黒闇

黒闇(やみ)


明治に入っての探偵物語

(めしい)の少女の聞いたお経とは?


  1. 序章:黒眸(ひとみ)

    暗い…私は目を開(あ)けてんの?…眸 (ひとみ)沢山(いっぱい)開らいてんのに何故(どうして)何も見えないの?…真黒(まっくろ)、目を瞑(つぶ)っても開らいても同じ暗黒(くらがり)…暗闇(くらやみ)…既(もう)、目を開(あ)けてんのか、瞑(つぶ)ってんだか、自分でも解んない…何?…何なんか聞こえる…耳騒(みみなり)?…違う…御詠歌?…違う…お経 (きょう)?…其様(そう)だわ…此れは読経なんだわ…お坊さんがお寺で読むお経が何処からか聞こえて来るんだわ!。

  2. 第一章:発端(はじめ)

    嘉兵衛(かへえ)は上野の鐘の音(ね)だと思案(おも)った。
    隣に寝てるお雛様みてぇな寝顔の華(はな)に気遣(きづ)かって息を殺し、秘(そっ)と布団から抜け出て、組(くん)だ手を高く頭上に振り上げて無言の伸びをした。

    嘉兵衛も参戦した明治元年5月の彰義隊と官軍との戦争(たたかい)で、上野の山に壮麗を極めた寛永寺の諸堂宇(どうう)が焼け落ち、時鐘(じしょう)も分取り同様の哀惜(あわれ)な姿に成って、徳川城下の江戸の街に二百年間鳴り響いた鐘の響きが途絶えた。
    するってぇと、町方(まちかた)じゃ俄 (にわか)に鐘が無くなって、起 んのも寐んのも二進(にっち)も三進(さっち)も行かねぇ、お飯 (まんま)喰うのも侭(まま)成らねぇで、町方一同(みんな)で上野の別当へ復旧を願い出た。
    ところがぎっちょん、肝心の費用(かね)がねぇ。
    そこで時の時鐘堂頭(じしょうどうかしら)の柏木氏は数代ぇ撞(つ)き来たった上野の鐘が自分の代ぇで終了(おわっ)ちゃうんは、忍びねぇってんで、手前ぇ持ちで鐘撞(かねつき)男を雇い入れ、明治2年2月26日正午から再び上野の山に囂厶(ごーん)と鐘の音(ね)が響いた。

    「物申!。」

    玄関に華細い声音(こわね)が響いた。
    …鐘の音だと試案(おも)ったんは案内を乞う客人の声だったんか…。
    嘉兵衛は歌舞伎の早替わり役者みてぇに寝巻から着流しに素早く着替えて玄関に出っと、羽織袴に胡麻塩の丁 髷(ちょんまげ)を結った無腰(まるごし)の老人が、赤い小袖(おべべ)にお稚児髷(ちごまげ)、大(で)けぇ黒目勝の眸を持もった十歳位ぇの女の子の手を引いて立ってた。
    早朝からの来宅の無礼を佗わびた上、自分は仁作、此の子は絹と言って自分の孫である、と紹介した。
    嘉兵衛は玄関脇の小部屋に二人を招いた。
    仁作が玉を拭うみてぇに絹の草履を脱がせ、足を拭い、手を添えて部屋に上がる迄の様子から察すっと、絹は盲人(めしい)だ。

    「此の子は母親と京都にずっと住んでましてナ。
    母親は此の子が4歳の時、山城州祇園社の龍穴ってぇ深さ50丈に及ぶ祠の下にある古井戸に落ちましてナ。
    亡く成りました。
    以来、此の子は明 盲(あきめくら)と申しますか、眸は開きまするのに目の前ぇが真っ暗で、物が見えねぇって云います。
    今は引き取って今戸(いまど)にある大店(おおtな)の寮に一緒に住すんで居おりますがナ。
    今日お宅に伺いましたのはナ、実は此の子が儂の家で、近くに坊主も居ねぇのに、読経の声が聞こえるって云います。
    噂に拠りますと、先生は難しい事象を何でも解決して呉れる目明かしみてぇな方だって申しますのでナ。
    伺いましたがナ。」 勘良く起き出して奥の炊事場で団々(とんとん)と菜を刻む華の弾けた音を背に、嘉兵衛は仁作と絹に承諾の返事を爲し、茶の間に「どうぞ、そうぞ」と腰折り移動して、華を含めた四人で丸い卓袱薹(ちゃぶでぇ)を囲んで、温けぇ汁、飯と沢庵、佃煮の朝食を取り、目の不自由な絹を華に預けて、仁作を引き連れ今戸へ素っ飛んだ。

  3. 第二章:展開(ひろがり)

    今戸(いまど)、橋場(はしば)ってぇと、後(のち)の大磯、茅ケ崎(ちがさき)、逗子(ずし)、葉山(はやま)ってぇ風に、江戸時代ぇの別荘地で、病気の療養、家族の物見遊山(ゆさん)、火事時(どき)の控家(ひかえや)、大名や町人が砕けて遊ぶ所ってぇ風でもあった。
    向 島(むこうじま)から渡しに乗って、橋場へ渡ると錦絵みてぇな料理茶屋風の大店(おおだな)が並び、その裏の雇用人用長屋の一角に仁作は透駄透駄(すたすた)と入ぇってった。玄関に入ぇると直ぐ十畳位ぇの居間があり、其の先に土間の炊事場があって、其の先は直(もう)裏庭みてぇだ。
    炊事場の板戸を俄喇(がら)って開けて裏庭に出た嘉兵衛は、軒先に大けぇ人の頭位ぇの雀蜂の巣を見付(めっけ)た。一生懸命ぇ花から蜜を運ぶ蜂が数十匹、巣の周囲を取り囲むみてぇに氛々(うぉんうぉん)舞まってる。

    「仁作さん、お絹さんが読経の声が聞こえるってぇのは此この雀蜂の羽音だったんかも知んねぇな。盲人(めしい)は常人より耳が能(いい)ってぇからさ。」

    問題を一つ解(と)いた気が爲して嘉兵衛は居間に戻った。
    掃除の行き届いた部屋の片隅に舟箪笥があり、其の上に古反故(ふるぼけ)た木簡がある。
    手に取って見っと、薄い墨痕での文字が辛うじて読取れる。

    「其それは絹が母親が落ちた龍穴ってぇ古井戸の旁から拾って来た物で、母親代りに大事にしてる物でしてナ。」

    嘉兵衛は薄い墨痕を解読しようと思って、此の木簡を仁作に断って借りた。 木枯しの吹き荒(すさ)ぶ凍った夕闇の中を一人で家に戻っと、茶の間から華と絹の笑い声が弾み出た。

  4. 第三章:結果(みのり)

    1箇月程経った大晦(おおみそか)、正月の準備が全部(すっかり)整った嘉兵衛宅の居間に嘉兵衛、華、仁作、絹の四人が卓袱薹(ちゃぶでぇ)を囲んで集まり、真ん中にある木簡を指差して嘉兵衛の演説が始まった。

    「此この木簡には

    『南山之下有不流水其中有一大蛇九頭一尾不食余物但食唐鬼朝食三千暮食八百』

    ってぇ書いてあって、

    南山の麓の水の流れねぇ所に九つの頭と一つの尾を持つ大蛇が居り、外の物は食べず、唐鬼を朝に三千、夜に八百食べる

    ってぇ意味なんだ。
    此の出典を大ぇ分捜した。
    ってぇと、唐代の『千金翼方』ってぇ医学書の中に

    「南山有地、地中有蟲、赤頭黄尾、不食五穀、只食瘧鬼、朝食三千、暮食八百』

    ってぇ記載があんのを見付(めっけ)た。
    此れは当時、唐で熱病退治ん時に唱えられてた呪文だってぇ云う。
    大昔の人が天然痘みてぇな熱病に罹った折、呪文を木簡に書いて祇園社に納めたんが、偶々(たまたま)地上に出て其れをお絹さんが拾ったんじゃねぇか。
    此の木簡から声が出るなんて考えられねぇから、お絹さんの聞いた読経ってぇのは、矢張(やっぱ)雀蜂の羽音に違ぇねぇ。
    それから、お絹さんの目だが、外形は何ともねぇ。精神的な物だったら、其ん内見える様になっさ。」

  5. 終章の一:呪文(いのり)

    光孝天皇の王子に暗夜(くらやみ)の御子と稱せる盲目の王子あり。
    この王子盲者を憐れみ、多く御前に召して伽となし、男女の盲目の寄る處無き者、叉は病有りて醫療を爲すこと能(あた)はざる盲者をば洛陽佐目牛に居所を構へて養ひ玉へり。
    ある時この王子の姉、吾子が熱病に罹りたりとて、病治さんと願ひて、佐目牛より子供の盲者を攫(さら)(いきにえ)となし、呪文を書きたる木簡と共に祇園社の龍穴に落し、大声にて呪文を唱えながら願ひぬ。

    …南山之下有不流水其中有一大蛇九頭一尾不食余物但食唐鬼朝食三千暮食八百!

    暗夜の王子大ひに嘆きて龍穴の上に祠を設けて盲者を祠り玉へり。

  6. 終章の二:墜落(おちる)

    其の親子は鞠を突ついて祇園社境内で遊んでた。
    少女(こども)はお転婆(てんば)で、寸(とん)と母親の小言を聞かなかった。
    「此れ!お悪戯(いた)はいけません。」
    「此れ!そんなに駆けては嬶(かか)の息が弾みます。」
    母親の声が常に走る少女(こども)の背を追っ駆けた。

    偶々(たまたま)二人の前を杖で道を左右に探さぐ)りながら、座頭が通った。

    「此れ、絹!。云う事を聞かぬと目が潰れてあんなに成りますよ。」

    不用意な母親の一声(ひとこえ)に座頭の潰れた目が燦(しかっ)!と光った。
    鞠が少女(こども)の手から零(こぼ)れて、転々と地面(じべた)を弾んだ。
    少女(こども)と母親両方(どっち)も追っ駆けた。
    母親の方が一瞬早く追っ付いたかに見えた途端、鞠は祠に転がり込んで龍穴に奔(ぽん)と飛び込んだ。
    母親が龍穴を覗き込んだ瞬間、座頭の罵倒に鈍(どん)と肩を突かれ、母親は龍穴の底に歙(すっ)と吸い込まれた。
    続いた少女(こども)が急に失せた広い母親の背中に連れて井戸を覗き込んだ瞬間、視力を失った。

  7. 終章の三:木簡(きふだ)

    母親は地球の底迄達するのでないかと思う程長い時間、落ちてった。
    五体が穴の底に鈍(どん)と叩き衝つけられた時は既に意識を失ってた。
    白骨化した小さな骸骨(しゃれこうべ)の長骨が梃子(てこ)になって、端にあった木簡を上空高く抛り上げ、穴の外迄弾き出した。
    母親の身体(からだ)が丁度小さな骸骨(しゃれこうべ)を抱(いだ)く型になった。
    と同時に木簡から穴の底まで、呪文が響き渡った。

    …南山之下有不流水其中有一大蛇九頭一尾不食余物但食唐鬼朝食三千暮食八百!

    操り人形のような動きで上に居た少女(こども)が木簡を握り締め呟いた。
    「嬶(かぁ)さん。何処へ行ったの。」

    少女(こども)が見えぬ眸を龍穴の底へ向けたと同時に、母親の身体から靄のような白い塊が上空高く昇って行き、地上に出ると暫く少女(こども)を見守っていたが、軈 (やがて)牛足(ゆっくり)と西方浄土目掛けて飛んでった。

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