鎌田薫 大絵巻展
 大唐大慈恩寺三蔵法師伝 

平成19年5月25〜29日
西 覚 寺






第1号図 不東の出国  高2.3m 幅20m
 貞観元年(六二七)、玄奘三蔵はおおよそ十七年の歳月を経て帰国するインドへの求経の旅、すなわち苦難辛苦を重ねられた「不東」の旅に出られます。
 おりしも時代は隋が滅び、唐に変わったころです。
 唐初期の政権はまだ基盤が弱く、都の長安をはじめ、各地で治安が乱れていたために、言論統制をはじめ、さまざまな規制圧力がかけられていました。
 玄奘は他国の名僧から仏教を学びたいと願っていましたが、玄奘が出す出国申請は認められることはありませんでした。
 やむなく玄奘は、自身の内面の奧底から照らしつづける仏教の光をもとめ、貞観元年(六二七)国禁を破って竊かに「不東」の旅に出られたのです。
部分(ほぼ三分の一)



第2号図 駱 駝 図   高1.5m 幅3.5m
 長安の都を後にして、涼州、瓜州、そうして玉門関。駱駝の背にまたがり、ゴビの砂漠をへてミハを通過されました。
 シルクロード天山北路をとり、クチャを出た玄奘一行は、二日後、二千余騎の盗賊団に遭遇しました。その時はなんとか難を逃れることができました。
 しかし雪が少なくなるまで待っての天山越えでは、餓死・凍死する者が多く、しかも牛馬もほとんど失うことがありました。そんな苦渋を舐める苦難の旅が、玄奘の前にまだいくつもひかえていました。

 この絵は、砂塵を巻き上げる敦煌、長い棘のあるラクダ草だけが、ところどころに生えるゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を行く玄奘たち一行をイメージして描きました。



第3号図 聖講義図  高3m 幅12.5m
 苦渋辛苦の求経の旅を終え、膨大な数の御経を携えて、中国に帰りついた玄奘三蔵法師。
 大慈恩寺の講堂にて、玄奘三蔵が彼の訳になる般若心経の講義をなさっている様子を描いてみました。
 後方に並んでいますおおよそ三百体の仏様は、あの七百巻にのぼる膨大な大般若経のそれぞれ一巻づつとして、また舎利弗、富楼那など仏陀の十大弟子、多聞天、広目天など仏陀を守護する帝釈天たちをこの絵の中に入れ表現してみました。
 中央に釈迦如来を、そうして左に三仏の薬師如来、右には阿弥陀如来を意味します三体の仏様。これら六体の仏様はそれぞれ、出胎、誕生、降魔、成道、転法輪、入滅などの意味をもたせています。




第4号図高昌国幻想駱駝図2  高1.5m 幅5m
 火焔山の裾に広がるオアシス・トルファン盆地の高昌国にたどりついたのは秋の終わりでした。
 高昌国の王、麹文泰は玄奘の偉大さを知り、玄奘をこの地にとどめて高昌国仏教の交流をはかろうとしましたが、玄奘の求経の熱意は強く、国王の願いは果たされませんでした。
 その時二人の語らいの中に、玄奘の名高い不屈の言葉「不東」のやりとりがあったことを、弟子の沙門慧立は伝えています。
 かつての高昌国懐古を偲び、駱駝に乗り隊商をくんだ人たちが、夕日の中、今ちょうど高昌国のあったトルファン盆地に到着し、入城しようとする情景を表現してみました。




第5図 聖 山(天山山脈)  高1.8m 幅9.5m
 トルファンを出てウルムチに至るに、タクラマカン砂漠を後ろにすれば、
 それは怖ろしいばかりに厚く積もっているのだろう、真っ青な輝いている氷と、万年雪をつけた山脈が
 前方にその姿を見せ、ぐんぐん迫ってきます。

 玄奘は、唐からの密出国で始まった「不東」の旅、
 十七年にも及ぶインド西域の旅の途上で、
 幾日も幾日も、この荒々しく怖いばかりに目の前に広がる山々、
 どっかり腰を降ろして幾百万年、幾百千億年座り続けている聖山、
 おおきな大きな山塊を、
 玄奘はその眼の中に悉く収めていらっしゃったでしょう。




第6号図火焔山炎上高昌国滅亡  高1.8m 幅6.3m
 玄奘三蔵がインドへ行く途中、立ち寄った高昌国(トルファン)の王・麹文泰は玄奘の偉大さに、この国に留まるよう願った。
 しかし玄奘は「私は仏法を求めんがために、ひたすら西に向かって旅をしている。こころざしを果たさない限り、ふたたび長安に帰ることはない」と「不東」の精神を語ります。
 けれども「帰途必ず立ち寄り、三年間布教をする」と国王と交わした約束もむなしく、貞観十四年(六四〇)高昌国は唐に滅ぼされ、滅亡してしまいます。
 それを知らず王、麹文泰と交わした再会の約束を果たそうと、帰路安易なシルクロード海路をとらず再びあの辛苦をなめた砂漠の道・シルクロード陸路をとった玄奘は、その途上ガンダーラからカブールを経て、いよいよヒンズークシュ(ヒマラヤ)山脈を越えようとするその山のあたりで、ようやく王の亡きことを知ることになったのでした。

 わたしは、高昌国が唐によって貞観十四年攻め滅ぼされる様子を、あたかも背後の火焔山がいよいよ真っ赤に染まるだけでなく、この国の人々の魂まで焼け焦げ炎上する、そんな様をイメージしました。


     「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」絵巻展によせて
                                                      鎌田 薫

わが家のすぐ上、歩いてほぼ十五分ほどのところの丘に建つ大学の、大学祭がありました。
 その時だけ一般開放になっていました図書館に、おそるおそる入らしてもらいますと、玄奘三蔵の訳業になる「大般若経」や膨大な「大蔵経」など、圧倒されるほど多くの書籍が収蔵されている様子がわたしの目に焼きついてしまいました。

 その後、どうしてもあの「大蔵経」の幾編かを読みたい一心で、まるでおそれを知らぬまま、思い切って大学へ図書館入館の許可願いを出させてもらったのです。
 ほぼ一月ほど経ったそんなある日「入館許可」という大きなプレゼントを頂いたのです。
 それはそれは素晴らしい大学図書館からのお知らせでした。
 以来、これまで午前は大学の図書館、午後はわが家にという生活パターンがわたしに定着してもう七、八年。
 この間、玄奘三蔵の偉業を記した沙門慧立の「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」を知るに至り、これから得たわたしの心象を、何時かは絵巻風にしてみたいとそう思っていました。

 そんな折しもある日、わたしにとってかれこれもう三十年近くになる友であり、そうして師匠でもあります二紀会関西支部の重鎮・橋本清先生のお供で尼信博物館(兵庫県尼崎市)を訪問させていただいたことがご縁で、このたびの絵巻の誕生となりました。

 玄奘三蔵法師は苦難、「不東」の旅をなしとげた初唐の高僧で、数多く教典経論を翻訳した伝説者。彼の訳になる般若心経や六百巻にのぼる膨大な大般若経は、精緻をきわむ訳業といわれます。

                                              平成19年5月