昔の坂本            HOMEに  景山春樹著[坂本」より



坂本という地名はどうしてつけられたのでしょうか。日本は山国なので、いたるところに「坂」

という名をもった地名があります。そのほとんどが山地の坂や坂道などと関係があります。

わたしたちのこの坂本もこれらと同じように、比叡山のふもとという意味で坂本と呼ばれるようになったのです。

昔、そして今でも比叡山の京都側を西坂本といい、大津側を東坂本と呼んでいます。

しかし、ただ坂本と呼ばれるようになったのはずっと後のことです。比叡山に比叡山寺が建てられ、

後、延暦寺と改められたのですが、その延暦寺が日本の仏教の最もたいせつな寺院のーつとして

有名になってから、坂本という地名が一般の人々の口にのぼるようになったようです。

それまでこの土地は「倭名抄」という古い書物によれば、滋賀郡古市郷と呼ばれていたようです。

また、下坂本と坂本とを合わせて 召一津の浜〃または 召一津〃といっていたということです。

ごー津については坂本の地区だけではなく、もっと広い地域だという考えの学者もいるようですが……。)

一八一八七(天智天皇六)年、大津に都された天智天皇のころ近江国(滋賀県)には、

中国や朝鮮から多くの人々が移り住んできました。

この人たちを帰化人といいますが、この帰化人たちの中には文化が高く、その上すぐれた技術をもって

いた人たちがいて、その当時これらの人々からいろいろのすぐれた技術や学問を習いました。

比叡山に日本天台宗を開いた伝教大師最澄も坂本にそのことから住んでいた帰化人の子孫だといわれて

います。 坂本は、それより前、ずっと昔から人々が住んでいて、文化の相当進んだ土地であったよう

です。そのころ八王子山を中心に農業を営んでいた人々が、神さまをまつって豊作や身の安全を願った

のが、日吉大社のはじまりだと伝えられています。また、坂本の北の木の岡・八王子山・賞立山・

天神山・穴太の裏山そして滋賀里にかけて、昔の有力な人たちの 古墳群が多く見られるのもその

あらわれだといわれています。坂本目次に戻る



延暦寺は京都の御所(天皇のおすまい)の鬼門を守るところといういわれもあって、

最澄の死んだ後も学問・修行の 道場としてますます栄えていきました。

最も栄えたときには、延暦寺は三塔十六谷にわかれ、九院十六院といわれる大きな寺院が建ち並び、

おびただしい増坊(坊さんの日常生活をしていた寺)があったということです。

そのうえ、延暦寺の寺領は近江国を中心に全国に散在し、その寺領から納められる年貢米は

多大なものでした。だから、坂本の町は、延暦寺に住む僧侶やその世話をする人々の毎日の

生活に必要な品物を整えたり、全国から参けいする人たちの宿泊所をつくったり、遠くから運ばれてくる

年貢米を処理したりするために、延暦寺の事務所のような役目をしていたようです。

年貢米は坂本港に陸あげされ、坂本の道という道はわだちをきしませながら終日牛車が往来したこと

でしょう。



戦国時代になると少しようすが変わってきました。今まで政治上の力をふるっていた

貴族は次第に力が弱まり、それに代わっていわゆる戦国大名が政治の実権を握るようになり、

世の中もそれにつれて変わっていきました。

なかでも比叡山を焼き討ちした織田信長は、大きくその後の延暦寺や坂本の運命を変えました。

しかし、これは、信長ひとりが変えたのではなく、時代が変えていったともいえます。

信長は安土に城を築き、日本を統一しようとしました。そのため延暦寺を味方に引き入れようと

はかりましたが、延暦寺がこれに従わないので、信長は機会があれば都の近くでこれほど大きい

力をもった延暦寺を滅ぼしたいものだと思っていましだ。

そこで、家臣の森可成に坂本に城をつくらせ、延暦寺を監視させていました。

ついに一五七一(元亀二)年九月十二日、信長によって延暦寺は焼き討ちされ、

坂本の町も灰になり、多くの人々が殺されました。その直後この坂本城を与えられた明智光秀のために、

信長は一五八二(天正十)年本能寺で討たれました。

間もなく豊臣秀吉によってこの城も落ちました。信長の死後そのあとを継いだ秀吉によって

延暦寺や坂本はだんだん復興していきましたが、もとのようには立ち直れませんでした。

それは商業や交通の中心がしだいに東海道沿いの大津の町に移っていったことも原因しています。

 秀吉のあとをうけて、江戸に幕府を開いた徳川家康のころになると、延暦寺の力はいっそう

衰えていきました。それは天海僧正が家康に願って、江戸(東京)に東叡山寛永寺を建て、

今まで延暦寺のもっていたすべての政治的な力を江戸の方へ移してしまったからです。



                                  坂本目次に戻る

江戸時代の坂本は、東海道から少しはずれていたため、宿場町大津に比べ七はるかに遅れた

存在になってしまいました。けれども、天海僧正(慈眼大師)によって、
徳川家康をまつった東照宮が建てられ、思いきった道づくりが行なわれました。
また、日常生活やかんがいのための用水路が整備されて、日吉大社や延暦寺へ参けいする人も

ようやく多くなり、坂本の町はやはり門前町として続いていきました。

 さて、時代はくだって明治になると、日本全体が大きく変わっていきました。

 小学校が義務教育として新しく発足してからは、みんなが新しい教育を受けるようになりました。

明治初年から湖上を走るようになった汽船のほかに、湖畔を走る江若鉄道が開通し、びわ湖電鉄も

敷設され、それが改称された京阪電車石坂線が通るようになりました。

日吉大社や延暦寺へ参けいする人のほかに、景色が美しいので観光客もふえてきました

。昭和初年、比叡山鉄道ができ、山上と坂本とを結ぶケーブルカーも走りました。

日吉大社の山王祭りは年とともに、にぎやかになり、湖国三大祭の一つに数えられるようになりました。
さて、太平洋戦争が終わって平和な時代になり、

一九五一(昭和二十六)年、雄琴、下阪本とともに坂本は大津市と合併しました。

そしで、一九六七(昭和四十二)年、堅田町も大津市と合併したので、坂本は大津の地形上、

ほぼその中心になりました。大津市が観光都市として発展しようとしている現在、

坂本は文化財やその風光の上からもたいそう重要になってきました。そのうえ、国鉄湖西線が

建設され、坂本は京阪神工業地帯の住宅地(ベットタウン)としても、将来おおいに発展しています。



 中世、延暦寺は、天皇・将軍と並ぶ権力を持っていた。幅広い信仰と全国に広がる

荘園領地を背景に、京都の経済を左右するほどの力を持っていた。

 そして門前町坂本には、全国に散らばる延暦寺の荘園からの産物や京都への物資が集まってきた。

下阪本の富崎や比叡辻には金融業者の土倉や運送業者の馬借が軒を並べていた。戸数も三千軒を超え

日本有数の大商業都市に発展していた。

 この地の経済力に目を付けた信長は、比叡山焼き打ちの三か月後の元亀二年(一五七一)十二月、

明智光秀に命じて坂本城を築かせている。

延暦寺の監視と湖上の物資輸送路を掌握するために建てられたこの城を、ルイス・フロイスは

『日本史』の中で「豪壮華麗で、信長が安土に建てたものにつぎ、この明智光秀の城ほど天下に

有名なものはないほど」だったと書いている。

 光秀の居城であった坂本城は、天正十年(一五八二)六月の本能寺の変の十三日後に燃え落ちて

しまうが、丹羽長秀が翌年の三月に再建した。秀吉はこのとき「坂本城は秀吉が取るべき城だか、

この城を持つと天下を抱えることになるので長秀に譲った」といっている。

 秀吉は、その三年後の越中(現・富山県)攻めを最後に天下を平定した。

戦国時代が終わり大坂城が築かれると、政治・経済の中心が京都から大坂へ移った。

信長の近江支配の重要な拠点であった坂本城もその役割を終え、大津へ城が移ることになる。


 織田信長は、永禄十一年(一五六八)足利義昭とともに入洛した。しかし足元の近江すらも

平定していない信長は、強力な包囲網の前に苦戦を続けることになる。多くの敵を相手にし、

最も苦しんだのが元亀元年(一五七〇)である。

この年の八月、信長は、摂津(現・大阪府、兵庫県の一部)に出陣した。

しかし、三好三大衆や一向宗徒に手を焼いているすきに反信長勢力の中心、湖北の浅井氏と越前の

朝倉氏が、三万の大軍で京都に攻め込んだ。

知らせを受けると信長は、急いで京都へ兵を返した。この動きを待っていたかのように浅井・
朝倉軍は、比叡山麓の壷笠山、青山、鉢カ峰(いずれも大津市坂本本町)にしりぞいた。信長は、
これに誘われるように大津へと軍を進めうさやま宇佐山城へ入った。

 浅井、朝倉の陣の後ろには、反信長勢力の強力な後楯になっていた延暦寺がひかえていて簡単に

軍を進められない。京都へ戻れば、浅井・朝倉の猛追撃は目に見えており、信長の進退はここに

きわまった。

 三か月間膠着状態が続いた。十二月十三日、将軍足利義昭などのあっせんで浅井・朝倉との

和睦が成立。信長は、最大の危機を脱することができた。

しかし延暦寺は、和睦を拒否。寺領回復の要求が通ってしぶしぶ信長と妥協した。信長は、

この延暦寺の態度に怒った。これが、翌年の悲劇の引き金となった。

  天正十年(一五八二)五月十四日夜、 長い尾を引いた彗星が現れ、何日も夜空 に輝いた。

数日後、彗星とも花火とも思える物体が安土に向かって落ちたと、ポルトガルの宣教師

ルイス・フ口イスは 『日本史』の中に書いている。  

この出来事の十数日後、織田信長は、京都・本能寺で明智光秀に襲われ、四十九年の波乱に満ちた

生涯を閉じる。戦国の世に輝いた巨星が落ち、歴史は大きく動いた。

  本能寺で信長を討った光秀は、その日のうちに安土城へ向かった。しかし瀬田城主山岡景隆は、

瀬田橋を焼き落とし進軍をはばんだ。光秀の天下取りの夢は早くもここでつまづく。

やむをえず居城の坂本城へ帰った光秀は三日間で瀬田橋を改修し、すぐに安土城へ入った。

そして財宝などを配下の武将に分け、安土城を娘婿の明智左馬之介秀満に預けて坂本城に再び帰った。
このときすでに毛利軍との戦いで備中(現在の岡山県)高松城に足止めされているはずの羽柴(豊臣)秀吉軍が予想外の早さで近づいてきた。

 本能寺の変のわずか十一日後、光秀軍一万三千は秀吉軍四万の兵に山崎の合戦で惨敗。

光秀は小栗栖(京都市伏見区)であえない最期を遂げた。

 この知らせを聞いた秀満は安土城から坂本城へ向かった。有名な「明智左馬之介の湖水渡り」は、

敵兵に行く手をはばまれた秀満が、勇壮にびわ湖を渡ったという故事に由来している。

 坂本城に入った秀満は、攻め寄せる秀吉の軍勢に、これを最後と城に火を放った。

坂本城を燃やしつくす炎は遠く奈良からも見えたといわれている。 』 

坂本城とともに明智一族は滅び、一つの時代が終わった。 坂本indexに戻る


滋賀院門跡

京都の北白川にあつた法勝寺を江戸時代初期に現在地に移し、のちに後水尾天皇から滋賀院の号を賜りました。
江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の居所だったため、高い格式を誇つています。
坂本独特の穴太衆積みの中でもひときわ見事な石垣と白壁をめぐらした門前は、堂々とした構え。
約2万の境内には、内仏殿・宸殿・書院・客殿・庫裏・土蔵などか立ち並び、
宸殿の縁側から名庭といわれる庭園を鑑賞することかできます。

大津市坂本4‐6―京阪電車坂本駅下車徒歩5分

蓋滋賀院門跡077‐7B‐0130

日吉大社

全国に3800余りあるという「山王さん』の総本宮で、比叡山の手前、八王子山(牛尾山)の山裾に

あります。創祀は古事記に記されるほど古く、国宝の東本宮・西本宮を中心に山王七社と呼ばれる多く

の社殿、鮮やかな朱色の独特の様式をもつ山王鳥居、わか国最古の石橋といわれる日吉三橋など、

文化財は数え切れないほど。特に秋は、壮麗な社殿か周囲の紅葉に映えていっそう美しい眺めです。

大津市坂本5‐1―1 京阪電車坂本駅下車徒歩10分

日吉大社077―578―0009

日吉参道

京阪電車坂本駅から日吉大社の石島居をくぐると、石灯篭の並ぶ参道両側に穴太衆積みの石垣か続きます。
坂本をはじめ、大津の寺院に見られる古色をおびたこの石垣群は、坂本の南にある穴太に居住した石工たちの手によるもの。
天然の石を巧みに積み上げた独特の技術で、風格のあるただずまいは門前町・坂本の風物詩にもなつています。
日吉大社の散策は八王子神社と東照宮を除けば、大鳥居から日吉三橋、山王鳥居、西本宮、宇佐宮、白山姫神社、樹下神社などU寺間で十分。
参道に並ぶそば屋の手打ちそばもおすすめです。.

旧竹林院

門前町として古来から栄えた坂本には大小約50の里坊(老僧の隠居所)か今も残っていま

す。旧竹林院もそのひとつ。現在は大津市の所有になつていて、一般公開されています。邸内

には主屋の東西に庭園か広がり、大正年間に建てられた2棟の茶室と四阿かあります。

八王子山を借景にした庭園は、地形を巧みに利用して滝組と築山を配した見事な造りです。

大津市坂本5‐2‐京阪電車坂本駅下車徒歩15分

JR比叡山坂本駅下車徒歩20分、祝日の翌日、12月26日〜31日展大人300円、小学生]50円

旧竹林院077‐578―0955

東照宮(日吉東照宮)

比叡山坂本ケーブル坂本駅のすぐ南、徳川家康(1541〜]616)の死後、彼を大権現と讃え

た僧天海か建てた東照宮のひとつ。明治時代以降は日吉大社の末社になっています。唐門

をくぐると透塀の中にどっしりとした社殿か建ち、日光東照宮に劣らない素晴らしさ。前

方か拝殿、後方か本殿で2つの建物を石の間でつなぐ、いわゆる権現造の構造になつています。

社殿はいずれも総黒漆塗り・極彩色で絢爛豪華な彫刻や装飾か施されています。

大津市坂本4‐E‐12京阪電車坂本駅下車徒歩-5分     坂本目次に戻る

日吉大社077‐578‐0009

聖衆来迎寺

比叡辻の湖畔にある天台宗の寺院。旧坂本城の門を移した威風堂々とした表門をくぐると、

境内には本殿や客殿をはじめ、諸堂や塔頭か立ち並んでいます。最澄の創建で、長保3年(]001)

恵心僧都か念仏道場として聖衆来迎寺と改称しました。森蘭丸の父、森可成の墓所かあつたので信長

の比叡山焼き討ちの難を逃れ、優れた寺宝を数多く所蔵しています。
大津市比叡辻2‐4‐17
JR大津駅より江若バス来迎寺鐘化前下車すぐ、JR比叡山坂本駅下車徒歩15分 事前連絡要

8月16日の虫干し会の時に寺宝公開)
聖衆来迎寺077―578―0222

西教寺(明智光秀ゆかりの寺)

京阪電車坂本駅の北西約].5幽。比叡山の南東山麓に広大な寺域をもつ天台真盛宗の総本山。

聖徳太子にって創建され、その後長らく荒廃していたものを真盛上人か再興しました。

当時は応仁の戦乱期

だったため、真盛上人は称名念仏と戒律で世を救済しようと、現在まで]日も絶えることなく念仏

が唱え続けられています。静寂な境内に念仏と鉦の音か低く響き渡り、独特の雰囲気か漂います。

大津市坂本5―13―1 京阪電車坂本駅下車徒歩20分、JR比叡山坂本駅下車徒歩30分 9時〜16時・


西教寺077‐578-0013

唐崎神社

 唐崎神社は日吉大社の末社で、この辺りは近江八景のひとつ「唐崎の夜雨」として知られる景勝地です。
境内にあるのか芭蕉が辛崎の 松は花より朧にでと詠んだ唐崎の松。最初の 松はいつ植えられたのか定かではありませんか、
現在の松は大正]0年(]921)に倒れた古 松の種子を大きくしたものを受け継いでいます。
四方に枝を大きく伸ばし、笠を伏せたよ うな立派な松と湖岸のヨシ、石灯篭などか相“まって―幅の墨絵のような美しさです。

大津市唐崎1丁目 JR唐崎駅下車徒歩15分

 

坂本ケーブル

昭和初期の開通以来、比叡山延暦寺の表参道として親しまれてきた坂本ケーブルか平成5

年7月24日にリニユーアルオープン。車両も駅舎も伝統の香りを生かしたシックなデザイ

ンに変身しました。新車両のボディーカラーは鮮やかなグリーンとレッド。大きくとられ

た窓には遠く琵琶湖まで絶景か広がっています。車内設備もいっそう充実して乗り心地満

点。延暦寺駅までの所要時間は約11分 大津市坂本本町4244 京阪電車坂本駅下車

徒歩10分 始発8時〜(2月1日〜2月末日8時30分〜)

比叡山鉄道077‐578‐0531

比叡山ドライブウエイ

田ノ谷峠から四明ケ嶽を経て根本中堂に至る全長8.1kmのコース。カーブか多いコースですが

か京都や大津市街地の眺望かよく、快適なドライブを楽しむことかできます。夢見か丘に

はフィールドアスレチックやスーパースライダー、サイクルモノレールなど、ニユ―スポ

ーツか楽しめる施設かいっぱい。山頂の四明ケ嶽には山頂遊園地や自然科学館、高山植物園

など愉快なプレイランドか揃つています。

大津市山上町 京阪電車近江神宮前駅下車で10分 普通乗用車 

比叡山ドライブウエイ夢見か丘077‐529‐2216

延暦寺

比叡山・四明が嶽の北東に広大な寺域をもつ天台宗の総本山寺院か延暦寺です。奈良時代

末期に]9才の最澄(767〜B22)か、比叡山に登り草庵を結んだのかそのはじまりで、約1200年に

わたって、日本の宗教界最高の位置に君臨してきました。全盛を誇つた平安時代末期には、3塔・16谷

・3000坊を数えていたといわれています。山上は、東塔・西塔・横川の3塔の峰々や谷間の平坦地に

堂塔伽藍か営まれ、中心か東塔のある根本中堂。深く生い茂る杉木立の中に点在する堂塔は、

修行道場としての威厳に満ち、訪れる人々の心を引き締めます。戦国時代に織田信長によって―

山焼き討ちに違いましたか、豊臣秀吉、徳川家康の手によつて復興された諸堂は、

数多くの国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目をみはるものばかりです。

ドライブウエイ・ケーブル・バスを使つて、比較的簡単に参詣できますか、中心の東塔ばかりでなく、

西塔・横川へ東海自然歩道を5ぃτぃ,いば、さらに厳粛な情趣か昧わえるでしよう。

大津市坂本本町4220 京阪電車坂本駅より徒歩10分坂本ケーブル延暦寺駅下車、

根本中堂まで徒歩7分(JR大津駅から京阪バス、堅田駅から江若バス運行) 500円

延暦寺077‐578‐0001

奥比叡ドライブウエイ

比叡山ドライブウェイの終点となる根本中堂から、西塔・横川をめぐり、比叡山の樹林を抜けて

堅田へ出る。沿道には約1000本の桜かある。


■奥比叡ドライブウエイ077‐578‐2139

一,まえがき

日吉の馬場を小旗を持った年寄りの団体客、首に輪袈裟をかけた四,五十人の一団が坂道を登ってくる。
リュックを背負った若い男女が登山靴を踏みしめて歩いてくる。舗装されたアスファルトの道に松のかげがうつっている。
道の両側には、年経た桜と松の太くて大きい並木が続き、その並木の後には青くこけむした石垣……
その石垣の上に土べいが長々と続いて、古くからの坂本の移り変わりをじっと見つめているようです。

日吉大社の二の大鳥居の下に立って、坂の上から見渡すと、湖岸近くには田畑が続き、
その向こうにきらきらと輝く琵琶湖が水をたたえています。湖の対岸には、湖南・湖東の平野が広がり、

近江富士(三上山)の姿がくっきりと浮かんでいます。

この鳥居から下の一の鳥居にかけて、坂本の人家がぎっしりとつまっています。

首を右に回すと、古くからの町並み−老舗ののれんが風に揺れています。

後ろには延暦寺の里坊が建ち並び、墨染めの衣をつけた坊さんが、門をくぐって中へ消えていきました。
その里坊の屋根越しに上を見ると比叡山がおおいかぶさるように立っています

この山に延暦寺があり、そのふもとに日吉大社があります。木々の深い緑は永年の信仰を支え
多くの参けい人を招いた山にふさわしい姿をしています。古代からこの山に神を、
平安初期からは仏をまつって、生活の安全や農業の発展などをこの土地の人たちをはじめ全国の人々
が祈ったのもうなずけます。

この坂本のように景色もよく地形風物にも恵まれて、古くから多くの人々が生活してきた町です
今は、山頂にドライブウェーが走り、毎日たくさんの信者が訪れてきます
その道は滋賀の山中峠から琵琶湖を見おろし、比叡の樹林を縫って堅田の町筋へと通じています。
ケーブルカーもロープウェーもあります。湖岸の国道百六十一号線から比叡辻を経て
バスも通っています。
山すそを大津の町から電車も走って、通勤者や学生、そして観光客を運んで往復しています
時代の流れは、時代に欲求を満たしながら、この坂本の町を変え、発展させてきました

比叡山麓 

石積みのある門前町  坂本

坂本観光協会 

大津市坂本6丁目1−13 

 TEL (077)578-6565



その昔、富と名誉と権力を競って人々の欲望が渦巻いた近江、比叡山を舞台としてくり広げられた
ドラマチックな歴史絵巻、今も微かにその栄華をとどめている坂本。

銀色の沈黙を続ける琵琶湖を望みつつ、かって、つわものどもが急いだ
歴史のかなめそんな言葉がよく似合う坂本を散策してみよう。
穴太衆積みの石場坂本では、延暦寺の里坊のみならず帯に古来より居住し、山門(比叡山)の土木営繕的
な御用を勤めていた「穴太衆」の技術によるもので、これは門前町の重要な景観要素になっており、
特に日吉大社参道に並ぶ里坊地帯には美くしい代表的な,遺構がみいだせる。

山王総本宮 日吉大社,日枝の山(八王子山)から現在の境内にうつし祀て2,000年、
40万uからのばう大な境内には老樹が茂み、特にもみじの名所として広<知られている。1巻いた近江、
比叡山を舞台としてくり広げらた歴史をとどめている坂本。

 かって、つわものどもが急いだ歴史のかなめ)o
今は豊かな自然に恵まれた静かな街並みからはとても想像もつかない。
御主神は大山咋神(東本宮ハ大巳貴神(西本宮)の二柱で、古事記神代巻に「日枝の山に坐す大山
咋の大神」と記されている日吉大社は神代に創建されたことがうかがえ、日本では最も古い神社である。
又、

日吉大社は東本宮、西本宮共に本殿は国宝であり、その他社殿1フ棟と神輿フ基、又、石橋はいずれも重
要文化財であり日吉の森にこれだけ多<の国宝、重要文化財があるのは全国でも誠に珍らしいといえよ
う。

によって再興されたものの元亀2年の兵乱で信長に焼打ちされ多<の宝物が失われた。

 西教寺の復興には、明智光秀の努力があればこそ不断念仏が受けつがれ、深閑とした境内には
今日も鉦の音が響き渡っている。広大な境内には総けやき造りの本堂(重要文化財ハ伏見桃山城の旧殿を
移した客殿(重要文化財)があり、襖絵は狩野派の手によるもので見事な絵が描かれている。又、
この寺院には明智光秀をはじめとする―族の墓や石造二十五菩薩等がたたずみ、数多く拝観することが
できる。

里坊日吉参道の左右に並ぶ寺々は全て延暦寺の里坊でこの里坊とは比叡山で修行を積んだ僧侶たちが
天台座主の許しを得て住み込む隠居坊のことで、坂本には50余りの里坊があり、表通りだけでな<横丁
へはいった裏通りにも穴太衆積みに格調ある土塀をめぐらした里坊がびっしり並んで門前町のおもかげを
残している。

 又、里坊の中には立派な桃山様式の庭園を持つものもありΓ心を落ち着けて景色を見ることにより
悟りの境地に達する」という仏教の教えに沿つて作られたもので、毎年春には里坊の庭園めぐりが
催される。

滋賀院は延暦寺の本坊で江戸時代末まで天台座主の居所であったため滋賀院門跡と呼ばれ、
客殿に狩野派の障壁画があり、庭園は小堀遠州作として有名。
盛安寺室町時代の武将朝倉貞景の家臣、杉若盛安が文明18年に建立した寺で、明智光秀、豊臣秀吉らの
保護を受け、また光秀ゆかりの陣太鼓も残されている。

 慶応年間に伏見桃山城の遺材で建てられた客殿(重要文化財八江戸時代の名庭園(県指定元藤原時代の
十―面観音立像(重要文化財う等数多<拝観することができる。養老寿庵8D0年ほど前づ員利加羅峠の
戦で義仲勢に敗れた平家の落人の子孫藤井忠治が居住していた合掌造りの建物を移築したもので、
越中(富山県うの五箇山郷系地秘境の厳しい自然と闘いつつ、大家族制度のなかで自給自足の貧困生活に
耐えてきた様子が今もうかがえる。

比叡山鉄道坂本ケーブルの愛称で親しまれているこの
ケーブルカーは、日本で―番長<山麓坂本駅と山上延暦寺駅間2,025mを]]分で結ぶ。
当ケーブルカーは延暦寺の表参道として昭和2年に開業し、車窓からは登るにつれて素晴しい
琵琶湖の景観が眼下に大きくひろがる。

 平成5年7月車両、施設等全面的にり二ューアル。特に車両は∃―口ピアンスタイルの縁号、福号が
人気を博している。山上延暦寺駅から東塔根本中堂まで、徒歩約8分とまことに便利。また、
山内はシャトルバス(冬期は運休うを利用すると、西塔、横川、比叡山頂へ短時間で行くことが出来、
何度でも乗り降り自由の一日フリ−きつぶも発売されている。

聖衆来迎寺,延暦9年伝教大師の草創、後陽成天皇の勅願所として由緒ある寺院である。
山門は坂本城旧城門として名高く、庭園は干菜寺宗心の作といわれ、桃山初期の造園で中国の洞庭湖を
模したものと云われている。寺宝も多く中でも恵心僧都の往生要集を絵画化した六道絵十五幅(国宝)は
あまりにも有名である。又、境内には、森可成の墓もあり、信長公に関係の深い寺院である。
旧竹林院邸内には、八王子山を借景にした3,300の庭園が広がり、2棟の茶室と
四阿(あずまや)があり、入母屋造りカヤ葺きの茶室は「天の川席」と呼ばれる珍しい間取り いうずれも
大津市指定文化財である。

 又、地形を巧みに利用した滝組と、築山を配し、大宮川の清流が園内をかけめぐり、手入の行き届いた
木々や苔が四季を通じて、しっとりとした風情をかもしだしている。(祝・休日の翌日及び年末は休園)
その昔、富と名誉と権力を競って人々の欲望が渦巻いた近江、比叡山を舞台としてくり広げられた
ドラマチックな歴史絵巻、今も微かにその栄華をとどめている坂本。 かすかに銀色の沈黙を続ける
琵琶湖を望みつつ、かって、つわものどもが急いだ歴史のかなめそんな言葉がよく似合う坂本を
散策してみよう。



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