博士、質問があります。
博士の今の講演は、人間のあらゆる行動、現象、成育は全て分子、原子、量子、遺伝子レベルでの解剖学的、生理学的研究で説明できるとの証明でしたが、精神現象まで全て証明可能なのでしょうか。
例えば遺伝子の似ている兄弟、親子でも絵や音楽に対する好みは変わります。
兄が具象画が好きなのに、弟は抽象画が好きだったり、子供はロックやラップ、ヘビメタを好むのに親は演歌を歌ったり、暗記力や運動神経も差がでます。
学習は練習の賜物だという話しでしたが、医師になった王の兄が王と同じ努力、同じ練習をして王と同じ数のホームランを打てたのでしょうか。
感情、感覚、学習、記憶、理解力、運動能力、そういった精神活動は人間を素粒子以下の粒の集団にまでばらして、
博士のように、シナプスやらインパルスやら、DNAやらを駆使しても、科学的な説明と証明は現時点では不可能と考えますが…。
寝間の黒光りした太い柱に掛かった古びた柱時計の針が昭和20年3月9日深夜の11時59分を回って、いつものようにボンボンボンと12回鳴った。 母親が「来たァっ」と叫んだのには訳があって、 玄関からもんどり打って外に飛び出すとすでに四辺の闇空は真っ赤な炎に包まれ、 …この日、米空軍は、超低空からの夜間攻撃を妨害するサーチライトをまず完全に破壊した後、 近所の人が手に手に火たたきやバケツなどを持って走りながら、 …こうして、米軍の深夜空襲皆殺し作戦の犠牲になって母親は炭化し、二人の子供が離れ離れになった長い一夜は明けた。
東京の下町、深川区の狭くて入り込んだ露地の突き当たりにある長屋の2階では、若い母親が幼い二人の子供の寝顔を確かめてはだけた布団を掛け直し、
まもなく昨夜の疲れからウトウトウトとして、
燈火管制下、明かりが外に漏れないように黒い布で覆った裸電球が急に停電したのを知らなかった。
直後、
「敵機来襲、敵機来襲…」
空襲警報が発令された途端に、ドカッ、ドカッ、ドカッと大地から突き上げた揺れにB29のゴーッゴーッという爆音が二乗されたすさまじい寝覚し音に眠気を吹き飛ばされてガバッと跳ね起きた母親の眼に、
障子越しの東京の空が真っ赤に燃えているのが見えた。
「来たァっ!、来たわよ。起きなさい!。勝治!、美佐子!。」
もんぺを穿いて寝ていた母親はぐずる二人の子供の頭を叩いて起こすと、
二人の枕元に畳んでおいた防空頭巾を被せ、ちゃんちゃんこと言う綿入れを着せると自分も防空頭巾の紐を堅く結んで、
妹を背負い、兄の手を引いて階段を転がるように跳び降り、
子供にズックを穿かせ、自分は地下足袋を引っ掛けて玄関の引戸を殴るように開けた。
3月10日、この日は陸軍記念日に当たるので、今迄にない大空襲があるという噂が東京中を駆け巡り、
おまけにその不安を裏書きするかのように9日夕刻から北北西の強風が東京上空に吹き荒れたためだ。
敵機は東京南方から房総半島を北上し、
東京の北西の彼方で向きを変えて南西方面に向かって東京を縦断し、爆弾の雨を降らす。
今夜は危ない。
母親はそう考えて避難の準備を夕方から始めていた。
頭上はゴーッというB29の爆音が覆い、
ピカッ光った閃光、ヒュルヒュルゴーッという焼夷弾の落下音に続くドッカーン、ドッカーンという爆弾の破裂音が、
母親の細い神経をズタズタに引き裂いた。
爆撃目標地域周囲に、円形に、焼夷弾を落とした。
照明灯を打ち落とされて真っ暗になった東京に円形の火の大きな輪ができた。
その中央に後続の編隊が焼夷弾の絨毯爆撃を行った。
火が付くと、超低空で飛んで飛んで来た後続編隊のB29が、
モロトフのパン篭と呼ばれたガソリン入りの焼夷弾を逃げ惑う群衆に撒くように落として、
追い討ちを掛けた。
敵は最も残虐な戦法、無差別飽和爆撃=木と紙と土でできた家に住む住民皆殺し作戦を試みたのである。
折りも折り、強い北北西の風が敵の思うツボになった。
火の壁はたちまちにして江東ゼロメートル地帯を包囲し、
大火流は下町全体に波及して、
短時間の間に凄惨な火炎地獄を作り出した。
「こん畜生、本当にやりやがったな、覚えてろよ。」
口々に米国を罵っている。
防空壕に辿り着くと既にそこも火の海。
子供二人を連れた母親は大勢の群衆と共に火の粉の熱さから逃れる為に、
隅田川に向かって走り出した。
逃げ惑う群衆のすぐ背後に焼夷弾が落とされ、
群衆を火炎が追いかけた。
若い母親の背後に火炎が迫った。
母親は背中の女の子を前を走るリヤカーに投げ入れ、
手に引いた男の子の背中を強く押して、前を走る青年の手に子供の手を預け、
つんのめるように転んだ。
大勢の人の足に踏み付けられた母親の身体は、
間もなく火に包まれ黒い炭と化した。
程なく隅田川はパニックになって、
飛び出した大群衆の焼死体で埋まった。
その結果、3月10日午前零時15分空襲警報発令、それから2時37分までのわずか142分の間に、334機のB29が落とした約2000トンの焼夷弾によって、帝都東京の約4割は焦土と化し、
26万7171戸の建物を消失し、死者8万3793名、負傷者4万918名,罹災者100万8005名(警視庁資料による)を出した。
昭和26年7月文京区の駒込。 彼は本来はブリキやトタン、銅板の加工を本職として雨どいや長火鉢の銅壺の修理などをして生計を立てていたが、 「カラスウリ、カラスウリ」
いっちゃんは、鋏を仕舞って仕事を中断すると、子供を連れて正門に向かった。 子供の親は里親で、戦争中の大空襲時、深川からここまで逃げて来て、
柳沢吉保の下屋敷跡で、元録8年当時染井村駒込に4万7千坪を与えられて、
7年余を掛けて千川上水から水を引いて園の中に大池を造って二つの大きな中島を築き、
諸国の名石を集め、贅を尽くした回遊式の大名庭、
六義園は昭和13年に岩崎弥太郎から東京市に寄贈され公開されたが、
戦後進駐軍の厚生施設に接収され、入り口の大門脇には星条旗が旗めいていた。
大池の中島にある茅葺きの由緒ある茶室は『汚らしい』との理由で白いペンキを塗られて瓦屋根に改造され、シャワーまで取付けられた。
折しも数人の金髪の軍人が海水パンツになり、錦鯉の泳ぐ茶色い水面の池を手前の芝生から中島までクロールで泳いで遊んでいた。
その傍らで何でも屋の『いかけ屋のいっちゃん』が植木鋏を片手に難しい顔をしながら、庭木の手入れをしていた。
「ったく、あいつらときたら日本的な美ってェのを、何にも理解してやしねぇんだから。
佗びとか寂びとか解んねェ奴らに日本庭園を荒らされてたまるか。
泳ぎてェんなら、逗子か江ノ島に行きやがれ。」
従来の器用さに重ねて終戦直後の人手不足から、屋根の修理、鳶職、植木屋、自転車の修理など何でもこなして、
頼まれれば数台の壊れた自転車から子供用の自転車やリヤカーなどを再生して、
根津の住民から『何でも屋のいかけ屋のいっちゃん』の愛称で重宝がられていた。
本日も根津の支所の役人に頼まれて、戦後手入れを怠って荒れ放題になった六義園の庭木の手入れにやって来た所であった。
いっちゃんの傍らを7才位の女の子が思いつめた様子で、つぶやきながら薮の中に入っていった。
「そっち行っちゃ危ねェよ。一体全体何捜してんだい。」
「あのね、カラスウリ」
>「カラスウリはね、秋に実が成るんだぜ。
今ごろここらをうろちょろ捜してもあるわきゃねェよ。それに門衛の眼をどうやって盗んで入って来たんだい。」
途中で塀の一部に穴が開いておりそこを子供が指さしたので、どうやらそこから無断侵入したらしい。
往きは一人で帰りは子連れだったので門衛は眼を丸くしていたが、それでも門衛は進駐軍式の最敬礼をした。
いっちゃんも敬礼を返して正門を通過した。
正門から不忍通りに出たいっちゃんは、子供に言われるままに、
都電の車庫のある神明町の長屋まで、子供を届けに行った。
ここに来て始めてリヤカーの中に1才位の女の子が居るのに気づき、非常に驚いた。
きっと途中逃げきれなかった若い母親がせめて子供だけでも助かって、と願いを込めて投げ込んだのだろうと考えた。
幸い夫婦には子供が居なかったので、
お守りにあった美佐子という名を付けて、育てて来たという。
「誰も教えないのに、物心ついた頃から、時々カラスウリ、カラスウリと言っては、薮の中に入っていくんです。
きっと、この子の母親が教えたんでしょう。」
中年に達した人の良さそうな里親の母親は寂しそうに微笑んだ。
「ざまぁ見やがれ。2ぞろのあらしよ。 勝ちゃんは戦争孤児で、空襲で深川の家と母親を失い、父親は満州で戦死したため、 勝治は玄関前を通ったいかけ屋のいっちゃんを見つけると、
おいらの勝ちでぇ。はい、戴き、戴き」
根津の仁侠道に生きる一家『義人党』の玄関口で、勝ちゃんと呼ばれる中学生の少年が仲間の少年と『おいちょかぶ』と呼ばれる博打に興じていた。
彼らは奥の組員のように花札を使った博打ではなく、トランプを使っての博打であった。
それでもいっぱしに数字を、ぴん(1)、にぞう(2)、さんた(3)、よつや(4)、ごけ(5)、ろっぽう(6)、しちけん(7)、おいちょ(8)、かぶ(9)、ぶた(0)等と隠語で言って、博打うちを気取っていた。
今は空襲からの避難時に母親から委ねられた青年に引き取られて根津に住んでいた。
里親の青年は避難時に母親と妹の安否を気遣う勝治の手を引き千切るほどの力で走ってここまで逃げて来た。
しばらくは千駄木の親戚の家に居候していたが、
終戦後は根津に一軒の家を借りて、時計屋を営んで勝ちゃんと一緒に住んだ。
「おい。勝ち逃げはずるいぜ」
なじる仲間の声を背に、トランプを放り投げて通りへ飛び出した。
「いっちゃん、頼みがあるんだけどよ。」
「なんだい、勝。妹さんかい。まだ見つかんねぇよ。」
「違うんだ。おいらん家がよ。夜になると『ウリウリウリ、ミシャミシャミシャ』って泣くんだ。
原因を見つけてくんねぇかなぁ。気味悪くてよう、夜もおちおち寝れやしねぇ」
勝治には公理があって、公理といっても2点間の最短距離は直線であるとか、平行線は交わらないとかいった類のものではなくて、
『世の中の現象の出す音は全てカナに直せる』というもので、
例えば都電はカーブでは『カニラッツッツッツ、カニラッ』という音を出して曲がり、
軽飛行機から撒かれる広告ビラは『パラリンコ、ピラリンコ』と落ちてくると言う。
「家が泣くゥ。そんな話聞いたこたァねぇなァ。」
「だろゥ。だからよゥ、一度おいらん家に来て調べてくれよォ」
「ただいま。」
「うん、この梁はよゥ。半乾きの松を使ってるんだ。
「こんにちわ。おじさん」
店番をしている勝治の父に声を掛けながら二人は、柱時計が後の壁一面に釣り下がり、
ショウウインドウには懐中時計やら、腕時計やら、南京虫(婦人用の腕時計)やら並んでいる店を通って、
小さな引戸を開けると、靴をぬいで上がりこんだ。
そこは畳み敷きの茶の間になっていて、長火鉢と小さなちゃぶ台があり、
その奥に急な梯子段があって、昇り詰めると勝治の何もない殺風景な部屋があった。
その押し入れから天井板を外して、勝治といっちゃんはガサゴソと天井裏に忍び込んだ。
だからよゥ。ここんとこ、乾燥してるだろ。で、梁が乾燥して短くなって、柱と梁との継ぎ目に歪みができて、ミシッて鳴るんじゃねェかなぁ。」
「それは、ミシッて『鳴る』んだろ。おいらん家はよゥ。
『ウリウリウリ、ミシャミシャミシャ』って『泣く』んだぜ。」
「えっ、何だって。」
思わず頭を上げて後を振り返ったいっちゃんは頭上の梁にいやっと言う程頭を打ち付けた。
「いってェなァ。おおっ、痛ぇ!!」
「痛い時にはカラスウリ!」
「えッ!お前、今何て言った。」
「だから、痛い時にはカラスウリ!」
昭和27年3月雛祭り。所は駒込吉祥寺。
昨年の7月に『泣く家』の秘密を探ろうと勝ちゃん家の屋根裏でいやという程頭を打った時に勝ちゃんから聞いた「カラスウリ」が思わぬ妹発見の発端となった。 もう、間違いないと確信したいっちゃんはその足で勝治を美佐子の住む家に連れて行って里親の両親に子細を話した。 完全を期す両親といっちゃんはその後大学病院の法医学教室で二人の子供の血液型の鑑定をしてもらい.、
駒込吉祥寺は八百屋お七の明暦の大火で焼けた神田水道橋際の曹洞宗の寺吉祥寺が駒込に移転して創立された寺で、
因みに井の頭公園近くの吉祥寺という地名の由来は、寺跡の門前が火除地(防火帯)として住民の立ち退きを命ぜられ、
この武蔵野の地の新田開発して移り住んだ事に始まる。
戦災を免れた駒込の寺の本堂に勝治とその父親、美佐子とその里親二人、
それに神妙な顔をしたいかき屋のいっちゃんが正座してこれから住職の話を聞くところであった。
同じ日に見知らぬ少女と勝ちゃん双方から『カラスウリ』という言葉を聞いたいっちゃんは勝治からカラスウリの由来を聞いた。
「満州で死んだ親父の商売が漢方の薬屋でよ。その影響で空襲で死んだお袋も漢方に通じていてよ。
一度せき込んで熱が出て死にかけた時にカラスウリの実を乾燥させた物を煎じて服んだら、嘘みてぇに咳が止んで、熱が引いて、一晩でケロッと直っちまった。
それからカラスウリ党になってよ。
妹が風邪を引いたらカラスウリ服ませるし、
煎じた物をメンソレに混ぜてよ、おいらが頭を打ったらそのカラスウリ入りのメンソレを頭に塗るんだ。
痛い時にはカラスウリ、困った時にはカラスウリって年中言ってた。
だから、つい、痛い時にはカラスウリって出ちまったんだ。
別にいっちゃんをからかった訳じゃねェんだ。かんべんしてくんなョ。」
「違うんだ、勝ちゃん。俺、別に怒ってる訳じゃねェんだ。
もしかしたらよ、お前の妹が見つかったかもしんねェ。
お前の妹、美佐子っていわねェかい?。」
「うん、そうだけど、いっちゃんどうして妹の名前知ってんの。」
びっくりした両親はそれでも喜んで美佐子の身に付けていたお守り袋を見せた。
勝治の身につけていたお守り袋も同じ旧いきれの母親の手作り品で、
勝治の話だと、勝治達の母親は自分の嫁入り時に持ってきたお雛様が鼠に噛られてボロボロになったのを見て非常に嘆き悲しんだが、
一対の内裏雛の服だけ無傷であったのを縁起がいいと言って、
そのきれで子供達二人のお守り袋と戦地に赴く夫に、
『死線を越えるように』五銭銅貨を縫い付けた千人針を作って持たせたという。
98%の確立で兄妹に間違いないとのお墨付きを戴いた。
勝治の父親が間もなく嫁を迎えるので家が手狭になることから、
勝治も美佐子の両親に引き取られる事になった。
おせっかいないっちゃんは勝治に義人党に屯する不良仲間から完全に足を洗う事を約束させ、覚書まで書かせた。
勝治の『泣く家』はいっちゃんによって中途半端な合理的解釈がなされたままになっていた。
その後、兄妹が出会ってからはピタリと、ウンともスンとも泣かなくなったという。
空襲で死んだ母親の霊が関係しているのでなかと考えたいっちゃんは、専門家に相談してみようと考えた。
丁度、その頃吉祥寺の八百屋お七の幽霊騒動があった。
駒込吉祥寺にある八百屋お七の墓に夜な夜なお七の幽霊が出て、夕方になると『からんころん、からんころん』と下駄で歩く音がするという。
放送局の中継車まで待機して大騒動となったが、住職がお七の墓前で経を読み、荒れた墓の周囲を清めた所、下駄の音はピタリと止んだ。
この時の住職に相談に行ったいっちゃんは、本日この寺の本堂で住職から話を聞く段取りを付けてきた。
「因果応報というか、勝治と美佐子の周囲の善意と子育て半ばで亡くなった母親の無念さが、母親の霊を呼んで二人を結び付けたのじゃろう。
勝治の家が泣いたのは母親の霊が勝治の家に来て泣いたのじゃ。
だから、カラスウ
リを思い出させるため、ウリウリウリと、美佐子を思い出させるため、ミシャミシャミシャと泣いたのじゃ。そして、いっちゃんを使って二人を合わせたのじゃ。
そうじゃ。当寺に母親の墓を作って、母親の霊を弔ってやろう。
そうすればもう霊はこの世に現れないはずじゃ。」
聞いている美佐子の手の中には、一対の豆雛があった。
この豆雛はいっちゃんによってからすうりの木から彫られたもので、二人のお守り袋と一緒に小さな箱に治められて、一緒に住職の話を聞いていた。
その後、春と秋の彼岸には駒込吉祥寺の母親の墓の前に、勝治と美佐子の祈る姿が必ず見られるようになり、石作りの立派な墓も二人によって作られた。
いっちゃんは相変らず、近所の子供のブリキの玩具を直しているという。
解りました。 俳句は有限個である。 この説に異論はありませんが、でも私は、人間の精神には数で表せないもの、粒で表せないもの、
博士の今の解答では、精神活動まで含めてあくまでも人間の活動は解剖学的、生理的に説明し得るというのでしたね。
そして、どんなに不可思議な現象に見えてもそれは偶然のなせる業であって、先生はその証明に俳句を例に取りましたね。
だからもし見知らぬ二人の俳人が同時に同じ俳句を作ってもそれは霊が二人に乗り移ったのではなく、偶然に過ぎない。
証明。
俳句は5・7・5の17字で形成される。
昔風に濁音も清音で表すとするといろは47字にンを加えた48字との組み合わせは、4817個ある。
この数がどのくらいの数なのか見当もつかないので、対数を取ってみると、log4817=17log48=17(log3・2 )=17(log3+4log2)となり、ここで対数表からlog3=0.4771、log2=0.3010を借りて代入するとlog4817=28.5717になる。即ち28桁の数なのである。
仮に1億人の日本人が1分間に1句づつ俳句を24時間通して詠むとすると50兆年かかる。
しかしこの俳句はいろは順に、『いいいいい いいいいいいい いいいいい』から始まり、『ろいいいい いいいいいいい いいいいい』と進み、最後は『んんんんん んんんんんんん んんんんす』から『んんんんん んんんんんんん んんんんん』で終わる意味のないものが大部分だから、
コンピューターで5字で意味を成す字句、7字で意味を成す字句の辞書を作ってふるいに掛けていくと、
現在の最速のコンピューターは1ナノ秒(1秒の10億分の1秒)に1回の計算をするから、
このコンピューターで24時間演算させれば、7日間位で全ての俳句を印刷できる。2台のコンピューターで演算させれば、1日に同じ俳句を作りだす確立は7×7=49分の1となる。
だから二人の作家が同日に同じ句を作ってもそれは確立的に偶然の許せる範囲内だ。
そうでしたね。
例えば霊のようなものがあるという実例を知っております。
いや、それは私自身の体験でもあります。
私の名前ですか。
すみません、言い忘れました。
勝治、○×勝治と申します。