たかはしクリニック(心療内科)京都市

     心身症克服体験記
   (h)
         
         体験記へのご投稿ありがとうございました。
         現在は体験記の募集は中止しております。
                         (H30年3月)

                  



      (神楽さん 07.10.8)
 私の過呼吸の経験がお役に立てればと思い、投稿します。
私は、心身症の症状をいくつか持っていますが、その中に過呼吸があります。はじめはどうやって止めてよいのか分からず、パニックになり、痙攣、失神ということも何度かありました。
 お友達の程度がどのくらいか分からないのですが、個人的な好みとしてはビニール袋より紙袋のほうが、蒸れる感じがしなくて落ち着きます。ただ、この頃は紙袋自体が少なくなってきている気がするので、袋を探すことが難しいかなあと思っています。
 それでも収まらない時は、乱暴ですが、自分で息を止めます。しばらく我慢をすると自然に体が空気を欲するようになるので。
 その後、一段落したと思ったら、安定剤を飲みます。これは、お薬によってとお薬を飲む個人でそれぞれ違うかもしれません。私の場合は、お薬をパニックになる前に飲めば有効だけれど、パニック中に飲むと血圧が下がって、大変になるので。
 お友達は、お薬を服用されているのでしょうか。安定剤は頭がぼんやりするので、車の運転やアルコールは控えられたほうが良いと思いますが、お酒の席は楽しいし、飲める方であれば、年齢的にも控えることは難しいかもしれませんね。でも、治るための努力はその方次第なので、私は冷たいようですが、控えられたほうが良いとしか申し上げられません。
 さて、ざるさんですが、とても優しくて、落ち着いた方ですね。普通は過呼吸になると周囲はびっくりしてしまいますから。よくビニール袋などの処置をされたと感心してしまいます。患者からすると、びっくりされてしまうと余計、過呼吸になるときもあります。また迷惑をかけてしまうとか、一瞬のうちにいろいろ考えてまたパニックになり症状がひどくなることが、何度もありました。落ち着いて考えれば、近くにいた人が急に苦しそうになって、倒れたり、痙攣を起こしたりすれば、そりゃ、救急車呼ぶよなあと思うんですけどね。
 出来れば言葉をかけながら、背中をさする。この時の言葉は大丈夫?という問いかけより大丈夫だよという肯定のほうが個人的にはありがたいです。仰向けにするより、横向きに寝かせる。呼吸が苦しいとどうしても、体を丸めようとするので、敢えて体を伸ばすようにする。等をしてくださると、患者としてはとてもありがたく思います。
 最後にざるさんへ
 お友達を助けたい、という気持ちはとても素晴らしいものだと思います。ざるさんのようなお友達を持った方はとても幸せだと思います。私は、こういった病気を持った者として、同じ病気の方を助けられたら、どんなに良いだろう、もしそういったことが出来れば、病気になった甲斐があるというもの、と思っていました。
 でも、この頃思うのです。人を助けるようになるには、まず自分が健康に強くならなくてはと。自傷しているという人が自傷する人を助けられるか。それは風邪を引いている人が風邪を引きながら、隣の風邪を引いている人を治したいと思っていることと同じではないか。
 ざるさんにお友達は助けられないと言っているのではありません。ただ、人の心に寄り添おうとすると、健康な人でも、その人が優しければ優しいほど、引きずられてしまう可能性も大きいと思うのです。そうなると、お友達の健康も、ざるさんの心の健康も損なうことがある可能性があります。どうぞ、まず、ご自分を大事になさって下さい。ざるさんのお友達のことを心配している気持ちはご本人にも伝わっていると思います。きっと心強く思っていることと思います。
生意気なことを多々申し上げましたが、ご参考になればと思いました。



    (神楽さん投稿 07.4.29)
「ストレスは暑さ、寒さからもかかる。病気になるかならないかは個人差。」
「あなたは、暑い部屋の中でクーラーのスイッチばかり探している。窓を開けるとか、冷たいものを食べるとかいくらでも暑さをしのぐ方法はあるのに。ずっとスイッチを探し続けるか、他の暑さをしのぐ方法を見つけるかは、あなた次第です。」
「親の言うことばかり聞く良い子でいるか、大人になるか選ぶのはあなた次第。」
「自分の物差しを見つけなさい。」
 前の主治医に言われた言葉の一部です。並べてみると「あなた次第。」と常に選択権は自分にあったのに気づかなかった。もしかすると、選択権を使うのを逃げていたかもしれない。選択するって大変なこと。責任は自分にかかって来る。

 私が、原因不明の痛みを抱えるようになって20年くらい経ちます。もっとも、初めの頃は子供で、自分の痛みを上手く言い表せなかったし、別の痛みだったかもしれません。ずっと痛みを覚えるようになったのはここ10年程です。
 整形外科に行っても「異常なし。どこも悪くなくて良かったですね。」この一言に、どんなに傷ついたことでしょう。これで健康なら、この痛みをずっと抱えて生きていなくてはいけないのか。そもそもこの位の痛みは他の人にもあって、自分が耐えられないだけなのか、ただの我侭か。歩くことも困難な私に、異動する整形外科医は言いました。「原因不明の痛みに効く薬はある。心療内科というところで扱っている。」今思うと随分乱暴な言い方だなあと思いますが、あの頃の私に心療内科に行きなさいと言って、科の説明と痛みを関連付けて説明されても納得して、行ったかどうか。上手く誘導してくださったと思います。

 受診した先で前の主治医に会いました。痛み止めが欲しいだけで行ったのに、何故この人は色んなことを聞くのだろうと不思議に思っていました。自分にストレスがあると思っていなかったし、また、あったとしてもそれで病気になるような人間だと思っていなかったのです。でも、そこで「慢性疼痛性障害」というのがあって、それはセロトニンという物が関係していて・・・ということを教えてくださいました。このまま生きていくのかと塞いでいた私には「病名」がついたというだけで安心し、光が見えてきたように思いました。
 疼痛は脚にあったのですが、その頃は頭痛、腕が上がらない、などひどくなっていました。その頃、母の入院、仕事場での人間関係といろいろあったのですが、それでもなおストレスとは関係の無い私、と思っていました。
 また、整形外科の時と違い、心療内科に対する偏見は私自身もですが、両親にとてもありました。「私の育て方が悪かったというのか」「お前がそんな繊細な人間か」と言われ、元々内に篭るほうだったのがますます篭るようになり、唯一、主治医だけを頼りにするという状態がずっと続いていました。上がらなかった腕が上がるようになった事も関係しています。
 ところが、家族から離れ、理解を求めることも無く、先生にべったりだったせいか、過呼吸・転倒が出てくるようになり、仕事もままならない状態になりました。「親の言うことばかり聞く良い子」から「先生のことだけ聞く子供」になっていたのです。途中、母の死もあり、それに伴う相続の問題など家族とはますますぎくしゃくしていました。
 先生の異動に伴い、一緒に連れて行っていただきました。ただし、その先は「精神科」。正直、えっと思いましたが、その頃は会社からも休職を勧められ、ますます先生を頼りにして生きていたように思います。が、古い病院の圧迫感で過呼吸を起こしたりと悪循環に陥り、「桜が咲いたら前の病院に戻れる。」と病院を出て冬の桜を見ていて、看護婦さんに探させてしまったり、診察中に飛び出してしまったり。アームカットも何度となくしました。
 「今度、転倒したら転院。」暫く頑張りましたが、結局転院することになりました。暗い海に放り出されたような、辛く悲しい、心細い気持ちで今でも涙が出てきます。先生は私にとって光だったのです。
 
 新しい病院で強い薬を出され、副作用で外出先で倒れました。別の病院に即入院。今まで何度か入院したのですが、医師と家族が会う、ということがそこで初めてありました。家族と初めていろいろな話が出来ました。母の死、前の主治医の異動先が「精神科」だったことで自分の身内に将来不利益が生じるのではないかという罪悪感、自分でもどうしようもなく沸きあがってくる不安、、、などなど。父は「今の時代、精神科にかかるのは何でもない。だから気にするな。」と言ってくれました。最も私を悩ませていた人からこの言葉を聞いて、胸のつかえが降りたような落ち着いた気分になりました。
 今の先生は私が前の先生を頼るあまり、子供がえりしていたのではとおっしゃいました。そして、「あなたを治すのは、医師でも薬でもなく、あなた自身ですよ。」と。私は常に頼る人を探していました。そして、ずっと先生を頼っていました。何度も聞いたであろう「あなた自身」を無視していたのです。

 この前の診察で、この薬は弱いから止めても良いと言われても、「???」という顔をしていたのか、「疑っているみたいだけど。」と言われました。疑っているのは先生でなく薬でもなく、自分自身を疑っているのに。思い切って薬を止めてみました。「私自身」がそう決めたのです。鎮痛剤から始まって、自分で薬を飲まないと決めるなんてことは今までありませんでした。どこまで続くか分かりません。ただ、「先生が言ったから」ではなく「私自身」がそうしようと思ったのです。
 不安です。これからどうなるのか。ただ、前の暗い海にいるような、暗い部屋に閉じこもっているような感覚はありません。もしかすると、これが私の一歩になるかもしれないと思っています。

 かつて主治医の先生は光でした。でも、自分の人生は自分が光になることではないか。そう思うようになりました。また、家族と話したことで自分に地盤が出来たように思います。反面、「ここまで行ったから後は浮き上がるだけ」と言われますが、本当に行き着くところまで行ったのだろうか、私はもっと先にまで行ってしまうのではないかと不安になります。
 先生と薬だけあればそれで良いとずっと低空飛行の人生を決めていたところがあります。安定はしていますが上昇の無い、前に向かう力の無い人生。良くなろうと思わないほうが楽かもしれない。良くなるには自分の力が必要だから。前に向かう力。どうしようもない痛みを散らす力。不安を抑える力。この病気の人たちはきっと他の人より生きてゆく力を必要とするのかもしれません。でも、その力は自分に備わっていると自分を信じてあげることが大切だと思います。
 
 やっと治療の入口に立つことが出来ました。これから色々なことがあるでしょう。挫ける時もあると思います。でも、今の気持ちを大切に忘れないようにして行きたいと思っています。


 (ぷにょNo5さん 06.12.29)

休職1年9ヶ月、復職後1年経過。
自律神経失調症→神経症(不安神経症(不安障害(パニック障害))というべきかな)
このサイトは休職時に暇で書き込んだ。復帰してから3回目かな。
 1.文献やサイトで治療法ばかり調べてた。
 2.規則正しい生活が大事と行動表をつけて改善を目指した。
 3.目標は人生楽しめればいいと社会的治癒を目指した。
 4.このサイトである程度共感等を得た時点でPCを21時までとした。
 5.外へ出て日に当たるよう努力した。
 6.体力的低下を招く30代だったので体力的意維持として散歩するようにした。
 7.治療とわりきり趣味(釣りなど)で金銭的に安価なことで楽しく暮らすことを考えた
 8.家計や自分の負荷になることで削減できることはとことん削減。身軽にした。
 9.薬物の調整を徹底的にした。
  不眠にはリ−マス(抗躁うつ)、デパケン(気分安定)にした。
  不安にはデパス、メイラックス、パキシルにした。
  この選択まで1年かかった。
10.認知行動療法の考え方が自分の考えと合致したのでやってくれるところ
  を探していた。かかりつけの臨床心理士に調べてもらい偶然出会えた。
11.不安の項目分けと数値化をした。
12.暴露法を学んだ。
13.暴露をするために武器(呼吸法、筋弛緩訓練法など)を身につけた。
14.認知(思考のゆがみ)・・・すべき思考など考え方の整理をした。
15.継続的に苦手な場所で暴露して「不安は下がる」感覚をとことんからだで覚えた。
16.不安数値が3ヶ月程度でかなり下がった。主観ですけどね。
17.気づき(自分の状態、いい方法など「気づき」が必ずあるので、
   それを治療へ盛り込んでいった。
18.緊張
   不安やパニックは緊張の持続が裏にあり、私はそれがとぎれきれないので
   そういうときには回避場所、筋弛緩訓練他リフレッシュにこころがけた。
19.結果
   私は商談時(症状重いときは単に人前でも手がふるえたりとかあったのが、
   人前でふるえてもええやんという感覚になった。
   認知と行動療法により不安の軽減。
20.今
   症状あるも苦痛でなくやっていける。苦痛はつらかった。
   休職で学んだことが多かったといい感じで思える。
21.Aさんとの違い
   病系は別として、私は完治なんていうことはどうでもよくなって、
   いかに生きるかに視点がかわった。Aさんは目標に固執している。
   このサイトから復帰していく人は途中で去る人も多いのではないかと
   推測する。それはサイトで力をもらう段階から次の段階へ移ったのでは
   ないかと。不眠時でも私はパソコン以外のものに頼ることとした。
   不安も不規則も悪循環をたちきれれば好転する。
   Aさんはすごい改善した。よく電話で話すが。
   しかし、自信少なく復帰目前で、若干疲れているような気がする。
   私は働かないと食べるに困る。しかし、彼女は違う。
   私は体が大事でできる範囲しかやらないことにした。結局、無理は長持ちしない。

ポイント:治り難いがそのときは完治なんて言葉はいらにから少なくとも「克服」
     できるといってくれる医師がいい。そして薬の選択である。効果は
     自分の感覚が大事であるので主治医とのコミュニケ−ションと自分の
     モニタ−としての力である。「目標」は少しづつ決めればいい。
     そのうちトンネルを抜ける。最後に有効だと思う療法は主治医等と話
     使うことである。
 以上が私の経験である。この掲示板さんさよならだ。
人との共感からいわゆるリアル社会の中で頼るところを見つける。
「甘え」は非常に重要である。それは生きやすい人生にしてくれる。
馴れ合いというものでない。



    (ハナミズキさん投稿 06.8.16)

 「ケッセラセラ〜♪(なるようにしかならない)」

  私が発病して何年目の頃だったでしょう。入退院を繰り返していた頃なので5年目くらいでしょうか??  ある日、病室に入ってきた母がいきなり「ケッセラセラ〜なるようになる 先のことなどわからない」と歌いだしたのです。私は???になりました。それから祖母もカウンセラーの先生も「ケッセラセラ〜♪」だよ。と言い出しました。
  私はその時、将来に焦りや希望が見えなくなっていました。いくら母などに「ケッセラセラ」と言われても、言われるたびに心の中で「何言ってんの??人の気も知らないで」と私は腹が立つばかりでした。
  今から考えると「人(両親、祖母、主治医やカウンセラーの先生)の気持ちが分からなかったのは私自身であったんだ」と思います。やっと入退院せずによくなったものの・・・家に引きこもりになってしまいました。1日、パジャマで過ごす。洗顔もしない。また、そんな自分が自分で嫌になり自暴自棄になることもしばしば・・・。
  しかし、月日が経つにつれ、自立支援施設でお世話になったりと外出する機会が増え、 引きこもりがちだった生活から外出しなくてもせめてパジャマから服に着替えることができるようになりました。少しずつですが生活が変わり始めました。
  とうとう三十路をむかえ、人生に再び焦りを感じ始めました。身内の結婚やお友達の結婚話を聞く機会が多くなったり、結婚式に参加したりするようになり、「自分も結婚できるのだろうか??結婚より社会にでることはできるのだろうか??」などなど・・・。その時、母が「ハナミズキの人生は普通の人からマイナス10年。だから、実際は30歳でもハナミズキはまだ20歳。これから青春よ。」と。なんと母の楽天的な??考えかと呆れたけれど、私も「そうそう。まだ私は20歳」といい意味で開き直れました。
  今、私は趣味もみつかり、通信大学も踏ん張って続けています。週1回ですがバイトもしています。生活に少し「ハリ」ができるようになりました。(少し余談になりますが、私の学んでいる通信大学は「生涯学習」を主としています。 学科も「共生科学学科」。字のとおり「共(とも)に生きる」という面白い通信大学です。その大学では「人はなぜ生きるのか」など、私に合った科目が多いです。今まで「心の風邪」を患ってきたことが不思議と生きる科目が多いです。)
  今は人との直接的・間接的な触れ合いがとても楽しいです。今ごろ、「そうだったんだ。」と思えるようになりました。発病して5年目くらいに両親や祖母、主治医やカウンセラーの先生が言われていた「ケッセラセラ〜なるようになる さきのことなどわからない」を受け入れられるようになり、最近は自分でも「なるようにしかならないわ。焦っても仕方ない」と開き直れるようになりました。自分が体験してきたからこそ、他の方が焦っておられたりすると「なるようにしかならないから考えても無駄だよ」と生意気にも言える自分がいます。
  みなさまも今、苦しくて絶望感などでいっぱいだと思います。私のこの投稿をご覧になって「何を呑気なことを言ってるの??」と腹が立たれるかたもいらっしゃると思います。しかし、私はみなさまに失礼を承知でお伝えします。いくら考えても「なるようにしかならない」「ケッセラセラ」です。
  みなさまの心のほんの小さなところにでも生意気なハナミズキが言っていたな。とお心にとめて下されば幸いです。私もまだまだこれからたくさんの壁などにぶつかると思います。
時には疲れ果て、立ち止まり、後退することもあるでしょう。でも「ケッセラセラ〜〜」と心の中で歌い、「なるようにしかならない」と思うようにします。
  長々と生意気なお話しを失礼しました。最後まで読んで頂いた方にお礼申し上げます。
      



      (匿名さん投稿 06.7.21)

 もう20年位前のテレビ番組で紹介された詩が忘れられません。その詩は、確か・・・、
  「夕日という字を知って、初めて夕日を美しいと思った」
とかいう感じの詩でした。
 彼女の在日韓国人で、家は貧乏で、文盲でした。年齢は、当時で65〜70歳位だったと思います。彼女は、その年齢になって、初めて文字を習いました。そして、作ったのが、上記の詩です。
 美しいものを美しいと感じる感性が育つには、最低限の知性が必要だったのでしょうね。生活に追われていた事も一因でしょうけど、私は、これは、感性の問題と思います。
 彼女は、文字を憶えるという知性を得ることで、感性が芽生え、人生で初めて海に沈む夕日を美しいと感じたのです。 文字を覚えただけで、これだけ、端的な表現のできる方だから、きっと、もし、ちゃんとした教育を受けていたら、きっときっと、感性豊かな、知性あふれる女性として生きてこれたでしょうに・・・。 でも、彼女は、既に老齢で、その時間は、もう元には戻せない・・・。
 私は、今、人生に絶望して、孤独で、悲しくて・・・、長くお世話になった主治医にも嫌われてしまいました。 死んでしまおうか・・・、一瞬、頭をよぎるけど、でも、私は知ってます。世の中には、この詩を書いた女性のように、悲しい人生を強く生き抜いている人が、沢山いることを・・・。アメリカやイスラエルのミサイルに日々晒されながら、「生き抜く」と強い意思を持って生活している人達がいることを・・・。 横田めぐみさんのご両親のように、僅かな望みを、気強く見つめて、絶望に打ち勝って、強く生きている人のいることを・・・。 
だから、死ねないと思っています。
    ------------------------------------------------------
 追記(匿名さん 06.7.24)
私の投書を掲載してくださり、真にありがとうございます。 そして、2点程、あの「夕日の詩」に対する私の思いを付け加えさせて頂いたく、最後の投稿を致します。
 @  私は、ずっと、作者に、あの詩の素晴らしさを直接申上げ、< /SPAN>20年もの間、それに励まされてきた事にお礼を申し上げたいと思っておりました。 先生が、HPに御掲載下さったお陰で、今後、この詩が多くの人々の目に触れ、彼らの心の中で行き続けてくれる事と思います。それは、私とっては、彼女へ小さな恩返しが出来たようで、大変嬉しく、大きな出来事です。真に真にありがとうございました。
 A 私は、あの短い「夕日の詩」の真のテーマは「希望」ではないかと感じております。 深い悲しみの中でも、過去の多大な喪失感を過去のものとし、静かに将来の「小さな希望」を夕日の中に見つけた『希望の詩』と解釈しております。 過去に囚われず「小さな希望」に目を向けられる、そこに、この作者の(失礼ながら)一般的にいう教養の低さを超えた、賢く、尊く、美しい人間性が感じられ、この短く単純な表現の詩が、私の20年来の人生の師とも支柱ともなりうるに至ったのだと解釈しております。
    ***************
 「8月のメモワール」という映画の中で、ケビン・コスナー氏演じるところの「精神を病んで定職に就けずに愛する家族を養えないでいる父親」が、その妻に言います。
「子供たちが、自分を見て人生に絶望してしまうのが怖いんだ。子供たちには、どんなに絶望的な状況でも『奇跡』を信じて全力を尽くす人間になってほしいのに・・・・」
『どんなに絶望的な状況でも、『奇跡』を信じて全力を尽くす』 素晴らしい言葉と思いませんか? でも、絶望の中で、小さな小さな針の穴のように小さな穴から差し込む光を信じる事の、なんと難しいことでしょう。
 「針穴の光」に希望を託し、生き延び、幸せになった実話には「戦場のピアニスト」があるともいます。映画も名画ですが、こちらは余りにも悲惨なシーンが多く、2度は観る気になれませんが、原作は素晴らしいです。 どんなに絶望的に思われても、「希望」と「夢」を失わず、諦めずに留まる(前進できなくても!)尊さをヒシヒシと感じました。 同時に、そのように行動する事の厳しさを思い、にもかかわらず、その尊い厳しい行動を、実際にやってのけた人物がいた事を知り、ひ弱な自分でも、少しでも、彼のような強い人間になりたいものと、原作を、何度も何度も読み返しました。
 私には、『夢』があり、『夢』を実現する方法も分かっています。でも、実社会に出ると、どうして不適応を起こしてしまい、何度チャレンジしても、仕事は2年ほどしか続ける事が出来ませんでした。 だから、自分に絶望して、『夢』はあっても、絶望感』しか持てないでいます。幼少時、家族間で、致命的な問題を抱えさせられ、以後、精神科や心療内科から縁が切れる事はありませんでした。 
 いっそ、飛躍して『希望』どころか、『奇跡』を信じて前進する手もありますね♪(だって、戦場のビアニストのケースは、完全に『奇跡バージョン』でしょう!)でも、『希望』も難しいけど、『奇跡』は、更に厳しそうですね。 だって、『奇跡』を何回か起こしたら、キリスト教の『聖人』に列してもらえるのでしょう(笑い!!!)
 先生のHPで、「だから、死ねないと思っています。」と載せられてしまったので、何だか、「こりゃ、少なくとも、当分は死ねないなぁ〜。」なんて思ったりもしています。 (匿名)



  (そらさん投稿 06.7.7)

こんにちは、’そら’と申します。
私は10年ほど前になりますが、神経症を発病し、ひどいめまいも伴って
その後何年くらい?でしょうか・・・かなり長い年月をほとんど’ひきこもり’状態で過ごしました。夫と一緒の時だけ外出することができたのですが、特に状態の悪い時は、布団にもぐり、一日中もんもんと夫が仕事から帰ってくるのをただひたすら待ち続けるというような日もよくありました。
化粧もしない、ヘアスタイルも気にしない、何もやる気がしない・・・。そんな状態で何年も過ぎてしまいました。夫は、そんな私をよく見放さずがんばってくれたとつくづく感謝しています。
現在は、99.9999999%快復して毎日を過ごしております。
長い年月を無駄にして生きて来てしまったようですが、病気のおかげで受け取ったものもたくさんありました。私の場合、夫の理解があり恵まれていたのかもしれませんが、
今、苦しんでいる方たちもきっと今日生きていることに幸せを感じる日が来ると信じます。
病気の克服記をみなさんに読んで頂きたいと思い、ホームページを作って公開してみました。
長くなりますので、よろしかったら開いてみてください。
http://www.ne.jp/asahi/sosite-sazaepon-no/siawase-na-kurasi/index.html



(ハナミズキさん投稿 06.4.11)

 もし「花」になれるなら・・・。
皆さん、もしご自分が「お花」になれるなら、どのお花になりたいですか??
これは私が発病して3年目くらいで、まだ入退院を繰り返していた頃にカウンセラーの先生から尋ねられたのです。入院をしていてカウンセリングの日に突然ある日、カウンセラーの先生が「ハナミズキさんがもしお花になれるとしたら、どのお花になりたい??」
私は「桜になりたい。」と応えました。
カウンセラーの先生は、なぜ私が「桜」の花になりたいか聞かれませんでした。
「なぜ理由を聞かれないのだろう??」と思い、私から理由を話しました。
「<桜の花>はパッと咲いて、すぐに散るから」だと。そこには、その時は私はよく「死」を考えていました。だから、桜の花の寿命の短さが羨ましかったのです。「人間も短くていいからパッと綺麗な時を迎え、そのまま死ねたら・・・。」と思っていました。カウンセラーの先生は、私が「桜の花になりたい理由」をお話しても何も仰いませんでした。
  ここ2年程前から、桜の花を見ると思うのです。「<桜の花>って命は短いけど、毎年、決まって当たり前のように春に咲き、人から<桜が咲いた>と喜んでもらい、散っていくのを惜しまれる」と。 今、思うと私は発病して3年目くらいの頃に「桜の花になりたい」と言ったのは、早く死ぬことを考えていたのではなく、私の周りの皆に自分の存在を喜んでもらい、もし死ぬことが現実となった時は、私の死を惜しんで欲しい・・・と。ただ私の存在に注目して欲しいというサインだったのでしょう。
  桜の咲くこの時期になると、カウンセラーが「自分がお花になれるならどのお花になりたい??」と聞かれたことを思い出します。今も同じカウンセラーの先生にお世話になっています。
カウンセラーの先生はこの会話を覚えておられるでしょうか??  また、もし今、同じ質問をされたら・・・。悩みます。私は今はどのお花になりたいか応えることができません。なぜなら、どのお花にもいいところなどがあり、選ぶことはできません。まだ、私は「心の風邪」とお付き合いしてます。しかし月日が経ち、自分の想い・考え方は変わるものなんだな。と改めて実感しています。初めてカウンセラーの先生に「どのお花になりたい??」と聞かれた時は、そんなことも思いもしませんでした。
  最後にもう一度。
「皆さんは、もしお花になれるとしたら、どのお花になりたいですか??」
                       


 (Yさん投稿 06.4.10 )

  私は25歳の大学院生です。
  ちょうど3年前の2月頃から体調を崩し始めました。重い病気をしたことがなかった私はすぐ治るだろうとさほど気にとめていなかったのですが、3月の中頃から、食後に異常なほど激しい吐き気に襲われるようになり、夜も眠れず、吐き気をなんとかこらえて朝方4時5時にやっと寝付くという生活になりました。近くの内科では「感染性の胃腸炎でしょう。最近吐く風邪が流行っていますから」と言われ、風邪薬と吐き気止めを処方されました。その後は授業中に39度の高熱が出たり、吐き気を我慢して授業を受ける日々が続きました。一向に症状が改善しないので、様々な薬が処方されました。胃潰瘍の薬、胃腸の働きを活発にさせる薬、あまりにいろいろな種類の薬を飲んだので、胃酸過多になり、お粥を一口食べただけで胃酸が口中に拡がり、うがいばかりするようになりました。9月、さすがに風邪にしては長引きすぎるということで、バリウム検査をしました。気持ち悪くなりながらがんばって飲んだバリウム検査の結果は異常なしでした。ただ何も食べていないのに胃酸の量が胃の半分以上もあって、「これだけ胃酸があればそれだけで具合が悪いでしょう」と言われ、胃の機能障害であると診断されました。その後、吐き気止め、安定剤を服用して、11月、初めて心療内科を受診しました。
少し話を聞いただけで、「ストレスによる神経性胃炎でしょう」といわれ、○○○と○○○を処方されました。最初は飲んだ直後いつも眠るようになっていましたが、徐々に普通に食事を摂ることができるようになりました。胃痛などの症状はあったものの、このころは友達と食べ歩き旅行をすることができるようになっており、デミグラスソース添えのオムライスを普通に食べることができるほど、回復していました。「喉元過ぎれば熱さ忘れるね」なんて母に言ったりしていた、今考えると「奇跡の数ヶ月」でした。
  2年目の4月、恐怖の再発。再び激しい吐き気に毎日襲われるようになりました。吐くことが怖くてしょうがない私は、気をまぎらわせようとまだ寒い夜のベランダをぐるぐると歩き回っていました。冷たい空気を吸いながら動いていると、吐き気が少し和らぐような気がして。
  2週間目、水を飲むこともできなくなって洗面所に立っていることすらできなくなった私は、かなりだだをこねながらも胃カメラを飲むために胃腸科に行きました。待っている間すごく怖かったです。思わず「無理だったら途中でやめてもいいですか?」と言うと、熟練したお医者さんが全身麻酔を使ってくれました。なんとか記憶の薄れたうちに検査は終わり、結果は一二指腸潰瘍になりかけとのこと。胃酸を抑える薬と吐き気止めを処方されました。この薬は水なしでも飲めるようにとの配慮からコーティングがされておらず、飲むのが大変でした。ものすごい苦く気持ちの悪い味のする薬だったので。こんなに大変な検査をして、苦い薬を飲んでがんばったのに、効果は出ませんでした。
  だんだん這うように内科に行って、点滴を2本打たないと学校に行けないようになりました。水すら飲むことができず、胃が痛いのを我慢して家庭教師にも行っていました。9月、体力の限界を迎え、心療内科に心療内科的精密検査を受けるために1週間入院することになりました。結果は脳内ホルモンのセロトニンが不足しているとのこと。4種類の薬を処方され、1年7ヶ月経った今も同じ薬の服用を続けています。
  発病前から10キロ近く体重も落ち、1日活動すると回復するのに3日はかかります。食べられなくなると、集中力も落ちてしまって、勉強が仕事の私には辛い日々が続いています。精神的にもすごく不安定になってしまって、頭がおかしくなってしまうのではないかと思うこともあります。本当に不思議な病気ですよね。経験した人にしかわからなくて、それに、人に
よって症状が様々ですから。
  みなさんの闘病記を読んでいて、私は本当に恵まれていたんだなあと改めて思いました。この病気になるまで、苦労らしい苦労を全くしたことがなかった私にはすごく辛い3年間だったけれど、私には私を大切に思って、支えてくれた人がたくさんいましたから。人の優しい気持ちが私に多くの幸せを与えてくれました。
  みなさんの闘病記を読んでいると、まわりの人に理解してもらえなかった、今でも理解してもらえないという記述が多く見られました。みなさんのまわりにも同じような苦しみを抱えている人がたくさんいると思います。みなさんが自分の苦しい体験を生かして、まわりの人にやさしく接してみたらどうでしょうか?
  人に優しくした気持ちはきっと自分に返ってきます。私自身もそうでしたから。みんな、病気ではなくても苦しみを抱いて生きていると思います。病気を含め苦しさを糧にして生きていける強い人になりたいと私は今強く願っています。


(05.12.12 花見月さん投稿)
      
      「長い白いマフラー」
  私は、この冬に編み物にはまってます。今まで、すぐに疲れたり、肩が凝ったり・・・と長続きしませんでした。実は、今日、白色の長いマフラーを完成させま した。それは・・・私が何年か前に入院中に編み始め、少し編んでは止め、また次の冬にまた病室で編みまた少しだけ編みお終い・・・でした。
  今日、気付けば、そのマフラーの長さに驚き、これ以上は長すぎると判断し、伏せ止めと糸の処理を終えました。今から思うと、それは「私の闘病の長さ」と共に「少し編んでは止め」というのは、「休養」していたのだと<思いました。本当に、網目などメチャクチャで、変てこりんなマフラーとなりましたが、「私のこの病気との付き合いの長さだ」と改めて思いました。 自分用にと練習のような「白色のマフラー」だったのですが、母に貰って欲しくて、母に「このマフラー、何年もかかったし変だけどいる?」と聞いたら、「うん。ちょうだい!!」と言ってくれました。そして、少し早いですが、クリスマスプレゼントとして、プレゼント(・・・なんていいモノではないですが・・・)しました。母は、とても喜んでくれました。そして、ポツリと「長くかかったけど出来たね」と言って、自分の首に嬉しそうに巻いてくれました。
  私は今まで独りで病気と闘っていると思っていました。何故、私ばかり苦しまなければならないのか?・・・などなど思っていましたが、それは間違いでした私が苦しんでいる分だけ、家族や周りの人も苦しく、辛かったんだなと思いました。
  まだ、私は「闘病中」ですが、今日の気持ちを忘れたくない!と思い、こちらに投稿させて頂きました。



(05.11.10 r−lo さん投稿)

 私は今17歳の高校生です。ここのサイトを拝見し,少なからず勇気が湧きました。私は先日内科で心身症と診断されました。病名を聞いたのは最近ですが,症状は随分前から出ていたかと思います。
 …小学校低学年頃の事。その頃体調が悪くなると一人で我慢できなかった記憶があります。(幼いからなのかは,わかり兼ねます)(今でも一人で我慢できません。むしろ吐く事が恐くて仕方ありません)その頃,学校では食事が喉を通らない時期もありました。でも帰宅すると心置きなく(普通に)食べれるのです。
次に中学時代です。同じく(集団が苦手なのか)食事が喉を通りにくい事,授業が嫌だから休みたいと本気で思っていた事,何より「自分は生きていて意味があるのか?」と考えていた事。そんな事を考えながらも中学は卒業しました。
 高校受験に成功した私は進学校へ入学。が,一ヶ月程通った後,中学で経験した事をはるかに上回る日々を過ごしました。学校で食事はろくに食べれず,帰宅しても食べるのがやっとでした。遅刻,早退,欠席を繰り返し,「こんな思いするなら学校なんてやめてしまいたい」そぅ思う毎日でした。「私は生きている意味がない。何のために生きてるの?こんな毎日を繰り返して,無駄なだけだ」毎日のように考えていました。高校一年の夏休み,母と一緒に精神科へ行きました。大量の薬をもらいましたが,症状(主に胃痛,食欲不振,喉の不快感,吐き気)はさほど軽くなりませんでした。ある日(数日後)私は風邪をひきかかりつけの内科へ行きました。そこで精神科で出してもらってる薬の話をしました。内科の先生は,数多く飲むのはよくないと言い,私の症状を踏まえた上で,半分程薬を減らしてくれました。学校でも薬を飲む日々が続きました。私はカウンセリングにも行き,そこの先生に「調子が悪くなるのは人に言いたい(伝えたい)事があるの
かもね」と言われ,その通りだと思いました。そんな中,高校一年の三学期から不登校になりました。(正直,勉強が難しく,勉強したくない,面倒くさいと思っていました)ろくに外出せず引きこもりの日々。出掛けても気分が悪くなりいてもたってもいられないのです。一学期間,何もしない日々が続き,ずっと自宅で過ごし,進級する頃には退学しました。後,通信制の高校に通い始めました。今はそこの三年生です。今は薬の量も少し減りました。「薬とうまい事付き合っていこう」と決めています。いつか飲まなくて大丈夫な日が来る事を願って…。私自身精神面で前よりは安定してきていますが,「今生きてる意味は?」「将来生きていけるか不安」「学校に行ってるとはいぇ他に何もしていない自分」「大切な人を失う不安」など今でも不安は募るばかりです。大切な人は私のまわりで一番の理解者です。でもだからこそ不安です。でも所詮は他人なわけで…この理解されずらい病気の私がいつ見放されてしまうか。信頼が強いだけに余計不安を感じます。それが一つのストレスになってるのが自分でもよくわかります。でもその人は「今が楽しければいい」「将来は誰にもわからない」などその人なりに励ましてくれます。
 今でも私は胃痛,食欲不振,喉の不快感,吐き気を伴います。頭が痛かったり,腕が痛いだけで吐いてしまぅんじゃないかと不安にもなります。(吐く事は私にとって一番恐い事です)更に「私は外食が苦手なんだ」とゆぅ事を少し前に自覚しました。その他は人混みに行くとすぐ気分が悪くなる、妙な事で気をつかってしまぃ気疲れする、など症状はたくさんあります…。私は今でも薬を飲み不安と闘う日々ですが,今後(将来)が楽しみで仕方なく思えるようになってきたのも事実です。
 私が投稿するのは,みなさんに比べ症状が軽い気がしたので,(比べるのは良い事ではありませんが…)ためらいましたが…書く事ができてよかったです。誤字脱字すみません。お許しください。



(05.9.26 花見月さん投稿)
  「生きる目標」そして「みんな有難う」・・・これからも「よろしく」
  私は心身症を患って、早10年以上が経ちます。 発病して約5年くらいは入退院の繰り返しでした。 お薬もたくさん飲んでました。家族や弟に私の症状をなかなか理解してもらえず、いつも「居場所」と「生きる目標」を探していました。 主治医の先生を初め、カウンセラーの先生が両親及び弟に私の症状を丁寧に説明して頂き、今は、弟も結婚し昨年末には甥っ子も産まれ、義妹にも皆に見守られて生きています。 今、私の「居場所」はまだ不定ですが、自宅だと思っております。そして、私は今、通信大学生(ある施設のフリースクール生)として、ひきこもりの中学生や高校生・LDの方のサポートをさせて頂く為に、勉強しております。 そのチャンスを与えて下さった、施設の代表やお勉強を見て下さる方・・・そして、何より今でも私を見守って下さっている「二人の主治医の先生」「カウンセラーの先生」・・・家族に感謝しております。
 お恥ずかしい話、授業料などは両親に負担してもらっております。 これから、今まで私が体験したこととお勉強の両方から、フリースクール生の先生となれるように少しでも違う「かたち」でですが、二人の主治医の先生・カウンセラーの先生・家族に恩返しが出来るように、少しでも「心の風邪」をひいておられる方をサポートさせて頂くつもりです。今年のお正月に初めて両親・祖母に施設でお仕事をして頂いたお給料で、「お年玉」が渡せるようになりました。来年も少しですが、両親・祖母・甥っ子に「お年玉」を渡せるように今、貯金中です。
 ここまで来るには、かなり長い道のりでした。
 暗い出口のない「トンネル」を彷徨い、あがいておりました。
 本当に出口はあるのだろうか??
 いつになったら楽になれるの??など思いながら・・・。
 ですが、出口のない「トンネル」は、ないです。
 皆様が今、真っ暗な「トンネル」に入っておられるとしたら、少しでも歩いていれば、
必ず出口の「光」は見えてきます。歩くことに疲れられましたら、真っ暗の中で、お休み下さい。
 実際に私がそうでした。
 でも、高速道路にいくつも「トンネル」があるように、私も時には「トンネル」に今でも入りますが、
徐々にその
「トンネル」が短くなりますよ。
 ここまで来られたのも、家族・お世話になっている二人の主治医の先生・カウンセラーの先生が居て下さったからこそ、
今の私があるのだと思います。
 何年か前までは考えられなかった、日々を今、送っております。 毎日、充実感でいっぱいです。
 また、調子が悪くなり後戻りする時もあるでしょうが、「私は私」ということを心に刻み、
亀さんペースで
のんびり・ゆっくりと自分ペースで参ります。
 無理はしません!!(無理して焦って、失敗しておりますので・・・)
 もし、皆様の中で今は辛くて何もする気になれない・・・などの症状がある方は無理に動かないで
自然に身を
まかせて下さい。(言うのは簡単ですが)
 その時期は、人生の中で「休養する時期」なのです。
 人生には「休養する時期」が必要だと私は今頃ですが思っております。
 その「時期」は、個々の人間の顔が異なるように、人それぞれです。
 「人は、人生の中で休憩する時期が必要なんだよ。」とカウンセラーの先生が仰ってました。
 必ず「生きる希望(光)」がみえてくると私は思います。(実際に私がそうです)
 まだまだ、二人の主治医の先生やカウンセラーの先生、両親にはお世話になることと思います。
 でも、私は確実に一日一日、一歩・・・いや半歩でも歩んでいるつもりでおります。
 皆様、「生きる希望」を捨てられないで下さいね。
 「生きる」ことは、楽しい時・苦しい時などがありますが、「この世に貴方が必要なんだよ。」という神様
(私は無宗教ですが・・・)からの「メッセージ」なんです。
 「この世に要らない人間」なんて居ないと私は思っております。
 「生きる」ことは、しんどいです。が、皆様、少しでもこの世に産まれたのですから、「人生を楽しみましょう!」
 生意気申し上げてる私も、くじけそうになり何の為に生きているのか??と何度も思いましたが、
「生きる目標」(通信大学でお勉強して資格を取る)を持つことで、人生が180度変わりました。
 皆様も何でもいいです。ほんのちっちゃなことでも、「楽しいな!」と思えることを「生きる目標」にして下さい。
 それだけでも、「生きる」ことへ前向きになれます。
 最後に、私は、「この病気に勝ってみせます!!」
それまで、二人の主治医の先生、カウンセラーの先生、両親、弟家族、見守ってて下さい。
 今まで「みんな有難う。」
 そして、まだ、私は心身症と闘っておりますので、「これからも宜しくお願いします」
 長々と乱文及び生意気を申し上げましたことをお詫び致します。
 
  
                               
 (05.9.21 ちひろさん投稿)

     神様からの贈り物
  神様は、子どもたちをこの世に送り出す時に、きっとこの両親なら立派に育てられると、
  お選びになって託されるそうです。
  私たちの子どもたちは天使です。私たち両親を育ててくれている天使なんです。
  世の中には、ほんとうに考えてもいなかった事がたんさんあります。
  それを、気付かせてくれたのも子どもたちです。今は、親子三人で精神科通いです。
  すばらしい人たちにも多く出会いました、それも子どもたちがいればこそです。
  まだ、精神科に通い始めて1ヶ月の私、先輩(子どもたち)よろしく。(^^)


(05.7.2 ○木○子さん投稿)

  今年に入って、ラジオ(こころの時代)で、自分がLD(学習障害者)であることを知りました。
  びっくりしましたが、原因がわかってとても安心しました。
  (自分が普通の人と違い、地図や方向の理解ができないLDの症状がはっきりわかり、病気の
  名前が初めて分かりかなり安心。
  いま治療で薬ものんで症状は軽くなり、心が明るくなりました、自信がついて病気名前(LD)も
  隠しません)
  今年に某クリニックがオープンし、そこで新しい薬と治療を受けられて本当によかったと思います。
  長い間、集中するのが難しく、不安定な状態でした。それはテレビとラジオが同時についているような
  もので、自分自身が理解できませんでした。
  私の病歴です。
  12才から 不眠症でN病院受診、頻尿でK大学病院
  15才から 拒食症みたいな症状
  18才から パニック障害みたいな症状
  2x才 結婚 、 双子の出産。神経症は忘れてました。
  3x才 4x才に婦人科の手術。
  この後 ホットフラッシュと多汗症。
  現在 60歳ちょっと前。この年、ホットフラッシュと神経症が重なって、苦しかったです。
  今年になってから、頭のテッペンから汗が流れ出て、そのままなんかしようと思わずにほっておくと、
  気がついたら忘れていた。
  気分的に楽になりました。
  ”治らずして治る” 森田療法を思い出しました。
  カウンセリング、教会、お寺、病院へ行ったり、本を読んだり、その他いっぱい。
  * 心の整理に書いた日記が、16才から10冊ぐらいあります。も一度読んでから捨てようと思います。
  ありのまま自然に生きる。長い間それが分かりませんでした。
  そんなに頑張って良い人にならなくてもいいんですね。


(05.6.10 華さん投稿)

はじめまして。中学1年の華と言います。このHPを見て、心強くなりました。

みなさんの投稿を読んで「私だけじゃないんだ〜」と分かり安心しました。
さて、本題に入ります。
私は、6年生の夏休みから摂食障害になりました。「痩せたい」と思った事は
一度もなく、普通に生活していたのに、ある日突然、食べ物が喉につまった感じ
がして飲み込めなくなってしまいました。その日から、食事をしても食べている
途中に席を立ってトイレに吐きに行く感じでした。
9月になって学校が始まっても直らず、母と一緒に近くの総合病院に行ったのですが、
「悪いところは一つもない。」と、言われ薬(漢方)をもらって帰るのみでした。
薬は最初は効いていたのですが、だんだん効かなくなってまた元の状態に戻ってしま
いました。それに食べても吐いてしまうので32キロあった体重もだんだんと落ちて
いってしまい28キロ・・25キロ・・21キロ・・最低19キロと。
体力も無くなってしまっていたあの時は、生きている事自体辛かったです。
12月に初めて過呼吸になって救急車に運ばれました。過呼吸になったきっかけは、
分からないのですが、あれは、弟とお風呂に入っていたときのこと。始めは、何とな
く気持ち悪いなあ。と、軽い気持ちでいたのですが、いきなりめまいがしてそのまま
倒れ込んでしまいました。ビックリした弟は、私に話しかけたそうです。でもその時
私は、ピクリとも動かなかったので、あわてて父と母を呼んで、私は運ばれていった
とのこと。あの時の事は全く覚えていません。それから真剣にこの病気を考え始め、
病院で精密検査、血液検査、尿検査、エムアールアイ、精神検査など沢山の検査をし
ましたが、どの検査も異常なしで終わってしまいました。異常なしなので、病院も、
もう来なくていいと言っていたので今は行っていません。
現在も症状が続いていますが、ここの所はだいぶ調子が良くなってきています。やっ
ぱり、普通に食べ物が食べられると言うことはこんなに幸せなんですね。今は、あの
時食べられなかった物を思う存分食べて幸せな毎日を過ごしております。最後に。今、
苦しくても、いつか幸せな日々が来ると信じていれば、あなたの勝利です。辛いこと
とかもあるかもしれませんが、ゆっくりと前へと前進していって下さい。あなたの幸
せを願っております。


(05.3.31 けいさん投稿)

はじめまして。
この春から大学生になる関西に住むけいです。
みなさんの投稿文を読んで、わたしも書いてみたいと思って、書いてみました
  
私は高3の夏ころ初めて過呼吸(?)になりました。
原因はよくある親子喧嘩といいますか、親の愚痴といいますか・・・
で、部屋にこもって、泣いてました。
泣く時は、学習机の下に潜っていつも泣いていて。
しばらくして、呼吸の音がおかしいことに気がついて。
そしたら、なんか、苦しくて、頭の血管がきゅうって収縮する感じがして、
手足がしびれてきて、何がなんだか分からなくて。
そしたら母親がたまたま階段上ってきて、あたしの異変に気づいたのか、部屋をのぞいて、
「ないてるんか?息おかしいんか?」って。
でも、苦しくて、でも、それを喧嘩したばかりだから伝えることができなくて、何も言わなかった。
そしたら。何事もなかったかのように弟の部屋に行っちゃって。
でも、お姉ちゃんがあたしに気づいて、お母さん呼んで。
NANAって漫画で、主人公が過呼吸の発作がでたっていう巻を読んですぐだったから、
袋持ってきてくれて、ペーパーバック法?で発作しずめて。
そのときもずっと母親は「あんたのせぇやで、これはヒステリーやからな」
って。
それからも、何か母親から言われるたびに過呼吸なって。
すごく苦しくて、でも、また攻められるのが怖くて何も言えずにずっといた。
夏休みにはいって、遠くに住んでお姉ちゃんが帰ってきてあたしが過呼吸になったのに、
初めて対面して、驚いてたけど「一緒に治そな」って言ってくれて、すごく嬉しかった。
けど、やっぱ家族って思ったことほとんど口に出しちゃうからか、ちょっとあたしが怒りやすいってのも
あるんだろうけど、あたしがちょっと文句とか言うと「また過呼吸なるで〜」っとか、
「またヒステリー起こす〜」っとかって笑いながらみんな言うんよね。
すっごい悲しくて。つらくて。
またしばらくして、なにが原因かは忘れちゃったけど、過呼吸なって、記憶とんじゃって、
気がついたら手首痛くてみたら血がにじんでて。すごいショックで、どうしていいかわからなくて。
すこし嫌なことがあるだけで、頭が痛くなったり、
憂鬱な気分になったり、そういう事考えただけで胃がいたくなったりして。
夏休みあけて、初日に過呼吸になって、トイレこもってたんだけど、
やっぱり無理で、保健室に行ったら、先生が「過呼吸か?…前もなったことあるんやな?」って。
そしたら、涙がどっと出てきて保健室の先生に全部話したら、あたしの話全部聞いてくれて。
話を聞いてもらっただけで、思いを口にしただけなんだけど、それだけで、なんかスーッとして。
話してるうちに、自分の中にずっとあった親への負い目とか、
姉弟へのコンプレックスとか劣等感とか、そういうのも自分がモヤモヤともっていたものが、
全部口から出てきて。
なんかそれだけなんだけど、過呼吸になる頻度も少なくなって、手首の傷も消えて、
自分で自分の気持ちをコントロールすることがすこしできるようになってきて。
最近は受験も終わったし、発作が出ることはありません。
だれかに自分の思いをそのまますべて伝えるだけのことで、こんなに楽になると思いませんでした。
今、いろいろなことに悩んでる人たちにも、こんな風に誰かに打ち明ける機会があればいいな
とおもいます。そして、そう願ってます。

(05.2.3 ひよこさん投稿)

ひよこと申します。30代の女性です。
このホームページに、たどり着いて、数週間になります。
皆さんの体験談を読み、私一人が、苦しんでいるんじゃないと、勇気づけられ、
私も、私の心身症の闘病体験を書き、誰かを勇気付ければ幸いと思い、ペンをとりました。
 
私は、中学2年の時に、拒食症になりました。
私は、いわゆる”愛人の子”として育ち、小6の時に、母は、父と別れ、発症当時、母は、別の男性の所に、
出かけることが多くなり、私は、いつも一人で食事をしていました。
そうしている内に、私自身認識しないうちに、食が細くなっていってて、体も、細くなっていってました。そのせいで、
生理も無くなっていました。
今思えば、母に「私のほう向いて」って、サインだったのかもしれません。
ある日、街で倒れて、病院に運ばれ、即、入院と言われました。
その当時、私の病気は、余りメジャーではなく、小児科に入院して、まず「沢山食べろ」と言われるばかりでした。
普通に食べていたつもりでしたが、少しして、意識が無くなり、生死をさまよいました。
1ヵ月後、意識は戻りましたが、胃や腸が働かなくなっていて、普通に食べれるようになるまで、大変でした。
それに、筋肉が無くなって、歩く練習をするのも、大変でした。
辛い、そして寂しい入院生活の中で、私は、勉強に逃げるようになりました。
 
半年後、学校に戻ってみると、親友だった子は、不良クループに入ってしまっていました。
それと反対に、私は、急に優等生になってしまっていたのです。
友達もできず、辛い中学生生活でした。
 
「早く、私の事を知らない所で、一からやりたい」と言う一身で、受験して、遠くの私立の高校に入りました。
でも、母との関係は、以前と変わらず、私は、母の作った食事を、隠れて殆ど捨てていました。
隠れて泣きながら・・・。
そして、「いい子」でいたのです。そのうち、母が、こっちを向いてくれると信じて・・・。
 
大学に入って、私の居場所を求めて、一人暮らしを始めました。
しかし、居場所なんて無く、"過食”が、始まったのです。
夏は、”拒食で活動的”で、冬は、”こもって過食”の、大学時代でした。
"外見のこだわり”も、鬱病も、もうこの頃には、出ていたのかもしれません。
こんなわけの分からない私に付き合ってくれる友達もできませんでした。
今思うと、もう一度やり直したいぐらい残念な大学時代でした。
 
何とか就職出来ましたが、完璧主義で、人の目を異常に気にしすぎから、すぐ”5月病”になり、
しばらく会社にも行けなくなりましたが、何とか復帰しました。
ストレスから、夜の過食も酷く、時には、朝、熱が出て、起きれず、会社を休んでしまう事もありました。
病気の知識が無かったため、"気晴らし食い”、"怠け病”と、思い込んで、自分をどんどん追い込んでいきました。
”身体表現鬱病”だったかもしれないのに、様々な病院の内科に行き、検査を受けました。
しかし、結果は"何処も悪くない。低血圧なだけ”だったので、会社側も、私が会社を休むことを、認めては
くれませんでした。外見は、太っていて、健康そうだったものですから・・・。
"死”を、始終考えてしまうほど、体も、心も、不安定になっていきました。
 
3年たって、本で、私の様な症状が、心身症であると知り、皆に内緒で、心療内科を探し、行き始めました。
そこでの病名は”自律神経失調症”でした。
私の上司に、先生は、「この子の、休みたいときに、休ませてあげれればいいのですが、無理な話でしょうね・・・。」
としか言ってくれず、会社側も、私の休職を認めてくれず、「今より、楽な部署へ行きなさい」仕方なく指示するだけでした。
そのせいで、仲のよかった同僚・先輩達他に、誤解され、無視され、私は、会社に居づらくなってしまいました。
症状も、酷くなっていって、私は、その当時付き合っていた人との”結婚”に逃げ、誤解を解く努力無しに、
会社を辞めてしまいました。
そのとき負った傷は、今も癒えず、多くの友達を失くしてしまいました。
 
私が"愛人の子”と言う事で、反対され続けた結婚も何とか承諾され、幸せいっぱいだった筈なのに、
外見にこだわっていた私は、痩せたい一身で、食べては吐く"過食嘔吐”と言う世界に入っていってしまいました。
 
幸せな生活は、少ししか続かず、姑との確執・完璧な主婦像などで、メニエール病になり、
不眠症、毎日の隠れてする過食嘔吐へと、酷くなっていき、普通に生活が出来なくなりました。
今度は、いろんな心療内科を巡り、入院もしました。
薬も、知らない内に、どんどん増えて行ってました。その事も、知識が無かったのです。
夫は、お酒に逃げ、家に帰って来ず、私は、仕方なく実家に戻り、少しして離婚となりました。
四六時中の過食嘔吐・自殺未遂・OD・入退院・・・・。
母は、やっと私と向き合おうとしてくれる様になりました。
しかし、心の中の穴は埋らず、いろんな人とも付き合い、でもどうしても、”穴”は、埋らず、虚しい日々が続きました。
 
8年前に、今の夫と出会い、私の病気も受け入れてもらった上で、結婚しました。
しかし、彼は、私の病気を"理解”は、してくれず、私がパニックになって、泣いたり、大声を出したりするのを、
とても嫌い、怒り、手を上げることもたびたびありました。そして、私に、触れなくなっていきました。
 
5年ほど前に、やっと私に合う先生に出会い、もう良くならないと諦めかけていた私が、”未来”に向けて、
歩き出しました。
"摂食障害”と言う病気を認める事から始め、嘔吐を徐々に減らしていきました。
満腹感・空腹感が、全く分からなくなっていたので、難しかったですが、今では、何となく分かってきて、
もう1年以上、過食嘔吐をせず、普通?に、食事が出来るようになりました。
 
現在、摂食障害は、克服できましたが、対人恐怖症・うつ病・自律神経失調症などが、突然出てくるために、
凄く怖がりになって、家にこもることが多くなっている状態です。
自分・家族・社会などとの関わりなど、問題は、まだまだ有りますが、未来を信じて、前向きに生きていこうと、
心の中では思っています。周りには、そう見えないでしょうが・・・。
 
長くなってすみませんでした。
ひよこでした。
 

(05.1.22 すずらんさん投稿)

私は40才の女です。
18の娘が鬱で、もう3年治療中、先日は16の長男が自律神経失調中ということで病院に行きました。
二人ともまじめすぎるのがいけない様です。
長女の私は亡き父に厳しく育てられ、しかられ、手もあげられました。
母はもっと怒鳴られていました。母は私にはうるさくいわず、みまもり黙っているだけ。
妹二人の手前、まじめに反抗なくここまできました。
そんな厳しい体験が私の無意識の育て方として娘に反映され、影響をおよぼしたのかもしれません。
今思うと反省です。
育児にほとんど協力なしの夫は娘が鬱になったと判ってから協力的になりました。
そのころから私はパニック障害?自律神経失調症?とおもわれる症状がひどくなりました。
動悸ややる気ないのは10年前次女を妊娠した時、祖母がなくなり、身辺が忙しくなった頃から始まったと記憶しています。
無感情になり父の病死も悲しみはあまりわかなかったくらいです。
体調不良を理解してくれない親戚の叱責がそれに拍車をかけました。
今思うと鬱だったのでしょうか、家事もできず、家にこもり、10年前うまれた次女のせわと二人の上の子の世話で明け暮れました。
近所の方とも会うのもいやで外にもほとんど出ませんでした。
でも、家事放棄に文句をいわず、好きにさせてほおっておいたくれた主人のおかげ?で病院も行かずに回復?して、
いまでは主人の力をかりて、娘を支える事ができるくらいにまでなりました。
猫の目の様にかわる娘の体調や感情について行くのは正直つらく、腹立たしい時がばかりで、
まだ動悸や不安になることはしょっちゅうです。
血圧の薬と一緒にもらっている安定剤と娘の精神科の先生、カウンセラーとの話し合いのおかげで普通に生活も車の運転もできます。
長女の状態や私の体調上、仕事に出ることはまだできませんが、
長男が鬱や心身症に進まないように様子をみつつ、長女を社会におくりだすまで、
自分の体もかまいつつ専業主婦で暮らす日が当分続きそうです。
買物依存症?のような娘と、月10万超える子供の携帯代による毎月大赤字の家計は、
主人にがんばって貰いましょう。
一番苦しんでいるのは娘です。
いつかトンネルは抜けると信じ、自身と家族の闘病体験中の報告をします。




(04.11.10 美久さん投稿)
「信じなきゃやってられないよ」
私は今までに小学校中学校で二度不登校になった。そして摂食障害にもなった。入院もした。凄く辛かった。
私の不登校が原因で両親は離婚した。父が「こんな子世間体に悪い、家から出るな」この一言が離婚の原因
になた。兄弟3人。離れ離れになった。全て私の責任です。ちゃんと自覚してます。家に居場所がなくて…街で
友達に会うのが恐くて…高校受験は家から通えない札幌の高校を選んだ。その高校にどうしても入りたくて、
入院しながらも夜は塾に通ったし家庭教師もつけてもらって勉強は頑張った。結果は合格。親元を離れ札幌で
生活する事になった。はじめの頃は楽しかった。でも今は楽しくない。毎日吐いてる。過食と嘔吐の繰り返し。
夜になると苦しくて過去吸になっちゃう。毎日眠れなくてデパス3錠飲んで寝てる。病院には通ってる。
でも…親には言えない。なぜなら高校入学前に「もうこれ以上心配かけないで。もうこりごりだよ。
ママ疲れちゃった」と言われたから。
今はとても辛い。どうしていいかわからない。受験生だし勉強もある。一杯一杯です。
けど・・・前見て頑張ります!前だけ見て頑張ります!そう自分に言い聞かせないとやってられません。
どんなの辛い日が続いても必ず楽しい日がやってくる!
きっといつか笑って話せる日がくるもん♪(今の辛い状況を)
大学合格できたら何か変わる気がする。私はね♪♪
 
※皆さんに全て読ませていただきました。
 みんな辛い経験してるんだね。私だけじゃない。そう思ったら元気がでました。
 私なんてみなさんに比べたら大したことないね笑))
 
               〜美久〜



(04.10.8 あやめさん投稿)

僕は中学2年生の男子学生のナオといいます。
みなさんの心身症克服体験記を見て僕も話そうかと思いました。
原因も複雑で、一度も人に言ってません。
けれど、そのままだと心の闇が大きくなるばかりで……なので話そうと決心しました。
話は4年前に戻ります。
僕がまだ小学校4年生のころ。
クラスの男子にいじめられていました。
それと同時に家庭でもこき使われていました。
両親は何もせず、仕事に明け暮れる一方で家事全般を押し付けられていて。
僕は6人兄弟のうちの次男にあたりますが上には兄と姉2人います。
しかし、兄たちはなにもしないで僕だけに家事をやらせます。
学校にいけばいじめられ、家に帰ればこき使われる。
こんな毎日でした。
そして1年たちました。
学校でのいじめはなくなったものの、新しい担任がとても贔屓するので僕はいつも睨まれていました。
なぜか、僕をいじめていた男子たちを特別扱いしていました。
こんな理不尽さに納得がいくわけがありません。
ついに2学期の終わりに胸から背中にかけて湿疹ができました。
最初はノミかダニに刺されたと思い放っておきましたが、
4日ほどたち、体調が悪くなり風邪かと思って病院にいきました。
聴診器をあてるため医者が服をめくったその矢先、
「最近疲れてるの??」と何回も聞いてきた。
なんでそんな質問をするのだろうと疑問に思っていたら待合室に待っていた親が呼び出されました。
「帯状疱疹」――――そう告げられました。
親や医者はなにやら話していたけど僕にはさっぱりで。
この病気の原因に身心の疲労が含まれると知ったのは数年後です……。
そんな状態が続きついに中学1年生に。
僕は受験に成功し、某有名男子校に入学しました。
友達もたくさん居て、部活にも入って楽しい生活を送っていました。
母は妊娠して仕事を休むようになり、軽い家事なら自分でするようになったので結構楽でした。
けれどそれもあまり長くつづかなかった……。
やはり世界にはいろんな人がいるんだなと痛感した。
男子校には希少ながらもいると思います。
それは部活の先輩が僕のからだを強要してきたことです。
もちろん僕は何がなんだか分からなかったし、拒否しました。
けれど先輩は4人いて、僕1人で敵うはずなくて。
同性にそんなことをされて。僕は悔しくて悲しくて。
でもこんなこと、親や先生や友達に言えないじゃないですか。
挙句の果てには脅迫されながらも先輩たちとその関係が続いて。
そんな自分に嫌気が差し、通学途中で何も考えず、車の走る道路に歩み出た。
死ねなかった結果、左足の骨折に左目の失明。
それにかなりの絶望感を感じ、自殺目的だったということは誰にも打ち明けませんでした。
そして、また繰り返される先輩との苦しい行為。
なにもかも、分からなくなった。
そのころ、僕にはとても尊敬している人がいました。
当時17歳で、現在18歳の男性。
面白くて頭もよくて優しい。よく悩みも聞いてくれました。
少々男性自身に恐怖を感じましたがそれを隠して接していました。
しかし、自分が同性なんかと不本意でもみだらなことをされているのが何よりも怖かった。
そしていつしか、胃がキリキリと痛むようになり、食事をとってもすぐ吐き、
ついには家で激しい胃痛とともにむせてせきをしたら吐血してしまい意識が朦朧として
病院へと運ばれました。
診断結果は重度の「急性胃潰瘍」。
胃には4箇所穴が空き、潰瘍がおおっていたそうです。
数日入院し、退院しました。7月のはじめでした。
胃に穴あけてまで、こんな苦しいことに耐えなければいけないなんて……と、
当時の僕には生きる気力さえなくなっていて、7月の25日、また自殺を図ってしまいました。
そのとき、その尊敬していた人にかなり説得されたのに僕は死を選んだ。
結果的には失敗…そしてそれがきっかけでしょうか。今まで、最も尊敬していた人が僕の前から去りました。
喪失感や自責の念でたくさんで毎日なきました。
そして、転校。9月から新しい学校でなんとかやってきました。
10月に妹が生まれ、家庭もあわただしく、家事も増えました。
転校先は決して楽ではなかった。
毎日前の学校の先輩たちがくるんじゃないかという不安に押しつぶされそうになったり、
最も尊敬していた人への喪失感、
さらには学校の人間関係を元に着々とストレスが折り重なっていきました。
けれど自分はそんなこと気にする余裕もなく、毎日がすぎていった。
数ヶ月たった2月。
食事をとれば嘔吐のくりかえしで何も食べれなくなり体重は減少しました。
しかし何事にも追われていた自分はやはり気にすることができないでまた時がたちます。
さらに数ヵ月後の中学2年生の6月。
事故で左耳が不自由になりました。
僕はピアノが大好きでしたがそこで1度挫折。
その月に合唱コンクールがあり、クラスでピアノを弾けるのは僕しかいません。
けれどかなりふさがっていたので困難でした。
そこで色々クラスで揉め事があり、不本意ながらの伴奏を決意。
イライラが募る放課後練でぐらっと一瞬何がなんだか分からなくなり、
呼吸困難になって倒れました。
そのまま担架で保健室に運ばれ保健医に告げられたのは「過呼吸症候群」。
過呼吸って何?なんなんだ?
本当にわけがわからなくなった。
そのまま毎日発作が起きた。
幾度なく繰り返される死の恐怖…1年前の悲しい別れを思い出すたび死を拒んできました。
だから毎日、何時に発作が起きるのか。
怖くて、不安で不安でたまらなかったです。
そのためなのか、夜寝付いても数時間すれば起きるという繰り返し。
いったいその大きな恐怖となる過呼吸はなんなんだろう?
そう思い、ネットで検索してみますと、このサイトにたどり着けました。
調べているうち、死なないとわかり少し安心し。
けれど発作はなかなか止まりませんでした。
そうして続く日々。
2ヶ月がたち、8月に。
すると、僕が最も恐れていたことがおきました。
あの先輩たちとの再会でした。
先輩たちは僕の身心のことなどお構いなしにまた強要してきました。
そしてまた以前の生活に逆戻り……。
9月になり、ずきずきと激しい腹痛に数日間襲われ、やがて歩けなくなりました。
かかりつけの内科にいくと、盲腸かもしれない、と大学病院へ検査に。
幸い盲腸ではなかったのですが、「急性胃腸炎」や「過敏性腸症候群」といわれました。
自分の中ではあやふやだな……と思いましたが、今もいろいろおなかにいい薬を
処方してもらっています。
前は、自分は13歳という若い年齢なのになんでこんなに苦労するんだ?
と暗い気持ちで自分を責めていました。
けれど、皆さんの心身症克服体験記を読んでそんな考えは少しずつ薄れていきました。
「過呼吸症候群」は本当に辛いです。
それは多くの人たちが痛感していることだと思います。
けど僕は、その実態をこのサイトでしることができて少し落ち着きました。
うまくいえないけれど、ありがとうございました。
まだ僕は克服していないけれど、がんばろうと思います。
長文、失礼しました。



(04.8.15 梢 さん投稿)
皆さんの闘病体験談を読んでいたら涙が止まらなくなってしまいました。
そして私自身体験している事を、私が嘘なく正直に話すのを聞いてもらいたくてメー
ルをすることにしました。
私が生まれて初めて「自律神経失調症」と病院の先生に言われたのは小学6年の頃。
その頃は何だよそれは?って位にしか思ってなかった。だから全然調べなかった。
父の仕事の転勤で関東から北海道へ行かなければならなくなったのが小学5年の夏
で、その頃の私は、学校も毎日楽しくて友達もたくさんいて、通っていた小学校には
吹奏楽クラブが出来た頃で、音楽の授業が大好きだった私は即所属して、一生懸命ト
ランペットの練習してた。家での自主学習だって、習い事も珠算週3日、ピアノ、習
字、忙しかったけど充実していて、自分でもあの頃が今まで生きてきた中で一番輝い
ていた頃だったと思う。
父の北海道転勤は物凄くショックだったけど、聞かされたときはパパ一人でそんな遠
くに行くのは可哀想だし、仕方のない事だと思っていた。中学生になる頃にはまた
戻ってこれるんだからと自分自身に言い聞かせた。でも実際北海道の新しい学校には
なかなか馴染めなかった。(今冷静に思い返せば自分から馴染もうと努力してなかっ
たと思うけど・・・。)
学校に行きたくなくて、毎朝母と行く、行かないで闘い、例え行ったとしても、片頭
痛、吐き気で保健室で寝ているか、早退するかのどちらかで、担任の先生にも決して
心開かなかったし、習い事もピアノ以外は全部辞めた。二人の妹達は何とかやってい
るようだったけど、北海道へ行ってからの3ヶ月間私はずっともとの場所に帰りた
い、帰してよって泣き叫んでた。小5のくせに胃まで壊してご飯もろくに食べれなく
なって、夜いったん寝ても2時間ごとに起きたりするようになってた。それでも帰し
てもらえなくて、いくら私が反抗しても無駄なんだって解ってからは自分から何かす
ることは極力しなくなっていた。関東と北海道は学校のレベルが違うからって小学校
のうちから塾に通わさせられた。小学校の内から塾に通ってる子なんて周りにはいな
くて、そこでも孤独だった。でもどうせ行きたくないって言ったってムダだと思った
から我慢した。
やっとこっちに帰ってこれたのは中2だった。戻ったっていっても前に通っていた小
学校じゃないし、また一からの友達作りに苦労もあったし、吹奏楽部はあったけどろ
くに楽器も出来ないし、頑張ったって無駄みたいな考えがいつのまにか私の中には
あって、だからいつも本当に自分のやりたい事は誰にも言わないで勝手に自分でム
リ、ムダって諦めて適当にしてた。
高校受験のことでもそうだ。自分でいうのも変だけど頭は学力的にそこそこだったと
思う。本当は私立の高校に行きたかった。でも家はまだ二人も妹いるし、妹の方が私
よりも出来が良かったし、コンプレックスもあった。だから本当に行きたい高校を言
うことも、受検することすら諦めた。「絶対県立!」 いつも親が言ってた言葉。だ
から県立の高校で自分の偏差値に合う高校さがして希望校を二つ挙げて、共学の方を
受けたいと言ったら、女子高の方が受かる確実大だからって学校の先生に言われて、
親はまた猛反対でもちろんこ時は通うのは私だって反抗した。でも、母親に「どうし
てわざわざ危ない橋渡ろうとするのよ」って言われてどっちを選んでも絶対受かるな
んて保障どこにもないのに、結局また諦めて親の言いなりになった。
当然高校生活はつまらなく、なんのやりたいこともなく、でも友達はいないと学校生
活やりづらいからいたけど、今現在(26歳)で連絡取り合う子はいない。
それでも私は短大だけは自分の行きたいと思った学校にきちんと通いたかったから、
特に将来やりたい事もなかったけど私なりに必死に考えて卒業と同時に栄養士資格の
取れる栄養科の学校に通った。彼氏とかもできてそれなりに楽しかったなあって思う。
でもその彼とも私の方が先に社会人になり、結局お別れした。
氷河期と言われた就職も何とか決まった。決まればどこでも良かった。せっかく栄養
士の資格とれるのに笑っちゃうのが父と同じ銀行員だったことだ。まあ違う銀行だっ
たけど。
そして社会人になりたてのころからまた身体の症状が変な時が多くなった。急に動悸
がしたり、2年目になってからは職場にいくと蕁麻疹が出るようになった。皮膚科で
診察してもらって血液検査とかしたけど、よく原因はわからなくってストレスでは?
との事だった。確かに残業が少なくなった頃には蕁麻疹もでなくなったからそうだっ
たんだろうなあ。
ちょうど2年半たった時転勤になった。それは今までいた支店よりも比べ物にならな
いくらい忙しい店で、この頃にはこの仕事向いてないと思い始めていたのもあって、
あっという間に体調はおかしくなっていった。なににつけてもイライラしていたし、
退職を決意したのもこの頃。
上司にも即行に退職の意思を告げ、親にも言った。周りに猛反対を食らったけど、も
う耐えられなかった。転勤して3ヶ月しない内にはじめて通勤途中で過呼吸というも
になった。
生まれて初めて救急車に乗せられ病院に運ばれた。苦しくて死ぬかと思った。
でも忘れられないのは、家に帰ってその日私が過呼吸で救急車で運ばれたと母が父に
報告した時に父が言った言葉だ。「情けない」 一言だった。悲しかった・・・。
結局転勤してちょうど3ヶ月で銀行を退職した。新卒で入ったその会社は丸三年もた
なかった。その後医療事務関係の資格をとって少しずつパソコンも勉強して、社会復
帰を目指した。
あのとき私は過呼吸が過換気症候群と呼ばれていることを知らなかったし、運ばれた
病院ではストレスだけで片付けられた。次に働くようになるまで世の中不景気なのも
あって、時間がかかって家にこもるような時間も多くなった。母は当時朝9時から1
7時までパートをしていて本当に家に一人だった。そしたら今度は寂しさからなのか
お腹も空いてないのに家にある余りものやパンを今まででは考えられない量を食べる
ようになった。体重はものすごく増え、顔はゴムまりみたいにパンパンだったから、
余計に外に出たくなかった。
三週間ほど一度も家の外からでないこともあったけ。
それでも自分は少しおかしい位にしか思ってなくって、親だって働きもしないで家で
ゴロゴロしているからだっていつも言ってた。
やっと仕事を始めたのは銀行を辞めて11ヶ月たった頃パートだったけど病院の受付
で、働けるようになった。身体の調子はいつも元気というわけではなかったけど、そ
れでも職場には友達もできてそれなりに楽しかった。過食するような事もなくなっ
た。
でも、そこで働き始めて1年半たった時このままパートで働いていていいのかなあっ
て思うようになって、過呼吸は銀行辞めた時から1度だってなってなかったし、もう
25歳だし、もっとお給料のいいところで正社員で働きたいと思ってまた転職したん
だ。
今度こそ自分で望んだ転職で家から勤務地までは電車でうまくいって1時間かかった
けど、ちょっと位きつくてもがんばろうって思ってた。でも入社してすぐその会社に
対しての不信感が生まれ、でも会社の誰に何を話していい物かも良く分らないし、自
分で決めたし両親には言いたくなかった。たとえただの一般職なのに23時過ぎまで
残業させられてもなんとか頑張った。親が心配してくれてるのは分ってたけど、仕事
の話はその時はあんまりしないようにしてた。
でも入社してすぐ片頭痛がよく起きるようになって、夜中に蕁麻疹もでるようになっ
た。
なんとなく自分でもヤバイのかもと思っていた。4ヶ月経つか経たないくらいでお昼
ご飯を食べた後、会社のトイレで吐くようになった。でも誰に言ってもしょうがない
からと思って誰にも言わないでいた。そして去年の自分の誕生日の3日前のあの日、
電車の中で息が出来なくなった。
過呼吸で倒れた。 意識がはっきりして病院のベットで真っ先に思ったのはまた父親
に怒られるだった。きっとまた情けないとか何とかいわれるんだろうなって・・・
母親が迎えにきて診察を受けた。そこで初めて言われたんだ。前にも2度なったこと
があるって運ばれた先の内科医に言ったらパニック障害とかもあるし、精神科とか心
療内科で一度みてもらいなさいって。
ビックリした。精神科って何で?って思った。自分ではどう思うって先生に聞かれた
けど言葉が出てこなくて、、もう私は頑張ってたのにって、泣くことしかできなかっ
た。家に帰るまでずっと涙が止まらなかった。「梢は梢だから」母は言ってくれたけど。
死ぬほど苦しいのに絶対に死ねない過呼吸・・・ その後また過呼吸になったらと思
うとしばらくは一人で電車に乗れなくなった。会社にも行けなくなって結局退職した。
父はもう前の様な事は何も言わなかった。母はパニック障害とか過換気症候群につい
て色々調べて、良い病院はないかって探してくれてた。心療内科には両親がついてき
てくれた。診察を受けた結果、自律神経失調症に鬱症状と心因性の嘔吐症と病名が付
けられた。自分で思っていたよりストレスがすごかったらしい。
結局自分で決めた転職にも失敗して、自分で何がしたいのかも解らなくて、ひたすら
自分を責めた。それこそ幼稚園の頃から自分の覚えている限りの自分の失敗とか、
要領の悪さとか、でもリストカットとかする勇気もなくって意気地もなくって泣いて
ばっかりいた。あの時北海道に行ってなかったらもっと違う人生があったかもとか、
せめて中1で帰って来れてたらとか、あの時私のやりたい事すべてとられたのは父親
のせいだとか、なんでもっと学生の時に自分は頑張れなかったんだろうって、何のた
めに自分は生きてるのかも解らない、もぬけの殻だった。
それを知ったいとこのお姉ちゃんが一冊の本をくれた。気休めかもしれないけど、暇
してる時に良かったら読んでみてって。少しは元気になるかもしれないしって。
素直に嬉しかった。普段おじいちゃんの法事で会うくらいで手紙とかもらった事もな
かったのに、心配してくれて。本もそうだけど手紙が嬉しかった。また泣いてた。
あれから今も月一回のぺ−スで通院してて、しばらくは気分の浮き沈みも結構あった
けど、少しずつ薬の効果もあったのか、吐き気もなくなって、過呼吸にもあれから1
度もなってない。やっと4月くらいから気持ちが落ち着いて、昔の事を後悔したり、
責めたりするのはしなくなった。父親だって北海道の転勤は嫌だったろうし、それで
も私達家族のための働いていたのだから。(それは自分が銀行員になってみてよくわ
かったし)
今は、本当に自分がやりたい事を見つけて、今まではすぐ諦めてた事も実現できるよ
うに自分なりに少しずつだけど行動するようになった。
その夢は実現するのは夢のまた夢かもしれないけど後悔だけはしないようにしたいな
あって。あと最近は色々な物にも興味が湧くようになって家でパワーヨガとかやった
りしてる。電車に乗る事は混んでる電車に一人で乗るのは抵抗あるけどそうでもなけ
れば普通に乗れるようになって来た。毎日暑いけど自転車にも乗って近所をウロチョ
ロしてみたりしてる。もっと元気になったらまた働いて自分のお給料で色々できるよ
うになりたい。
それから、体験記に書いていらしたおばさんも励みになったといっていた「止まない
雨は、ない」「生き直す」「病気が治るってことは、元の自分に戻ることじゃなく、
新しい自分になることだった」 私もこの言葉何度も読み返しました。私もくじけそ
うな時は、励
みにしたいとおもいます。
病気になって自分の性格とか、考え方とか、感じ方とか前よりも考えるようになったし、
以前より前向きになった気がします。
正直、ちゃんと社会復帰できるのか、いつ薬を飲まなくてもよくなるんだろうとか考
えることもあるけど、焦らずのんびりゆっくり治して行こうと思います。
こんなに長くなってしまってごめんなさい。
私の治療は他に苦しんでいる人に比べたら全然軽いものだと思うけど、こんな人間
もいるんだなあと思って読んでくれたらありがたいです。
                                    



(04.5.13 あやさん投稿)

私と同じような人がいて、コレを見てあたしだけ辛いんじゃ
ないと知って安心していただければと思い書きます。
私は16歳のときにパニック障害&嘔吐恐怖?になりました。
おもに発作はありませんが吐き気がすごくとにかく不安で不安で
その時の状態といったらとても言葉では伝えられないものだと思います。
なので皆さんの辛い気持ちが本当に分かります。
私は外出が困難で、家から離れることがすごく恐怖です。
レストラン、デパート、買い物なんでもいいですけど、必ずといっていいほど
トイレを探します。万が一の場合にトイレに逃げたいんです。
乗り物全般ダメです。車には乗る練習をしてなんとか乗れるようには
なりました!でもまだまだ調子が本当によくなきゃダメです(^−^;)
私は今22歳です。昨日で22歳になりました。
高1の時から人生は変わりました。学校にも通えず、留年休学を繰り返し
泣いて頑張った高校生活でした。結局単位が足らず退学しました。
退学したのが19歳の時。19歳で私はまだ高2でした。
学校を退学になり、毎日本当にものけの殻でした。
私の人生はもう終わりだ。夢なんかもてない。
好きなことも出来ないし。リスカもしてきました。パニック障害になった頃は
親にも理解されず「甘えるな」「学校に行け」と毎日言われ本当に辛かったです。
今22歳になりそろそろ過去を見るのをやめようと思っています。
どうしても過去が捨てれなかった。どうしても元気に自由だった自分が忘れ
られずに心は16歳のままだった。いつもいつも16歳に戻りたくて仕方なかった。
戻れるなら心が元気だった頃に戻りたくて本当に人生を呪った。
好きでパニック障害になったんじゃないと、かなりひねくれました(^〜^;)
でも、今は素敵な彼氏に出会って本当に励まされています。感謝してます。
そろそろ夢を持とうと、過去より未来に生きようと思いました。
夢を持って、今を生きたいと思いました。
まだまだ症状は辛く、外出困難、吐き気、恐怖など色々あります。
でも「幸せは自分でつかまないとね」と思います。
待ってても幸せは来ないから。のんびり、のんびり、探せたらいいなと思います。
落ちたり上がったりと本当に振り回されると思いますが、頑張るのに精一杯だと
思います。死んだ方がましだと思う日もあるかもしれません。
でもパニック障害に生きる人生ではなく、人生の1部分がパニックなのです。
辛かった分、遠回りした分、絶対幸せにあたしも皆さんもなると信じてます!

あや


(04.4.3 海枕さん投稿)
私の昔の体験。
同じ症状で困っている方、是非これ読んで勇気をもって欲しい。
それが病気であったか今でもわからない。
離人症というものだったかもしれません。
不安でよく冷や汗が出たものでした。
自分が狂ってしまったかという不安でした。
その症状は、中学2年で家が引っ越した頃でした。
それまで当たり前と思ってた感覚がなにか妙に思えました。
自分の体がそれまでと違って変に感じ、
異次元みたいな心の状態になったのです。
手足が他人の物ような気がして、考えれば考えるほど気にな、夜も寝付けないでした。
自分の体と意識が当たり前でないと感じはじめたのです。
誰にも相談できず近くの内科を受診しました。
その先生から「君は悩んでないか」ときかれ答えるのも怖く、悩んでませんと
嘘ついて、二度と病院はいきませんでした。
それから数年間、変な感覚との格闘しました。
「どうもない、どうもない」と自分に言い聞かせる毎日でした。
しかし高校生になってクラブに専念したころから不安が少しずつ減ってきました。
せめてもの救いは同級生に症状を打ち明けたらクラスに同じ感覚に苦しんでいた人が
二人もいたことです。
自分だけじゃないというのが、本当に一筋の光明のように感じたのです。
それから10年近くがたち今ではその変な感覚に苦しむことはなくなりました。
たぶん日本中に同じ症状で悩んでいる方が今もおられると思います。
その頃心療内科に受診していたら、苦しい心の状況からもっと容易に
脱出できたのかも。
何か辛いことがあれば、あの時を自分は乗り切った自信を感じて
いろんな乗り越えていこうという気になってます。
私は身を持って学んだと思っています。
あの自分や世界が崩れていく辛い感覚はなんだった?、
専門的な人なら分かるのかも。
同じ感覚で悩む人に体験記が役に立つことを願います。


(04.3.19 「おばさん」投稿)

このホームページと出会って、何度目の春を迎えるのか・・・本当に長い間お世話になっています。この掲示板で出会った皆様、このホームページを作って下った管理人さんに感謝しております。おばさんの名前で、本当に長い間をいろいろな方達と言葉を交わし、情報をいただき支えてもいただきました。 人の言葉は、それが文字に変わっても力があるとそう思います。おばさんが、自律経失調症という病名をつけられた時、「この病名は、医者のごみ箱」って言われました。14年くらい前のことです。病気であって、病気ではないような捉え方だったように思います。
今、思えばこの時にきちんと病院に通っていれば・・・と、まだ心療内科などという病院はなかったように思いますが。
その2年後、子どもたちを乗せている時に車の中で「過呼吸」の発作を起こしました。『息が出来ない』
 あわてて近くの病院に駆け込みました。おばさんの話を聞いた先生は、分厚い専門書をめくり、
「○○○かも・・・」と、かなり恐い病名でした。で、近くの神経内科に紹介状を書いてくれました。
そこで色々な検査を受けましたが「○○○では、ない」と。
でも突如として起こる『息が出来ない』
それからは、ドクターショッピングです。今思うと、あまりに専門的な病院にかかったためかもしれませんが
どの病院でも「別に異常は、認められない」 
当たり前ですが、そのときのおばさんの環境や気持ちを聞いて下さる、また話すことはない病院でした。
どこにも異常はない。自律神経失調症を病気だと思っていなかったこともあって、体の事は無視しました。
子供たちも幼く、夫をガン、それも病名がころころ変わる中での死、
母は気持ちを保っていられなかったのでしょう、子供に返っていました。
その2年後、会社の後継ぎでもあった義兄を殺人事件で亡くし、主人もショックで・・・。
「私が、しっかりしなくては」「私だけは、しっかりしなくては」そう呪文のように言い聞かせておりました。
父の3回忌を終えた頃から、母が落ち着いてきました。
それを合図にしたように、症状は悪化をたどっていきました。
もう立っているのもつらい。毎日のように見る悪夢。夜眠るのが恐くてたまりませんでした。
で、夫や子どもたちを学校に送り出して眠る。子供たちが学校から帰って来る頃起きる。
日中逆転の生活でした。いつもイライラして・・・突然の息が出来ない。洗濯物も夜中、お掃除も・・・
何かの行事の時だけは、無理をして出かけていきましたが、体を引きずってでした。
でも、病院にかかろうとは思っていませんでした。父の病名のころころ変わった上での死、ドクターショッピン
グなどで、お医者さんを信じられなくなっておりましたから。症状を話し市販のお薬を飲んでいました。
ある日、息が出来ない、手の痺れ、口の麻痺、足はガクガク、それ以上に『死んでしまうかも。狂ってしまう」
とても強い不安感、恐怖感を味わいました。さすがに次の日、夫に頼んで大きな病院へ・・・
そこの受付で、どうなさいました?の質問に答えると「それなら、精神科に行きなさい」と、一言。
足元が崩れていくようで、泣きながら「もう、帰る」と、そう夫に言うのが精一杯でした。
まだまだ、精神科に対する偏見が、おばさんの心の中にあったのです。また、義兄を殺した犯人は
精神科を出たり、入ったりの人だったのも、その気持ちに拍車をかけたのだと思います。
もう、終わった。そう思いました。
でも、症状が強くさすがに市販のお薬・・・とは、考えられませんでした。
そこで、以前お世話になった神経内科の先生を思い出し、病院へ。
先生のほのぼのしたお顔を思い出してでした。
追い詰めれていたわりには、いいかげんな動機ですね。
そこで初めて「過呼吸症候群」や「不安発作」の病名を知ることが出来ました。
また、初めて「最近、何かストレスを感じたことや、環境の変化がありましたか?」と・・・聞かれました。
それまで、「ストレス」なんて考えたこともなかった。
それからは、「過換気症候群って、何?」「不安発作って、何?」「そもそも自律神経って、何?」
自分の病気の正体を本気で知りたいと思いました。
多分、まだお医者さんを信じていなかったのかもしれませんが。
その頃には「予期不安」も始まっておりました。いつも不安感があって行動も狭まっていました。
この頃は、先生を質問攻めし、本を読みあさりしましたね。でも知識として入ってきても実感はなく、
心にも響いてこなかったなぁ。
当たり前のことが出来なくなっていました。あまりに当然のようにしていたことが・・・。
そんな自分に罪悪感や嫌悪感を感じていました。家族には、こんな妻、母親なら、いないほうが・・・
そう勝手に思い込んでいました。
その頃、自分を傷つける・・・リストカットを数回。不甲斐ない自分を罰していたようにも思います。
下の息子が、傷ついた手をさすってくれました。その仕草を見てこれだけはしてはいけない。
そう強く思いました。
その頃、ここに出会いました。ある日、なにげなくテレビを見ていると・・・パニック障害の番組が
「え、それって、私」と。
その番組では、パニック障害の人たちが、パソコン、インターネットを通じて支え合っていると・・・。
それまで、誰にも言えず、いた不安感をわかってくれる人たちがいる?
この恐怖感をわかってくれる人たちがいる? わらにもすがる思いでした。
おばさんを本気でこの病気と戦わなくては・・・の思いにさせてくれた娘のことを慣れないキーボードで打ちました。
誰がいて、誰が読む。そんなこと思っても見なかった。ただ、自分の気持ちだけを・・・
少しずつ慣れて、やっと皆さんの投稿なさったものを読めるようになりました。
辛いのは、苦しいのは、自分だけではないことを知りました。
おばさんに宛てて書き込みをしてくださる方を知りました。
それにお返事を書く(打つ?)文明オンチのおばさんには、インターネットはよくわかないので、こう想像しました。
心身症の人たちが集う部屋があって、そこにお邪魔している気持ちになろう・・・と。
そこで、集っている方たちとお話をしているのだと・・・。
こう思うことで、気持ちが楽になって書き込みが出来る様になりました。
ここで学んだことは、おばさんにとって本当に大きかったんです。
専門医を受診できたのも、ここで出会った方のお陰でした。
症状をどう考えるか、病気をどう捉えるか、自分の病気と向き合うことは、自分と向き合うこと。
自分の過去と向き合うこと。そのきっかけをたくさんの方からいただきました。
また、今の自分をありのまま受け入れること。
この頃から、自分の読んだものが、心にも入ってくるようになり、その他にも気持ちが楽になるような音楽や詩集、
アロマ、絵、有酸素運動、歌を歌う、などに興味を持ち、試していました。
もちろん病院にはかかっておりましたし、お薬もいただきながら行動療法、認知療法も取り入れ
少しずつ、行動範囲を広げていきました。自分を恥ずかしいくらい褒めていた頃です。
不思議なもので、療法、療法、と力が入っていた時よりも、自分なりの楽しみや、
これがしたいからこれが見たかったの・・・の方が進みが速かったような気がします。
体調日記もどきは、おばさんのストレスの傾向を教えてくれました。
緊張と緩和の移行が苦手なことも。また、生活のリズムをなるべく同じにすること。
今でも12時までには寝るを心がけております。
病気と上手く付き合うことは、自分自身と上手に付き合っていくことかもしれません。
自分の性格、物の考え方、感じ方、表現の仕方などを考える、きっかけをいただきました。
病気は、辛いけど、これまで気づかなかった、当たり前だと思ってきたことをありがたいと思うようになりました。
発作の前兆にここを覗いた時、楽しい書き込みに思わず大笑いしたこと。お散歩の風景を書いて下さった方。
自然に目を向けさせて下さった方。時々で会話をかわして下さった方たち。
子育てに指針を下さった方。本当に感謝しております。
最後になりますが、ここでおばさんがとても印象に残り、また励みとさせていただいた言葉を
  「原因があって、結果があるのよね」  「止まない雨は、ない」  「生き直す」  
 そして、
  「病気が治るってことはね、元の自分に戻るってことじゃなかったのよ。新しい自分になるってことだったのよ」
この言葉は、本当に励みになりました。この病気からも何かを学びたい。何かをつかみたい。
そう思えた言葉でした。  今は、卒業なさったあなたに 感謝。
なんだか、体験記にもならなかったような気がします。克服でもないし・・・。
パニック障害になって・・・おばさん自身が「頑固モン」だと知りました。(笑)
毎度のことですが、文字のうち間違い、変換間違い、おかしな文章、お気持ちで読んで下さるとありがたいです。
って、ここでもいいのかしら・・・。
                         
            おばさん  (^0_0^)



              (03.11.8 すうさん投稿)
   以前、ここのHPの掲示板でお世話になっていた、すうです。
   私の体験が、少しでもみなさんのお役に立てば・・・と思い、ペンを取るに至りました。
   大学院生になったばかりの、1999年5月中旬、
   突然襲われた、激しい吐き気と肩こり。
   私は様々な内科を転々とし、最終的に辿り着いたのが、地元にある心療内科でした。
   2000年2月のことです。
   その心療内科で私は、大学院生になって始めた一人暮らしの孤独感が原因で、
   こんなにも体調不良を引き起こしていることを知りました。
   私は大学生の時は、大学寮で共同生活を送っていたのですが、
   大学院生は寮に住むことが出来ないので、
   大学の近くの下宿で一人暮らしを始めました。
   一人暮らし、その上に友人たちで大学院進学者がほとんどいず、
   さらに研究室で同期が誰もいないという、
   孤独感を感じさせる要因は、十二分にありました。
   寂しがりやという自分の性格も、原因の一つだと思います。
   心療内科に辿り着いた時点で、吐き気の為に食事は摂れず
   体はガリガリ、肩こりというレベルを越えて、肩と首は激痛。
   強迫観念症も併発し、この言葉を言ったら、この言葉を紙に書いたら、
   自分の人生がめちゃくちゃになる、そう常に思い続けてて、
   「あの時に、言ったんじゃないか?」 「あの時に、書いたんじゃないか?」
   そう思って、苦しみました。
   そして同時に、月経前緊張症、月経困難症にもかかっていて、
   そうでなくても体調が悪いのに、月経前後は輪をかけるように
   体調不良に苦しみました。
   もう、大学院での研究も続けられる体でなく、
   大学院を中退することを考えたのですが、
   主治医との診察により、やはり自分が「大学院を卒業したい」という意志を持っていること、
   そして主治医からの、「今大学院を辞めたら、辞めたことを後悔して、今以上に
   病気が悪くなる可能性がある」との言葉により、
   薬を服用しながら、血を吐く想いで大学院を卒業しました。

   本当は大学院を卒業したら、都会でやりたい仕事があったのですが、
   卒業が決まった時点でもちろん、都会で一人で残れる状態ではなかったので、
   卒業したらすぐに、地元に戻ってきました。
   地元に戻ったらすぐに病気が治るというわけでもなく、
   戻ってからも、引き続き心療内科に通いました。
   体調不良と、強迫観念症。
   この病気のせいで、もう自分の人生終わっている、
   早く治りたい、それだけでした。

   そして今年の2月、少しばかり、
   体調不良と強迫観念症が和らいだかな?というのを感じました。
   さらに6月、例えるならば、長い長いトンネルを抜けたような、そんな感じで、
   病気から解放されていく自分を感じました。

   この4年間は病気の渦中にあり、本当にシャレにならない状態でした。
   しかしこの病気を克服して、人生の素晴らしい部分を経験できたと思います。
   病気の時は、こんな風に前向きに考えられないのは、私自身よく分かります。
   でも、こんな絶望の淵にあった私でさえ、こんな風に思えるようになるのだから・・・。

   この病気は、まるで台風のようです。
   突然襲われて、抵抗するけれども、それも無力で、
   そうしているうちに、過ぎ去ってく。

   みなさんも私みたいに台風が過ぎ去るときが来るので、静かに時を過ごしてください。
   今、自分の病気が客観視できるようになり、
   こうして文章に著すことができました。
   大学を卒業して、全国に離れ離れになったのに、
   遠くから私を心配してくれた友人たちに、今、
   「元気になったよ。」と、書面を出しているところです。

   みなさんの病気が少しでも早く治ることを、願ってやみません。
   私のこの体験記が、少しでもみなさんの力になれたら、幸いです。
                                



                (03.10.11 ユミさん投稿)

       はじめまして。現在26才のユミといいます。
       私は小学生低学年からイジメに遭い、それを担任の教師に見て見ぬふりをされてから、
       人間不信だけではなく、自分さえも信じることが出来なくなりました。
       それ以降、人との関わりを避け、家族との会話も強がりや嘘ばかりが目立つようになり
      ました。
      人と目を合わすことが出来ず、友達も出来ずに学生生活が終わり、就職をしても緊張や
      過呼吸が起こり、未だに長く続きません。
      自殺願望も芽生え、1度だけ筋のような浅い傷ですが、手首に付けたこともあります。
       初めて自分の不調を母親に打ち明けたのは22才の時でした。
      緊張やパニックや幻聴、妄想などだいぶ症状が出てからです。
     それでも、なかなか理解はされませんでした。
     目に見えない心の病気を人に伝えるのは難しいことです。
     20代が終るのに近づき、生きることに恐怖感や圧迫感を覚え、
     今年に入り心療内科に通院を始めました。
     今も何も克服はしていません。
     自分自身何も変わらずに過ごしています。
     しかし、ひとつだけ朗報があります。
     悲しいとき、苦しいとき、寂しいとき書き綴ってきた詩を本にして出版しました
     その本を見て、母親が少しだけ、私の気持ちを察してくれたように思えます。
     そして私を少しだけ、「自慢の子」と思ってくれたみたいです。
     今は少しでも早く克服できるように頑張りたいと思っています。
     そして、母と旅行でもしたいなと思っています。



               
   リストカットと自殺願望について (卒業生さん)  03年 7月 9日(掲示板から抜粋

         死ぬのは簡単?
         死ねば楽になれる?
         「死ぬ」ことは簡単でも楽でもありません。
         生まれる事より勉強する事より仕事する事より出産する事より「死ぬ」ことは大変な事です。
         体の機能を停止させる。
         体中の細胞がそれに抵抗して「生きよう」とする。
         その闘いは壮絶なものです。
         ものすごいエネルギーを使います。
         自殺には楽な方法などひとつも無いんだそうです。
         どれも苦しみ、醜く、周りに多大な迷惑をかけるんだそうです。
         ですから、どうか安易に生きる事をあきらめないでほしい。
         奇麗事ではなく実体験としてね。
         リストカットを自分の力でやめるのはとても大変な事です。
         でも、やめようと努力する方法はたくさんあります。
         (前に「おばさん」が言っていましたが)輪ゴムを手首にはめてパチンとはじいてみる。
         氷を握ってみる。
         赤いボールペンで手首に線を書く。(リスカの疑似体験)
         かつおのたたきを包丁で切る感覚はリスカと非常に似ているのでそれもいいかも。(実体験)
         などなど・・・。
        でもやはり、一人でいない事が一番でしょう。
        おっくうでも靴を履いて外に出てみましょう。
        人の多い通りの真ん中で手首を切る人はあまりいないはず。
        皆、自分の部屋で一人でやるものですから。
        外に出る事が出来なければ、電話して友達や家族に来てもらいましょう。
        仕事を早退してでもいい。
        それだけ重大な事なんだという事を分かってもらいましょう。
         ことが起きてから分かってもらっても遅いのです。
        体が傷つくのは一瞬。
        でもその傷が治るのには何倍もの時間が必要です。
        リスカしても何の解決にもならないと、頭では分かっていても心に響かない。
        でも、いつかきっと心でわかることの出来る日がきます。
        心の病気を患っている人の中にはこうして言葉にすることの出来ない人もいます。
        ここの掲示板でお話できてらっしゃる皆さんは治る希望がある人たちなんだと思います。
        ここの掲示板卒業生として私の言葉が少しでも皆さんのお役に立てればと思い投稿しました。
        気分を害されるような文面がありましたらお詫びいたします。



                      (03.6.5 ふみこさん投稿)
     掲示板でお世話になりました、ふみこです。
     1ヶ月前153錠という大量の薬を飲み、リストカットをしてから今まで、不思議な
     事に精神的にかなり落ち着いてきました。
     ODもリスカも、いい加減限界ぎりぎりまでやってしまったからでしょうか。1回死ん
     でしまったと思って開き直っているみたいです。
     薬もまったく飲まなくなり、自分が病気であるという意識さえなくなりました。
     自分が病気である事を嘆くより、健康になりたいと心から願う事が出来るようになっ
     たから前より前向きになれたみたいです。
     義理の母が入院してから、余計に心を強く持つよう心がけるようになりました。
     もう時間の問題という厳しい状況に立たされて、最後まで見守るために自分の出来る
     事は出来る限りしなければと心に決めました。残り少ないであろう時間を大切にした
     いのです。
     毎日病院へ通って献身的に介護する父と弟は精神的にも肉体的にも疲労しています。
     せめて家では心穏やかにいられるようにしてあげたい。だから、まず自分がしっかり
     できる状態でいなければならないから、周りに心配かけないように日々自己管理をす
     るようになりました。
     苦労は経験したぶんだけ自分を強くするかもしれない。でも、辛い経験は嫌ですね。
     でも、遅かれ早かれ誰もが経験する事だから、自分の周りに起こる状況の変化に柔軟
     に対応していかなければなと思います。
     自分の心の中の変化にも冷静に目を向けられるようになりました。
     以前は子供と過ごす時間は苦痛でした。知らず知らず、必要以上に自分にプレッ
     シャーを与えていたからだと思います。今は子供と過ごす時間を楽しめるようになり
     ました。
     主人との関係においても、私の心の中に変化はありました。
     男女の差はもちろん、今まで他人だった相手と生活する限り理解し得ない部分はどう
     してもでてきます。それが私の中で不安でした。自分のすべてを分かってほしいと
     思っていたし、主人の事もすべて理解したいと思っていました。でも結果、わたしが
     主人におんぶする状態になり、彼には大きい負担をかけてしまいました。理解し得な
     い部分があったとしても、それが愛情の欠落に直接結びつくわけではないし、自分の
     考えを押し付ける必要もないし、受け入れようと努力する事自体それだけでいいので
     はと思い始めてから、心が軽くなったような気がします。彼も今はお母さんのことで
     辛いと思うからそっとしてあげようと思っています。
     病気を治したいと心から思うことが大切だと身にしみて分かりました。退院後調子が
     良くなった2月ころより、今のほうが状態がいいと自分で感じます。だから、この先
     またガクっと落ちる事があっても、そこから這い上がったとき今より良くなれるとい
     う確信があるから、とにかく自傷行為だけはしないようにしていけば、完全にこの病
     気を克服する事が出来ると自信がもてるようになりました。
     何より、心から「健康になりたい。幸せになりたい。」と思うから、そのための努力
     をしていきたいと思います。家族全員が健康でないと幸せに生活できないと思うから。
     これからも自分と家族の健康を守り、生きている事に感謝しながら生きていきたいと
     思っています。そして、優しくたくましい人間になりたいと思っています。



                 (03.5.15 バクさん投稿)
  私が初めて心身症だと思われる症状が出てきたのは、かれこれ3年前だったと思う。
  精神的な病気が存在する事は勿論知っていたが、くわしい事も、病名も知らなかった。
    当時、私は仕事の鬼の様に毎日仕事に明け暮れ、上司のイビリ、
  その他色々事で嫌な思いは沢山していたが、
  仕事が好きなあまり、何よりも、仕事を優先していた。息ぬきの時間を持とうなんて、頭にはなかった。
  それは、
  今思えばとても大切な時間であったに違いないのだが、無駄としか思えなかったのだ。
   そのうち、朝起きると吐き気が始まった。起きる事が、しんどく、体が思う様に動かない。
  会社は、遅刻した。
  その分、頑張らなければと、又遅くまで仕事をする。
  でも、疲れているのに、寝付けない。不眠の始まりだった。
  さらに、体が動かない事が1日の中で占める時間が増え、
  仕事はたまる、気にはなる、でも動かない。
  悲しくて悔しくて涙が止まらない。それによもなって、激しくなる上司の苛め。
  原因不明な腹痛で、産婦人科に入院。
  原因はやはり不明。体のいたる所、異常なし。
  救急車で、気分が悪いと運ばれても、結果は同じ。。
  最終的に、手を唯一差し伸べてくれた先輩が、貧血検査に連れて行ってくれた内科で、
  「心療内科」を紹介され、縋る思いで駆け込んだ。
  それが、今も通院している病院なのだが、
  「君、何でもっと早くこなかったの。鬱病通り過ぎて躁鬱になってるよ」・・
  診断書は、鬱病・不眠症となっている。
  初めて原因が分かり、これから治療して、元に戻るならばという安堵感から
  先生に今までの話しをしながら、沢山泣いた。
  私は、あの先輩と、内科の先生にも感謝している。
   
   仕事は指示通り、休職した。しかし、その間も家で仕事をしていり、あまり休めず、
  何もかも悪い方に考え、悪化していった。
  結局退社して、しばらくも、恨みや、色々な感情が混じり葛藤は続いたが、
  心身症の本を沢山読んだり、憎しみは哀れみに変えるしかない、
  というある尼さんの言葉をテレビで見て、少し楽になった。   
   自分に対しての、焦りや、苛立ちは長らく続いたが、
  自分が更に辛くなるので、自信がない時、
  マイナスに考えてしまう時、自分を責め過ぎてしまう時、
  そんな時は、新聞で見た「認知療法」をしている。
  簡単に言えば、自分を他人に置き換え、自分だったら、どうアドバイスするかとか、
  自分を少し離れた所から考える事だと私は解釈しいている。
   今だって、波はあり、先は不安だ。
  だが、不安は不安を招く。ここの掲示板で、人のアドバイスや、色々な話を聞き
  興味のある事を見つければ、
  それをしてみる事で気分転換になる。不安な時間は後回しにして、
  今は楽しい時間を探す様にしている。
  ちなみに、私の場合は園芸であるが、楽しいと思う事は人それぞれであるし、
  今は散歩できる事、ご飯が食べる事、
  当たり前の様で、出来なかった事ができる事で、
  色々な事や自然や、人に感謝する様に前よりなった。
  それに、他の方も言われていたが、忙しく社会の早い流れの中で、
  忘れていた事も沢山思い出す事もできた。
  そういった点で、私は苦しいけれど、良かった事の一つと思う。          
   乗り越えた時、何もなかった1年と、苦しんだ1年では、
  人として大きくなっているに違いないと信じている。
  この病気と共存していく事になっても、それはそれで、自分を受け入れようと思う。
  無理に前向きになる事もない、
  必要以上に悲観的になる時は、客観的に自分を置き換える事。
   そして、楽しい時間を見つけ、夢中になって楽しむ事。
  最近それを続ける事によって、随分良くなってきた。
  部屋中をグルグル回り、紙を引きちぎり、泣きわめいたあの頃に比べたら、
  随分。。。解らない人には、わからない。解る人には解る。
  わからない人の無神経な言葉で、傷つく事沢山あるけど、仕方がないと今は思っている。
  解ろうとしてくれる人がいる事が、有難い。
  痛みの解る優しい人の方が、強い人だと思っているし、
  そういう人の方が私は好きだ。


       (03.4.14 匿名さん投稿)
       一歩前進
  
    いつも同じ壁の前で立ち止まっていたんだね

   「このままじゃだめだと思うんだ」

   『それって、このままでいいってどこかで思ってる言葉じゃない?』

    『まずは、変わるって変えるって決めることが大切』

     そのとうりだと思った

     私はもっと自分を信じて期待して愛してあげていいんだね

     桜梅桃李・・・桜はさくらの美しさがあり梅は梅の美しさがある

    私はわたしのゴールめざし

    まずは、いっぽぜんしん!



                  (ふみこさん  03.4.14 掲示板より)

前にも言ったけど、私リストカットで両手首70針縫って実質強制入院したのね。
今は入院したおかげでだいぶ回復してリスカしようなんて思ってない。
一生消えないこの両手首の傷は、私に大きなハンディを残したの。
子供はまだ小さいから、お母さんの手にはなんでしましまがいっぱいあるんだろう?って思ってるみたいだけど、この傷の意味を知る年齢になったとき必ずトラウマになるって覚悟してる。
自分の大切な子供の心に大きな傷を作ってしまうって・・・。
それに、この傷は多くの人からの信用も失うよ。
わたしはもう、外に働きに出ることは出来ないの。この手首を人前にさらして仕事していいなんて所なんて無いもの。
これから出会う人たちも、この傷を見て私から離れてしまうかもしれない。
偏見と好奇の目に耐えながら日々くらしてる私の気持ち、分からないかな。
私は一生この傷跡をかかえて生きていかなきゃいけないんだよ。
これからの一生、可能性を半分削られてしまったの。
それを自覚したとき、どんなに辛くて後悔したか・・・。今の○○さんには分からないよね。
どんなに辛くても、自分の体に感情を発散させて傷つけるようなことは、絶対に絶対にしちゃいけない・・・!!
きついこと言っちゃってごめんね。
でも、同じ母親の立場からどうしても○○さん自身と子供さんのことを考えずにはいられなかったの。
この病気は、お薬やお医者様、そして家族の力なしには治せないけど、最終的には自分で病気に立ち向かっていかなきゃいけないの。
怖くても、○○さんには入院が必要だと思う。
外の世界のプレッシャーやストレスの無い環境に身を置くこと。それから、刃物の無い自分の身を守る環境に身を置くこと。その2つなしには、○○さんは今の状況から脱することは難しいと思う。
自分では、入院なんてゴメンだ!!って思うでしょ。
私もそうだった。
だって、自分の状況がきちんと把握されてないんだもの。
本当にこの病気を治したいと思うなら、自分の体を傷つけずに済む方法を考えようよ



          (03.2.4 KOUさん投稿)
みなさんの体験を見て、改めて私だけが苦しんでるんじゃないって元気がでました。
私は不安神経症(PD)を持って4年になります。
大学を卒業し、東京の会社で営業に力を燃やそうと必死だったとき、通勤電車で発作を起こしました。
通勤に2時間かかっていたのですが、小さな発作であっても「大丈夫!大丈夫!」と
自分に無理な励ましを続け働きました。
営業箇所は首都圏全体で、一人で電車に乗るのが怖くて怖くて、仕事の不安もあって、
ご飯ものどを通らず、吐き気がひどく、カバンに常に水と吐き袋を持ってまわってました。
でも、我慢の限界が訪れ、帰宅途中の電車で強い発作。死ぬんじゃないかという恐怖感が襲ってきました。
そういうときは次の駅がとても遠くに感じ、閉所恐怖症みたいにひどく圧迫された気持ちでした。
着いた駅の売店に助けを求め、救急車で運ばれました。
ただ救急車に乗るのさえ怖く、病院のベットでもじっとしてられず、(何が起こってるの!)っと思うだけでした。
両親が1時間後くらいにようやく到着し、母に「精神科に行ったほうがよいかと思います」と言ってました。
父は私に「社会人にもなって、自己管理もできないのか!」
などなど怒鳴り、車に無理に乗せられました。
乗るのが怖いながらもせめて窓を開け、高速で帰りました。
会社には風邪ということにしておいたのですが、
ついに好きだった車も閉じ込められる感じがして乗ることが怖くなっていました。
母に精神科へ連れていってもらいましたが、待合室のいすも電車の椅子を連想させるようで震えていました。
とにかく先生を信じ、薬は絶対効くんだ、もう安心すればいいって思うことにしました。
会社をクビになる覚悟で多少治るまでと、休みました。
もちろん、会社はいい顔などせず、「電車に乗れない?!そんなばかな!それじゃ何
もできないじゃない!とにかく治るまで来なくていいです」と呆れていました。
まず車で病院にいけるようにし、毎朝会社のときと同じ時間に起き、電車に乗る練習
しました。駅に行くことからホームに近づくこと、電車を見ること、1駅1駅少しず
つ乗る量を増やしていき、発作の起こった駅の手前までいけるようになりました。た
だ、その発作の起きた駅に近づけなかったんです。
さらに毎晩、夜中冷や汗かいて起きてしました。
夜も怖い、家にいるのも怖い、外も怖い、発作を起こすと父に怒られる・・・。
目には見えないところが苦しいため、わざと体を傷つけたりして、こっちの痛みのほうが
どんなにいいかって思いました。
精神科の先生は焦っちゃだめだよって、必ず治るからといつも言ってくれました。
3ヶ月くらいたったある日、昔から自律神経失調症で悩んでいた高校の友人とたまた
ま連絡をとり、私の気持ちを分かってくれた嬉しさで、その勢いでその友人に会いに
東京に行ってみました。乗らなきゃいけないという気持ちが、乗っていこうという気
持ちになり、東京まで乗れるようになりました。それから完治したわけではありませ
んが、苦しかった日々から少しずつ開放されていきました。
精神科には1年通い、今はときどき弱めの安定剤をもらっておき、疲れていたり、新
しい環境で不安になったり、映画や会議など簡単に外に出られないときなど、なんか
心が宙に浮くような圧迫されるような嫌な感じで、発作が起こりそうなとき飲むようにしてます。
そして大きく深呼吸し、少しでも落ち着かせることができるようになりました。
完治することができるのだろうか・・・と思うときもありますが、とにかく自分を楽
しんで無理させないようにしようと思います。(といっても、性格上頑張ってしまう
のですが・・・(^^;)今は職場を変え総務をマイペースでやってます。
彼にはやっぱり電車が苦手なことはなかなか理解してもらえません。
ただ、私は最近心の病気で悩んでいる友人や家族が多いので、自分の経験から少しで
も救ってあげようと、精神科に対しての不安、自分のリラックス方法などの相談に乗れるようになりました。
そういう意味ではよい経験だったと思います。
辛いことも楽しいことも、すべて生きてるうえで意味があるんじゃないかなって思いました。
                                                             (KOU)
                         _________________________________________________________________


        私なりに思うこと    (03.1.24 さくらっちさん投稿)

   初めて過呼吸を起こしたのは、もう10年前の事。
  それ以来「病気」との付き合いが始まりました。
  ここの掲示板でいろんな方といろんなお話をして、それまで行かなかった病院にも行くようになって
  約1年が経ちます。
 
  その中で、私なりに思った事。
   まず「病気を完治させる」という事を諦めました。
  諦めると言っても、決して後向きな考えではないです。
  そう思う事で焦りがなくなり、楽になりました。
  でも、どうすれば自分の「身体」や「心」は調子のいい状態でいられるのか考えました。
  そして、病気の波と上手に付き合う事を考えました。
  言葉ではうまく表現出来ませんが、「なるようになる」と思って開き直る事の大切さとか、
  時には甘える事の大切さとか・・・。
 
  それと、苦手なモノを少しづつ克服出来るようにしようと思いました。
  電車・街中・夜の道・・・。
  調子の悪い時に無理して克服しようと思うと逆効果なので、調子のいい時に少しづつ少しづつ・・・。
  ひとつひとつ克服する事で、自信につながります。
  自信につながれば、病気の状態も良くなっていきますよね?
  でも決して無理をする必要はないと思います。
 
  今も時々悪い波に襲われる事もありますが、焦らず、自分を卑下する事なく、
  なんとか「病気」と付き合っています。そして向き合ってます。
 
  そういう風に思えるようになったのも、ここの掲示板で出会った多くの方のおかげです。
  掲示板の皆さんも、ここで何かを得られればと思います。
 
    
 

      パニック障害体験   (02年11月27日 桃さん投稿

以前から、たまにお邪魔しておりますロサンゼルスの桃です。
私のPD体験記を過去に載せて頂いておりますが、
最近になって大きな進歩があり、ぜひ皆さんと
分け合っていたくて、投稿しているしだいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PDを発症して3年と4ヶ月が過ぎようとしています。
私のケースは重症でした。2、3日に一度は
起こす大発作、朝起きた瞬間から寝るまで、一時も頭から
離れることのない不安と恐怖。ひどい時には
水を飲んだり、空気を吸うことすら怖くてパニックを起こすほど。
これらの症状が、生理の前後になるとさらにひどくなりました。
しかも、皮肉なことに、薬物に極度の恐怖があるため
一切の薬が飲めませんでした。
残された道は、ただひたすら「耐える、自分にできることをやる、
前向きに過ごす」のみ。持ち前の前向きな性格と
めげない精神のおかげで、なんとか悲観や絶望せずに
生活を続けてきました。
薬の飲む以外、あらゆることをマスターました。呼吸法、
自律神経訓練法、日記、プログラムで学んだ自己暗示と前向き思考、
ノンカフェイン、ヨガ、ウォーキング。
これらは、大きなヘルプになっていたし、だからこそ
絶望せずに生活が保てていました。(軽症ならば、それだけで
治ってしまうかもしれません)
しかし、重症の私のケースでは、24時間絶え間なく襲ってくる不安を
それらで防ぐことは出来ませんでした。
絶望はしなかったものの、「これは、一生つきあっていかなきゃならない
お荷物なのかも・・」と、3年すぎた頃から、あきらめの気持ちが
でてきていました。 そんな時です。
ふと気づくと、あれほどつきまとっていた「不安と恐怖」が
和らいでいる。不安な方向に考えが行っていない自分に気づきました。
あれほどつらかったPMS(月経前緊張症)に伴う精神の不安定も
うんと楽になっている。なんだかやけに好調。
「きっと何かの偶然でしょ。またどうせ、ドつぼにはまるんだから。
アップダウンはいつものお決まりだわ・・」と喜びも
しませんでした。でも、どうも妙。その状態が2ヶ月も3ヶ月も
続き始めたのです。
これは何かあるに違いない、と思い、ここ半年くらいの生活で
「何か変わったことをしたか?」と、考えてみました。
“違い”と言えば、「完全菜食」になったことくらい。
でも、まさか?? まったくの倫理的な理由から
菜食になったので、健康上のメリットは、考えてもいませんでした。
ましてや心の障害と、食べ物なんて。メリットどころか、
「こんな病弱、PD持ちの私が菜食なんてやったら、
さらに弱ってボロボロに・・」と心配していたくらいです。
完全菜食になる以前も、たっぷり野菜は摂っていたのだから、
それがPDの回復につながるとは、考えにくい。
でも、どう考えても、菜食くらいしか生活で「変ったこと」がないので
いろいろと調べてみました。
素人判断ですが、肉と乳製品に替わるタンパク質源として、
大量に摂取するようになった大豆食品が、どうやら良因のようです。
大豆には、エストロゲンという女性には非常に重要な
ホルモンが含まれていて、この大豆のホルモンが私の
「薬」になったようなのです。
さて、実際私がどのような「大豆食品」を摂っているか、ですが
アメリカでは、菜食系の食品が入手しやすく、豆乳はもちろん、
大豆で作った“フェイクミート(代替肉)”や
チーズ、ヨーグルト、バターなども、大豆で作られた代替品が
あるので、積極的にそれらを使用しています。
昼、夜のおかずも上記の“フェイクミート”や豆腐を使った料理が中心、
おやつには、ソイ(大豆)アイスクリームや、えだまめなどをよく食べます。
簡単に言うと、今までの『肉と乳製品』の場所に、すべて
「大豆」がのっかっているわけです。
まさかこんな形で、PDの苦しみが激減するとは、夢にも
思っていませんでした。薬が飲めなかった私にとっては
まさに「薬膳」。天からの贈り物とでもいう感じです(笑)
エストロゲンは女性ホルモンなので、男性には
効果は無いのかもしれませんが、生理を抱える女性にとっては
自律神経、ホルモンのバランス、精神状態はツーカーの仲。
心身症に苦しむ女性達に、朗報をお伝えしたくて書きました。
日本では、菜食系の食品は手に入りにくいかもしれませんが、
ネットで検索すると、いろいろあるようですから
ぜひとも、上手に大豆食品を取り入れてみてくださいね。
ただし、上記したように、私の場合は“鬼のような量”の
大豆ベースの食生活になって、はじめて効果があった・・と
いうことを明記しなければなりませんが。。
皆様の心身の回復を心より願って、今回はこの辺で。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
栄養士でも医師でもない、ど素人の私が
不適切なことを書いているようでしたら、どうか無視して
くださいませ。
これからも、先生のご活躍とHPの発展を
心よりお祈りいたしております。


       愛すること (02年11月24日 ○井○○さん投稿A 

私の好きな彼は いつも私の心をあったかくしてくれる
彼にふと聞いた 「人を愛するってどういう事ですか?」
彼はこう言った 
「その人の嫌なところも受け止めてあげる・・その人を包み込んであげること。」
 
人を愛すること 友達、家族、恋人etc・・・
人は違うけど 私は  みんなを包み込めるような人になりたい
 
苦しみも 痛みも ココロの傷も 弱さも
 
愛することは 愛いせないところも受け入れること
愛することは 相手を認めること
 
コトバよりも大切なホントウの愛を 私は見つけたい

      ココロ (02年11月24日 ○井○○さん投稿@)

最近気づいた 自分の心に鍵を掛けてだれにも開かなかったこと
鍵は簡単に壊せたはずなのに・・自分で壊す事から逃げていた
いつもニコニコ笑う私 「ほんと香澄ちゃんは面白いね。」
ニコニコ笑いながら 本当は泣いていた・・・ ドウシテワラエルノ?
欲求に我慢して重圧掛けて限界なのに 笑ってる・・・
キヅイテヨ・・・ホントウノワタシ二・・・
 
絶対人前じゃ 泣かない 弱音なんか言うもんか
ずっとそう思ってきたけど それは私が弱かったから
「どうせ自分しか信じられない、どうせ裏切るんだから。」
「信じてみようよ。誰か頼って自分を解放しようよ。」
二人の自分が喧嘩する
ほんの少し誰か信じられたら・・
弱音見せられたら・・
 
明日が今より輝いて見えるのかもしれない


       あたしの毎日   ( 02年7月1日 O.O.さん投稿 )

こんにちは☆私はパニック障害になって、もうすぐ2年になります。
私は一見ホントにギャルだと思います(笑)流行の服大好きだし、髪もめっちゃ茶髪だし☆だから周りの人に「私、ウツなの。」って言っても信じてもらえないのは、なんとなく承知です。
今は実家から電車で30分の短大に通っています。この短大は、実は2こ目なんです・・・。去年、保母さんを目指して神戸の幼児教育の短大へ通っていました。そして一人暮らしをしてました。
発作が起きたらどうしよう・・・という不安もあったけど、新しい土地での生活に期待して実家を出ました。
入学したての頃は、何もかもが楽しくて、でも疲れが溜まった時、一人になって初めて発作が起きたんです。一人になってからの発作はホントに怖くて怖くて、涙は出るし胸は苦しいし意識が遠くなるし、でも誰も頼る人がいない(涙)あまりにも症状がひどかったので、母にヘルプを頼み、出てきてもらいました。
そして、一週間学校に行けなかったんです。学校の友達は、最初の2,3日は心配してメールをくれましたが、「大丈夫?」から、「なんで来ないの?」にだんだんと変わっていきました。「電車に乗れないの。」って言っても笑って信じてもらえない。ただのサボりだと思われ、一番信用してた友達にも裏切られ、すごく悲しい思いをしました。
この苦しさは経験した人じゃなきゃ分かってもらえない・・・と落ち込みました。
そして学校を辞め、実家に戻りました。
死にたいと思った事も、何度もあります。毎日がどうでも良くて、生きてても意味ないし・・・というとこまで落ちた時、今の彼氏に出会いました。「一緒に治して行こうな、少しずつ進んだら良いから。」という彼氏に何度も助けられて来ました。
この病気は必ず治ります!!まだ私自身も闘病中だし、偉そうな事を言える立場ではありませんが、このメールを見て少しでも元気を出してもらえたら嬉しいです☆
一気に治さなくても良いじゃない☆少しずつで良いよ☆薬を服用されている方は、副作用などで、治りかけたのにまた戻ってしまう・・と落ち込んでしまう方も多いのではないでしょうか?
私自身も心療内科に通っていますが先生の「良くなったり悪くなったりを繰り返しながら少しずつ良くなるんだよ。」っていう言葉を励みにしています。
外にも出たくないと思う日もあると思います。だけど、お天気の良い日なら、家の近所を5分間でも散歩してみて下さい。少し気分がリラックスすると思います☆
夜寝れない時、静かな癒しの曲を聴いてみて下さい。
電車に乗れなかった、人混みを歩けなかった、学校に行けなかった・・・私も今だに苦しんでいます。でも、いちいち落ち込むのは辞めようと思っています。
「そんな日もあるじゃない☆ねっ!!」という母の言葉はいつも励みになります。自分の一番の見方は自分です!自分を責めるのは、もう辞めませんか?
今自分が出来る精一杯のことを一生懸命やれば、あなたは偉いんです!!すごい事なんですよ。。
この病気になって、たくさん苦しんだけど、学んだこともたくさんあります。当たり前な事だと思うでしょうが、普通に朝起きて、体調が良くて何事もなく1日が終わるっていうことが、すごく有難い事なんだと気付きました。この病気を理解してくれない人が、まだまだたくさんいる中で、理解してくれる私の周りの人達にはとても感謝しています。私の一番の味方は、家族です。この病気になって、母とは、あらゆるホントにたくさんの話をしてきました。この事は、私は一生忘れません。皆さんも、周りに一人でも支えてくれる人が居るならば、その人達に対する感謝の気持ちを忘れないで下さい・・・☆
そして私は、もっとこの病気のことを理解してくれる人が一人でも増えてくれれば・・と思います。頑張りたくても頑張れない、当たり前の事をするにも勇気がいる・・・そんな毎日に苦しんでいる人達がいるということを少しでも考えて、サポートしてくれる人達が増えれば、どれだけの人が救われるでしょうか。この病気で苦しんでいる人が堂々と「しんどい」って言える世の中になって欲しいです。
今、闘病中の皆さん、何にも諦めることはありません。
私は、もう一度保母さんの資格を目指しています。学校にも行けたり行けなかったりの日々ですが、少しずつ薬ともオサラバ出来たら良いなと思ってます。
まずは焦らないこと☆みなさん、一緒に治して行きましょう☆☆☆

         何じゃその病気は (PTさん投稿 2002年 4月19日) 

異常なしと言われても
 あれは、一九九九年の七月でした。
 お風呂に入って、「さあ明日も柔道の試合や〜!」と、寝よと思ったとき、突然激しい動悸・頻脈・血圧上昇・胸苦しさ・手足のしびれ……。
 ついにこの世ともおさらばだと思いました。生まれて初めて救急車に患者として乗り、救急病院に緊急搬送。しかし当直医は「特に異常ありませんで〜、過労ですな〜」。そのまま帰されました。
 一週間後、また激しい発作。前の救急病院へ緊急受診、また同じ結果。「寝不足ですわ〜」と導眠剤をもらって帰宅。数時間後また発作。「こら心臓やられた!?」と思い心臓専門病院へ無理を言って緊急受診。「心臓異常ないですよ」と言われ何の処置もなしで帰宅。その昼また発作。その日にうちに結局四回も緊急受診し、同病院の緊急受診の新記録でした。
 次の日、診察を受けに行くと、「中性脂肪も高いし、発作の原因追及も兼ねて教育入院しなさい」ということに。けれど入院中も発作の嵐。主治医も「なんでやろ〜?」と首を傾げ、精神科受診を指示されました。そこで初めて「パニック・ディスオーダー(以下PD)です」と言われ、「何じゃその病気は?」……。
 私は年齢四十一歳。高等学校の保健体育教諭。生徒指導主事として現場の最前線で対応し、問題行動等の処理にあたっていました。また、柔道部の顧問・高体連の役員・地域の柔道教室の指導・体育協会役員等、休日返上で活動していました。発作が起きるまでの半年あまり、完全休養日が二日だけでした。頼まれたら断われないタイプで、何でもかんでも引き受けしまい、背中に「重荷」を抱えたまま次のことをやらねばという、せっぱ詰まった状況でした。

なかなかこりない
 退院後、すぐに職場復帰し、またもや発作出現。「気合いで治るだろう」と薬も適当に飲み、仕事や部活動などの焦りもあったようでした。あまりにも発作がひどくなり、二ヵ月間休職し自宅静養することに。その間も早く治したい一心であちこち病院を巡り、いわゆる「ドクター・ショッピング」状態。以前通院していた病院の心療内科の先生に相談の結果、通常受診病院・昼間の緊急受診病院・深夜の緊急受診病院と、うまくまとめていただき、症状もかなり落ち着きました。
 薬のせいか朝がつらく、かねてから希望していた「定時制高校」へ転勤。部活動もないため、ゆとりのある勤務形態になったはずが、相変わらず生徒指導に奔走していたような……。
 休職中にインターネットで見つけたPDの自助グループ活動にも参加するようになり、そこで患者の会の確執に巻きこまれて症状再発。ほぼ毎日のように緊急受診し点滴投与の日々が続きました。
 あまりにも発作が頻繁なので、主治医と相談の上「心身症専門病院」へ入院することになりました。院長・職場の管理職と協議の結果「入院しながら通勤」という形態に。入院中もこりずに、他の患者さんの簡易カウンセラー的存在として人の話を親身になって聞いていました。
 その一方で、「リハビリセンター」にて鍼灸師と気が合い、体をほぐすと共に、生活習慣や人間関係、仕事に関する考え方を見直していきました。
 また、院長は毎日の回診で、「症状にとらわれ過ぎないで、発作の波から逃げずに仕事も適度にこなし、ほどほどに病気とつきあっていきましょう」と話してくれ、その言葉が非常に印象的でした。
 入院中に時間的ゆとりができたため、日頃読まない本など読み始めました。以前なら見向きもしなかった表題の『こころがやすらぐ本』に感動したり、PD関係の本も読みました。「PDは死ぬことのない病気である。現在の生活を見直し、考える信号を体が送ってくれている」などの言葉が響きました。ようやくこの病気の意味を理解し、家族・同僚・病院スタッフに励まされながら、発作をコントロールできるようになってきました。

病気のおかげで
 他の病気も併発したため入院は三ヵ月に及びましたが、その間一切のボランティア活動から解放され、本来の学校業務だけになったのも幸いしたのかもしれません。また、家族の配慮で転居し、いつでも横になれるスペースができ、周囲からの「気のせい、怠け病」という疎外感から解放されたのも効果的でした。
 自分の知る限り、この病気は非常にメンタル面でデリケートな部分があり、周囲の理解を得られないために二次的病態(うつ・引きこもり等)に陥る方が多いと感じます。自分は周囲の方に積極的に病名を言い、病院でいただいた冊子を配って理解を得られました。それがいい結果に結びついたように思います。
 退院後しばらく「予期不安」がありましたが、徐々に回復し、今も服薬は欠かせないものの、病院で知った交流分析の考え方や、自律訓練法などで発作を乗り越えられるようになりました。
 結果的に、この病気のおかげで本当の健康の意味を理解し、自分に気づき、また、心と体の結びつきという関係に改めて考えさせられ、人生観が変わったような気がします。
 現在は定時制高校にて担任を受け持ち、思春期の心身症・問題行動の生徒の対応に追われていますが、自らの体験をもとに各種心理技法や療法の勉強をして、生徒理解に役だっています。
 教職員の心身症や精神疾患が増加傾向にあると言われています。実際に現場では、児童生徒の今までは考えられなかったような問題行動、学級崩壊、学校崩壊などで、先生方は心身とも疲れ果てています。家庭を犠牲にし、自分の身を削りながら活動している先生もいるのです。
 世間から学校への期待や不満はいろいろあるようですが、何もかも背負いこんで無理をするのでなく、健康的な職場環境と適度な休養が取れる体制を、各方面に求めていきたいです。
                  

      桃さん   (2001年 12月24日 投稿)

PDを抱えて3年目に突入した桃です。でも、最近ひと山越えた感ありです。え?全然治ってませんよ!相変わらずファーストクラス級の PD患者です(笑) 薬を使っていないこともあり、発作の頻度も すごいです。毎日きてます。広場恐怖はもちろん、お風呂に入ったり テレビを見ることすら、発作が誘発されるような重症です!
そんな私が「ひと山越えた」なんて言うのは妙ですよね。 でも、そう思えるようになったきっかけには、3つの背景がありました。
1つめは、自分の中で気付きがあったこと。
その気付きとは、「自分がなりよりも苦しんでいるのは、 症状そのものよりも、“こんなままではいけない!” と思う心の葛藤とプレッシャー」だ、ということ。
日に何回も「不安になっちゃダメ!大丈夫だ!うっとおしい顔を家族に 見せちゃダメ!動悸を止めなきゃ!いつまでPDやってんの! 早く治らなきゃ!旅行に行かなきゃ!」という気負いと、そう出来ない自分との葛藤。症状そのものより、その葛藤のほうが どんなに自分を苦しめているか気付いたのです。

2つ目は、今使っている心理療法のプログラムの中で 「パラドクス(逆説)を使う」という療法の示唆があったこと。 症状を「意識的にさらに強くするように試みる」。
つまり、発作時に、意識的に「もっとドキドキしてみよう、 めまいよ、もっと強くなってみろ〜、吐き気よ、もっと 強くなってみろ〜」というわけです。これは、非常に勇気の いる試みでしたが、確かな手応えありです。
3つ目は、たまたま読んだ禅の本の言葉でした。
「徹して今を生きる」。その本には、「病気になったら、病気に徹する、 暑かったら、暑さに徹する、死が訪れたら死に徹する。。。
健康と比較するから病気は悪い、寒さと比較するから暑さが暑い、生と比較するから、死を忌む。でも、比較をやめて 今起こっていることに“徹すれば”、すべては無である」とありました。 これが、どういうことなのか、それ以来ずっと考えていました。
上記の3つが、ある日パズルのように、ひとつにピッタリはまったのです。
バラバラに見える3つのことが、実は同じ根っこのものだということが見えました。
それ以来、私はPDと「格闘」するのをやめました。
それどころか、思いっきりPDをやることにしました。
徹底的にPD、やらせて頂きます(大笑い)
もうなにとも比べない。ここに今、PDを抱えた自分があるだけです。過去も未来も考えない。今この状態の私が、今の私の「自然なあるべき姿」なのです。 その必要がなくなるまで、心おきなく心身ともに そうさせてあげようと思います。なにも無理じいせずに。
動悸も吐き気もめまいも、消えろ〜!ではなく
「あー、どんどんどうぞ!」に。すべてに関して
「ちゃんとしなきゃ!」から「いーのいーの。これでいいの。
具合が悪くていいの。」に変えました。
そして今だけを生きる。一時間後のことすらも 心配するのをやめました。今自分がやれることをやる、それだけで満点で完全なのだ、と。
そう心から思えた時から、どんなにか心が軽くなりました。 症状は誰にも負けない重さだけど(笑)
「あるがままで満点」
これからも、そんな気持ちで自分の身に起こる
いろんなことと、付き合っていきたいと思う今日この頃です。



      T さん   (11月5日掲示板より)
こんにちは!今、病院の中からPCしています。
いろんなこと今まで考えてきました。
ここに入院してたくさんの人に出会ってきました。
いっぱいいっぱい考えました。
私はもぅ疲れました・・。
ので、ので、のでぇぇぇぇ!
ここで宣言します!
@人と比べることはやめよう!
A自傷行為もやめてみよう!
B学校にいけなくてもいいじゃない、
C何もできなくてもいい、
Dのんびり生きてみよう!
E私は私。
Fおいしいものを食べてそれのどこが悪い!
G自分をもっとかわいがってあげよう!
H今は自分にオヤスミをあげよう!
I前向きでもなく、後ろ向きでもない。ただ、生きているだけでいいんだ!!!
私はこの十か条を守ります!
私は生きます!
今、こう考えただけですごく気持ちが楽になりました!!
ほぇぇぇぇ!(^^)
みなさんも少しでもいいからこの中から考えられること、
楽になれる方法があったらやってみてください。
私は私。
あなたは生きているだけですばらしいんだよ!
以上!!!☆★☆★☆
これから楽にいきてやるぅぅぅ!おりゃぁぁぁ!


    未来さん   (9月16日掲示板より)

  人は、楽しいから、生きているんじゃない。
  人は、生きているから、楽しい事に巡りあえる。
  今が、とても辛いのは、とても楽しい事を、知ってるから。
  悲しいのは、楽しい時を知っているから。
  嬉しいのは、悲しみを知っているから。
  今、とても辛くても 生きる気力がなくても きっと、とても楽しくて 自然と外を歩ってる
  自分がいる。未来には、そんな自分がいる。絶対に。
  自分に優しく出来ない人は、他人に優しく出来るはずがない。
  自分勝手は、自分に正直なだけ!ある意味、自分に優しいのかも?!
  言葉にするのは簡単なんだけどね!がんだろうね!!


      もやさん   (7月27日掲示板より)
こうなってしまったすべてを受け入れる。
これが私、出来ることをがんばろう前向きに頑張る私がいる。
当たり前に出来る人からみたらどうってことないことが私には出来ない。
でも、出来るようにがんばってる。
一つでも出来ることが多くなるように、元気だったころの自分に戻れるように。
あせることない、ゆっくり行こう♪って自分を励まし、
ありのままの自分をさらけだして、恥ずかしがらずに生きていきたい。
理解してくれる人もいる。
理解出来ない人もいる。わかっちゃいるけど、悲しくなる。
健康で、なにもなく生活してきた人には「ずるい」なんて思われたりして。
 しょうがないね。人それぞれだから・・・。
私は私でがんばるよ。
これも、私の人生の証。個性として。
でも、たまに自分が情けなく思ってやりきれない思いにかられる。
こんな自分になってしまって悲しい悔しい。
どうして?こんな苦しまなきゃいけないの?いつになったらすべて元通りになるの?
元気だったあの頃のように好きなこと好きな場所自由に行きたいのに。
不安は、生きるための必要な感情・・・と言われたって、そんな不安なんていらない。
捨てられるなら、この不安捨ててしまいたい。
自分で、自分を否定する。
・・・こんな後ろ向きになる時もある。
でも、いつかきっと・・・。
それだけを信じて生きていこう。
後ろ向なときだってあったっていい。心が生きてる証拠だから。
いいことだってある。まだまだ知らないいいことがあるかもしれない。
何もなく生活してる人が羨ましく思ったりするけど、
苦労したからそ、学んだこと沢山ある。
 そんな苦労なんていらない!なんて思うことも多いけど(笑)。
少しずつ少しずつ前に進んで行こう。
戻っちゃうこともあるけど。
頼らなきゃならなくて、自分が情けなくなることもあるけど。
今の自分を認めてあげよう。
心の声に耳をすませて。
きっといいことあるって信じて。
                             もやの独り言




       某カウンセラーさん    (7月27日掲示板より

 治療者だって初めて会う人(クライエント)に突然、自分を全部さらけ出されたら戸惑って困惑してしまいますよ。自分をさらさないといけないというような心配は全然されなくていいと思います。マイペース自然体で受診されればいいと思います。
カウンセリングとは、その人の弱い面ばかり語ってもらおうとか、弱い面ばかり注目しようというのではありません。カウンセラーによっていろいろ手法の違いはある程度認められるでしょう。その人の弱い面や病的な面でなく、強い面や健康な面に注目してそれをどうやってのばしていけばいいか一緒に考えていくというやり方が最近は多いのです。私見ですので、他の治療者が見られたら異論を出されるかも知れません。


       おばさん   7月25日掲示板より


 息子の中学の懇談会で
思春期の子どもを持つ親としてという議題で話し合いが行われました。
親御さんたちから、次々に子どもの心がわからない、話をしてくれなくなった、
うるさいと言われる、授業参観にも来るなと言われた等等話が出ました。
うちも、うちも・・・反抗期で・・・・

そんな中、あるお父さんが、次のように話されました。
「自分は、反抗期という言葉はきらいです。子どもは、意識して、さあ今から反抗するぞ
と思っているわけではないと思う。思春期を迎えるころ、心の成長と、体の成長が
アンバランスになり、子ども自身とまどっているのではないか?だから、反抗期というより
戸惑い期と呼ぶ方がいいのではないか?親が反抗期と思う事で、親自身が子どもに対して、
戦闘態勢になる、ストレスもたまる。しかし、こどもも今戸惑っているのだ、と思えば、
そうだ、自分もそういう時期があったなぁーとやわらかく受け止める事もできる」
それまでわが子がわからない、反抗期でと言っていた親たちもはっとしたようになりました。
緊張していた、その場が少しやわらかくなったような気がしました。
 
その日は、司会をしていたおばさんも、早くこんな話聞きたかったと思いました。
親によって、いろいろ考え方や、子育ての方向は違うでしょうが、こんな、考え方も
あるのだと、自戒も含め、少し心がかるくなって帰ってきました。


 さくらんぼ さん  4月8日掲示板より

はじめまして,私は19歳の学生です。このホームページを最近見て,「私と同じ人も沢山いるんだ」って泣きながら見ました。私は,大学に行き始めてから,パニック発作や自傷行為や過食症や不眠症が始まって,病院に通うようになってもうすぐ一年になります。
毎日が辛くて,足や腕を切っていました。血を見ると落ち着くし,今思うと心の痛みを分散させたくてやっていたんだと思います。夏には拒食症になり,冬にはまた過食症になって,体重の変動がすごいし,常に情緒不安定で,つい最近までは「死にたい」「病気を治したい」と,思いつめていました。過食症って,すごく辛いですよね。でも,いろんな人と話をして,中には同じ症状だった人もいて,そんな人たちと話しているうちに,今はすごく落ち着いてきました。今の私を支えているのは,その同じ症状だった人の,「辛いことがあった分,楽しいことが待ってるよ。生きていればそのうち絶対楽しいことがあって,死んじゃったらもったいないよ。今私はすごく幸せだもん。」という言葉です。死にたくなるとこの言葉を思い出して,「よし頑張ろう」と思うと,死にたい気分が消えていきます。それに,誰もが悩んでいて,私たちはただ深みにはまってしまっただけなんだと思うんです。これは,ひとつの人生の壁で,「病気を治そう」と焦っても余計辛くなっていくだけだから,病気と闘うんじゃなくて,仲良くすることにしました。普通に生きているよりも,悩んで,苦しんで,「自分」というものを見つめなおして,勉強になったなって,成長できるなって思えるようになりました。まだ完全に治ったわけじゃなくて,薬を飲まないと落ち着かないし,眠れないし,切りたくなったりもします。でもそう思いながら頑張っているところです。今は大学を一年休学して,バイトしながら福祉センターでボランティアをしています。一年いろんな事をして自分の道を見つけるつもりです。辛かった一年が経ってやっとこう思えるようになりました。そしたら過食症も治ってきたし,毎日も楽しくなってきました。この病気は辛いけど,辛いと思っていても,辛くなるばかりです。何でもいいから,行動を起こしてみるしかないと思います。この病気は自分の心次第で,誰にも助けてもらえない。自分で頑張るしかないんだって思います。


    TOKUMEI さん 11月7日投稿
24歳の主婦です。私は、中学1年生の時に拒食症になりました。
もともとやせており、体重は気にしていませんでした。思春期になり体重が増え、両親に”太ったんじゃない”という言葉をきっかけにダイエットを始め、どんどんエスカレートして一番少ないときは26キロまで減りました。病院に入院しましたが、”太ったらいけない・食べたらいけない”という固い意思はなくならず、30キロになったら退院してもいいということで、退院するために食べ、退院したらまた食べなくなり、運動してまた入院。結局、3回入院しました。小児科の先生、カウンセラーの先生にお世話になり、母親は忙しいなか毎日病院に来てくれました。そんな中、何かきっかけというわけではなく、いつからともなく自分のしていることがどういうことなのかということが少しずつ分かってきました。カウンセラーの先生に手紙をかいたり、母親と交換日記をしたり、自分の思っていることを書きました。私は、自分の思っていること、してほしいこと、感じていることを口に出すのが苦手だったので、このように文章にしたことで、自分を表現でき、自分を理解することが出来たのかもしれません。
 3回の入院のあとは、食べることは大丈夫になり、順調に体重が増えていきました。しかし、とことんまで食べることに厳しくなっていたので、カロリーや食べる量をきにするのはすぐには直りませんでした。そのため、性格もとげとげしかったと思います。自分でもそんな自分が嫌で、嫌で、皆と同じようになりたい、もっと気楽になりたいと思っていました。でも、無理して気にしないようにしようと思ってもどこかでこだわっている自分がいて、かえって疲れてしまいました。けれど、少しずつですが、自然にそんなこだわりもなくなっていきました。今もまだ、完全に直ったとは言えないかもしれませんが、ここまで戻れたことをうれしく思っています。
 今、拒食症で苦しんでいる人、自分でもどうにもできない自分がすごく苦しくて、つらいと思います。でも、いつかは直ります。大丈夫ですよ。

            

               Yさん 10月10日投稿
私も、18歳のときから「どうして私は生きているのだろう」
「どうして私は面白くない勉強をしなくてはいけないのだろう」と不満を持ちながら生きていました。
そして退屈で退屈で希望も未来もなく過食に走っていってしまいました。
今、現在22歳ですがまだ過食症と言う名の病気の持ち主でパニックになるときは「どうして私なんかが生きているんだろう」と何度も何度も自殺を考えました. 「生きていても仕方がない」そう思ったりもしました。
でも、過食症になって18の時に某病院の心療内科に通い始めて私の人生が変ってきました。
私の考えも変ってきました。今、私の主治医の先生にこの4年間、色々な事を話し、相談し、アドバイスをもらって私の考えも成長しました。過食症、対人恐怖症、パニック障害、を持つ私ですが、
こうやって苦労しなければわからない幸せを知る事ができます。普通に社会へ出て苦労して得る幸せも幸せですが
こういう病気を持ったものでしかわからない幸せは選んでできないものだと今ではこの病気に感謝しています。
人には些細な事でも自分には大きな幸せであったりもします。
アルバイトへいけなかった私も今週から毎週1日だけバイトへ行くことになりました。人の視線が怖くて電車にすら乗れなかった私がです。普通の人なら簡単に出きることができても私にはできなかった。それが少しずつ人並みの生活に戻ってきました。
これは誰にもできない経験だと今私は人並みに戻る事が私の目標だとこれが課題だと、仕方ないと駄目な自分は駄目な自分なりに自分のペースで生きていくことにしました。
こんな私にも素敵な彼氏ができました。それも幸せです。彼氏にどう喜んでもらおうか考えるのも生きがい。
彼氏が「一緒に病気を治そう」と言ってくれた時は本当に幸せでした。
今、週1アルバイト意外に何もしていません。でも彼氏のために綺麗でありたいとおしゃれしたり、素敵な洋服をかっこよく着るためにトレーニングジムへ通ったり、できないものはできないとして今、私にできるものを、できることをやっていっています。
生きていればなるようになるんです。死んでしまってはなにもできません。
幸せと不幸は
同じ数だけあると
不幸があるから
幸せを感じる事が出きると
私は思います。
○○さん、死んだつもりでいきてみませんか?


             歌さん 5月2日投稿(ご追加)

■私が今行っている婦人科
 私が行ってる婦人科の先生は若くて病院も新しいので 、超、新もの好きって感じの人。 予約制だし、HPも出してるし(重すぎて熟読できないけど)
行くとハーブティ有るしアロマテラピーとかもやってるし。 変なのって感じ。
図書館みたいで本読みまくってるけど、月に一回か二回しか 行かないんだよね。
 病院は、何か最新医療ってすごい!って今の病院行って思った。 内診のときは不通らしきいすがウイーンとかいって斜めになるの。 はずかしいけど(笑) 黄体ホルモンは血液検査ですぐ解るし。 私が5年前生理痛で苦しんでた時行った病院とはちがう!!!
そんな検査してくれなかった!!!!(涙)
 って思いました。
■漢方派の私の理由
 昔から体が弱くて両親が忙しかったから、近所のすぐ強い 薬出す病院にばっかり行ってたの。 その医者は何でも風邪って言って強い薬を出すから効かない 訳はないの。 そのうち、薬で熱を抑える事をずーっとしてきた私は普通の 病院でもらう薬が全く効かないのと、風邪ひいても熱は出ない 汗は出ない、薬は効かない体になってしまったの。 だから、風邪ひくと大変。ただ、寝てるだけ。
 それから、くすりの事とかでよく考えてみると4000年以上中国 では、国の力を使って人体実験をしつづけた結果のお薬。 そして気という自立神経のことも確立されている。 西洋医学はまだ200年どっちを信じる?って考えたらすご〜く くわしい漢方薬の先生だと私は思う。 効かなかった薬はというと10年くらい弱い薬とか漢方とかを 重点に飲むようにしたやっと今は、葛根湯でも効くよ。
 風邪薬保険殺人事件があったけどどんな薬でも正しく飲みたい

                
                ルナさん(投稿) 4月28日 
 私はこの掲示板に出逢って、みなさまにとても温かく迎えていただきました。
小さいときに受けた心の傷や、その他いろいろ抱え、平成10年の冬、ダイエットをきっかけに、過食嘔吐を覚えました。きっかけはダイエットでしたが、その後はストレスを解消するために食べ、食べてしまった事で太るのが怖くなり、吐き…。それを繰り返していました。家庭でのストレス、職場でのストレス等を抱え、私はどんどん壊れていきました。
 そんななか、このHP、掲示板に出逢い、同じ悩みを抱えている人の多さに驚き、共に分かち合えた事に大きな喜びを感じました。その後、過食嘔吐に加え、鬱であることも分かりました。しかし、病院に行く事をなかなか決心できず、出口の無い闇から出られずにいました。そんなあるとき、どうしようもない不安と悲しみに包まれ、職場のトイレに閉じこもり、泣いてしまったときがありました。その事を、この掲示板で出逢った心やさしい女の子に伝えました…。
 その子は、自分も病気と闘っていてとても大変な中、私を、かかりつけの病院へと、連れて行ってくれました。そこの待合室で、その子と話しているうちに、とても気持ちが落ち着き、自分の考えもまとまり、病院の先生へ私の意見を明確に伝える事ができました。
先生は私に、やりたい事、欲しいものがあることに気付かせてくれました。そして思いました。過食のためにお金を使うのは、もったいない…、と。私は今、運良く家庭でも職場でもストレスはほとんどなくなりましたので、そのお陰もあるのかもしれません。
 私が元気になってきて、いろいろ考えた事なのですが、みんな、がんばろう!って、無理に気張らないでほしい…。がんばろうとしてもがんばれないときだってあるんだもん。駄目なときは駄目でいいんだよ。人間そんなに強くない。無理にがんばろう!ってして、でもできないとき、どうして自分はこんなに力不足なんだろう?って落ち込んでしまう…。
 だからがんばれないときもあるけど、それでいいんだ、と私は自分にそう言い聞かせる事によって立ち直れました。みんなにそうやって言ってもらえて、元気になれました。自分をいたわる事=いつのまにか元気になってる、そう感じました。
 いたわる事は決して甘やかす事じゃない…。 ここに来るみんなは人に優しく自分に厳しすぎると思います…。 お願いだから、もっと自分に優しくなって!そう伝えたいです。
 私は完治はしてないかもしれないけど、でも確実に成長しているって思って誉めてあげています。まずは自分をいたわる事からはじめて欲しい…。
 自分を責める事は、悪循環になってしまうから、もう少し自分に優しくなってほしい。焦らないで、がんばりすぎないで、抱え込まないで、自分を責めないで…。 一人じゃないから…、みんながいるから…。


歌さん (4月20日)

  えっと闘病記録件体験談
 私は12月からデイケアに通院し毎日日記を付けはじめました。
なぜって前の病院に私の日記と投薬記録は全て残したまま
もう、来なくて良いって言われたので自分で管理しなければって思ったのです。日記・投薬記録は毎日付けました。今の医師はすごく良い先生で私の自己管理あまり必要無いかに 見えました。当初診察が始まった12月にPD、過眠、うつ、不安神経症、様々な自律神経から来る病状に悩まされていました。また、月経前症候群と生理痛がありました。
 月経前症候群は精神科と、婦人科とどっちの管轄に入るのか不明だったため、「生理痛と、生理前のイライラは婦人科と精神科のどちらに 入るのですか?出来れば漢方で治したいのですが。」と伝えた所、今の担当医に漢方の詳しい薬剤師さんが病院内にいるので その人に相談しながら処方しようということになりました。当初うったえていたのはイライラが多かったためそれに対応する漢方薬を処方して頂いていました。
 約4ヶ月飲み続けイライラは治まってきました。そして、よくなるにつれて生理痛のことが気になり始めました。生理痛のことを相談しました。そうして生理痛 対応の漢方薬に処方変更を3月1日にしていただきました。その頃、日記を振り返り読み返した所、だいたい排卵日近くに くるくる(めまい、ふらつき)が始まりました昨年の7月くらいより以前からですが、くるくるの状態(排卵日以降2週間)が ひどくなるのです。物理的に婦人科の問題がないか頭をよぎっていたのですが、婦人科に行くのは勇気が必要でした。2月14日意を決して婦人科へ行きました。 現在の精神科に行ってる事報告。飲んでる薬も報告しました。内診と、血液検査が必要と言われ笑ってしまうのですが、妊婦でもないのに、「あなたの子宮は健康ですよ〜」 とか言って子宮の写真と、卵巣の写真を頂いてきました。すごくはだかを見られるよりはずかしい写真だ!って思って記念にとってあります。 ホルモンが出る時期があり、その週が14日の次の週だったため次の週は血液検査。なんとプロゲステロンというホルモンが足らないって事でした。
 婦人科の医師的には、
「薬はあまり出したくないので、頑張って1ヶ月婦人体温を付けてください」と言われ、私も薬は飲みたくなかったので頑張って体温を付けました。 ホルモンが足らない事を精神科の薬剤師さんに報告。漢方の処方が3月1日から変更になったものがホルモンのバランスをとるとの事 そのころ、テレビで更年期障害の話をしていて私が足らないって言われたホルモンが足らなくなって、うつ、家事放棄、育児放棄、 とじこもり、不安、自律神経の失調が起きると、放映されていました。びっくりしました。で、私はというと漢方をホルモンを増やす漢方になったため 3月15日から今日まで生理痛もなく精神的にも元気になりつつあります。排卵日以外ふらふらもなく元気に動けるようになったのです。
女性ならかならずあるホルモンバランス。見逃してはいませんか?
追記:2月のプロゲステロンの値は7.7
   (正常値2.5〜28但し10以上が正常排卵値)

 3月のプロゲステロンの値は13 漢方の処方の結果です。


             夢姫さん (4月7日)
 今日はパニックレベルがMAXまで行きました。 
 でもそれと引き換えにすごいことを
発見しました。
 たぶん、普通の人にはどうでもいいこと・・・もしくは当然のこと・・・
 でも私にとってはすごい発見だったんです。
 パニックレベルを下げるため、足しげく公園通いをしています。 
 そこで、毎年見ている
桜を何気なくじっくりと見つめて、
 手を触れてみました。

 「桜はピンク」そう思いこんでいた私はびっくりでした。
 限りなく白に近いものから、濃い
ピンクまで、
 1本として全く同じ花の色の桜の木など、
 ないのです。

 人間と同じじゃん!!
 同じように見えるけど、全く同じ物はない!
 まったく・・・今まで何を見てきたんだか・・・
 私、心身症にならなかったら、
 自分がこれほどまでに余裕の無い人間であることには

 気づかなかったでしょうね。
 「おう、心身症、サンキュー」といった感じです。
 でも、いいとこだけ頂いて、
 こんな病気とはさっさとオサラバしてやるのさ、
 なんて
考えている、
 薄情者の私です。

 くだらないことかもしれないけど、ちょっと語りたかったので・・・
 ちょっとしたぼやきでした。

           
           「ゆきさん」の記載 (3月16日の掲示板から)
私は18歳の頃から過食症に悩まされていました。今は22歳になろうとしています。
でも、今度生まれ変っても、過食症になるとわかってても、また私でうまれたいと思っています。
だって、他の人には体験できない苦しみや悲しみ、喜び・・・色々な物を学びました。
辛かったけど、楽しいばかりの人生よりも価値があると自分では今の私に誇りを持っています。
私の主治医は、本当に私のことを見捨てないで一生懸命せっしてくれています。
本当に感謝しています。
「楽しいばかりの人生、 辛いばかりの人生、 どちらにも、ものすごく価値のある人生」
それを先生は教えてくれました。きっと笑える日が来ます。
みんな、悩んでる人も上を向いてマイペースで焦らず頑張りましょうよ!ね?!(^^)


                
           
   
「桃さん」の記載 (2/23掲示板から)
幼い時に受けた傷ってまだ、無防備な状態で起こったことだから、傷が深いし、
心の底に刻み付けられてしまってるんだよね・・・
でも、そのことに、私たちを傷つけるだけの
パワーを与えるか与えないかは、
私たちが選べること。記憶や傷は決して消えない。記憶喪失にならない限り。
でも、それを「傷、痛み」と見るか、
「ひとつの貴重な経験」と見て痛みをプラスのエネルギー
に変えるかどうかは、私たちが選べること。
それは、ある意味でとっても素晴らしいことだと思う。


よく、友人や夫に笑われるの、「桃はおめでたい。
単に現実の痛みからそうやって逃げてるだけじゃない?」って。うーん、そうかな?

私は、何でも物事を良くとる名人でいたいって思ってる。
「地獄ですら、居心地がいいと思えたら、あなたはすでに天国にいるんです」
って
いう言葉は、桃の哲学です。
どんな最悪の状況の中にも、一かけらのいいことを見つける名人でいたい。
そうしないと生きてこれなかったのかな。

結構、波乱の半生だったから。でも、私はその哲学が好きです。
だから、PDのことも同じ目でみてる。またまた、新たなハードルが来たね。
こんなの、めったやたらに
経験できるもんやないで〜。
これを機会にまた、ぐ〜んと成長できるんだ! って。
人生で起こるすべての経験、何一つ無駄にしたくない。特に、つらい経験は。

しんどい分、つらい分、元とらなきゃ しゃくじゃない? (←何これ?商売か?)
さてと・・行動開始するかな〜



            娘へ   「どんぐり」さんの記載(2/16) 掲示板から抜粋

今日も一日きつかったです。子供にはどうにか普通に接することができたけど・・・今は早く実家に帰って気分転換したい。そしたら少し何かが変わるようなきがして・・
あ〜ちゃんこんなママでごめんね。
あなたはとっても元気で、順調に成長してくれてるのに、ママは成長せず・・・ママは最近イライラしてて、ついきつく接するけど

あなたはどう思っているのかな〜。
あなたのそのとても小さな、純粋な心に大きな不安を与えていないですか?
ママの心配はそのことです。

ああ〜もうちょっと気楽にいきられないのかな〜?
あなたは今のまま、元気でおおらかに育っていってください。一番の願いです。

ママはこの病気と戦って、いつかパパとあなたとママで幸せを感じ合いたいです。
あなたを産んだことが引き金で、この病気になったけど
不思議とあなたを産んだことを悔やんだことは一度もありません。
こんなに苦しいけど、それでもあなたが居てくれるからどうにか頑張れる。

あなたのそのかわいい笑顔、おしゃべりが、苦しい中にも安らぎを与えてくれるから・・・。
今のあなたに何を言っても、まだ理解できないだろうけど

あなたをとても大切に思ってます。
ママはあなたがだ〜いすきです。
いつまでも仲良しでいようね・・・。




                「ひろこ」さん の記載(2/14) (掲示板から抜粋)
こんにちは 過食でサイトを検索してここに辿りつきました。
私は20代の過食症の女性です。
10代の頃は拒食と過食を繰り返して 過食嘔吐もしていました。
でも その頃の苦しさみを繰り返したくなくて 今は過食のみ。
それも 昔に比べたら 随分 量が減ったかな? 強迫的な食べ方もしなくなったし・・
でも やっぱり 心配事があったり いやな事が続くと 甘いものやジャンクフードを
大量に食べてしまい、食べた後は 自己嫌悪に陥ってしまいます。
ストレスを買い物で紛らわせたり お酒を飲んで紛らわしたり 発散の仕方は人それぞれ。
過食は私のストレス発散方法。 まあ いいかって思うようにしてます。 でも やっぱり
治せるものなら 治したいなあ。
実は 私 ちょっと 前までアルコール中毒だったんです。
18〜22歳位まで 摂食障害で 食べ吐きしててずーっと 治したい思ってて
それが治ったと思ったら 次はアルコール中毒。
2年ほど前に心療内科のカウンセリングに通い
先生とも話して 分かった事は 結局 私の依存の対象が食べ物からお酒に変わっただけ
という事。そして お酒を止めたら又過食症に。 
でも昔と違うのは 過食しても精神的に死ぬほど苦しくなくなった事。
そして 食べ過ぎても絶対吐かなくなった事。
こういった すぐに何かにたよろうとする
私の性格とはずーっと 付き合っていかなきゃならないと思います。
でも 少しでも 前とは違うように よりベターな方向にいけるように頑張っていこうと
思ってます。 
そして 同じように私と同じように摂食障害で悩んでる皆さん。
私とは違う形の何かを抱えて 悩んでる皆さん お互い頑張りましょうね



         10年      「へんりえったさん」の記載(掲示板から抜粋)
 32歳の、子持ちの主婦です。初めて、このページを、覗いてみました。私は、10年間、過食嘔吐に悩まされてきました。
でも、ホントに少しずつですが過食嘔吐も回復しつつ、あります。10年前は、毎日毎日過食嘔吐で、自己嫌悪・・・その繰り返しでした。
やせたい!誰からも好かれたい!!イヤでも人に合わせてしまう・・・言葉では、言い表せないモヤモヤが過食嘔吐という形になって爆発してしまいました。
でも、今は1週間に1〜2回、時には1ヶ月近く過食嘔吐をしない時もあります。なぜか?「過食嘔吐したっていいじゃない!!」と思うようにしたんです。
食べたいときは、食べる!そして、吐く!!そしたら、とても気持ちが楽になりました。過食嘔吐に罪悪感なんて持たないようにしました。
でも、こんな風に思えるようになるまでに、10年間かかりました。もちろん、旦那も知っています。



こんにちは。いつもお世話になっております。
この間とても心温まるお話を友人からもらいました。
是非皆さんに読んでいただきたいので投稿いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。

ハンドルネーム : ルナ より

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次のような銀行があると、考えてみましょう。その銀行は、
毎朝あなたの口座へ86,400ドルを振り込んでくれます。
同時に、その口座の残高は毎日ゼロになります。つまり、
86,400ドルの中で,あなたがその日に使い切らなかった
金額はすべて消されてしまいます。

あなただったらどうしますか。もちろん、毎日86,400ドル全額を
引き出しますよね。僕たちは一人一人が同じような銀行を
持っています。それは時間です。毎朝、あなたに86,400秒が
与えられます。

毎晩、あなたが上手く使い切らなかった時間は消されて
しまいます。それは、翌日に繰り越されません。それは、
貸し越しできません。毎日、あなたの為に新しい口座が
開かれます。そして、毎晩、その日の残りは燃やされてしまいます。
もし、あなたがその日の預金を全て使い切らなければ、
あなたはそれを失ったことになります。過去にさかのぼることはでき
ません。
あなたは今日与えられた預金のなかから今を生きないと
いけません。だから、与えられた時間に最大限の投資を
しましょう。そして、そこから健康、幸せ、成功のために最大の物を
引き出しましょう。時計の針は走り続けてます。今日という日に、
最大限の物を作り出しましょう。

1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみる
といいでしょう。
1ヶ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみ
ると いいでしょう。
1週間の価値を理解するには、週間新聞の編集者に聞いてみる
といいでしょう。
1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに
聞いてみるといいでしょう。
1分の価値を理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に
聞いてみるといいでしょう。
1秒の価値を理解するには、たった今、事故を避けることができた
人に聞いてみるといいでしょう。
10分の1の価値を理解するためには、オリンピックで銀メダルに
終わってしまった人に聞いてみるといいでしょう。

だから、あなたの持っている一瞬一瞬を大切にしましょう。
そして、あなたはその時を誰か特別な人と過ごしているのだから、
十分に大切にしましょう。その人は、あなたの時間を使うのに十分
ふさわしい人でしょうから。
そして、時は誰も待ってくれないことを覚えましょう。
昨日は、もう過ぎ去ってしまいました。
明日は、まだわからないのです。
今日は与えられたものです。
だから、英語では今をプレゼント(=present)と言います。
今週は、ナショナルフレンドシップ週間(友情の週間)です。
友だちはとても貴重は宝石です。それは、あなたに笑顔と、
成功するための勇気を与えてくれます。それは、あなたのことを
聞いて、あなたを誉めて、あなたへ心を開いてくれます。
だから、あなたの友達に、どれほど彼らのことを心に留めているかを
示しましょう。このメッセージを、あなたが友達だと思う人に、
送りましょう。そして、もしこのメッセージが戻ってきたら、
あなたは友達の輪を持っています。
素晴らしいナショナルフレンドシップ週間(友情の週間)に
なるように祈っています。

..:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・

     

        掲示板から抜粋     「あすかさん」の記載 
              
(掲示板の過去の記載内容からの抜粋です。)
今日は彼氏と付き合い始めて半年記念日です。
○月○日に付き合い始めて、この人と知り合って得たことは
数え切れないくらいあります。いままではプライドとか、かけひき
とか、そんな事をゲームの様に楽しむ恋でした。
今は、素直な気持ち、愛する気持ち、ありのままの私でいられます。
そんな幸せを感じたのは2ヶ月前から。PD(パニック障害)になってから。
今日は体調もおもわしくないけど、そんな素敵な記念日だから、
ちょっと気持ちが穏やかです。
辛いことの反対ではいいことが起こっている。
その反対にいいことの裏側で悪いことも存在する。悪いことで
頭がいっぱいの時はそれでいいと私は思います。
そんな落ち込む自分をかわいく思えるそんな私になりたい。
悩んでるとき、落ち込んだとき、とことん落ちてしまう。
そうすると、ふっと気持ちが楽になることがある。
人間は不公平にもともと出来ている。PDになった私は不幸?
そうじゃない。むしろ、これを幸せだと思える様になりたい。
人間的に嫌なやつだった私を、神様はちゃーんとみてたんだ。
あなたは一度きりの人生楽しんでるのか?そうじゃない。
自己満足のかたまりで、周りを気にしすぎ、呼吸ができなくなった
魚になっってた私。もういっぱいいっぱいだったんだ。
だからって、今楽しいわけじゃないよ。
でも、この苦しみの先私が変われそうな気がする。
そして人の痛みが自分の痛みに思える、人間らしい人間になれる気が
する。
辛い。悲しい。訳も無く泣いたり、怒ったり、もどかしい。
そんな毎日の中で自分の居場所を与えてもらうのではなく、少しずつ
作って見つけていくんだ。
今起こってることに目をそらさず、その裏で起きている幸せを見つけながら
まず私自身を好きになることからはじめよう。
それが出来たとき、彼をもっともっと愛せる気がする。
難しい事いっぱいかいちゃったけど、
みなさん、自分が好きですか?

  

    
パニック障害と星座   (投稿 '99.9.29  by Memory)
以前、プラネタリウムでパニックを起こした事がありました。
某先生から「何度も行く所ではないから」と、おっしゃっていただいた
のですが、
昔から星を見るのが大好きで、雑誌「ニュートン」を
愛読書とし、サイエンスアイ「宇宙デジタル図鑑」のテレビを 楽しみにしている私は、結構シヨックな出来事でした。
何とかならないかと思いました。
再度あの圧迫されるような恐怖感を
経験するのは厭ですし、狭い車の中で起こしたパニックの、苦しさも 忘れていない。
でももう一度、入って見ようと思い、天体観望会に参加しました。

笑うでしよう。一度目はだめで、二度目のときに私が入口で躊躇していると
「お入りにならないのですか」と、聞いて下さる係りの方がいました。
私は、理由を話そうと思いました。
するとその方は、係りの方が出入りされるドアーの横に席をとって下さり
「気分が悪くなったら、ここから出られますから大丈夫ですよ」と、言われて
とても感激し、無事見終える事ができました。
遠い、遠い、宇宙のその広さを考えると、夜も寝られませんよね。
昨年の11月には、目眩や吐き気を押して「しし座流星群」を見に行ったんです。
ただ見とれるだけで、願い事をするのを忘れてしまいました。残念でした。
でもこれからが、もっとも星が美しい季節となります。
子供のやるような事で、恥ずかしいですが、皆様も、いかがでしようか。


   
 無 題   
(投稿 '99.9.17  by Mis.○●子)

今日は 早めに薬(ルボックス)を飲みました。そしたら、胃が
気持ち悪い。これが副作用か。。。と、納得。
でも、吐くほどの気持ち悪さでもなく、
やっぱり、飲む時間帯を考えて飲もうと思いました。副作用が来る前に寝る。
れで、副作用 克服だ。(^^)

 
  パニック障害の克服   
(投稿 '99.9.9  by Mis.かずよ)

 パニック障害をひきずって14年、ちょっとした心配が出掛けることへの不安や恐怖となり、近くのスーパーでさえ行ききれない日が何度もありました。
 自宅で元気そうに振る舞う私を知る友人は、こんな話を全く信じませんでした。家族でさえも、不安と緊張の中にいる私を知りませんでした。不安はだんだん大きくなり、外出どころか、家にいてもちょっとした体の変化に病院へ行くことが日常になっていました。
 ところが3年前、長い間ご無沙汰していた学生時代の友人と再会し、久しぶりの心地よい刺激と緊張をもらってから、何かが変わってきました。心が自由になる楽しさに触れたような気がし始めたのです。とは言っても出掛けると相変わらず動悸、冷や汗、胸の詰まり感といった症状が期待通り(?)にやってきます。不安は次から次ぎへと押し寄せ、死がすぐにそこにあるような恐怖で、居てもたってもいられなくなる、といった以前と同じ症状が出てきます。違うのはそれでも不安を両手に握りしめ、出掛けることにトライする(できる)ようになった事でした。
 こんな事を何度か繰り返すうちに、今まで耳だけで聞いていた「死なへん」という○○先生の言葉がゆっくり心に響き始め、外へ行くことに少しずつ力がいらなくなりました。そして昨年、長いお付き合いだった重たい不安が、ポケットにしまえる量になっていました。復活です。
 今夏、家族で8日間のバリ旅行に行き、何ものにも変えがたい感激を持って元気に帰って来ました。これこそあの不安に包まれて身動きできなかった、長い時間があったからでしょう。
 なにはともあれ幸せです。来年もまたバリへ行ってみようと思います。
 ○○先生、ありがとうございました。

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