の町、下坂本は同寺社に各地から集ってくる年貢物等の荷揚げ港の町として門前町の機能をはたし、発展しつづけていくこととなったのである。
 特に琵琶湖岸に接した下坂本(浜坂本)は、当時、もっとも大きな荘園領主であった延暦寺・日吉社に運び込まれる年貢物の荷揚げ港として、また琵琶湖水運を利用し京都に運び込まれる諸物資の中継基地として、殷賑をきわめ、戸津・今津・志津のいわゆる三津浜と呼ばれる3つの港が関かれていたが、戸津がもっとも賑っていたようである。東本宮参道と西近江路がぶつかるあたりには、富崎・比叡辻の集落があったが室町時代初期には、馬借・車借といった運送業者が往みつくまでになっている(『日吉社室町殿御社参記』)。
 このほか中世における三津浜の繁栄ぶりをよく物語るものとしては、三津浜に設置された湖上関がある。三津浜には、鎌倉時代以降、琵琶湖を往来する船から関料(通`行税)を徴収するための湖上関が数多く設置されている。
戸津に設置された湖上関では、米一石につき1升3合の関料が徴収されたという(東寺百合文書)。また南北朝期には、「坂本7ヵ関」と呼ばれる本関、導撫関、講堂関、横川関、中堂関、合関、西塔関の湖上関か設置された。
 また、応永元年(1394)、足利義満が日吉社に参詣した折、延暦寺では坂本にあった土倉三九軒に課役を課したという。 39軒もの土倉が、上・下坂本のどちらかにまとまっていたとかんがえるより、多分、上・下坂本に点在していたとみるべきではなかろうか。延暦寺・日吉社の門前の町としてひらけた上坂本も、それなりの賑いをみせていたことになるのである。なお時代は下るが、坂本を訪れた奈良の多聞院英俊は、上坂本の様子を「上坂本家々数多繁昌ト見ヘタリ」とその日記に書き記している(『多関院日記』永禄13年3月19日条)。 中世を通じて上坂本がいかに「繁昌」していたかがしのばれよう。
 中世の坂本は、戸数で2〜3千軒、人口で万をこえていたとみて、ほぼあやまりなかろう。これは当時の畿内では、京都・奈良につぐ戸数・人口であり、中世の坂本の繁栄ぶりが戸数・人口の面からも裏づけられる。
 いうまでもなくこの坂本の繁栄は、延暦寺の隆盛によって支えられていたといっても過言ではない。しかし坂本は時として悲劇をも延暦寺とともにしなければならなかった。永享5年(1433)から同7年にかけておこった永享の山門騒乱の時、延暦寺方にあって、まっさきに幕府軍の攻撃をうけ、兵火にかかったのは坂本の町であった。
一面焼け野原となり、「坂本中滅亡」とまでいわれるほどの大打撃をうけたのであった(『看聞御記』)。 延暦寺と幕府との関係が好転するにともない、坂本の町はやがて復興した。坂本の復活ぶりを示すものに、狂言「磁石」に描かれた坂本の市場風景がある。                       
爰元は皆唐物店ぢゃよ。金欄・緞子(どんす)・綴錦(どんきん)・錦、綾 織物・染物、さてもさても夥(おびただ)しい売物ぢゃ。また是に は馬道具があるよ。鞍(あぶみ)・鎧(きつつけ)・切付、肌付(はだづずけ)・刀皮・四方(しぽう) で手・轡(くつわ)・手綱(たづな)・押掛(おしかけ)・鰍(しりがい)。また爰元は数寄道具、風炉釜・茶碗、茶杓、茶晃・杓(ひさく)、茶入・水差、水こぼし・ 蓋置、瓢(ふくべ)・花入、火箸・灰・焙烙(ほうろく)、いづれも一通り飾ったよ。いや是には小間道具、鏡・紅・白粉、櫛・針・毛抜・鋏、巾着(きんちやく)・ただき・印籠・帯、起上り小法師、 たんほほ、振鼓、さまざまの物がある…………しかし、この坂本の前途は決して容易ではなかった。中世の坂本の終焉は、永享の山門騒乱にまさるともおとらない戦火によっていろどられることとなったからである。
山門焼き討ちと坂本築城
 元亀元年(1570う9月の信長軍と浅井・朝倉軍の坑争は、やがて両者の間に和議が整うが、信長は延暦寺を強く憎むこととなる。元亀元年の合戦からちょうど1年を経た元亀2年9月、山門攻めを強行する。信長は先年の合戦後まもなく、坂本の南、宇佐山城に明智光秀を入れて、雄琴・仰木の士豪らを懐柔、山門攻めの下準備を着々と進めていた(『和田穎一家文書』)。周到な計画の下に9月12日暁、山門焼き討ちは決行された。下坂本は先の合戦で焼土と化していたが、いまだ無疵であった上坂本に信長軍は攻めかかった。日吉社も兵火にかかり、坂本は一面の焼野原となった。信長軍は比叡山一山をくまなく掃討し、延暦寺ぱここに滅亡した。古代・中世と延暦寺の隆盛とともに繁栄を極めた坂本の町は、信長によってここに滅びた。
 信長は延暦寺滅亡後、それまで宇佐山城にあった明智光秀に命じて、ここ坂本の地に城を築かせた。延暦寺は滅びても、湘南地域における坂本の政治的・経済的な要所としての位置になんら変りはなく、そればかりか軍事的には、これまでにもまして重要な地となりつつあった。
 当時、信長は、近江国内はもとより、遠くは武田・毛利・本願寺といった敵対勢力と対決する立場にあった。
特に近江国内では、江北の浅井がいまだ信長の隙をつき反攻せんものとねらっており、このような不安定な軍事情況のなかで、坂本のもつ軍事的拠点としての意味は大きなものがあった。
 この城はひじょうに立派なものであったとみえ、ルイス・フロイスはその著『日本史』のなかで、坂本城について「明智は都から4里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の25里もあるかの大潮(琵琶湖)のほとりにある坂本とよばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。(第56章)と記している。
 さてこの光秀の坂本城は、天正10年(1582)6月の本能寺の変、山崎の合戦とうちつづいた変事ののち、同月15日炎上しだ。しかし、その後も坂本の持つ戦略上の拠点
としての重要性に変化がなかったためであろう。秀吉はただちに坂本城の再建にとりかかっている。
 秀吉は坂本城の再建を丹羽長秀に命じ、長秀を城主とした。しかし、天正11年(1583)5月の賎ケ嶽の合戦を契機として、杉原家次がこれにかわり、天正11年末には、さらに浅野長吉が家次にかわって城主となっている。 
しかし、天下統一をめざす秀吉にとって坂本城はもはや軍事上の拠点としてよりも別業としてしか利用価値のないものになっていた。ついに天正14年(1586)、城は坂本から大津に移された。
3.近世の坂本
門前町坂本の復活
 天正12年(1584)5月、延暦寺再興が許可され、また日吉社も天正10年(1582)には、山王社再建の勅許をえており、城が大津に移ったのち、坂本は再び往時のような延暦寺日吉社の門前町として再出発することとなった。
 しかし、もはや坂本に往時の繁栄が、再び戻ることはなかった。延暦寺、日吉社にかっての権勢が復活することはなかったからである。近世における坂本の人ロを推移をみると次のようになる。享保17年(1732)で、上坂本2492人、下坂本2040人で合計5532人。寛政(1789〜1801)から文政(1818〜18 10)で、上坂本が約2000人下坂本が約1700〜1800人で、合計約3700〜3800人。幕末の天保5年(1834)で上坂本が1907人、下坂本が1600人で合計2507人となっている。近世の坂本の人口は、中世の繁栄時の4分の1から5分の1にまで減っていたということになる。近世における坂本の門前町の復活が
中世にとうていおよびもつかなかったことが知られよう。
4.近・現代の坂本
 坂本の町に、明治維新の波がおしよせた。それは明治元年(1868)の神仏分離令であった。それまでの延暦寺と日吉社の関係は、神仏混淆の象徴として全国的に名高かったが故に廃仏殿釈の大騒動がおこったのである。
 一方、明治の交通機関の発達は、延暦寺・日吉社などの数多くの名勝史跡をもつ坂本へも伸びてきた。まず明治27年(1894)に大津・坂本間に定期航路が開かれ、大正10年(1921)に江若鉄道が三井寺と叡山間に敷設された。続いて昭和2年(1927)に石山・坂本間にはじめて電車が開通し、とき同じくして比叡山上と山麓を結ぶ日本最長の坂本ケーブルが完工し、比叡山の観光化を促進する第一歩をふみだした。
 また明治11年(1878)、戸数635のうち工業20軒(大工・挽木・植職)、商業35軒である。商業には酒造・呉服・小間物・旅籤屋・飲食店などが含まれ、門前町としての機能を残していることがわかる。
 坂本・下阪本両村は、昭和26年(1951)大津市と合併し近郊農村の道を歩んだ。また湖西線の開通などで住宅地の開発が進んでいる。門前町坂本は、石垣・里坊・樹林・民家などの景観が脚光をあびている。
上・下坂本略絵図(部分) 叡山文庫蔵
 坂本の景観
1.里 坊
里坊の歴史
 山門の復興がすすむなかで、坂本に「里坊」制度が定められた。一山の秩序を維持するために、慶長10年(1605)天台座主常胤法親王によって「一山衆徒法度』が発せられている。山徒(公人)は衆徒と同じく「山坊里坊」にあり、妻帯して常に里坊に生活していたと記されている。『天台座主記』にみる「里坊」の初見である。
 坂本に構えられた本坊滋賀院には座主が常住し、そこに全ての運営機関も置かれるようになった。それにともない山の結界を出ることが許されなかった清僧も、山上で学修を積んだ晩年、60才を過ぎと「里坊を賜う」と称して山下に住居を構え、悠々の生活をすることが許されるようになった。この里坊には山裾を流れ下句る山清水を引き継いだ築山池泉の美しい庭園も造られ、道路から土塀や垣越しに見える木々の緑は、里坊の町並みを一層豊かなものとしている。
 里坊は本坊滋賀院を中心に、主として日吉大社の中之鳥居を間に置く作道町通・横小路の西側(山側)の、北は今辻子から南は権現馬場を越えて広く分布しており、坂本の町並みを構成する最も重要な要素であるとともに、それを特色づけている。
 現在坂本に遺る里坊は49坊あり、坊趾は10ケ所に及んでいる。今回の調査ではこのうち横川8坊、西塔6坊、東塔22坊の、計36坊を対象とすることができた。それらは山上での3塔の位置と平行して、坂本の町の北から南へ横川、西塔、東塔と、おおむね塔ごとに群集櫛比している。里坊の建築はほぼ江戸中・末期に造立されたものが多く、近代以降のものも6坊混在している。
外観−みち景観
 里坊の町なみは、「穴太衆積み」でしられる石垣と、その上にめぐらされた土塀・生垣の門構えで特色づけられている。そして主星は道路から後退して建てられているため、主星の外観とみち景観の構成要素としての外観とは異質なものとなっている。里坊のみち景観は門、石垣、土塀、生垣と、塀や垣越しに垣間見られる庭木や主屋が重層的に複合して外観を形成している。
  石垣は自然石の面を巧みに生かした「野面積み」で、 素朴ながら強固な印象を与え、律院の門前では石垣で枡形を造り、城郭風の構えをなすところもある。門は道路 に直面して建てられたものが過半であるが、道路から奥向きに後退して建つもの、道路に側面する門構えをなすものがある。また、道路面と敷地面の高さが異なる時、まず敷地が道路より高い場合は門前に石段を築いて門を高く構え、門内は平坦に主屋ヘアプローチされるものが大半で門を道路面上に構え、門から主屋へのアプローチに石段を築くものは1例(旧竹林院)に過ぎない。それに対して敷地が道路より低い場合、すべて、門は道路面上に構えられ、門より主屋へのアプローチを斜路ないしは石段にして下る方法をとる。門の形式は、寿量院の向唐門を特異なものとして、薬医門13例、棟門ないしはそれを簡略化した腕木門20例と相半ばする。それらの門扉はおおむね両開きであるが、腕木門5例は脇に腰羽目板の袖壁をもち、潜りを付けた太引戸を建て込んでいる。
その屋根は恵光院棟門の柿葺を除き、全て桟瓦が葺かれまた新しいものではあるが、無量院では枝節を露わに出す禅丸太を使った冠木門を構え、禅定院だけは門を構えず、道路から生垣の間を斜路下りに主屋ヘアプローチされていく。
 門に続く石垣上の塀や垣は、漆喰塗りの白壁や塗らない土塀、板塀と、竹を組んだ金閣寺垣、生垣が混在し、町なみにアクセントとリズム感をうみだしている。
外観−主屋・入口・平面
 主屋はその過半がハレの領域たる客殿の部分と、ケの領域たる庫裏の部分において、棟に高低をつけたり、直交させて、分離した扱いを見せる。客殿の分ぱ原則的にぱ平屋建てで、総2階に座敷をもつ旧竹林院ぱ特異である。たとえ2階にしても厨子2階が限度で、そこの天井の低さを利用して仏果院のように2階に茶室を奸んだ例も見うけられる。一方、庫裡の部分でぱ土間の上部は高く屋根組をのぞかせ、小屋根をあらわにした火袋とする。
屋根はその多くが桟瓦葺で、大慈院や蓮華院のように茅葺にしたり、また観明院のように茅葺をトタンで覆った農家風のたたずまいを見せる里坊は、一きは目を引く。
 屋根形式はおおむね入母屋造にして反り屋根とするが、寿量院の寄棟造や仏果院の切妻造の屋根には多小起りがつけられ、数寄屋風書院的な外観を示す。入母屋屋根の妻飾りとしてぱ格式的な狐格子とするものが7例あり、止観院では門を入った正面に狐格子を付けた干鳥破風を配し偉容を見せる。他ぱ東員式の妻を見せ、茅葺屋根の妻飾りぱ大慈院のように竹格子を組むか、観明院のように透し紋を入れた板壁を立てている。
 里坊でぱ客殿部への入口ぱ厳格なる式台を構え、庫裏部への人口は潜り付きの板戸と腰高障子の2枚を建て付けた大戸口である。
 里坊主屋の平面ぱ、礼拝・応接のためのハレの領域である客殿の部分と、日常生活のためのケの領域である庫裏の部分に二分される。そしてそれらの中間に、オモテゲンカン・トオリマなどの式台列を組み込んで、二つの領域を互いに接続しあう形式を基本としている。それは近世以来の里坊が、一山長老が庵居するという、機能的にも禅院に成立した塔頭と共通する性格を有したため、禅院塔頭にみる方丈と庫裏の構成に相似し、それらをより密接に融合させた平面構成をとる。
2.里坊の庭園
 坂本の町なみの中で、里坊の庭園がもつ役割りは大きい。まず日吉大社の表参道(日吉の馬場)には、サクラ・カエデにマツを混えた並木の両側に穴大衆積みの見事な石垣かつらなり、石垣上の生垣や竹垣・土塀が一段と風情を添えている。律院・実蔵坊・寿量院など通り北側の里坊でぱ、石垣の内部が主庭となっており、その石垣にかけて築山を設けているので、植栽された庭木(マツやカエデなど)が石垣上にのぞいて、外観をいっそう豊かにしている。町なみの中の庭園的な要素として高く評価することができよう。
 山麓の坂本でぱ、山上で業を終え60歳をすぎた老僧が座主より里坊を賜って常住を許された寺坊だけに、老後をたのしむための庭が営まれるようになった。
 様式的にみると、ほどよい傾斜地を巧みに利用して曲流(遠水)を主体とするもの、池を中心とするもの及び枯山水に大別される。
 庭の広狭はさまざまであるが、池にも流れにも護岸をぱじめ全体的に石組が多く用いられ、根じめは刈込み本位のものが多い。桃山時代から江戸時代初期とされる吉庭園も約10庭を数えるが、これらについても代々の住僧の好みや管理上から、後世に改修されている。これは住まいの庭として当然のことであり、価値をそこなうもの
3.民家
 坂本の歴史的環境は、里坊群とともに、その東に分布する伝統的な町家等の民家群の両者によって、坂本らしい個性ある景観が構成されている。作り道沿いには、比較的間口の広い町家が軒をつらね、その中に草葺きの民家や、茶店風の特殊な形のそば屋などが混在している。
町家にはバッタリ床几(揚げ店)を残している家もかなりあり、町なみには門前町らしい雰囲気が今もうかがえる。作り道からそれると、家屋は町家型だが、軒が深く道路との間に庭・空地をとっている農家的な家が大半を占めている。また、八条通りでは、土塀と門を構えた伝統的な屋敷が町なみ景観を特徴づけている。
4.坂本の町なみ景観
 坂本は地理的に、西の比叡山と東の琵琶湖とにはさまれた、ゆるやかな傾斜地にある。このなだらかな傾斜地にひらけたことが、坂本らしい景観をつくりだすのに大いに寄与しているといえよう。東の方をみると、くだっていく坂の両側に続く町なみのむこうに琵琶湖がみえ、西の方をみると、のぼっていく坂ぞいの町なみの後方に横へ広がった山なみがみえる。
 この坂本の景観を形づくるものとして、大きくわけて〈坂本の町なみ〉を中心に〈比叡山の山なみ〉〈琵琶湖〉の3つがあげられる。これらがどのように組みあわさり、どのようにみえるかによって景観の変化がもたらされる。
じっさいにみられる坂本の景観は上の2つの組み合わせによって形づけられているともいえる。
町なみ景観
 坂本にはすぐれた、しかも多様な景観を示す地区が多い.ここではそのうちでおもなところをとりあげる。
 日吉の馬場は坂本の町のなかでもっと広い東西に走る道で、中心的な位置をしめている。西にむかって日吉大社につながり、さらには延暦寺へ導く参道として重要な道である。
 この日吉の馬場にある2通りの道−中央の道と小道(2本)−はそのみち景観がまったく異っている。中央の道にたって西を向いてみると、両側に灯簑と木立ちがならび、その奥に石垣、その上の土塀が生垣越しに里坊の屋根が姿をみせており、正面には比叡山とまわりの山々がひかえているというふうに空間の広がりを感じさせる。ここを歩くと、屋根の姿とところどころの門が印象的である。一方、小道の場合、石垣と木立ちによってはさまれた閉ざした空間に生い繁った木立ちが蔭をつくり、中央の道の広がりとは対照的な景
観をみせている。次に中央の道にたって東に向かうと、木立ちがとぎれた先に石の鳥居がみえ、その先に続く町なみのむこうに、町なみにはさまれて琵琶湖が目にはいってくる。
 また、春に行われる日吉山王祭の際には、日吉の馬場を行列が練り歩き、中央の道がみられる内的空間へと変化する。
 権現の馬場をまっすぐ西へあがっていくと日吉来照宮につきあたり、来はつくり道につきあたっている。まっすぐに通っているこの道の両側には樹木がたちならび生い繁った枝葉が道をおおっているため、外の空間を歩いてはいるのだが、枝葉によって囲まれた内部空間−来照吉への通路−を歩いているように感じさせる。
 滋賀院通り(御殿の馬場)は日吉の馬場と権現の馬場の間に東西に走る道である。西は滋賀院の門につきあたり、来はつくり道のところでつきあたって、その手前に門を構えている。門と門ではさまれた道に沿って石垣と土塀・生垣が走り両脇をかためて一つの囲まれた空間をなし、滋賀院へ向う路として意味づけがなされているようだ。
 両側に里坊・叡山文庫の建物がならび、石垣・土塀・生垣・生い繁った樹木によっておおわれた空間は落ち置きを与え、もっともよくまとまった景観を呈している。
 作り道は南から日吉の馬場へとつながり、かっては延暦寺への参拝の通り道となっていた。道の両側には日吉の馬場・権現の馬場とちがって町家が連なる。町家には平家や2階をもつものがあり、2階も低いものや高いものがあって、その屋根の高低の変化が町なみの景観を豊かなものにしている。また、むしこも景観を豊かにする一要素となっている。伝統的様式をそのまま伝えている町家は少なくなりつつあるが、全休的には伝統的雰囲気
はよく維持されている。現在改造されている町家などを修景していけば伝統的様式を十分にとりもどせる地区なので、新しく建てる場合には伝統的景観との調和を考慮することが望ましい。
 横小路は八条通りと日吉の馬場を結ぶ、南北に走る160mの道で、南半分には里坊がたち、北半分には両側町家が並んでいる。むしこ町家と高二階町家がたち、白壁の倉が1つ印象的である。ここには、つくり道にはない犬やらいや駒寄せが一部におかれている。伝統的様式がよく維持されており、また新しいものでも伝統的様式を踏襲し、もっともまとまりのある質の高い、おちついた空間を呈している。
5.みち景観の構成
里坊の奥行き性と町家の直面性 坂本のまちでは、里坊と町家がまったく異なった道路
前面の構成をなし、異質な景観をみせている。町家の町なみでは、町家の前面が道路に面してほぼ直立にたち、それが道に沿って続くという閉鎖型であるのに対して、里坊の町なみでは、道路に而して石垣、その上に土塀か生垣があり、その奥に庭の木がみえ、その奥に里坊の屋根がみえ、そのうしろには生い茂った樹木が壁伏にみえ、遠くに山をみるという奥行きが感じられるのが特徴的といえる。このような里坊の景観の奥行き性と町家の景観の直面性という対照的な景観がみられることが、坂本を味わい深いまちとしている。
景観の構成要素
 里坊地区といえば、統一して穴大衆積み石垣がみとめられる。そしてその石垣をところどころくぎるように門がたち、穴大衆積み石垣の連続に変化を与えている。
門はどれも同じようでいて、よく見るとそれぞれに個性をもつ異った形をしている。また、石垣の上には里坊ごとに土塀が生垣か竹坦があり、里坊ごとにまとまりを与えている。したがって、それぞれの里坊は、門・土塀・生垣・竹垣の独自の組み合わせを見せている。それらの奥に樹木ごしに見える屋根の形も、里坊ごとに少しずつ変化している。つまり穴太衆積みの石垣と緑の樹木が景観全休の基調をつくりだす要素として存在するなかに、い
ろいろと変化を与える要素を加えている。そこに坂本らしい景観の豊かさが感じられる。
 次に里坊地区にあって大きな変化を与えるものをとりあげてみる。里坊のならびにあって、桟敷・宵宮の舞台鳥居・とうろうなどは里坊の建物とはまったく別の形をみせて、その地点の特徴を表わしており、その地点を個性づける要素といえよう。また、同じ里坊の町なみであっても、道が平らか坂によって、また坂も緩やかか急かによって、みち景観からうける印象ぱちがう。このように、坂が緩やかか急かということも変化を与える要素と
なっている。
 町家地区においてぱ、町家が道に而して軒をつらねている。町家が連続していることが統一して感じられる。
しかし、単に同じものが連続しているのではなく、軒の高さや軒の出の具合を変え、屋根の高さに高低の波がみられる。また格子の形が多様にちがい、むしこのあるないこよっても町家ごとに変化を与えている。中には大やらいや駒寄せを前においている家もあり、その家の特徴となっている。また町家がならぶなかにところどころ神社、地蔵堂、観音堂がおかれ、穴大衆積みの石垣がつづく場所もある。個々の町家が町なみに小さなリズムをつ
くり出すのにたいし、それらぱ町なみをくぎることによって景観に大きなリズムを与えている。また、つくり道の滋賀院通りの角の石垣には祠がぱめこまれているが、それも小さな景観要素ではあるが町なみをいっそう印象深いものにしている。
 連続する町家という全休の基調となる要素の上に、大小の変化を加えているところに坂本の町家の町なみ景観の豊かさを感じる。軒高や軒の出具合、屋根の高さ、格子の形、むしこ、大やらい、駒寄せぱ小さな変化を与えるもので、各町家を個性づける要素といえ、そして神社 地蔵堂、観音堂、石垣、祠は大きな変化を与えるものであり、同時にその地点を個性づける要素といえよう。また、町家地区では道がほとんどまっすぐななかで、
日吉の馬場近くで曲線になっている。この直線から曲線に変化する道にそってならぶ町家はちがった表情をみせているように、直線から曲線へと、また曲線から直線へと道が変化するということも変化を与える要素となっている。
 景観というのぱ、同じ形の家が建ちならぶ住宅開発地のようにまったく単調だと退屈さを感じ、また大小・色彩さまざまなビルや大看板がたちならんでいるビル街のようにまったく混沌としていると、おちつかず、心の不安定な状態を引きおこす。豊かな景観とぱ、まったく単調でも混沌としているのでもなく、先に述べたように、ある基調となる要素の上に、変化を与える多様な要素を組みかえて加えていくところにうまれるのではないだろ
うか。とくに伝統的な町なみではそのことがそなわっており、それがおちつきのなかにもこころよい変化のある豊かな景観をみせているといえよう。
穴太衆積み石垣
 坂本のまちの景観を構成している要素の−つに穴大衆積みとよばれる石垣がある。その素朴で美しい石垣は、里坊、民家、社などどこにでもみることができ、静かな町なみともよく調和している。その積み方は、自然の石のづらの面を生かしそのままに積む「野面積み」である。下から上へと面と面が合致するように積み、大小の石を随所に配した石垣の構成は素朴で味わいがある。
特徴的要素
 景観の構成要素のなかで、住居とは独立してその地点を個性づける要素をとりあげると次のようになる。
建物の評価−保全度
 保全度とは建物の外観がどの程度伝統的様式や意匠要素をのこし、またどの程度改変されたか、あるいは新しく建てられた場合どの程度伝統的様式を踏襲しているかを示す指標である。その具体的基準は次に示す。
坂本にみられる伝統的な外観(構造体と意匠要素)を保持し、町なみや景観の中核となっている建物。また年代の新しい建物でも、伝統的様式を踏襲して建てられているもの。
伝統的様式を十分に保っている建物なので、非伝統的な素材や様式でもって外観を改造することなく、現在の状態をそのまま保全していく。
1に比べて前面の一部が改造されているが周囲の町なみや景観をさほど乱していないもの。新築の場合、現代風を加味しながらも、周囲との調和をはかっているもの。
改造部分を伝統的様式に改修するなど、外観に不調和な部分の修景をほどこす。
3構造体は伝統的様式のままで前面が大部分改造されているもの。庇をかくして前面を板状にした商店など、伝統的な景観とは不調和な改造をしたもの。前面を修景するだけでよく、伝統的町なみの景観をまもるためそれに調和するようなデザインを創り出す。
4構造体は木造でも新しく井伝統な形式の建物で、モルタル仕上げでアルミサッシ等をつかっているため伝統的な景観とは不調和であるまた鉄骨コンクリート、鉄骨などの構造物で、景観と著しく不調和である。
全面にわたる修景が必要である。改築に際しては、町なみの景観と調和するようなデザインを工夫する。住宅など小規模の建物では、外壁の材料・色彩等の工夫や植栽によってある程度の修景が可能である。
坂本の保全修景計画
1.里坊地区の保全修景計画
 坂本の里坊地区ぱ、延暦寺の長い歴史の中でうまれてきた、里坊という特殊な建築と、自然と人工のたくみな調和をうむ穴大衆積み石垣、豊かな樹木の緑、などが日吉大社や滋賀院など数多くの文化財とともに、すぐれた歴史的環境をつくりだしている。 しかも、その環境は、文化財として貴重なだけでなく、快適でおちついた生活環境として、今日の都市が失ってしまった多くのものを保持している。このようなすぐれた環境を、以下のような考え方で保全をはがりたい。
里坊の保全
 里坊の建物は、江戸時代からの伝統的様式を伝え、単体としても貴重な文化財である。あるものは江戸の姿をそのまま今に伝えている。また、改造されたり、新築されたものでも、ほとんどは伝統的素材と様式を用いて建てられており、どの建物も歴史の重みと風格を感じさせる。
 建物外観は、現状で良好な状態にあり、保全度1。そこで外観に関しては、伝統様式の保存に努め、修理や改造にあたっては、伝統的素材と様式を用いるのが適切であろう。
 里坊が景観にはたす役割を考えると、門・土塀や生垣・門から玄関までのアプローチ部分の造園・塀ごしに見える樹木などが重要な景観要素としてあげられる。そこで、この地区の景観保全には、これらの要素を保全していくことが重要である。
穴大衆積みの石垣
 穴太衆積みの石垣は、坂本の里坊地区の景観を個性づける基調となっている。住民は穴大衆積みの石垣に坂本らしさを感じ、その保全を強くのぞんでいる。新たに住宅や公共施設などの土地造成のときは、擁壁や石垣に穴太衆積みの石垣を積極的に利用することによって、坂本らしい景観を将来にまでうけついでゆくことができるだろう。
桟敷の保全修景
 現在ある桟敷は、改造されているとはいえ、坂本でた的にまとまりを感じさせ、坂本固有の町なみ景観をつくりだしている。
 伝統的様式を十分に保っている町家は今後とも、町なみ景観のなかでとくに視線をひきつけ豊かさをますはたらきをするものなので、非伝統的な素材や様式でもって外観を改造することなく、現在の状態を大切にしていきたい。
 改造や改築・新築をする場合、固定した考え方をせずに、居住者の希望にそうなかで、ふるいものと新しいものとを調和させていき、すぐれた町なみの伝統をひきついでいきたい。ふるいものと新しいものとに調和がないと、町なみはみだれていくことだろう。
したがって、それぞれの家が個性をもちながら坂本の町なみに不調和とならないよう創造していくなかで、町なみを一層すぐれたものにしていきたい。
伝統的建造物群の保存について
 歴史的な景観をもつ町なみを保存し、これからの町づくりに積極的に活用していこうとするのが、伝統的建造物群の保存といわれるもので、一般に「町なみ保存」といいます。日本各地において、それぞれの地域の伝統をもった宿場町、城下町、門前町、寺内町、農・漁村などの歴史的な町なみを、それと一体となっている周囲の環境とあわせて保存していこうという動きがあらわれています。
 昭和30年代の経済の高度成長による都市化の波の中で、地域の個性ある町なみが消え、画一的な小東京とでもいうような町づくりが行われ、地域の個性が失われて来ました。このような状況の中で、町なみ保存の動きはふたたび「わが町」「わが村」として誇れる町、個性を持った魅力ある町を再建しようとするものとしてできました。
 さて、この町なみ保存は、動態保存という方法で行っていきます。これは、先人たちが知恵と努力をつくして改造をくり返し、現在みるようなすぐれた町なみを形づくってきたことに注目し、町なみを固定して保存していくのではなく、今後の生活や地域づくりに積極的に生かしていく方法をとります。したがって通常行われている文化財の保存のように、昔のある時期の姿にもどし、固定してしまう方法、いわば静的保存の方法は、町なみの
保存には使いません。
 このような町なみの保存は、京都市、萩市、倉敷市4高山市、などで行われ、住民が誇れる町、人々がよろこびをもって訪れる町となって生き生きとした町になっています。
 坂本の町なみは、日本全国の中でも里坊を中心とした周辺の町なみは貴重なものです。個々の建物、穴大衆積みの石垣、生かきなどのかもし出す空間、それに灯籠、祠
梢、堂、などの存在する町なみは、坂本らしさを演出し、すぐれた町なみとして、坂本を訪れた人々を強くひきつけ、魅了している誇るべき町なみです。
 この町なみを良好な状態でいつまでも保存していくために、知恵を出しあい、努力して昔からの町なみを保存し、より豊かに魅力ある住みよい町となって行くことを
目ざして行政も協力し、助言し、助成していこうと考えています。
 この伝統的建造物群の保存ぱ、文化財保護法にいう文化財の一つで、都市計画法により保存地区を市が決定することになっています。今後、よりよい豊かな町なみにして行くために行う協力や助言、助成を実体化するために市条例を制定し、地区決定を進めたいと考えています。
 伝統的建造物群保存地区−覧 (昭和57年3月現在)
△弘前市仲町(武家町) bv
△ 秋田県角館町(武家町)
△福島県下郷町大内宿(宿場町)
△ 長野県楢川村奈良井(宿場町)
△ 長野県南木曽町妻籠宿(宿場町)
△ 高山市三町(商家町)
△ 岐阜県白川村荻町(山村集落)
△京都市産寧坂(門前中心住宅群)
△京都市祇園新橋(茶屋町)
△京都市嵯峨鳥居本(門前町)
△神戸市北野町山本通(洋館中心住宅群)
△倉敷市倉敷川畔(商家町)
△岡山県成羽町吹屋(鉱山町)
△萩市堀内地区(武家町)
△萩市平安古地区(武家町)
△日南冷飯肥(武家町)
△鹿児島県知覧町知覧(武家町)
  あとがき
 この小冊子は、「はじめに」の中でも述べたとおり、既刊の『坂本町なみ調査報告』(報告書)から抜粋したものですが、「位置と環境」「伝統的建造物群の保存について」は新たに教育委員会文化課で付加しました。なお、図は報告書からとり、写真は、今回新たに撮ったものもあります。作成にあたって御助力下さった西川幸治教授をはじめ諸氏に対して御礼申し上げます。
昭和57年3月31日 発行
坂本の町なみ
−歴史と景観−
発行 大津市御陵町 3−1
    大津市教育委員会
編 集 大津市教育委員会文化課
印 刷 大津市松本−丁目3 −16
    竹 田 謄 写 堂