以下はフランクラバック著「主の臨在の実践」の第八章 です。
主の臨在の実践を始めようとしたときに大変な助けになりました。
あなたのお役に立てると幸いです。
主の臨在を実践するための実際的な助け
     キリストにもっと時間を与えなければ、キリストのようにはなれない。

 【始める方法】
 【私たちが払わなければいけない代価】
 【私たちが得るもの】
 【どんな人にもプラスとなること】



主の臨在を実践するための実際的な助け
     キリストにもっと時間を与えなければ、キリストのようにはなれない。

 先生を養成する大学でほ、三年間に週25時間の授業を学生たちに課している。仮に、先生や弁護士を養成する学校が、学生たちに週10分の授業しか課さないとするなら、有能な先生や弁護士を育てることができるだろうか。

 キリストの場合も同じである。主は弟子たちに「三年の間、一日24時間、私のもとに来て、共に歩き、共に会し、共に休みなさい」と言われた。これが弟子 たちの大学コースなのである。「神が彼らを選ばれたのはキリストと共におらせるためであった」と聖書に書いてある。週に168時間である!                                          
 このように主と共にある生活を一力月の間してみれば、誰でもそのカを知る者となる。それは生まれ変わるようなことであり、心の中心から周辺に影響してい く経験である。このことをやってみようとするなら、誰でも全く変えられていくのである。どのようにすれば男性でも女性でもこのことができるのだろうか。
 本当に私たちは心を入れ替えて幼子のようにならなければ、このことに成功しないのである。

 一分間に一度は、心でキリストを呼び求めるようにやってみると良い。他の事を忘れたり、仕事の手を休めたりする必要はない。ただ、あなたが話をしたり考 えたりしている間にキリストをそこにお招きして、それを一緒にするのである。目が覚めている間、その全ての瞬間をキリストと共に過ごす方法を見いだすの に、さまぎまな実験をした人たちがいる。実のところ、この新しい習慣を身につけるのは、タイプの練習をするより易しいのである。時がたてば、一日のほとん どの時何が、わずかな努力で主に明け渡されるようになる。その努力は、プロのタイピストが手紙を打つ努力ほどもいらないのである。臨在の実践のためには全 ての時間が必要となるが、だからといって必要な仕事のための時間を奪うことにはならない。かえって毎日やっていることの中にキリストをお迎えしていくと き、その仕事は一層うまくいくことになる。

 神の臨在の実践は試験的なものではない。すでに数えきれない聖徒達によって証明されている。どのような時代の、霊的に偉大な聖徒達もこれを知っている。 その努力の結果は、一力月もたてばはっきりと出てくる。半年もすれば、更にもっと豊かな結果が得られる。そして10年もたてば、栄光に満ちたものになる。 「倦むことなく、祈り続けなさい」「全てのことで、あなたの願いを神に申し上げなさい」「全て神の御霊によって導かれている者は、すなわち神の子である」 とパウロは言っている。

 誰もが自分自身に全く満足しているわけではない。私たちの生活は光と陰、良き日と不満足な日とで織り成されている。良き日や良き時は、キリストに近付い た時にやってくることを、私たちは学んだ。そこから歴然としてくることは、良き日や良き時をもっと持てるためには、話したり思ったりすること全てにおい て、もっとキリストに近付いていくことなのである。       
 これは立派な決意のみでは充分でないと、経験によって私たちは教えられている。決められたやり方で、日々の生活は訓練されていく必要がある。分刻みに絶 えすキリストに日を向けるという方法が大きな助けになることを私たちの多くが学んできた。これはエノクが「主と共に歩んだ」とある時代からの古い方法であ る。ほとんど誰もが知っていて、ほとんど誰もが無視しているやり方である。プラザー・ローレンスの「神の臨在の実践」という本によって、これが新鮮な方法 であることを知った人たちもいると思う。これれは喜びの経験であり、また気持ちを活気づけてくれる霊的な実践である。
 しかし、それ以上のものがそこにある事が分かってくる。それは暗い牢獄から抜け出て、新しく生き始める事のようだと言っている人もいる。見える世界は全 く変わらないが、しかし前と同じではない。世界は新しい栄光にあふれた色彩を放ち、より深遠な意味を持つものとなるのである。

 これは容易なことではあるが、何か一つの習慣を身につける時と同様に難しさを伴う。あなたは今まで一週間のうち、数秒または数分だけは神に思いを向ける が、残りの時間は全く神を忘れて過ごしていたかもしれない。あなたは今プラザー・ローレンスのように、目覚めている全ての時間を神と共に過ごそうとしてい る。このように徹底して習慣を変えようとすると、始めのうちは実に大変な努力が要るのである。


 【始める方法】

 自分の好きな時間で、あまり込み入っていない気楽な時間を選びなさい。

その時間にどれだけキリストの事を覚 えていることができるか、また触れていることができるか、少なくとも1分間に一度はできているかどうかやってみなさい。つまり60秒間のうち、一秒はキリ ストを心(思い)にお招きするのである。始めのうちはうまくいかないが、やり続けなさい。しばらくすれば、ほとんど自動的にできるようになる。このことを やり始めると、まもなくあなたは霊的にはまだ弱い幼児であることに気が付くだろう。ベビーベッドの枠の中にいる赤ん坊は、手当たり次第に何かをつかんで立 ち上がろうとする。そして数秒はぐらぐらと立っているが、疲れ果てて崩れてしまう。何度もやっていくうちに、次第に少しずつ長く立つようになる。
 あなたが主の臨在の中で、良い時間を楽しんだとしよう。それではその後、仲間の友達といつもの会話をしているところにいるとしよう。あなたはそこで一分 間に一度主を思い起すということができるだろうか。これはとても難しい。しかしここに幾つかの助けとなる方法がある。その時自分の好きな聖歌をハミングす るのである〈人に聞こえないように)。たとえば「御旨のままに、主よ、御旨のままに」と、心の内に囁き続けるのである。「主よ、あなたは私の命です」また は「あなたは私の思いです」

 ここに助けとなることがすでに証明されている、幾つかの方法がある。食事のテーブルについているときには、イエス様の言葉の「私を記念するために食べな さい」を思い出すことである。このことは普段の食事の時にも当てはまる。一口ごとに、これはあなたのために砕かれた体である、と覚えるのである。
 本を読んでいるときには今読んでいるページについて、神と絶え間なく対話するのである。
 もしあなたが、背中をどこかにもたれながら考え事をしている時であるなら、主のことを思い出すためにはどうしたらよいだろうか。新しい習慣をつけること によってである。考える時は黙って言葉を使っているのであり、心の中で話している時でもある。それで自分にむかって話すのをやめて、キリストに向かって話 す習慣をつけるのである。このことをやってみた人たちがいて、これがとても素晴らしいので、私たちはもう他の方法でやってみようとはもう思わない。主を思 う思いを持ち続けるのに、他のどんな方法もこれほどにはうまくいかなかった。全ての思いを、神との対話にするのである。どんな汚れた思いがやってきても、 「主よ、この思いはあなたと一緒に考えるにはふさわしくありません。あなたが考えてください。あなたの御臨在によって、私の思いを新しくしてください」と 言うのである。

 一人で外を散歩している時には、それほどの努力はしなくても、一分間に一度は主を思い起すことができる。人に聞かれない場所をぶらぷら歩いている時な ら、内なる見えない方と大きな声で話すことができる。主が何を一番考えておられるのか聞いてみるとよい。そして神様が答えてくださつたと信じることを大き な声で言ってみるのである。もちろん何時も、これは神の答えだと正確に言い切れることはできないが、それが確かにそうであると言える場合がいかに多いか、 これは驚くべきことである。                              
 しかし実際のところ、私たちの答えが正しいかどうかを確信することは、さして必要ではない。なぜなら答えが大事なのではなく、大事なのは神ご自身なのだ からである。神ご自身がその忠告や贈り物よりもはるかに重要なのである。キリストと話すことができる、その最も重要な特権はキリストとの親密さなのであ る。

 私たちは、栄光に満ちた天国の時の流れに身を置くことができる。一人で散歩をしている時にも得られる、この人生の最も大きな喜悦を失うことは何と愚かし いことであろう。最も素晴らしい発見と言えるものは、「キリストが私の内に住み賜う」というパウロの言葉にある。もし私たちが神のささやかれることに、一 切を捨てて答えていくなら、神は私たちの内に住まわれ、私たちの声を通して話されるのである。         

 眠りに就く前に、頭に浮かぶ最後の思いがキリストであるように気をつけなさい。あなたの心からあふれる親愛の言葉を、主に語 りかけていくことを止めてはいけません。一日中、主と共に歩むことのできた日には、主が夢の中への最も親しい道連れとなって下さるのが分かる。そのような 日は喜びの涙で枕をぬらし、額に神がそっと触れてくださるのを感じる。何時も深い感情に浸るわけではないが、常に「人知を遠かに越えた平安」を持つことが できる。完全に主と共に過ごした日は、このように暮れるのである。            
 朝、日が覚めてすぐ、こう尋ねてみる。「主よ、今起きましようか」ある人たちは朝、顔を洗うにつけ、衣服を着けるにつけ、主に語り続けているのである。 どんな仕事でも、精神的な仕事または手を使う仕事などをしているその間にも、主を心に留めて置くことができるということを、ある人たちは発見した。それに よってより幸せになり、また良い結果が表れるということを知った。耐えられないはどの苛酷な試練の中にいる時でも、見えない神という友が共におられるとい うことが分かれば、新しい力が湧いてくる。(もちろん人に害のある事をやっていたり、不誠実な事をしている者に、神が共におられる事を期待することはでき ない)
 大工の仕事をしている人は、一つ一つの仕事について神と静かに語り合うことで、よりよい仕事ができる。それはイエスが大工であった時なされていたことである。

 料理をしている間、皿洗いをしている間、掃除や縫い物をしている間、子供の世話をしている間にも、キリストとの交わりを深めている婦人たちがいる。彼女 たちが発見した助けとなる方法は、神は喜んで助けて下さることがわかって、どんな小さなことについても主に語りかけていたことである。好きな聖歌をハミン グして歌うこともあった。
 学生たちは試験を受けている時でさえも、主の臨在を来しむ事ができる。「父よ、私の頭をはっきりさせてください。学んだことの全てを思い出させてくださ い。次の問題にはどう答えたら良いでしょうか」神は学ばなかったことには答えてくださらないが、あなたの記憶を鋭くしてくださり、求めた時にあなたから恐 れを取り除いてくださる。                      
 主の臨在を実践する者に、またキリストのもとに近づく者に、困難や苦しみもやってくる。しかしこれらは新しい喜びの経験に比べれば、たいした事とは思わ れない。日毎に神と共に過ごす人は、ちょうどパウロの船が難破した時と同じように、地震がやってきても、火事が起こつても、飢饉やその他の災害が襲ってき ても、恐がることはない。「完全な愛は恐れを取り除く」


 【私たちが払わなければいけない代価

 まず最初に私たちが払わなければいけない代価は、私たちの意志への強制力である。
穏やかではあるが、絶えず払わなければならない代価である。努力をせずして、賞を得られたことがあっただろうか。

 第二の代価は忍耐である。始めめに失敗したからといって、落胆するに及ばない。誰もが長い間にはこの経験をするものである。一週間毎に進歩し、緊張も次第に薄らいでいく。

 第三の代価は完全に委ねることである。意志が諜反を起こすと、その瞬間にキリストの臨在は失われてしまう。心の小さな片隅を、自分自身の為に、また悪の為に残しておくとすれば、そして、主が私たちの全てを支配されることを拒むなら、その小さな虫が果実全体を腐らしてしまうのである。

 第四の代価は、できるだけ交わりの中にいるようにすることである。キリストの臨在を同じように求めている信仰者からの刺激が必要なのである。


 【私たちが得るもの

 あなたは全ての瞬間をキリストに捧げる事ができないかもしれない。いや、その半分も…。しかし、あなたは必ずより豊かな命を勝ち取ることができる。諦めて辞めてしまわない限り、失敗者はいないのである。               

 トーマス・ア・ケンピスが言っているように、私たちはイエスとの親密な友情を育てていくのである。見えざる友はいよいよ親しく近くなり、日毎に素晴らし いものとなり、ついには聖歌の中だけではなく、実際の至福の経験の中に、「イエス様、私の愛する方」としてキリストを知るようになる。疑いは消え失せ、誰 よりも神ご自身が共にいてくださるのを、いよいよ確信できるのである。この温かい燃えるような友情はみるみるうちに熱し、ますます豊かなものに育ち、日毎 にその輝きを増してくるのである。                                       
 私たちの思いは清められる。キリストの臨在を待ち続けていると、思いは一瞬一瞬、渓谷の流れのように、清らかになるからである。
 運命がどうであろうと、朝から夜まで、私たちは満足できる。神が私たちと共におられるからである。「イエスが私と共にいてくださるなら、私はどこにでも行こう」
 心がキリストであふれるので、キリストの事を伝えるのがたやすくなる。「心にあふれている事が口から出るのである」


 【どんな人にもプラスとなること】
 どんな人にも、宗教は退屈で愚かしく眠気を誘う、という考えは、神が最も嫌われる事である。なぜなら、神の創造は限りなく変化に富んでいて、神は私たち を驚かせる事を喜ばれるからである。あなたが何かの祈りの形式に退屈しているとするなら、神も同様に退屈されている。その形式を揺すぷって、数えきれない 新鮮な手段の中から、一つを選んで神に近づきなさい。

 謙遜な人たちは、よく神と共に歩くということは難しすぎてできないと信じているし、また全ての楽しみをキリストと分かち合うなら、それは半減してしまう と信じている。幸せを奪う方として、神をみなしているのなら、それは何と悲劇的な誤解だろうか。世界中の喜びの歌声が、キリストと共に過ごすことは、全て の喜びの中で最も胸躍るる最高の喜びであると、美しく歌っている。それに仕べると、野球や競馬の楽しみは比べものにならない。主と共に過ごすことは、いかめしい義務ではない。万が一、あなたの方で神を数分の間、いや幾日も忘れていたとしても、嘆いて後悔することはない。ほほえんで、また始めることである。 全ての瞬間が新しい始まりとなるのである。

以上はフランクラバック著「主の臨在の実践」の第八章 です。
主の臨在の実践を始めようとしたときに大変な助けになりました。
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カウンター2000/1207、1997年3月31日月曜日

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