鏡の中に消えた母

鏡の中に消えた母


母と行った温泉で幼児の前で母が鏡の中に消えた?


(きいれ)

  1. 序章:夢

    少女は夢を見ていた。…
    …視野いっぱいの淡色の湯気…。
    …風呂場らしい…。
    …とっても静かだ…。
    …風呂場特有のコーンという、天井に突き抜けるような、木桶とタイルがぶつかり合う響きもない…。
    …それにしても、すごい湯気…。
    …眼を下げると、岩風呂の岩が下辺にうっすら色付いて広がり、その真ん中辺(あたり)に向こうを向いて湯に浸かっている母親の後姿が浮かんでいる…。
    …黒い丸髷に続く撫で肩の白い、細い肌…。
    …お母さん!…
    …こちら側から、呼びかける…私…。
    …と、間もなく、下の湯から藍染めの日本手ぬぐいが細い指と共ににゅっと出て、項(うなじ)(あたり)をゆっくり掃いた…と同時に…人影は背を見せながら、湯気の中をゆっくりと立ち上がった…。
    …細い、白い、今にも折れそうな長い背中…3の字をひっくり返したような、丸い小さな尻…。まるで竹久夢二の描くような華奢な背中が湯気の中に消えて行く
    …お母さん…何処へ…行くの?…
    …待って…私も連れて行って…お母さん…。
    …もうもうと立ち昇る淡い湯気の中を、細い、白い母の背を追って、幼女が走る…。
    …程なく、白い背中は、ガラス戸を開けて、大きな鏡の前に立った…。
    …瞬間、立ち止った背中…。こちらを向いた鏡の中の母親の顔が、静かに、微笑んだように…見えた…。
    …お母さん…置いて行っちゃ…厭…。私を置いて…行かないで…。
    幼女の懸命の追跡を振り払うように、白い背中は鏡に向かって進んで行き…、やがて鏡に写った顔を吸い取って…尚も鏡の中へ…中へと…突き進んで…行く…。
    …お母さん…何処へ…行くの?…私を置いて行かないで…私を一人にしないで…
    …幼女の必死の叫びも届かないのか、白い背中は…鏡の中を
    …どんどん…向こう側に…進んで…行って…小さく…小さく…なって…なって…行く…行く…。
    …お母さん!……お母さん!………お・か・あ・さ・ん……?
    …鏡の中の白い背中は…やがて…白い…点と…なり…、湯気の立ちこめる鏡の向こう側に…消えた…。
    …お…か…あ…さ…ー…ん…。
    …訝(いぶか)る幼女の前の床に…母親の背中から落ちた湯が…一塊となって…きらっと光って…見つめる幼女の瞳に…星を作った。

  2. 第一章:がっちゃん屋の征(まさ)

    昭和26年4月の上野不忍池。
    不忍池は昔の東京湾の入江の一部が江戸時代に周辺を埋立られたため残った池である。
    寛永2年、東叡山寛永寺建立の際、池を琵琶湖に見立てて、竹生島になぞらえた小島を築造して弁財天を祠ったお堂を建て、天龍山生池院不忍弁財天と号した。
    不忍池には当時から蓮(はす)が植えられ、蓮の花の名所として江戸の住民に親しまれた。

    この度の戦争の空襲で堂は焼け落ちた上、終戦直後は、池周辺には空襲で家を失った被災者や戦災孤児が大勢集まって汚らしい、粗末なテントを連立させて暮らし始め、公園の情緒は失われた。
    それでもさすがに、戦後5年以上経ったこの頃には大分落ち着いて、被災者も戦災孤児も都の施設に引き取られて公園から姿を消し、従来の公園らしさを取り戻していた。

    焼け落ちた弁財天のお堂の焼け跡の傍らに5尺程の小さな石像が立っていた。
    この石像は正面から見るとお地蔵様で、裏に回って見ると男根(ペニス)の形をしているという代物であった。
    その石像の前で、がっちゃん屋の征(まさ)ちゃんが根津の悪童達を並べて、ひいお祖父(じい)さんから聞いたっていう、慶応4年の上野の合戦の話を得意気にじゃべっていた。

    「慶応4年、この年はよぉ、天候もずっと不順で、米も不作でできやしねぇ。
    おまけに春のしょっぱなから雨がじとじと降っていてよぉ。
    3、4月になっても梅雨みてぇに雨ばっか降って一日中びしょびしょでよぉ。
    江戸中何処でもどぶが開いて、特に下谷から根岸、上野界隈の低地は水に浸かっちまって、
    往来を歩くとよぉ、脛までびしょびしょになっちまったんだ。
    そんな時、正確には5月の15日よぉ。
    上野の山に会津の彰義隊が立て篭ってよぉ、そいつらを官軍が攻めていったってぇ訳だ。」

    がっちゃん屋の征ちゃん家は別に商売をしていた訳じゃなかったが、
    何故がっちゃん屋と言われるようになったかには二説あって、
    一説は走っている都電の連結器に乗って『がっちゃんこっこ、がっちゃんこう』と歌っていたという説。
    もう一説は小学校で三越劇場に観劇に行った時、下りのエレベーター前で上の昇降表示を見て『下(した)りのエベレーター』と読んで皆に笑われ、先生から読み方が違うと注意された。
    しかし
    「下は西鉄の大下の下じゃねぇか、下に行くんだから下(した)りでいいんだよぉ。
    エベレーターにエレベスト、秋葉原(あきばはら)、何処が悪いんでぇ」
    逆に先生に開き直って、自説を絶対に変えなかった事から『がんこちゃん』と言われ、それから『がっちゃん屋』になったという説である。
    どちらが正解なのかは今となっては、征ちゃん自身にもわからねぇっていう。


    征ちゃんの名前の由来は親父が兵隊に取られて、出征中に生まれた事に拠る。
    征ちゃん家(ち)は5代以上続いたちゃきちゃきの江戸っ子ってぇのが唯一の自慢だった。
    『広島の紐で火鉢を縛った』
    こんな文章を征ちゃんに読ますと決まって
    『しろ島のしもでしばちをひばった』
    大声で怒鳴って胸を張った。
    その上、大層博学であった。
    博学と言っても大学受験に出るような、解析|、解析‖が解けたり、赤尾の赤本や豆単を丸暗記したりといった類のものではなくて、
    『湯屋にはよぉ、昔、男湯と女湯の間に八ケンってぇのがあってよぉ、、石榴(ざくろ)口を潜って入ったんよぉ。
    石榴口ってぇのは妙な言葉だがよぉ、
    昔はよぉ、鏡磨ぎ師は石榴の実で鏡を磨いだんよぉ。
    そいでよ、絵草紙なんかにも鏡磨ぎ師の脇にはいつも石榴が描ぇてあったんよぉ。
    でよぉ、屈み入る(鏡入る)との洒落からよぉ、石榴口ってぇんだ』
    例えば、こんな風に、どっちかてぇと、世の中の下世話に通じていた。

    「山に通じる道路ってぇ道路にはよぉ、
    袴の股立ちを高く取り、抜き身の槍を立てた武士が、畳をガンギに食い違えに積んで厳重に守ってやがるんだ。
    その頭の上を山から鉄砲弾がしゅっしゅっと音を立てて飛んで行くんだぜ。
    その内ドドーン、ドドーン、ドドーンってぇ大砲の音、いよいよ官軍の反撃ってぇ段取りよぉ。」

    興に乗ってきた征ちゃんの頭上には桜のつぼみがぼつぼつ開いて、あちらこちらにピンクの花びらを付け、
    空には薮鴬がしきりに鳴いて、春の到来を告げていた。

    「陰気な暗い天気をつんざいてよぉ。
    ドドン、パチパチパチ、ドドン、パチパチパチ始まりやがった。
    でっけえ音がよぉ、引っ切りなしに周りを振動させてよぉ、
    10時頃には上野の山から真黒い焔が巻き上がってよぉ、
    そん内に真っ赤な火が雨を含んだ風と一緒に山を包みやがった。
    寺の中堂に火がついた訳よぉ
    。官軍はよぉ、黒門前の雁鍋の2階から小銃を、広小路の松坂屋から大砲を山に向けて打った、
    それが中堂に火をつけたってぇ訳よぉ。
    その内上野の西郷さんの弟の西郷従道ってぇ官軍の大将が御成街道から黒門口を破って、上野の山に攻め込んだってぇ寸法。
    さすがの彰義隊も苦戦奮闘したあげく、ちりぢりに落ちていった訳でぇ。とうとう、昼過ぎには戦争は大方片付いて終わっちまったんだ。
    でも、その後がまた大変で、三枚橋の辺から黒門辺りに死骸が類々としていたってぇ話よ。
    物見高ぇ江戸っ子がそん後も見物に集まって、
    上野の山が人の頭で真黒になったってぇじゃねぇか。」

    何時終わるとも知れないがっちゃん屋の征ちゃんの話に飽きて、
    根津の悪童共が欠伸を始めたり、左右突き合ったり始めた頃、
    征ちゃんは傍らを通った和服にステッキ、草履履き、柳屋金語楼ばりの禿頭の紳士を見て、言葉を止めた。
    「今日はここまで!」
    突然悪童共への話を止めて、紳士の前に駆け寄った。

  3. 第二章:T教授

    「先生、久しぶり。」
    「やあ、征雄君。元気かね。相変らず子供達集めて講談ごっこかい?」
    「そんなんじゃねぇんですよ。実は先生に聞いて欲しい話があるんですよ。」

    征ちゃんが精一杯の敬語を使った相手の紳士は、
    実は、東京大学医学部の病理学のT教授で、
    本当の所征ちゃんなど話もできない偉い方だったが、
    ひょんな事から知り合いになって、征ちゃんは解決したい問題が起こると必ずT教授の所へ行って、解決して貰っていた。

    T教授は本郷の誠之小学校から指ケ谷に抜ける細い坂下の薮に囲まれた旧い一軒家に住んでいて、
    専門の病理学以外には一切無頓着の変わり者であった。
    ガタピシ言う玄関の引戸を開けると、林檎箱が沢山積まれており、
    中には下駄やら、靴やら、草履やら突っ込んであって、いわば下駄箱もどきであった。
    擦り切れた畳の居間には天井まで本が山積みしてあって、
    裸電球の下、丸いちゃぶ台に向かって読書ばかりしている毎日だった。
    何でも、本の重みで何回も床が抜け、夫人に怒鳴られながら、その度に知り合いの大工に頼んで直して来たという。

    教室員がT教授宅に論文を持参した折り、蚊の大群が庭に太い円柱を作って舞っていたのを見つけた。
    早速、DDTなどを噴霧しようとした所、
    「池に居る蛙の餌になるから、そんなもの撒かないで呉れ。」
    球授の雷が落ちて、教室員は1尺余飛び上がって驚いたという。
    その代わり、学問には厳格で、学生への口頭試問が厳しかった。
    学生にとっては最難関で、病理の口頭試問に学部の4年になって始めて合格してやっと卒業できたという学生が殆どであった。

    T教授の口頭試問はもう何十年も変わっていない。
    箱の中に病気の名前が書いてある紙がたくさん入っている。
    学生にそれを籤引きのように引く。
    紙に書いてある病気についての病理組織学的な問題を口頭で出して、教授の気に入った答え以外は全部落第という厳しさであった。

    例えば、『白血病』と書いた紙切れを引いた学生には、教室中響き渡るような大声で
    「種類は?」
    怒鳴るように聞く。声にびっくりした学生が
    「骨髄性とリンパ球性…」
    おどおどと答えると
    「区別は、どうしますか。?」
    学生はしめたとばかり昨夜一夜で詰め込んだ二者の性質の違いをとうとうと述べ始めると、更に声を張り上げて
    「だから、細胞の違いはどうなんですか?顕微鏡で見ると細胞に『僕は骨髄性です』『僕はリンパ球性です』などと書いてあると言うんですか。」
    更にエスカレートして怒鳴る。

    「…」
    すっかりど肝を抜かれて、学生が黙るとT教授は
    「調べてらっしゃい!」
    大声で怒鳴りながら出口の扉を指差し、教室から学生を出してしまう。
    学生は参考書を見ても、教科書を見ても、教室員に聞いても良い事になっているが、
    教室員も心得ていて、口頭試問の時は教室に居なくなってしまうので、
    ちょっとやそっとの自習勉強じゃT教授の気に入った答えなど出る訳が無い。
    結局何度挑戦しても怒鳴り返され、その内夜の10時過ぎになると、T教授は帰ってしまう。
    止むを得ず叉次年度に再挑戦という事になって、
    一年間『調べてらっしゃい』となる訳だ。

    T教授の大声にびっくりして女子学生が失神した事があった。
    その時教授は自分も医師の筈なのに、慌てて、
    「救急車を呼べ!内科の当直医を呼べ!」
    うろたえ叫んで、教室員にからからかわれた。
    さすがにしばらくの間声を小さくしようと努力したそうだが、一週間と持たず、
    学生の間では病理学試験用の耳栓が流行(はや)った程だ。


    散歩好きのT教授は30分程掛けて自宅から不忍池までよく歩いた。
    特に蓮の花の咲く頃は毎日池に通った。
    縁日に屋台の店がカーバイトの灯の下にずらりと並んだある日、性質(たち)の悪い香具師(やし)に絡まれてお金を巻き上げられそうになったT教授をがっちゃん屋の征ちゃんが見つけた。
    一緒にいた子分の目玉の貞公の養父で同じく香具師を生業としていた男が教授に絡んでいた香具師に話をつけて、助けて上げた事があった。
    以来、T教授と征ちゃんはいろいろ話合うようになり、打ち解けた間柄になった。

    T教授は推理小説が好きで、ホームズを気取って謎解きにいろいろ挑戦しているという。
    征ちゃん家の隣の亭主が食事の時に涙が出てしょうがない、食事もろくろく採れない、と困っていた。
    そこでからかい半分がてらにT教授に尋ねると、教授はしばらく黙って考えた後
    「隣の主人は若いころ花柳界で遊びましたか。」
    至極真面目な顔で尋ねた。
    「俺ん家(ち)と同じ江戸っ子でしてね。(ち)宵越しの金は持たねぇって、
    若ぇ頃は金が入ぇると吉原へ女を買いに行って、家へ金を一文も入れて呉んなかったって、
    連れ合ぇが嘆ぇていたから、遊んだんじゃねぇですかね。」
    「ウン、それはきっと、『ワニの涙症候群』って言って梅毒による顔面神経麻痺ですよ。
    皮膚科の先生を紹介しますから、付属病院へ受診させなさい。
    大丈夫、良くなりますよ。」
    にこにこ笑って解決された。
    その後、隣の亭主が受診して治療した所、本当に良くなった。以来征ちゃんはT教授を神様のように尊敬した。
    「ワニの事、毛唐の言葉でアリガテエってんだろ。本当に有り難い先生だよぉ。蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨、百足汽車なら蠅は鳥!ってんでぇ」

  4. 第三章:消失

    「話ってぇのは他でもないんですけどね。」
    真面目な顔で前置きして、征ちゃんは一週間程前に合った女の子の不思議な夢について語りだした。

    その女の子はいじめられて泣いていた。
    名前は万里子と言った。
    当時のいじめはがき大将の命令の下で行われるのが常であった。
    言葉によるいじめが多くて、例えば
    「これ、あげようか?」
    やさしく言われて
    「うん、ちょうだい」
    眼を輝かして手を出すと
    「あげようか。かが付くからかんがえよう。うが付くから嘘。そが付くから損だ。だがつくから駄目。めがつくからめんこ。こがつくからコツン。」
    結局頭を叩かれた。

    他の小学校の生徒に
    「お前の学校いい学校、入ってみたら、ボロ学校」
    教会の前で
    「アーメン、ソーメン、冷やそうめん」
    太った子に
    「デーブ、デーブ、百貫デーブ。電車に轢かれてぺっちゃんこ」

    霊柩車を見ると
    「ソーダー、ソーダー、ソーダー村の村長さんがソーダー飲んで死んだソウダ。葬式饅頭でっかいソウダ。中のアンコはちっちゃいソウダ。」
    こっそり友達の髪にゴミを載せて
    「だーれかさんの頭にちょんちょこりんがのってる。」
    女の中で男が一人で遊んでいると
    「おーんなの仲間に男が一人、弱虫毛虫、鋏んで捨てろ」
    友達が失敗すると
    「あーららこらら、いーけないんだ、いけないんだ、せーんせに言ってやろ。」
    どじな子には
    「あんぽんたん、おたんちん」
    「ばーか、かーば、ちんどんや。お前のかあさん、デベソ。お前も一緒にデベソ」
    などいろいろあった。

    その中に名前によるいじめがあった。例えばたけしという名前の子に
    「たけちゃん、たが付くたんざえもん、たんこーのたんぶくれ、たみかーけて、たーんこ、たんこ」
    よっちゃんなら
    「よっちゃん、よが付くよんざえもん、よんこーのよんぶくれ、よみかーけて、よーんこ、よんこ」
    皆で手を叩きながら囃し立てる。


    万里子はまさに根津の悪童連に
    「まりちゃん、まがつくまんざえもん…」
    悪態唄の最後まで囃し立てられ、聞くに堪えない言葉の羅列にシクシクと泣きだしてしまっていた。
    「こらっ。この餓鬼共。寄ってたかって一人の女の子をいじめやがって。なんて卑怯な奴らだ。」
    征ちゃんは怒鳴って悪童連を追い散らし、6年生位の女の子、万里子を根津宮永町にある家まで送って行った。
    そこで、女の子の親から十分に礼を言われた後、不思議な話を聞いた。

    この子は終戦の年の秋、夫婦で福島の白河の温泉に湯治に行った時、温泉で一人で泣いていたのを引き取って育てているという。
    「当時この子は6才で、母親は入浴中に温泉場の鏡の中に入って行って居なくなっちゃったと風呂場で一人で泣いていました。
    何でも父親は戦死して、母親と疎開先の三春(みはる)の郊外の神俣(かんまた)という所から東京に帰る途中で、
    「思い出を作りましょうね。」
    妙にやさしく母親が言って、白河の温泉に泊まったんだそうです。
    旅館の人や湯治客総出で一週間以上、辺り近所を捜したんですけど、
    どうしても居なくなった母親は見つかりません。
    母親が我が子を捨てるなんて考えられませんでしたが、
    この子一人温泉に残して行くのもかわいそうに思いました。
    幸い私が病弱で私達夫婦には子供がいませんでしたので、私達が引取りました。
    以来この子は母親が鏡の中に入って行く夢を何回も見て、
    うなされているんです。
    可哀相で見ていられません。

    「…ってぇ訳でね。先生。鏡の中に人が入って消える、なんてぇ事は本当にあるんですかね。」
    例の石像の前の岩に征雄と並んで座ったT教授は、膨らんだ桜のつぼみ越しに、禿げ頭をわずかに右に傾けて、焼けたお堂をじっと見ていた。
    「征雄君、『砂漠は生きている』という映画、見たかい。」
    「自慢じゃないがよぉ、映画ってぇのは、俺、東映のちゃんばら映画しか見たこたねぇ。
    大河内伝次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、いいねぇ。」
    「その映画の中でね。親鳥が小鳥の上に自分の羽根を広げて豪雨から小鳥を守るシーンがあるんだ。
    君ね。鳥みたいな動物でも親は我が身を張って、危険から子供を守るんだよ。僕は感激しましたね。」
    「ちゃんばらでも悪い奴は最後にいい奴に切られるってよぉ。感激するぞぉ。」
    「まして、人間の母親が6才の子供を捨てるなんて普通では考えられない。」
    「するってぇと、先生は母親が鏡を利用して自分の子供を捨てたって、考えてんですかい。」
    「ウーム。親子の情愛からある考えはあるんだがね。今週は講義はないから、ちょっと調べ事をして、来週もう一度ここで会おう。
    それまでには何とか解決するよう努力してみよう。」

  5. 第四章:解決

    一週間後の上野不忍池。
    池の周囲に植えられた桜はすっかり満開になって、花見酒としゃれこんで、蓆を敷いて配給制のお酒を飲む輩もちらほら見える。
    がっちゃん屋の征ちゃんとT教授は例の石像の前の岩に腰掛けて、何やら話込んでいる様子。
    「えっ。先生、それじゃ白河まで行って来たんですかい。」
    「うん、そうだ。終戦の年の秋に開いていた旅館はそう沢山はなかったから、万里子さん達の泊まった温泉旅館はすぐに解った。
    そこでまず、話を聞いた。
    それから、三春郊外の神俣にも行って見た。
    狭い寒村で東京からの疎開者の居た家はすぐに見つかった。
    そこでもいろんな話を聞いた。
    万里子さんの母親はね。肺結核に罹っていたんだ。
    もう余命幾許もないと疎開先の病院の医師に宣告されて、子供に結核を伝染すのを恐れたんだよ。
    それで温泉旅館の女将さんに理由を話して、二人で相談の上芝居をして、子供と母親を引き離したんだよ。
    「臆病で、寝る時まで一時も母親の傍らを離れない子供を見て、母親は普通の方法では子供と別れられないと思った。
    かといって捨て子をすれば将来子供にひどい親だと恨まれる、それも嫌だといろいろ考えて、
    急を要した事からあの方法を考え、実行したんだ。
    「上がり口には始めから鏡なんかありゃしなかった。
    女将さんが母親と同じ背格好なのでそれを利用したんだ。
    あの日、子供に風呂場のある場所から絶対離れるなと暗示を掛けて、子供の服と風呂場の柱を縛り付けて子供を動けないようにしておき、上がり口に予め裸の女将を立たせておいた。
    足元にはボイラー室から蒸気をホースで上がり口まで引いて、水蒸気を煙幕のように張って、水蒸気のカーテンを作ったんだ。
    「岩風呂から上がった母親はガラス戸をあけて、女将と向き合い、女将が子供を見て微笑んでから水蒸気のカーテンの中に素早く隠れ、
    一瞬にして女将と入れ替わった母親が裸のまま全速力で前方に走って消えたんだろう。
    子供は暗示に懸かっている上、自分が繋がれているとは考えないから、走って行く背中を見て、母親が鏡の中に入って行って、消えたように錯覚したんだ。
    「実は女将が僕に全てを白状した。
    幸い人の良さそうな、子供のいない夫婦が万里子を見つけたんで、これ幸いとその夫婦に子供を託したんだ。
    母親はしばらく旅館に隠れていたが、間もなく旅館で喀血して近くの病院に運ばれて亡くなったそうだ。
    女将は万里子さんの里親に『申し訳ないことをしました。許して下さい』と謝っていた
    。君からよろしく言って、謝っておいて下さい」
    「すごいね。先生。先生は本当に何でもできるんだよね。
    名探偵だよね。でもね、先生。
    万里子には母親は風呂場の鏡の中に入って居なくなった事にしておこうよ。
    その方がいいってよぉ。
    結構、結構。結構毛だらけ猫灰だらけ
     見上げたもんだよ屋根屋の褌!
    っとくらァ。」
    「そうだな。」
    T教授ははらはらと散り始めた桜の花びらを鋭い眼で見つめた後、横を向いてツンと洟を啜った。

  6. 終章:ブラックホール

    その母親は鏡の奥の歪んだ空間を泳ぐように進んでいった。
    この宇宙にはブラックホールという非常に質量の重い星がある。
    その星では光さえ外に出れない。
    例えば野球のボールを地球で天に向かって投げる。
    すると地球の重力によってボールは地球に引き寄せられて、再び地上に落下する。
    プロ野球の選手が投げても、地球からボールを脱出させる事はできない。
    ブラックホールでは光の光子さえ重い星の重力に引かれて、野球のボールが地球から脱出できないように、その星から脱出できない。
    光が外に出れないのだから、その星は外の星から見る事はできない。
    即ち、地球上からその星を見ても何も見えず、ブラックホールと呼ばれる。
    そこでは全ての物が重い星の中心に引き寄せられ、
    捩じれた4次元の空間の入り口となって、引き寄せられた物は歪んだ時空を通過して、宇宙の裏側に抜ける。
    大戦末期に日本に落ちた二つの原子爆弾が日本周囲の時空のエネルギー量を変えて、ブラックホールの入口を地球の日本近くに引き寄せた。
    万里子の母親はその入口から歪んだ宇宙に吸い寄せられ、今、こうして宇宙を進んで、遊泳している。

    空をごらんなさい。
    ほら、今光って流れて行った、
    あれが、母親の白い背中ですよ。

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