大東亜戦争終戦直後の東京は文京区、本郷台地と上野台地に挟まれた谷間の集落、根津 。昔はこの谷から不忍池まで藍染川が流れていた。 江戸や明治に根津神社(権現さま・祀神徳川家康)の外参道にあった岡場所(私娼街)は、一高の寮が弥生町に出来た明治の中頃に政府の計らいで洲崎に移転、一転静かな下町となった。
根津神社:当初は千駄木村にあった小さな社だった。近接地が甲府徳川氏の屋敷地となり、寛文3年(1663)後の6代将軍家宣となる綱豊がここで誕生したため、将軍家の産土神(うぶすながみ)(守り神)になり、閣老が監督する大規模な社殿が屋敷地(現在地)に建立され、宝永3年(1706)遷宮した。
根津遊廓:根津の街は、根津神社の門前町として甲府徳川家屋敷跡に開かれた。やがて岡場所となり、江戸指折りの盛り場となった。天保の改革(1841)で一時は姿を消したが、明治2年に復活し、同12年遊女574人に達した。
ー然るに明治12年、その付近なる本富士町に東京大学の開設せらるるあり、学園の風紀面白からざる等の理由に依りて遊廓移転の議が起こりー『本郷区史』
戦争末期の空襲で周囲の台地はB29の絶好の攻撃目標となり、台地の端に並んだ家々は焼夷弾に焼かれて赤茶けた山肌に戻った。 本郷台地の東端、東大農学部グランド北の裏通りを貫けて、細いS字状の坂を下って行くと、目の前はもう東京湾までの平地が扇子を広げたように展開している。
坂を降り切ると、右後方には東大の野球場下の屏風崖が聳え、左は視界が急に開けて根津神社の石の大鳥居、国宝の赤い唐門、木々に覆われた池が現れる。
明治の頃、川は暗渠化されて、川は昔の流れのままにくねくねと蛇行した「蛇道」と呼ばれる道に変り、本郷区と下谷(したや)区の区境となった。
不忍池から根津に続いた大名屋敷は壊されて、市電の走る国道と化した。
焼け跡には即席の畑ができて、玉蜀黍(とうもろこし)やら、葱(ねぎ)やらが植えられ、大人達はその日を生きて行くのに精一杯だったが、子供達にとっては焼け跡は恰好の遊び場所となった。
左方の小高い台地上には、右に上野寛永寺の、左に日暮里(にっぽり)天王寺の、二つの五重の塔が教会のミサで灯される祭壇上の燭台のように連立して、黒い焼け野原を見守っている。
前方、大鳥居前の内参道入口から不忍池から伸びる国道の電車通りとの交叉点までの外参道の両側は、震災、戦災にも焼け残った、明治時代の岡場所の名残を残した家々が軒を連ねている。
根津八重垣町電停のある先の交叉点を渡ると直ぐ右側に芋甚(いもじん)>というあんみつ屋があり、その角を右に入った隣に 市川耳鼻咽喉科・眼科医院がある。
この辺一帯は、千駄木や谷中の住宅街が空襲で焼けたのに反し、空襲を免れた東大の風下に位置したせいもあって、幸運にも戦災に合わずに焼け残って、子供達の賑やかな、はしゃいだ声に包まれていた。
市川医院耳鼻咽喉科・眼科は二軒長屋の一軒で、次男坊の 武は小学3年生、耳鼻科の医院の子供のくせに、いつも鼻の下に青っぱなが二本垂れていた。
市川耳鼻咽喉科・眼科医院の横に流れるどぶ伝いの露地裏に長屋隣の大家さん家(ち)があり、そこにかっこちゃんという同じ年の女の子が居た。
色白の大柄な可愛い子で、大きな黒目でじっと見つめられると、武は子供心にどきまぎした。
かっこちゃんのお父さんはつるっぱげの老人で、どう見ても眼科医の武の祖父より上に見えたし、おまけに僕の父みたいに毎日家に居るんじゃなくて、週に一回位しか見かけなかったけど、そんなことは気にも止めず、よく遊んだ。
疎開帰りで臆病な武は、乱暴者の魚屋ののぼうちゃんや、がき大将の古本屋のゆっちゃん、副大将のがっちゃん屋のまさちゃんなどの男の子とは遊べず、かっこちゃんとか、裏のかなえちゃんとか、前のさなえちゃんとか女の子とばっかり組んで、大家さん家(ち)の玄関前の石畳で石蹴りをしたり、陣取り、ゴム縄飛び、あや取り、缶蹴りなどして一日遊び暮らした。
時たま、探検と称して女の子達に加えて、横隣のてんかん持ちで知恵遅れのじゅんちゃんを連れて、上野台地の西端、谷中(やなか)の坂半ばの屋敷街に落ちた焼夷弾の縦列爆撃によってできた山、通称あかじ山と言う焼け跡まで遊びに出かけた。
大邸宅の坪庭にでも敷かれていたのだろうか、油石と子供達の間で呼ばれていた黒い艶石を見つけたり、風呂場の瓦礫からきれいなタイルなど剥がしたりして、皆の宝物にした。
いつの頃からか、あやちゃんという目立たない女の子が僕達のグループに加わった。
めったに笑わない子で、教会の日曜学校に通ってキリスト教的博愛精神を習っている筈の武に
「蟻ん子でもさ、人と同じ命を持ってんのよ。だから踏み潰して殺したりしちゃ、駄目よ」
尖った声で説教をした。
「ふーん」
すっかり感心した武は、早速知恵遅れのじゅんちゃんにそっくりそのまま受け売りの説教をした。
< BR>あやちゃん家(ち)が何処にあって、何をしてるのかは、誰も知らなかったが、そんな事は子供達にとって、どうでもいい事だった。
そんなあやちゃんが、ある日から突然、ばったり遊びに来なくなった。
「どうしたんだろう」
「風邪でも引いたんじゃない?」
「引っ越したのかしら?」
皆で頭を寄せ合って心配していた時、知恵遅れのじゅんちゃんが大変な事を言い出した。
あやちゃんが一人でお化け階段へ昇って行くのを見たと言うのである。
ここで、お化け階段について述べなければなるまい。
前に紹介した根津神社の大鳥居前の参道を電車通りに向かってすぐ右の染め物屋さんの角を右折すると、上海楼という旅館に突き当たる。
右折しても人家はないので、大概の人はここを左折して根津小学校方面に向かう。
上海楼前を右折すると正面は東大農学部の森と畑で行き止まりになるが、よく見ると、左に東大の森と上海楼の塀に挟まれた細い露地がある。
人一人が入れるのがやっとのその露地に入って崖に突き当たると、右側に崖と東大の薮山に挟まれた緩やかな石段の坂道が現れ、登り詰めると弥生町の袋小路に抜け出る。
街灯一つ無く昼なお暗いこの坂を子供達はお化け階段と言って怖がった。
お化け階段を登ると人攫いが出て、東大病院や日本医大へ連れて行かれて解剖される。
江戸時代に根津の岡場所に売られた女のお化けが出る。
「何処へ行くの?」
後ろからか細い女の声で聞かれても、決して振り向いてはいけない.
お化けと目を合わせると、その日の内にその家からは死人が出る。
お化け階段の石段は、実は江戸時代に処刑された非人の墓石でできてて、階段を登る人を見ると、背中から非人の霊がおんぶして付いて来る。
そんな噂が真実しやかに往き交わされた。
「日曜学校の先生が言ってたけど、お化けなんてほんとはいないんだぞ。だから今日こそ登ってみよう」
臆病者も武は、ある日そう決心して入口まで行ってはみた。
そおっとこわごわ暗い階段を覗いた瞬間身震いして、くるりと踵を返して一目散に逃げ帰っていた。
そこへあやちゃんは行ったという。
「絶対皆で行って、確かめて来なきゃ、駄目よ。ね。武ちゃん、行こう」
。かっこちゃんがせっつく。
武は行きたくないのが山々だったが、かっこちゃんの頼みとあらば『やだ』とは断れない。
「うん、そうしよう」
つい心と裏腹の言葉が飛び出て、頭の中は真白になった。
給食の脱脂牛乳を飲む時の勇気を持って、いよいよお化け階段にあやちゃんを捜しに行くという当日、武は紙芝居の英雄、黄金バットを真似て唐草模様の風呂敷のマントを羽織り、乙種合格だったのと高齢になったため戦争には行かず終いの祖父の陸軍の帽子を被り、腰には権現さまの縁日で買った玩具の刀を差し、先の抜け落ちた帚の竹竿を手に持った出立(いでたち)で、皆の前に現れた。
「素敵!」
かっこちゃんが讃めてくれた。
結局、武が先頭、かっこちゃんが続き、さなえちゃん、かなえちゃん、しんがりに知恵遅れのじゅんちゃんが付いて、上海楼を右折した。
蝉時雨の中、恐怖に震えながら、お化け階段の入口からゆっくり登って行った。
「いちれつらんぱん破裂してぇー日露戦争始まったぁー」
「さっさと逃げるはロシアの兵ぇー死んでも尽くすは日本の兵ぇー」
怖がっていると悟られないように、皆、勇気の湧く歌を大声で歌った。
じゅんちゃんが一番元気だった。
「きゃっ!」
途中でかっこちゃんがつまづいて、悲鳴を挙げた。
心臓が飛び出す程驚いた武は、決して後を振り向かないで、目をしっかりつぶったまま竹竿を闇雲(やみくも)に振り回しながら駆け出した。
皆続いた。
薮の葉が、根が、頭に、足に当たった。
誰かが武を追い抜いて先頭に立った。
その肩を掴んで、武は一気にお化け階段を掛け登った。
しばらくして全員共、はぁはぁ言って弥生町の袋小路に屯した。
あやちゃんも誰もいなかった。
それで僕達の冒険は終った。
帰りは弥生町の広い坂を根津小学校の裏に下って半泣きで帰った。
結局それ以後あやちゃんは二度と僕らの前に顔を出さなかった。
あやちゃんの行方は、
「あやちゃんは、お化け階段で東大か日本医大に攫われて解剖されたんだよ」
そう巷間で噂されていたのが本当か、
「あいつんちはよう、借金がいっぱいあったから、夜逃げをしやがったんだよ」
根津の事なら何でも知ってる魚屋ののぼうちゃんの言うのが本当か、
「あやちゃんはね、本当は西片町か千駄木町のお大尽の、大きなお屋敷のお嬢さんで、おかあさんから『根津の子と遊んじゃいけない』って叱られて、屋敷に閉じ込められたのよ、きっと」
かっこちゃんの言うが真実か、未だに定かではない。