ブンさんの復讐

ブンさんの復讐


お嬢様の復讐のためにブンさんのやったことは?


  1. 序章:特別調達庁

    昭和22年、晩秋。
    朝空の東半球を淡く朱に染めた日の出から程ない早朝、昨夜の寒さにすっかり冷えきった大地から朝の光に目覚めさせられた冷気が湯気のように涌き昇る薄靄(うすもや)を割いて、進駐軍のジープを露払いに一台のトラックが喘ぎながら、芝(しば)白金(しろがね)の坂道を登って行った。
    2台の車は、とある大きな邸宅の門を潜ると、ジープはそのまま半円形の徑に添って玄関前の車寄せまで走って止まり、トラックは門の横に聳える大銀杏の木の下に隠れるように待機した。
    折から高い蒼空の北端を破った11月の風が大気を掃いて、トラックの荷台に大銀杏からの黄色い枯れ葉がはらはらと数葉舞い降りた。

    ジープから降りた初老の役人は、ここが旧公爵家である事を確認した後、訪問を告げた。
    数刻後、音もなく玄関の戸が開いた。鷲鼻の男が怪訝そうに立っている。初老の役人は『特別調達庁』という肩書きの付いた名刺を恭しく差し出した。

    …占領直後の米軍の物資調達ぶりは、日本はあれだけの大きな戦争をやったのだから、余剰経済力はまだあると考えたようで、相当に荒かった。
    例えば、進駐軍用として家屋1萬千戸が必要だから、直ぐに作れと日本側に言って来たその足で、更に2千戸追加され、続いてまた2千戸というふうに追いかけて注文があり、兵舎の建築も相当な数で、金はいくら掛かっても良い、何日までにやれという話だから、費用はどうしても嵩(かさ)んだ。
    調達の命令も計画的に出るのではなく、部隊が自分の必要で勝手に要求し、ひどいのになると、個人的にいろいろ注文してそれが進駐軍命令となることもあった。
    第一次吉田内閣の時に、吉田首相が当時の日本の主要物資の生産高と米軍の要求する調達高を表にして、マ元帥に出した。
    戦前の2,30%しか生産していないのにその大半は米軍に調達物質として取られている、これでは経済復興などとても出来ない、と吉田式の抗議を突き付けた。
    これが一つの転機になって、調達について、予定計画を立てること、各部隊に対して割当をすること、米国側の調達機関を統一すること、円計算にすること、調達をする場合は軍政部の許可う得ること、というような改革が行われ、生まれたのが特別調達庁であった。
    (占領秘録・住本利男・中公文庫より)

    奥から出てきた女主人に役人は丁寧に、深々と頭を下げた。
    「誠に不躾(ぶしつけ)で申し訳ありません。
    占領軍の将校から、家族の娘の為にピアノを何台か調達せよ、との要求がありました。
    当庁の調査で貴家に良いピアノがあると判明したので、誠に申し訳ありませんが、貴家のピアノを調達させて下さい。
    当庁、特に私もこの仕事は実に辛いのです。
    すみませんが、これからの日本の将来のため、堪え忍んで下さい。」
    申し出た以外な言葉に女主人は顔色も変えず、
    「解りました。公爵様は生憎奥でお休みです。
    公爵様に解らぬように、今直ぐお持ち帰り下さい。
    ただ、娘が毎日練習していた愛器ですので、名残りに娘に今一度弾かせて下さい。」
    もの静かな声で噛み絞めるように言うと奥に戻った。

    やがて若い娘が奥から出てくると、ピアノに一礼し、『月光』を滑らかに、清らかに弾き始めた。
    頭を垂れた老役人の深いしわに包まれた眼に涙が溢れた。
    「…申し訳ない。我々も同様に辛いのです。」瞳はそう語っていた。
    『月光』を弾き終えると、数人の役人の手でピアノは外に出され、大銀杏の蔭のトラックに積まれた。
    折から、蒼天井の西に黒雲が湧き出し、陽が照っているのに大粒の雨が落ちて来て、黒いピアノの天蓋ににじんだ涙のような染みを作った。
    「お嬢様!」
    門扉の蔭から鷲鼻の男が深々と頭を下げ、鋭い眼で進駐軍のジープを睨み付けると、眼からは大粒の涙が地面に落ちて、急な雨と同じ染みを作った。
    ジープとトラックは逃げるように邸宅の門を出て、芝白金の坂を下って行った。

  2. 第一章:ブンさん

    数年後の文京区、根津。
    ブンさんが根津神社の参道を電車通りの方に歩いて行くと、大勢の子供達が後に続いてぞろぞろ付いて行った。
    ブンさんはブリキ製の長四角の石油缶をいつも小脇に抱えていて、子供達が急かすとその中央に趣(おもむろ)に胡座(あぐら)をかいて、両手で抱えた石油缶の中に頭を突っ込み、ブンさんの顔の中央に聳える鷲鼻の小鼻を左手の親指と人差し指で摘みながら下方に指をずらして、同時にブンと鼻から声を出した。
    すると石油缶の中の空間にブンという音が微妙に響いて、恰もギターか三味線を爪弾くような音がした。
    ブンさんはこの口三味線ならぬ鼻三味線でメロディーを奏でて、根津の住人の人気を取っており、この特技から、誰からもブンさんの愛称で親しまれていた。
    ブンさんは鼻三味線をしている時は若く見え、子供や見物人が居なくなると急に老けて見えて、年齢等は不詳であった。

    ブンさんは、心得ていて、見物人に子供が多い時は鐘の鳴る丘やお山の杉の子を、女性が多い時は影を慕いてやりんごの歌を、男性が多い時は上海帰りのリルや異国の丘を鼻三味線で奏で、喜んだ見物人から二宮尊得の描かれた一円札を『おひねり』で貰って生計を立てていた。
    その日、いつものように根津権現の参道の一角で立ち止ったブンさんは石油缶に頭を突っ込んで、意地悪な根津の餓鬼共のリクエストに応じて、NHKの人気番組『三つの歌』のテーマ曲の鼻三味線を始めた。

    ぶーんぶんぶんぶんぶんぶんぶん(三ーつの歌です)、
    ぶーんぶんぶんぶんぶんぶん(きーみも僕も)、
    ぶんぶんぶーんぶん、ぶんぶんぶーんぶん、ぶんぶんぶんぶん(あなたーもわたしーもほがらかに)、
    ぶんぶんぶーんぶんぶんぶんぶんぶん(忘れーた歌なら)、
    ぶーんぶーんぶんぶんぶんぶんぶん(おーもーい出しましょ)、
    ぶーんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん(みーんな元気に歌いましょ)

    ーそこまで、奏でた時、根津八重垣町の電停の信号で進駐軍の黄土色のスクールバスが止まって、中で談笑する金髪や黒人の子供達の笑顔が見え、ブンさんは一瞬厳しい目つきでバスの窓を睨んだ。
    「どうしたんだよう、ブンさん」
    急に止んだメロディに、子供達が抗議すると、
    「あ、悪い、悪い。」
    謝りながらにっこり笑った。
    我に返ったブンさんは次の難問、根津小学校校歌と誠之(せいし)小学校校歌に早速取り組んでいった。
    「疲れたから、今日はこれでおしまい!」
    何とか誠之小学校校歌を奏でたブンさんは、そう宣言して、不忍の池へ歩いて行った。
    池の辺(ほとり)のベンチに寝転がって、梅雨から初夏に向かう速い雲の流れを見つめながら、終戦直後の悔しい日々を思い出した。
    ブンさんの住居は現在は上野の地下街の通路だが、以前は芝白金の、とある大きな旧公爵の邸宅に使えていた。

  3. 第二章:回想

    …お嬢様のピアノが運び出され、ガランと広くなった客間に佇んだブンさんは、数々の怒りに身を震わせた。
    「何故だ。何故お嬢様まで、こんな目に合わねばならないんだ。
    確かに日本は戦争に負けた。
    だけど戦争を起こした人達は今市ケ谷で裁かれているじゃないか。
    何で、一般人まで米国人に裁かれなきゃならないんだ。
    敗戦国の一般市民の財産を、戦勝国の軍人が略奪していくのは、戦争に名を借りた泥棒行為じゃないか。
    陛下が終戦の玉音放送で言っていたー堪え難きを堪え、忍び難きを忍べーとはこういう事なのか。
    それじゃ、余りにもお嬢様が可哀相すぎる。
    お嬢様が米国に何をしたと言うんだ。
    許せない。戦勝国だからといって、えばっている米国人は許せない。」

    次いで、ブンさんはお嬢様と逗子の材木座海岸に泳ぎに行った日の事を思い出した。
    終戦と共に病いが悪化して床に着く日が増えた公爵様に代わって、ブンさんがお嬢様の相手をする日が増え、その日はお嬢様が夏休みに入って最初の快晴日で、絶好の行楽日でもあった。
    …白金の邸宅から国電田町駅までは、歩いて行く事になった。
    当時、公爵家の台所は火の車で、車を呼んだりする余裕はなかったし、2台もあった乗用車は例によって米軍に調達されていた。
    「ブンさん、早くウ」
    お嬢様は嬉しくってしょうがない様子で、荷物を持って坂をえっちら、おっちらと下って行くブンさんを下から見上げて、せっついた。
    「お嬢様、待って下さいよ、置いていかないで下さいよ。」
    ブンさんもおどけて、一時(ひととき)、お嬢様のいつもは寂しい瞳が輝いた。
    …田町駅のプラットホームに六三型の山手線の電車が入って来た。
    先頭車両の前半分には横にグリーンの帯が描かれ、進駐軍兵士用の2等車になっていて、日本人用の車両が寿司詰めの満盃でもいつもガラ空きで、決まって派手な化粧をしたパンパンをはべらした米兵がえらそうな態度で乗っていた。
    清楚な夏用のセーラー服を来たお嬢様を見つけた2等車の米兵は、窓を開けて下品(げび)た英語でお嬢様をからかった。
    一瞬顔色を変えたお嬢様はブンさんの後に隠れながら、満員の車両に乗り込んだ。
    「お嬢様、すみません。堪えて下さい。こらえて下さい。」
    ブンさんが米兵に代わってお嬢様に謝った。

    …東京駅から省線(しょうせん)電車と言われていた横須賀線に乗った。
    先頭車両はやはりガラ空きの2等車が付いていて、女を伴った米兵がちらほら乗っていた。
    ブンさんとお嬢様は満員の普通車両に乗って、逗子駅まで立ち通した。
    その間中、お嬢様はすっかり無口になった。
    「ほら、大船(おおふな)の観音様ですよ。」
    ブンさんが車窓からの景色を説明しても、
    「はい」
    気の抜けた返事が返ってきただけだった。


    …それでも材木座に着いた頃はお嬢様の機嫌も直って、海の家で裾にフリルのついた水着に着替えた頃は、元の快活な少女に戻っていた。
    「ブンさん、渚まで一緒に競走しましょう。」
    火傷(やけど)するような砂浜にたたらを踏んで、二人で波打ち際まで駆けて行った。
    …材木座の海岸は真ん中でロープで仕切られ、右半分は米兵専用の厚生施設となって、瀟洒(しょうしゃ)な海の家や白いペンキの塗られたシャワールームがあり、大変空いていた。
    左半分は日本人用の浜辺で芋を洗うような混み方であった。
    お嬢様はしばらく海に浸かってクロールやら平泳ぎやら楽しんでいた。
    浜に上がると、ビーチボールを膨らませて、ブンさんとバレーボールの真似事を始めた。
    ブンさんの打ったボールが仕切りのロープを飛び越して米軍側の浜に入った。
    追っかけて行ったお嬢様も思わず仕切りのロープを越えて米軍側の浜に入った。
    すると、突然ピリピリーッという警笛が鳴って、数人の米兵が飛んで来て、お嬢様を取り囲んだ。
    びっくりしたブンさんがお嬢様を助けようとロープを潜った所で、米兵に押し戻された。
    「ブンさん、助けて!」
    悲鳴に近い泣き声と共に、結局お嬢様は海岸の奥の星条旗の飾られた建物に連れて行かれた。

    …憔悴しきったブンさんの前に通訳に伴われたお嬢様が泣き顔で帰って来た時は、2時間程経っていた。
    お嬢様の話や通訳の話によると、米兵は泣き出したお嬢様を囲んで、スパイとかキョウサントウとかカタコトで責めて、お嬢様の身体に触ったり、水着を脱がそうとしたり、やりたい放題であった。
    地元の警察に通訳の要請があって、通訳がその建物に着いた時はお嬢様は上半身裸にされ、米兵の鄙猥(ひわい)な目の監視の中で、失神寸前であった。
    「この子はまだ高校生で、スパイや共産党のはずはない。」
    通訳が説明して、やっとお嬢様は開放された。
    「カメラはないか。」
    「凶器はないか。」
    身体のあちこちを触った上、
    「日本人はおとなしくて言いなりだ。」
    「役得だ。」
    米兵が言い合っていたという。
    『戦勝国だからといって、何でお嬢様をこんな目に合わせるんだ。
    戦争を引き起こして、戦争を遂行した者は連合軍の裁判で裁かれているじゃないか。
    民間人に何の罪があるんだ。
    お嬢様が米兵に何をしたというんだ。
    ひどいじゃないか。あまりに傲慢な仕打ちじゃないか。』
    ブンさんは頭の中で抗議して、お嬢様の肩を優しく抱いた。
    「申し訳ありません。ごめんなさい。忘れて下さい」
    米兵に代わってひたすら謝った。
    お嬢様はブンさんの腕の中で唯々(ただただ)震えていた。

    …その年の冬、米軍の貴族・財閥解体の方針から爵位を奪われた公爵様が失意の内に亡くなり、気位の高い奥様は後を追って自殺した。
    お嬢様はひとりぼっちになった。
    邸宅には借金ばかり残り、残されたお嬢様は無理矢理高利貸しに引き取られ、妾同様の扱いを受けた。
    邸宅は間もなく進駐軍の厚生施設となり、金髪の将校達の出入りする場と化した。
    ブンさんは邸宅を出て上野の地下道で暮らすようになった。
    「全ては米兵の所為だ、あいつらさえ来なかったら、戦前通りの生活が出来て、お嬢様も学校を続けられたんだ。あいつらをいつか殺してやる。」
    鬼のような信念がブンさんの心の中を占領した。

  4. 第三章:みよ筋

    ある日、ブンさんは根津の悪餓鬼の一人から、こんな話を聞いた。
    「俺んちの田舎は千葉の九十九里浜の上総片貝(かずさかたがい)ってぇ所にあってさ。
    浜で地引きを引くと、数えきれねぇ程の大鰯(おおいわし)が獲れんだ。
    浜の男は皆素っ裸でさ。
    前の一物が振裸振裸(ブラブラ)して邪魔だってんで、藁(わら)で一物(サオ)の先を腰に結わえて海に入ぇるんだ。
    獲れた鰯はさ、尾鰭(しっぽ)んとこを持って、舟縁(ふなべり)に頭を打ちつけるんだ。
    そいでさ、平坦(ぐったり)したとこを、頭の方から皮をつるって剥ぐんだ。
    獲れたての鰯ってのはつるって皮が一皮剥けて裸になるだって。
    そいつを海の水に浸して内蔵を指で押し出して、頭からがぶりって喰うんだ。
    それがさ、てんで旨(うめ)ぇんだってさ。

    「浜にはさ、みよ筋(すじ)ってぇのがあってさ。
    早ぇ話が波の帰り道なんだって。
    九十九里の波は沖の方から5重にも、7重にも重なって、畳み込むように浜に打ち付けるんだ。
    で、寄せた波がさ、沖に向かって帰る道筋をみよ筋って言うんだ。
    このみよ筋に入ると地元の漁師でも20町位沖に流されちゃうんだ。
    みよ筋に捕まったらさ、そのまま止まるまで沖に流されるままでいねぇと駄目なんだって。
    沖で止まってから、右か左に2町位泳いでから、岸に戻るんだって。
    下手に逃れようとして、沖に流されている時に止まる前に横に泳いでいくと、どうしてもみよ筋から抜けられないんだって。
    そうすると地元の漁師でも体力を消耗して溺れて死んじゃうんだってさ。
    みよ筋はさ、毎日変わるんだって。
    だから、朝と昼、地元の漁師が波の具合を見てみよ筋を見つけると、みよ筋の入り口の浜には赤旗を2本立てて、その間は入ってはいけないという合図にするんだってさ。

    「最近さ、片貝の九十九里の浜に進駐軍の厚生施設が出来て、ヤンキーの兵隊がいっぱい泳ぐようになってさ。おじぃちゃんがさ、ヤンキーの兵隊が溺れなければいいって心配してたけどさ、あいつらパンパン連れて悪いことばっかやってるからさ。
    奴らみんなみよ筋にはまって、死んじめえばいいのにさ。」
    ブンさんの頭に豆電球がチカッと光った。

  5. 第四章:九十九里浜

    翌日の早朝、ブンさんは上野駅から千葉県の東金(とうがね)までの切符を買った。
    上野から山手線に乗って秋葉原に行き、秋葉原から総武線に乗り換えて千葉駅に向かった。
    千葉駅近くになって、幕張(まくはり)、稲毛(いなげ)と続くと車窓から東京湾が見え、潮の香りが漂って来て、材木座の事件を思い出し、ブンさんの表情が陰った。
    千葉駅から房総外線に乗り換えるべく、0番線に回った。
    勝浦行きの蒸気機関車が黒い煙をもくもく出しながら、待機していて、ブンさんが客車に乗ると間もなく、ボーッと汽笛を鳴らして、ガッタン、ゴットンと動きだした。
    汽車は再び東京方面に向かって、ブンさんを驚かせたが、間もなく東京方面の線路から別れて左に曲がって、本千葉駅にすぐに止まった。
    東京に比べて町並みは低く、ずいぶんと田舎に来た気がして、ブンさんは車窓からの景色を食い入るように見つめた。

    本千葉を過ぎると、千葉の町並みはすぐに途絶えて田園風景になり、相変らず潮の香りが漂って、海岸線がはるかに見え隠れした。
    蘇我で館山方面へ行く房総内線と分かれ、汽車は急に林の茂る山道に入って、房総半島の根元を横切って行った。
    トンネルを過ぎると大網駅で、そこでブンさんは降りて、成東(なるとう)行きの蒸気機関車に乗り換えた。
    大網の次がもう東金で、此処からはマッチ箱のような軌道車に乗り換え、揺られて、上総片貝に着いた。
    上総片貝の玩具(おもちゃ)みたいな軌道車の駅を出ると、ザッブーン、ザッブーンという波の音が聞こえた。
    音に釣られて砂地の徑を歩いて行くと、急に視野が180度開いて7月の太陽に輝く勇壮な九十九里の海が目の前に飛び込んで来た。

    早朝に東京を発ったのに乗り換えが多かったお陰で太陽は青天井の頂上近くまで昇り、まもなくお昼になろうとしていた。
    海に向かって左側に粗末な漁師の家に囲まれて瀟洒な米兵専用の海の家と白いペンキで塗られたシャワールームが建っていた。
    ブンさんにとって都合のいいことに丁度その時、海の家から出てきた水着に着替えた若い金髪の兵士と黒髪の日本の若い女が、シャワールームに入って行く所であった。
    ブンさんは7月の太陽に焼けた砂浜を飛び上がりながら、海辺に目指して駆けた。
    更に都合のいい事にお昼時とあって辺りには誰一人人影はなかった。
    目指す赤旗は目の前にあった。
    ブンさんは赤旗を引き抜くと2町位銚子寄りに歩いて、そこに赤旗を立てた。
    もう一つの赤旗も同じ位銚子寄りに動かした。
    そこでゆっくり回れ右して、一軒だけある日本人用の海の家の葦簾(よしず)の影に腰を降ろした。  

    間もなく米兵と日本の女がシャワールームから出て来て砂浜に茣蓙(ござ)を敷き、二人で腰を降ろした。
    女としばらく談笑していた米兵はやがて立ち上がると軽い体操を始め、浜に残った女に手を降った後、ブンさんが動かす前の2本の赤旗の中央あたりから、5重にも7重にも重なって逆巻く波を掻き分けて、海に入って行った。
    2〜3時間して連れの女から米兵が沖に泳ぎに出ていったきり戻って来ないと米兵専用の海の家へ連絡があり大騒ぎになった。
    その時点で、ブンさんは東京に向かった。

    翌日の新聞に米兵が九十九里浜で溺れ死んだという小さな記事が載った。
    「お嬢様、仇を討ちましたよ。」
    上野の地下道でブンさんが涙を流した。

  6. 終章:ヨハネの黙示録

    その米兵は幾重にも打ち寄せてくる波と戦いながら沖へと泳いでいった。
    一つ波を越すと直ぐに叉山のような波が米兵を襲った。
    米兵は波と戦いながらあっけなかった沖縄上陸戦を思い出していた。
    …未明に米兵の部隊は沖縄の海岸に上陸した。たいした抵抗も受けずに沿岸の寒村を襲った。
    米兵に取って敵は日本軍だけでなかった。
    恐怖に駆られた同僚が後から発砲してくる危険もあり、前、後交互に銃を向けながら人が隠れて居そうな穴という穴に盲打ちした。
    穴の中からは兵隊だけでなく、老人や女、子供の死体が出てきた。
    熱心なクリスチャンの米兵の耳にモウセの十戒が響いた。

    ー汝、殺すなかれー。

    耳を覆いながら更に進んで穴を見つけると、叉盲打ちをした。
    穴の中で確かに悲鳴が聞こえた。
    …これは戦争に名を借りた殺人だ。
    そう米兵は考えた。毎日唱えている主の祈りの一節が叉米兵の耳に聞こえた。

    ー御国(みくに)を来たらしめ給え。御心(みこころ)を天に於ける如く地にも行わしめ給えー

    今、自分のやっている殺人行為が本当に極東のこの国に御国を来たらしめるのか。
    これが天に於ける御心なのか。
    米兵は頭を振りながら、叉前進した。

    5つ位の波を越しただろうか。
    米兵の足が海底から浮き上がる位の所まで来た途端、米兵は浜の方からすごい力によって沖に流されて行った。
    米兵は慌てた。
    横に泳いだ。また沖に流された。
    更に横に泳いだ。叉沖に流された。
    海水が鼻から、口から、耳から体内に入った。

    …沖縄戦が味方の勝利に終り、広島、長崎に原爆が落とされてこの戦争は終了した。
    終戦後進駐軍に編入され焼け野原の東京を見た時、真珠湾の奇襲に始まったこの戦争の終末としてこの国は当然の報いを受けたと考えた。

    ー諸國の民、怒(いかり)を懐(いだ)けり。なんぢの怒も亦いたれり、死にたる者を審(さば)き、なんぢの僕(しもべ)なる預言者および聖徒、また小なるも大なるも汝の名を畏(おそ)るる者に報賞(むくい)をあたへ、地を亡(ほろぼ)す者を亡したまふ時いたれり。(約翰(ヨハネ)黙示録11・18)

    …しかし、それからの同僚の行為は米兵には許せない行為であった。
    敵兵の死体の懐から署名入りの日の丸を取りだして土産にする者、
    土足で民家に押し入って欄間(らんま)に飾ってある日本刀や槍、床の間の骨董品を持って行く者、
    原始時代からの戦利品、若い女性を漁る者、
    これは戦争に名を借りた強奪、強姦ではないか。
    そう米兵は考えた。

    ーされど臆(おく)するもの、信ぜぬもの、憎むべきもの、人を殺すもの、淫行(いんこう)のもの、咒術(まじわざ)をなすもの、偶像を拜する者および凡て偽る者は、火と硫黄との燃ゆる池にて其の報(むくい)を受くべし、これ第二の死なり。(約翰(ヨハネ)黙示録20・8)

    もがいても、もがいても沖に流される力から米兵は逃れられなかった。
    これが私に与えられた最後の審判の報いなのだろうか。
    そうだ、この先に懐かしいアメリカ合衆国がある。
    このまま流されればアメリカに帰れる。
    もがいても最後の審判からは逃れられないのなら、
    滅びの門に入れば楽になれるのなら、
    永遠の命が与えられるのなら、
    もはやもがいても無駄だ。
    そう考えて米兵はもがくのを止めた。
    海の波の中に何重もの泡に包まれた錦の門が見えた。
    あそこだ。あそこに行けば楽になれる。
    あそこが火と硫黄の燃える池だ!。

    すべての動きを止めた米兵は笑みを浮かべながら九十九里の海の底に沈んで行き、やがて黒潮に乗っていずこともなく流れて行った。

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