大乗起信論義疏 下之上 六染心 智障・煩悩障の後半から 心生滅門の終わりまで |
大乗起信論義疏 下之上 |
大乗起信論義疏 下之上 浄影寺沙門慧遠撰 第二番中亦有四門。一定障相。二釈障名。三明断処。四対障弁脱。Keonsyo03-01R (第二番の中にまた四門あり。一に障相を定め、二に障の名を釈し、三に断処を明かし、四に障に対して脱を弁ず。)Keonsyo03-01R 言定相者。云何得知。五住性結為煩悩障。事中無知以為智障。Keonsyo03-01R (定相というは、云何が知ることを得るや。五住性結を煩悩障と為す。事の中の無知を以て智障と為す。)Keonsyo03-01R 如涅槃説。断除一切貪瞋痴等得心解脱。一切所知無障礙。故得慧解脱。貪瞋痴者即是五住性結煩悩。一切所知得無礙者。当知即是除事無知。又如地経以仏無礙為慧解脱。当知即是除事無知。遠離痴染為心解脱。当知即是五住性結為煩悩障。又雑心云。如来断除二種無知。一者断染汚。二者断不染汚。染汚無知即是五住性結煩悩。不染汚無知即是事中無明之心。准験斯等当知。以彼五住性結為煩悩障。事中無知以為智障。Keonsyo03-01R (『涅槃』に説くが如し。一切貪瞋痴等を断除して心解脱を得。一切の所知に障礙なきが故に慧解脱を得。貪瞋痴とは即ちこれ五住性結の煩悩なり。一切の所知に無礙を得とは、当に知るべし、即これ事無知を除くなり。また『地経』の如きは仏無礙を以て慧解脱と為す。当に知るべし、即ちこれ事無知を除き、痴染を遠離するを心解脱と為す。当に知るべし、即これ五住性結を煩悩障と為す。また『雑心』に云く。如来は二種の無知を断除す。一には染汚を断じ、二には不染汚を断ず。染汚無知は即ちこれ五住性結の煩悩なり。不染汚無知は即ちこれ事中の無明の心なり。これ等を准験して当に知るべし。彼の五住性結を以て煩悩障と為し、事中の無知を以て智障と為す。)Keonsyo03-01RL 次釈其名。五住性結能起分段変易生死。労乱行人故名煩悩障。事中闇惑能障如来種知明解。是故説此為智障也。Keonsyo03-01L (次にその名を釈す。五住性結は能く分段・変易の生死を起こす。行人を労乱するが故に煩悩障と名づく。事中の闇惑は能く如来種知明解を障う。この故にこれを説きて智障と為すなり。)Keonsyo03-01L 次弁断処。処別有三。一者世出世間相対分別。二者功用無功用相対分別。三者因果相対分別。Keonsyo03-01L (次に断処を弁ず。処の別に三あり。一には世・出世間相対分別、二には功用・無功用相対分別、三には因果相対分別なり。)Keonsyo03-01L 就初対中義別有二。一者隠顕互論。地前断除五住性結。以彼捨相趣順如故。初地以上断除智障。以彼地上契合法界了達諸法無障礙故。故地経云。於初地中一切世間文訟咒術不可窮尽。二者優劣相形。地前菩薩唯除煩悩。初地以上智行寛広二障双除。Keonsyo03-01L (初対の中に就きて義の別に二あり。一には隠顕互論。地前に五住性結を断除す。彼は相を捨て如に趣順するを以ての故に。初地以上に智障を断除す。彼は地上に法界に契合し諸法を了達して障礙なきを以ての故に。故に『地経〈十地経論〉』に云く「初地の中に於いて一切世間の文訟咒術、窮尽すべからず」と。二には優劣相形。地前の菩薩は唯、煩悩を除き、初地以上は智行寛広にして、二障双べ除く。)Keonsyo03-01L 第二対中義別有二。一者隠顕互論。七地以前唯除煩悩。八地以上滅除智障。如八地中浄仏国土。断除一切色中無知。九地之中了初心行。滅除一切心行無知。第十地中於諸法中得勝自在。断一切法中無知。此等皆是除事無知。二者優劣相形。七地以還唯除煩悩。八地以上二障双除。Keonsyo03-02R (第二対の中に義の別に二あり。一には隠顕互論。七地以前には、唯、煩悩を除く。八地以上には智障を滅除す。八地の中の如きは仏国土を浄め、一切の色中の無知を断除す。九地の中に初心の行を了し、一切の心行の無知を滅除す。第十地の中には諸法の中に於いて勝自在を得、一切法の中の無知を断ず。これ等は皆これ事無知を除く。二には優劣相形。七地以還には、唯、煩悩を除き、八地以上には二障を双べ除く。)Keonsyo03-02R 第三対中義別有二。一者隠顕互論。金剛以還断煩悩障。如来地中種智現起。了達一切差別諸法。断除智障。以事無知難除断故至仏乃尽。二者優劣相形。金剛以還唯断煩悩。如来果徳二障双断。Keonsyo03-02R (第三対の中に義の別に二あり。一には隠顕互論。金剛以還に煩悩障を断ち、如来地の中に種智現起し、一切の差別の諸法を了達し、智障を断除す。事無知は除断すること難きを以ての故に、仏に至りて乃し尽くす。二には優劣相形。金剛以還は、唯、煩悩を断じ、如来の果徳には二障を双べ断ず。)Keonsyo03-02R 次弁対障明脱。除煩悩障得心解脱。滅除智障得慧解脱。言心脱者其有二種。一仏菩薩行世間心。二仏菩薩第一義心。断四住故世諦心脱。除無明故真諦心脱。言慧脱者諸照世間一切種知得解脱也。Keonsyo03-02L (次に障に対して脱を明かすことを弁ぜば、煩悩障を除きて、心解脱を得、智障を滅除して、慧解脱を得。心脱というは、それ二種あり。一には仏菩薩行世間の心。二には仏菩薩第一義の心なり。四住を断ずるが故に世諦の心脱す。無明を除くが故に真諦の心脱す。慧脱というは、諸、世間を照す一切種知にして、解脱を得るなり。)Keonsyo03-02L 第三番中亦有四門。一定其障相。二釈障名。三明断処。四対障弁脱。Keonsyo03-02L (第三番の中にまた四門あり。一にはその障相を定む。二には障名を釈す。三には断処を明かす。四には障に対して脱を弁ず。)Keonsyo03-02L 言定相者云何得知。五住性結及事無知為煩悩障。分別之智以為智障。Keonsyo03-02L (定相というは、云何が知ることを得るや。五住性結及び事無知を煩悩障と為し、分別の智を以て智障と為す。)Keonsyo03-02L 如勝鬘云。五住及起同名煩悩。明知五住及事無智是煩悩障。Keonsyo03-02L (『勝鬘』に云うが如し。五住及び起こるを同じく煩悩と名づく。明らかに知りぬ、五住及び事無智、これ煩悩障なり。)Keonsyo03-02L 言分別智為智障者如宝性論説。有四種障不得如来浄我楽常。一者縁相謂無明地。以是障故不得如来究竟真浄。二者因相謂無漏業。以是障故不得真我。三者生相謂意生身。以是障故不得真楽。四者壊相謂変易生死。以是障故不得真常。彼既宣説無漏業障不得真我。是故定知。分別縁智是其智障。Keonsyo03-02L (分別智を智障と為すというは、『宝性論』に説くが如し「四種の障ありて如来の浄我楽常を得ず。一には縁相。謂く無明地なり。この障を以ての故に如来の究竟真浄を得ず。二には因相。謂く無漏業なり。この障を以ての故に真我を得ず。三には生相。謂く意生身なり。この障を以ての故に真楽を得ず。四には壊相。謂く変易生死なり。この障を以ての故に真常を得ず」。彼は既に無漏業障は真我を得ずと宣説す。この故に定んで知りぬ、分別縁智はこれその智障なることを。)Keonsyo03-02L 又如地経六地中説智障浄因事。謂不分別空三昧。以不分別為智障浄。明知即用分別之智以為智障。Keonsyo03-03R (また『地経』の六地の中に智障浄の因事を説くが如し。謂く空三昧を分別せず、不分別を以て智障浄と為す。明らかに知りぬ、即ち分別の智を用いて、以て智障と為す。)Keonsyo03-03R 又楞伽経云。妄想爾炎慧彼滅得我涅槃。滅爾炎慧方名涅槃。明知。所滅妄慧是障。Keonsyo03-03R (また『楞伽経』に云く「妄想爾炎慧、彼滅して我が涅槃を得」と。爾炎の慧を滅するを方に涅槃と名づく。明らかに知りぬ、所滅の妄慧はこれ障なり。)Keonsyo03-03R 又龍樹説。如彼覚観。望下為善。望第二禅即是罪過。乃至非想望下為善。望出世道即是罪過。縁智如是。望世為善。望其実性亦是罪過。既言罪過何為非障。Keonsyo03-03R (また龍樹の説かく。彼の覚観の如きは下に望むれば善と為り、第二禅に望むれば即ちこれ罪過なり。乃至、非想を下に望むれば善と為り、出世道に望むれば即りこれ罪過なり。縁智もかくの如し。世に望むれば善と為り、それ実性に望むれば、またこれ罪過なり。既に罪過という、何んぞ障に非ずと為ん。)Keonsyo03-03R 次釈其名。五住性結及事無知体。是闇惑労乱之法故名煩悩。縁智礙真故名智障。Keonsyo03-03L (次にその名を釈す。五住性結及び事無知体はこれ闇惑労乱の法なるが故に煩悩と名づく。縁智は真を礙ぐるが故に智障と名づく。)Keonsyo03-03L 問曰。此智能顕真。故経中説為了因也。何故今説為智障乎。多義如真故復名障。如薬治病若薬不去薬復成患。此亦如是。云何妨真。Keonsyo03-03L (問いて曰く。この智は能く真を顕す。故に経の中に説いて了因と為すなり。何が故ぞ今説きて智障と為すや。多義、真の如くなるが故にまた障と名づく。薬は病を治すれども、もし薬去らざれば、薬また患と成るが如し。これもまたかくの如し。云何が真を妨ぐる。)Keonsyo03-03L 如維摩説。寂滅是菩提。滅諸相故此智是相。所以是障。不観是菩提。離諸縁故此智是縁。所以為障。不行是菩提。無憶念故此智憶念。所以為障。断是菩提。断諸是故此智是見。所以是障。離是菩提。離妄想故此知妄想。所以是障。障是菩提。障諸願故此智是願。所以是障。菩提真明此智性闇。所以是障。如世楽受。性是行苦。如是等過不可具陳。皆違真徳故説為障。Keonsyo03-03L (『維摩』に説くが如し。「寂滅はこれ菩提なり。諸相を滅するが故に」。この智はこれ相なり。所以にこれ障なり。「不観はこれ菩提にして、諸縁を離るるが故に」。この智はこれ縁なり。所以に障と為り、「不行はこれ菩提なり。憶念なきが故に」。これ智は憶念す。所以に障と為す。「断はこれ菩提なり。諸是〈見か?〉を断ずるが故に」。この智はこれ見なり。所以にこれ障なり。「離はこれ菩提なり。妄想を離るるが故に」。この知は妄想なり。所以にこれ障なり。障はこれ菩提なり。諸願を障うるが故に、この智はこれ願なり。所以にこれ障なり。菩提は真明なり。この智は性闇なり。所以にこれ障なり。世楽受の如き、性はこれ行苦なり。かくの如き等の過は具陳すべからず。皆、真徳に違するが故に説きて障と為す。)Keonsyo03-03L 次弁断処。断処有二。一者地前地上相対分別。二者直就地上世出世間相対分別。Keonsyo03-04R (次に断処を弁ず。断処に二あり。一には地前と地上と相対して分別す。二には直ちに地上に就きて世と出世間と相対して分別す。)Keonsyo03-04R 就初対中義別有二。一隠顕互論。解行已前増相修故断煩悩障。初地以上捨相修故断除智障。云何増相能除煩悩。煩悩正以闇惑為患。従初已来修習明解縁智転増闇惑漸捨。至解行時明解増上惑障窮尽。説之為断。云何捨相。能断智障。智障正以分別為過。初地以上窮証自実縁修漸捨。分別過滅名断智障。Keonsyo03-04R (初対の中に就きて義別に二あり。一には隠顕、互いに論ず。解行已前には増相修の故に煩悩障を断つ。初地以上には捨相修の故に智障を断除す。云何が増相は能く煩悩を除くや。煩悩は正しく闇惑を以て患と為す。初よりこのかた明解を修習し縁智転た増して闇惑を漸く捨つ。解行に至る時、明解は増上し、惑障は窮尽す。これを説きて断と為す。云何が捨相、能く智障を断ずる。智障は正しく分別を以て過と為す。初地以上は自実を窮証し、縁修して漸く捨つ。分別の過滅するを智障を断ずると名づく。)Keonsyo03-04R 二優劣相形。地前菩薩唯断煩悩。初地以上対治深広二障双除。若論事識解滅者地前亦得。但不論耳。次就地上世出世間相対分別。初二三地名為世間。四地以上名為出世。Keonsyo03-04R (二には優劣相形。地前の菩薩は唯、煩悩を断じ、初地以上は対治深広にして二障双べ除く。もし事識の解滅を論ずれば、地前もまた得るも、但、論ぜざるのみ。次に地上に就きて世・出世間を相対して分別せば、初二三地を名づけて世間と為し、四地以上を名づけて出世と為す。)Keonsyo03-04R 於中亦有二門分別。一者隠顕互論。三地以還世間之行断煩悩障。四地以上出世真慧断除智障。云何世間除煩悩障。如地論説初地断除凡夫我相障。凡夫我障即是見一処住地。第二地中断除能犯惑煩悩。犯惑煩悩即是欲愛色愛有愛三種住地。第三地中断除闇相聞思修等諸法妄障。闇相即是無明住地。是故明地世間但断煩悩障也。Keonsyo03-04L (中に於いてまた二門の分別あり。一には隠顕互いに論ず。三地以還には世間の行をもって煩悩障を断ず。四地以上には出世の真慧をもって智障を断除す。云何が世間に煩悩障を除くや。『地論』に説くが如し。「初地に凡夫の我相の障を断除す」。凡夫の我障は即ちこれ見一処住地なり。「第二地の中に能く犯惑〈戒か?〉煩悩を断除す」。犯惑〈戒か?〉煩悩は即ちこれ欲愛・色愛・有愛三種住地なり。「第三地の中に闇相聞思修等の諸法妄障を断除す」。闇相は即ちこれ無明住地なり。この故に地世間に但、煩悩障を断ずることを明かすなり。)Keonsyo03-04L 云何出世能断智障。智障有三。一是智障。所謂空有之心。二是体障。所謂建立神智之体。相状如何。謂彼縁智正観諸法非有非無。捨前分別有無之礙。雖捨分別有無之礙而猶見已以為能観。如為所観。見已能観心与如異。如為所観。如与心別。由見已心与如別故未能泯捨神知之礙。説為体障。Keonsyo03-04L (云何が出世は能く智障を断ずるや。智障に三あり。一にはこれ智障。所謂る空有の心。二にはこれ体障。所謂る建立神智の体。相状は如何。謂く彼の縁智は正しく諸法非有非無と観じて、前の分別有無の礙を捨つ。分別有無の礙を捨つと雖も、而も猶〈なお〉見已を以て能観と為し、如を所観と為す。見已能観心と如とは異なりて、如を所観と為す。如と心とは別なり。見已心と如とは別なるに由るが故に、未だ神知の礙を泯捨すること能わざるを説きて体障と為す。)Keonsyo03-04L 三是治想。通而論之向前二種倶是治想。但此一門治中究竟偏与治名。然此治相亦是縁智。対治破前神智之礙。実心合如。雖復合如。論其体猶是七識生滅之法。障於真証無生滅慧故名為障。障別如此。Keonsyo03-05R (三にはこれ治想なり。通じてこれを論ずれば、向前の二種は倶にこれ治想なり。但この一門は治の中の究竟なれば、偏に治の名を与う。然るにこの治相は、またこれ縁智なり。対治して前の神智の礙を破す。実心は如に合す。また如に合すと雖も、その体を論ずれば猶〈なお〉これ七識生滅の法なり。真証無生滅の慧を障うるが故に名づけて障と為す。障別はかくの如し。)Keonsyo03-05R 治断云何。始従四地乃至七地断除智障。入第八地断除体障。八地以上至如来地断除治想。Keonsyo03-05R (治断は云何ん。始め四地より乃至、七地まで智障を断除す。第八地に入りて体障を断除す。八地以上より如来地に至るまでは治想を断除す。)Keonsyo03-05R 云何断智障。四五六地観空破有。捨離分別取有之智。故地経中広明。四地観察諸法。不生不滅。捨離分別解法慢障。第五地中観察三世。仏法平等。捨離分別身浄慢心。第六地中観法平等。捨離分別染浄慢心。此等皆是観空破取有之心。第七地中観諸法如。捨前分別取空之心。離如此等名断智障。Keonsyo03-05L (云何が智障を断ずるや。四五六地は空を観じて有を破し、分別取有の智を捨離す。故に『地経』の中に広く明かさく。四地には諸法の不生不滅を観察し、分別解法慢の障を捨離す。第五地の中には三世を観察し、仏法平等に分別身浄慢の心を捨離す。第六地の中には法平等を観じ、分別染浄慢の心を捨離す。これ等は皆これ空を観じて取有の心を破す。第七地の中には諸法の如を観じ、前の分別取空の心を捨す。かくの如き等を離るるを智障を断ずと名づく。)Keonsyo03-05L 云何八地断除体障。前七地中雖観法如猶見己心。以為能観。如為所観。以是見故心与如異。不能広大任運不動入第八地。破此等礙。観察如外由来無心。心外無如。如外無心無心異如。心外無如無如異心。無心異如不見能知。無如異心不見所知。能所既亡泯同一相。便捨分別功用之意。捨功用故行与如等。広大不動名入八地。此徳成時名断体障。Keonsyo03-05L (云何が八地に体障を断除するや。前の七地の中には法如を観ずると雖も猶し己心を見て、以て能観と為し、如を所観と為す。この見を以ての故に心と如と異にして、広大任運不動にして第八地に入ること能わず。これ等の礙を破して、如の外に由〈もとより〉このかた心なく、心の外に如なしと観察す。如の外に心なければ、心は如に異なることなし。心の外に如なければ、如は心に異なることなし。心は如に異なることなければ、能知を見ず。如は心に異なることなければ、所知を見ず。能所は既に亡泯して同一相なり。便ち分別功用の意を捨つ。功用を捨つるが故に行と如とは等し。広大にして動ぜざるを八地に入ると名づけ、この徳の成ずる時を体障を断ずと名づく。)Keonsyo03-05L 云何八地至如来地断除治想。向前八地雖除体障治想猶存。故八地云。此第八地雖無障相非無治想。然此治想八地以上漸次除至仏乃尽。彼云何断者。分別息故真相現前。覚法唯真本末無妄。以此見真。無妄力故能令妄治。前不生後。後不起前。於是滅尽也。Keonsyo03-06R (云何が八地より如来地に至りて治想を断除するや。向前の八地は体障を除くと雖も治想は猶〈なお〉存す。故に八地に云く。この第八地は障相なしと雖も、治想なきに非ず。然るにこの治想は八地以上に漸次に除き、仏に至りて乃し尽く。彼は云何が断ずるとならば、分別息むが故に真相現前す。法は唯真にして本末〈来か?〉、妄なしと覚すれば、これを以て真を見て、妄力なきが故に能く妄をして治せしむ。前は後を生ぜず。後は前を起こさず。ここに於いて滅尽するなり。Keonsyo03-06R 二者優劣相形。初二三地対治微劣唯断煩悩。四地以上対治深広二障双除。若通言之始従初地乃至仏地。当知念念二障並断。縁智漸明断煩悩障。真法漸顕滅智障。治断如是。Keonsyo03-06R (二には優劣の相形。初二三地は対治微劣にして、唯、煩悩を断ず。四地以上は対治深広にして二障双びに除く。もし通じてこれをいわば、始め初地より乃至、仏地にいたるまで、当に知るべし、念念に二障を並び断じ、縁智漸く明らかにして煩悩障を断じ、真法漸く顕れて智障を滅す。治断かくの如し。)Keonsyo03-06R 次対障弁脱。就此門中除断煩悩二脱倶生。息除智障二脱倶顕。相状如何。前修対治断煩悩時能治之道必依真起。所依之真恒随妄転。故以妄修動発真心。令彼真中二脱徳生。真徳雖生与第七識縁智和合。為彼隠覆真徳不顕。息除彼智真徳方顕。其猶臈印印与泥合。令彼泥上文像随生。泥文雖生臈印[フク03]之不得顕現。動去臈印其文方顕。彼亦如是。二障之義難以測窮。且随大綱略樹旨況。今此論中弁二障者是第二番也。Keonsyo03-06L (次に障に対して脱を弁ぜば、この門の中に就きて、煩悩を除断して二脱倶に生じ、智障を息除して二脱倶に顕る。相状如何ん。前に対治を修して煩悩を断ずる時、能治の道は必ず真に依りて起こる。所依の真は恒に妄に随りて転ず。故に妄を以て修して真心を動発し、彼の真の中の二脱の徳をして生ぜしむ。真徳は生ずと雖も第七識の縁智と和合す。彼が為に隠覆せられて真徳は顕れず。彼の智を息除して真徳は方に顕る。それ猶し臈印印と泥と合して、彼の泥上に文像は随いて生じ、泥文は生ずと雖も臈印の、これを[フク03]〈おお〉えば、顕現することを得ず、臈印を動去してその文は方に顕るるがごとし。彼もまたかくの如し。二障の義は以て測窮すること難し。且つ大綱に随いて略して旨況を樹つ。今この論の中に二障を弁ずるは、これ第二番なり。)Keonsyo03-06L 五住相望四住及起同為煩悩障。無明及起斉為智障。故地持無明以妄同為智障。就無明中随義更論。所起恒沙復為煩悩。無明住地独為智障。故此論中。但無明地以為智障。染心恒沙以為煩悩障也。Keonsyo03-07R (五住相望四住及び起を同じく煩悩障と為す。無明及び起を斉しく智障と為す。故に『地持』には無明と妄とを以て同じく智障と為し、無明の中に就きて義に随いて更に論じて、所起の恒沙をまた煩悩と為す。無明住地のみ独り智障と為す。故にこの論の中に、但、無明地を以て智障と為し、染心恒沙を以て煩悩障と為すなり。)Keonsyo03-07R 問曰。於彼事識之中取性無明是何地收。妄識之中所有愛見是何地收。断言。不定。略有二義。一隠顕互論。彼事識中取性無明。以本従末摂為四住。彼妄識中所有愛見。以末従本收為無明。二随義通論。妄識之中所有見皆四住收。事識中所有無明亦無明摂。Keonsyo03-07R (問いて曰く。彼の事識の中に於いて取性無明これ何れの地にか收むる。妄識の中の所有の愛見はこれ何の地の收ぞ。断じて言く。定まらず。略して二義あり。一には隠顕互いに論ず。彼の事識の中の取性無明は本を以て末に従いて摂して四住と為す。彼の妄識の中の所有の愛見は末を以て本に従いて收めて無明と為す。二には義に随いて通じて論ずるに、妄識の中の所有の見は皆、四住に收む。事識の中の所有の無明はまた無明の摂なり。)Keonsyo03-07R 【※編者註 この起信論の文は再掲です。】 【論】又染心義者。名為煩悩礙。能障真如根本智故。無明義者。名為智礙。能障世間自然業智故。 【論】 (また染心の義とは、名づけて煩悩礙となす。能く真如根本智を障うるが故に。無明の義とは、名づけて智礙となす。能く世間の自然業智を障うるが故に。) 次随文釈。此中有二。一者別障。二者此義云何以下釈其義相。Keonsyo03-07R (次に文に随いて釈す。この中に二あり。一には別障。二には「此義云何」より以下はその義相を釈す。)Keonsyo03-07R 言染心義者。業識以下乃至読識以為染心。能障真如根本智者。是恒沙惑乱労義強。能障真如寂滅智也。無明義者是根本無明地也。障世間自然業智者。無明是其迷闇義。故障仏種智真明解也。自然業者。是不思議作業也。所障法者。謂証教二道。法報両果也。Keonsyo03-07L (「染心義」というは、業識より以下、乃至、読識を以て染心と為す。「能障真如根本智〈能く真如根本智を障う〉とは、これ恒沙の惑乱労の義強くして、能く真如寂滅の智を障うるなり。「無明義〈無明の義〉」とはこれ根本無明地なり。「障世間自然業智〈世間自然業智を障う〉」とは、無明はこれその迷闇の義なるが故に仏の種智真明解を障うるなり。「自然業」とは、これ不思議の作業なり。所障の法は、謂く証教の二道、法報の両果なり。)Keonsyo03-07L 【論】此義云何。以依染心能見能現。妄取境界。違平等性故。以一切法常静無有起相。無明不覚妄与法違故。不能得随順世間一切境界。種種知故。 【論】「この義、云何。染心に依りて能見能現あり、妄に境界を取りて、平等性に違するを以ての故に。一切の法は常に静にして起相あることなく、無明の不覚は妄に法と違するを以ての故に、世間一切の境界に随順することを得て種種に知ること能わざるが故に。) 自下第二釈其相。釈二障故即分為二。初為煩悩。後為智障。Keonsyo03-07L (自下は第二にその相を釈す。二障を釈するが故に即ち分かちて二と為す。初には煩悩を為し、後には智障を為す。)Keonsyo03-07L 此義云何者。設問発起。以依染心者。是業識也。末中第一故名之為依。言能見能現妄取境界者。転現智識。略無続識。亦可。此是六識体故。所以不論。違平等性者。以染心者。是分別心。真心寂静故正相返。所以違者。下顕違由。Keonsyo03-07L (「此義云何」とは、問を設け発起す。「以依染心」とは、これ業識なり。末の中の第一なるが故に、これを名づけて依と為す。「能見能現妄取境界〈能見能現あり、妄に境界を取り〉」というは、転・現・智識、略して続識なし。また可〈いいつ〉べし。これはこれ六識の体なるが故に、所以に論ぜず。「違平等性〈平等性に違す〉」とは、染心はこれ分別心なるを以て、真心は寂静なるが故に正しく相返す。違う所以は、下に違の由を顕す。)Keonsyo03-07L 以一切法常静無起相。此挙理略無惑相。然此自解。無明不覚妄者。是釈者障。法違故者。無明闇惑。種智真明。故相返也。下釈其由。不能得知一切世間種種境界故者。是挙所障。諸界根原故。故説二障也。Keonsyo03-08R (一切の法は常に静にして起相なきを以てなり。これは理を挙げて略して惑相なし。然るにこれ自ら解すべし。「無明不覚妄〈無明の不覚は妄に〉」とは、是釈者障、法と違するが故〈「無明不覚妄者法違故〈無明の不覚は妄に法と違するを以ての故に〉」〉とは、無明は闇惑、種智は真明なるが故に相返するなり。下はその由を釈す。「不能得知一切世間種種境界故〈世間一切の境界に随順することを得て種種に知ること能わざるが故に〉」とは、これは所障を挙ぐ。諸界の根原なるが故に、故に二障を説くなり。)Keonsyo03-08R 【論】復次分別生滅相者。有二種。云何為二。一者麁与心相応故。二者細与心不相応故。 【論】 (また次に生滅の相を分別するに、二種あり。云何が二となすや。一には麁と心と相応するが故に。二には細と心と相応せざるが故に。) 自下第五明捨滅義。此中有二。一者直明捨滅。二者問以下難解重顕。就初中有三。一者挙惑体。二者又麁中之麁以下拠人以弁。三者此二種以下明捨滅之相。Keonsyo03-08R (自下は第五に捨滅の義を明かす。この中に二あり。一には直ちに捨滅を明かす。二には「問」より以下は難解重顕。初の中に就きて三あり。一には惑体を挙ぐ。二には「又麁中之麁」より以下は人に拠りて以て弁ず。三には「此二種」より以下は捨滅の相を明かす。)Keonsyo03-08R 復次生滅相有二種者。総標其数。与心相応者。末後二識及与六識也。与心不相応者。根本四住也。Keonsyo03-08R (「復次生滅相有二種〈また次に生滅の相を分別するに二種あり〉」とは、総じてその数を標す。「与心相応〈心と相応す〉」とは、末後の二識及び六識となり。「与心不相応〈心と相応せざる〉」とは、根本四住なり。)Keonsyo03-08R 【論】又麁中之麁。凡夫境界。麁中之細。及細中之麁。菩薩境界。細中之細。是仏境界。 【論】(また麁の中の麁は凡夫の境界なり。麁の中の細と、及び細の中の麁とは、菩薩の境界なり。細の中の細は、これ仏の境界なり。) 自下就人以弁。麁中之麁凡夫境者。是六識也。麁中細者。智続両識也。細中麁者。是染心也。恒沙末故名之為麁。菩薩境界者。種性以上乃至金剛心也。細中之細仏境界者。是根本無明識。Keonsyo03-08L (自下は人に就きて以て弁ず。「麁中之麁凡夫境〈麁の中の麁は凡夫の境界なり〉」とは、これ六識なり。「麁中細」とは、智・続、両識なり。「細中麁」とは、これ染心なり。恒沙は末なる故に、これを名づけて麁と為す。「菩薩境界」とは、種性より以上、乃至、金剛心なり。「細中之細仏境界〈細の中の細は、これ仏の境界なり〉」とは、これ根本無明識なり。)Keonsyo03-08L 【論】此二種生滅。依於無明熏習而有。所謂依因依縁。依因者不覚義故。依縁者妄作境界義故。若因滅則縁滅。因滅故。不相応心滅。縁滅故。相応心滅。 【論】 (この二種の生滅は無明熏習に依りて有り。所謂、因に依り、縁に依る。因に依るとは不覚の義の故に。縁に依るとは妄に境界を作す義の故に。もし因滅すれば則ち縁滅す。因滅するが故に不相応の心滅す。縁滅するが故に相応の心滅す。) 自下第三明捨滅相。此中有二。一者明起由。二者若因滅以下明滅由也。Keonsyo03-08L (自下は第三に捨滅の相を明かす。この中に二あり。一には起の由を明かす。二には「若因滅」より以下は滅の由を明かすなり。)Keonsyo03-08L 此二種生滅依無明熏習而有者。以衆惑本故以末論本也。依因者不覚義者即是無明也。縁者六塵境界也。具此因縁得立生滅。Keonsyo03-08L (「此二種生滅依無明熏習而有〈この二種の生滅は無明熏習に依りてあり〉」とは、衆惑の本なるを以ての故に、末を以て本を論ずるなり。「依因者不覚義〈因に依るとは不覚の義〉」とは、即ちこれ無明なり。「縁」とは六塵境界なり。この因縁を具して生滅を立つることを得。)Keonsyo03-08L 次弁滅相。若因滅則縁滅者。境界無自由心而成。故上中言三界虚偽但一心作。能成心滅所成亦滅也。因滅故不相応心滅者。明亡本故末竭。是業転現識也。縁滅故相応心滅者。境界亡故随境心亡。此之明其不相応心妄故境界亦妄。境界妄故相応心亦妄也。Keonsyo03-08L (次に滅相を弁ず。「若因滅則縁滅〈もし因滅すれば則ち縁滅す〉」とは、境界は自らすることなく、心に由りて成ず。故に上の中に「三界虚偽但一心作〈三界は虚偽、唯心の所作〉」という。能成の心滅すれば所成もまた滅するなり。「因滅故不相応心滅〈因滅するが故に不相応の心滅す〉」とは、本亡ずる故に末竭〈つ〉くることを明かす。これ業・転・現識なり。「縁滅故相応心滅〈縁滅するが故に相応の心滅す〉」とは、境界亡ずるが故に随境の心亡ず。これはこれその不相応心妄なるが故に境界もまた妄にして、境界妄なるが故に相応心もまた妄なることを明かすなり。)Keonsyo03-08L 【論】問曰。若心滅者。云何相続。若相続者。云何説究竟滅。 【論】 (問いて曰く。もし心滅せば、云何ぞ相続せん。もし相続せば、云何ぞ究竟滅と説かん。) 次弁重顕。此中初問後答。問意者。若心滅者云何相続者。相応不相応皆是滅者衆生則無心。云何続有。若相続者云何説滅者。妄心恒続者云何衆生滅妄成真乎。就妄心進退徴難。Keonsyo03-09R (次に重顕を弁ず。この中に初は問、後は答。問の意は、「若心滅者云何相続〈もし心滅せば、云何が相続せん〉」とは、相応・不相応、皆これ滅せば衆生則ち心なし。云何が続あらん。「若相続者云何説滅〈もし相続せば、云何ぞ究竟滅と説かん〉」とは、妄心恒に続かば、云何ぞ衆生は妄を滅して真を成ぜんや。妄心の進退に就きて徴難す。)Keonsyo03-09R 【論】答曰。所言滅者。唯心相滅。非心体滅。 【論】 (答えて曰く。言の所の滅とは、ただ心相の滅なり。心体の滅にあらず。) 答中有三。初明法説。中明開喩。後弁合喩。Keonsyo03-09R (答の中に三あり。初に法説を明かし、中に開喩を明かし、後に合喩を弁ず。)Keonsyo03-09R 言滅者唯心相滅者。是妄識也。非心体滅者是真識也。妄識全亡不妨真有。真識常有故衆生非断。妄識終滅故衆生成真。Keonsyo03-09R (「言滅者唯心相滅〈言うの所の滅とは、ただ心相の滅なり〉」とは、これ妄識なり。「非心体滅〈心体の滅にあらず〉」とは、これ真識なり。妄識全く亡じて真の有を妨げず。真識は常に有なるが故に衆生は断ずるに非ず。妄識は終に滅するが故に衆生は真を成ず。)Keonsyo03-09R 【論】如風依水而有動相。若水滅者則風相断絶。無所依止。以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅。 【論】 (風の水に依りて動相あるが如し。もし水滅せば、則ち風相断絶して、依止する所なからん。水滅せざるを以て風相相続す。ただ風滅するが故に動相随いて滅す。これ水滅するにあらず。) 言風者喩無明也。水喩真識也。動喩妄識也。若水滅者則風断絶無依止者。是作設喩。非無水也。而顕依義故為此説。何以得知。設喩非正。下則解釈以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅。是故明知。是設喩也。Keonsyo03-09R (「風」というは無明に喩うなり。「水」は真識に喩うなり。「動」は妄識に喩うなり。「若水滅者則風断絶無依止〈もし水滅せば、則ち風相断絶して、依止する所なからん〉とは、これ設喩を作す。水なきに非ざるなり。而も義に依るが故にこれが為に説くことを顕す。何を以てか知ることを得るとならば、設喩は正に非ず。下に則ち解釈す。「以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅〈水滅せざるを以て風相相続す。ただ風滅するが故に動相随いて滅す。これ水滅するにあらず〉」と。この故に明らかに知りぬ。これ設喩なることを。)Keonsyo03-09R 【論】無明亦爾。依心体而動。若心体滅者。則衆生断絶無所依止。以体不滅心得相続。唯痴滅故。心相随滅。非心智滅。 【論】 (無明また爾り。心体に依りて動ず。もし心体滅せば、則ち衆生断絶して依止する所なし。体は滅せざるを以て心は相続することを得。ただ痴滅するが故に、心相随いて滅す。心智の滅するにあらず。) 無明亦爾以下合喩。無明合上如風。依心体者。合上依水。言而動者。合上有動相也。若心体滅者。合上仮設喩也。以体不滅心得相続去合上水不滅故風相相続也。唯痴滅故心相随滅者。合上唯風滅故動風随滅也。非心智滅者。合上非是水滅也。Keonsyo03-09L (「無明亦爾)より以下は合喩なり。無明は上の如風に合す。「依心体〈心体に依り〉」とは上の依水に合す。「而動」というは上の有動相に合するなり。「若心体滅〈もし心体滅せば〉」とは、上の仮設喩に合するなり。「以体不滅心得相続〈体は滅せざるを以て心は相続することを得〉」去〈者か?〉とは、上の「水不滅故風相相続〈水滅せざるを以て風相相続す〉」に合するなり。「唯痴滅故心相随滅〈ただ痴滅するが故に、心相随いて滅す〉」とは、上の「唯風滅故動風随滅〈ただ風滅するが故に動相随いて滅す〉」に合するなり。「非心智滅〈心智の滅するにあらず〉」とは、上の「非是水滅〈これ水滅するにあらず〉」に合するなり。)Keonsyo03-09L 【論】復次有四種法熏習義故。染法浄法起不断絶。云何為四。一者浄法名為真如。二者一切染因名為無明。三者妄心名為業識。四者妄境界所謂六塵。 【論】 (また次に四種の法熏習の義あるが故に、染法・浄法起こりて断絶せず。云何が四となす。一には浄法を名づけて真如となす。二には一切の染因を名づけて無明となす。三には妄心を名づけて業識となす。四には妄境界、所謂六塵なり。) 自下第三明其真妄熏習之義。此中有三。一者標熏法体。二者熏習義者以下略釈熏義。三者云何熏習起染以下広顕熏相。Keonsyo03-09L (自下は第三にその真妄熏習の義を明かす。この中に三あり。一には熏法体を標す。二には「熏習義者」より以下は略して熏の義を釈す。三には「云何熏習起染」より以下は広く熏の相を顕す。)Keonsyo03-09L 復次有四種熏者是総表数也。染浄法起不断絶者熏習功能。言浄法者即第八識也。言染因者即無明識也。言妄心者第七識中。始従業識乃至相続通名業識。言妄境者謂妄想心所起一切虚偽境界。此四種者熏法体也。Keonsyo03-10R (「復次有四種熏」とは、これ総じて数を表すなり。「染浄法起不断絶〈染法・浄法起こりて断絶せず〉」とは熏習の功能なり。「浄法」というは即ち第八識なり。「染因」というは即ち無明識なり。「妄心」というは第七識の中に始め業識より乃至、相続を通じて業識と名づく。「妄境」というは、謂く、妄想心所起の一切虚偽の境界なり。この四種は熏法の体なり。)Keonsyo03-10R 此四猶是地持論中如是。如実凡愚不知起八妄而生三事。真如熏習猶彼如是如実。無明熏習者猶彼凡愚不知也。妄心熏習者猶彼八妄想也。妄境熏者猶是彼処生三事中初虚偽事。Keonsyo03-10R (この四は猶しこれ『地持論』の中に「かくの如く、実の如く、凡愚は知らず。八妄を起こして三事を生ずることを」。真如熏習は猶し彼の「如是如実」のごとし。無明熏習は猶し彼の「凡愚不知」のごときなり。妄心熏習は猶し彼の八妄想のごときなり。妄境熏は猶しこれ彼の処の生ずる三事の中の初の虚偽事のごとし。)Keonsyo03-10R 問曰。何故事識及事根塵不説熏習。答。此条中未明熏習所起末故。故不論也。Keonsyo03-10R (問いて曰く。何が故ぞ事識及び事根塵には熏習を説かざるや。答う。この条の中に未だ熏習所起の末を明かさざるが故に、故に論ぜざるなり。)Keonsyo03-10R 【論】熏習義者。如世間衣服実無於香。若人以香而熏習故。則有香気。此亦如是真如浄法。実無於染。但以無明而熏習故。則有染相。無明染法実無浄業。但以真如而熏習故。則有浄用。 【論】 (熏習の義とは、世間の衣服は実に香なし。もし人、香を以て熏習するが故に、則ち香気あるが如し。これまたかくの如く真如の浄法は実に染なし。ただ無明を以て熏習するが故に、則ち染相あり。無明染法は実に浄業なし。ただ真如を以て熏習するが故に則ち浄用あり。) 自下第二略釈熏義。此中有三。一者題名。二者開喩。三者此亦如是以下合喩也。Keonsyo03-10L (自下は第二に略して熏の義を釈す。この中に三あり。一には名を題す。二には開喩。三には「此亦如是」より以下は合喩なり。)Keonsyo03-10L 熏習義者是顕名也。言世間衣服者喩染浄法体也。実無香者喩行用也。若人以香熏故則有香気者。喩行者随縁熏習故染浄之用。次下合喩。此亦如此。真中無染。妄熏令有。妄中無浄。真熏使有。故彼妄中得有方便対治行起。釈意如此。Keonsyo03-10L (「熏習義」とは、これ名を顕すなり。「世間衣服」とは、染浄の法体に喩うなり。「実無香〈実に香なし〉」とは行用に喩うるなり。「若人以香熏故則有香気〈もし人、香を以て熏習するが故に、則ち香気ある〉」とは、行者は随縁熏習の故に染浄の用あるに喩う。次下は合喩。これまたかくの如し。真の中には染なし。妄熏じて有らしむ。妄の中に浄なし。真熏じて有らしむ。故に彼の妄の中に方便対治行起あることを得。釈意かくの如し。)Keonsyo03-10L 【論】云何熏習起染法不断。所謂以依真如法故。有於無明。以有無明染法因故。即熏習真如。以熏習故則有妄心。以有妄心即熏習無明。不了真如法故。不覚念起現妄境界。以有妄境界染法縁故。即熏習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。 【論】 (云何が熏習して染法を起こして断えざる。所謂、真如の法に依るを以ての故に無明あり。無明染法の因あるを以ての故に即ち真如に熏習す。熏習を以ての故に則ち妄心あり。妄心あるを以て即ち無明に熏習す。真如の法を了せざるが故に、不覚の念起こりて妄境界を現ず。妄境界染法の縁あるを以ての故に、即ち妄心に熏習して、それをして念著し種種の業を造りて、一切の身心等の苦を受けしむ。) 自下第三云何熏習起以下広弁熏相。此中有二。一者弁熏習起染。二者云何熏習起浄法以下明其熏習起浄。就初中有二。一者就前四明其熏習相生次第。二者此妄境熏習以下別明熏習所起不同。Keonsyo03-10L (自下は第三に「云何熏習起」より以下は広く熏相を弁ず。この中に二あり。一には熏習起染を弁じ、二には「云何熏習起浄法」より以下はその熏習起浄を明かす。初の中に就きて二あり。一には前の四に就きてその熏習相生の次第を明かす。二には「此妄境熏習」より以下は別して熏習所起の不同を明かす)。Keonsyo03-10L 云何起染法不断者是題名也。以依第一真如法故使有第二無明染因。以有無明故即有第三妄心。以有妄心故則有第四妄境界也。以有境界縁故即熏習妄心。令其染着造業受苦也。念者愛也。著者見也。Keonsyo03-11R (「云何起染法不断〈云何が熏習して染法を起こして断えざる〉」とは、これ名を題すなり。「以依第一真如法故〈真如の法に依るを以ての故に〉」第二の無明染因をあらしむ。「以有無明故〈無明染法の因あるを以ての故に〉」即ち第三の妄心あり。「以有妄心〈妄心あるを以て〉」の故に則ち第四妄境界あるなり。「以有境界縁故〈妄境界染法の縁あるを以ての故に〉即ち妄心を熏習して、それをして染着し業を造り苦を受けしむるなり。念は愛なり。著は見なり。)Keonsyo03-11R 【論】此妄境界熏習義。則有二種。云何為二。一者増長念熏習。二者増長取熏習。 【論】 (この妄境界熏習の義に則ち二種あり。云何が二となす。一には増長念熏習。二には増長取熏習なり。) 次第二従此妄境界以下明其熏習所起不同。従末尋本次第弁之。能熏法体四故所熏応四。而文滅無真如熏習所起之義。此妄境熏習有二種者是題名也。此境熏習起事識也。念者愛也。取者見也。即是十使也。Keonsyo03-11R (次に第二に「此妄境界」より以下はその熏習所起の不同を明かす。末より本を尋ねて次第にこれを弁ず。能熏の法体は四なるが故に所熏も応に四なるべし。而るに文に滅じて真如熏習所起の義なし。「此妄境熏習有二種〈この妄境界熏習の義に則ち二種あり〉」とは、これ名を題すなり。これ境熏習して起こる事識なり。「念」は愛なり。「取」は見なり。即ちこれ十使なり。)Keonsyo03-11R 【論】妄心熏習義有二種。云何為二。一者業識根本熏習。能受阿羅漢辟支仏一切菩薩生滅苦故。二者増長分別事識熏習。能受凡夫業繋苦故。 【論】 (妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には業識根本熏習。能く阿羅漢・辟支仏・一切の菩薩をして生滅の苦を受けしむるが故に。二には増長分別事識熏習。能く凡夫に業繋の苦を受けしむるが故に。) 言妄心熏習者是第二也。言業識者第七識也。熏習起妄識果。謂受二乗菩薩変易細苦。即正果也。言増長分別事識者。是六識縁由果。凡夫業繋苦者分段麁苦也。Keonsyo03-11R (「妄心熏習」というは、これ第二なり。「業識」というは第七識なり。熏習して妄識の果を起こす。謂く二乗菩薩は変易の細苦を受く。即ち正果なり。「増長分別事識」というは、これ六識縁由果。「凡夫業繋苦」とは分段の麁苦なり。)Keonsyo03-11R 【論】無明熏習義有二種。云何為二。一者根本熏習。以能成就業識義故。二者所起見愛熏習。以能成就分別事識義故。 【論】 (無明熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には根本熏習。能く業識を成就する義を以ての故に。二には所起見愛熏習。能く分別事識を成就する義を以ての故に。) 無明熏中起妄識者其近果。起事識者是其遠果。真如熏習亦有二種。一者起無明。二者起妄心。以彼真如無分別故能起無明。覚知性故能起妄心。此後一門釈中無也。推章門中具有此義。Keonsyo03-11L (無明熏の中に妄識を起こすとは、それ近果なり。事識を起こすとは、これその遠果なり。真如熏習にまた二種あり。一には無明を起こす。二には妄心を起こす。彼の真如は分別なきを以ての故に、能く無明を起こし、覚知の性あるが故に、能く妄心を起こす。この後一門は釈中になきなり。章門の中を推するに具さにこの義あり。)Keonsyo03-11L 【論】云何熏習起浄法不断。所謂以有真如法。故能熏習無明。以熏習因縁力故。則令妄心厭生死苦。楽求涅槃。以此妄心有厭求因縁故。即熏習真如。自信己性。知心妄動無前境界。修遠離法。以如実知無前境界故。種種方便起随順行。不取不念。乃至久遠熏習力故。無明則滅。以無明滅故。心無有起。以無起故。境界随滅。以因縁倶滅故。心相皆尽。名得涅槃成自然業。 【論】 (云何が熏習は浄法を起こして断ぜざる。所謂、真如の法あるを以ての故に、能く無明に熏習す。熏習の因縁力を以ての故に、則ち妄心をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求せしむ。この妄心に厭求の因縁あるを以ての故に、即ち真如に熏習す。自ら己性を信じ、心は妄に動じて前の境界なしと知りて、遠離の法を修す。実の如く前の境界なしと知るを以ての故に、種種の方便、随順の行を起こして、取らず、念ぜず、乃至、久遠熏習力の故に、無明則ち滅す。無明滅するを以ての故に、心起こることあることなし。起こることなきを以ての故に、境界随いて滅す。因縁倶に滅するを以ての故に、心相皆尽くるを、涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。) 自下第二明熏起浄。此中有二。一者明其真妄相熏起浄。二者真如熏習義以下明其唯真熏習起浄。就初中有二。一者真妄総明。二者妄心熏習以下別明妄熏起浄。Keonsyo03-11L (自下は第二に熏起浄を明かす。この中に二あり。一にはその真妄相熏起浄を明かす。二には「真如熏習義」より以下はそれ唯真熏習起浄を明かす。初の中に就いて二あり。一には真妄総明。二には「妄心熏習」より以下は別して妄熏起浄を明かす。)Keonsyo03-11L 又遠法師解。云何起浄法不断者此文早著。以有真如法故以下。楽求涅槃以還。摂上真如熏習也。然後応著云何起浄法。以此妄心以下第二起浄文也。此中有二。一者明妄熏真。二者明真熏妄。就初中有二。一者能熏。二者妄心熏以下明其所熏。此二種釈文随念無傷。Keonsyo03-11L (また遠法師解すらく。「云何起浄法不断〈云何が熏習は浄法を起こして断ぜざる〉」とは、この文は早く著〈お〉けり。「以有真如法故」より以下、「楽求涅槃」より以還は、上の真如熏習を摂するなり。然る後に応に「云何起浄法〈云何が浄法を起こす〉」ということを著〈お〉くべし。「以此妄心」より以下は第二に起浄の文なり。この中に二あり。一には妄は真を熏ずることをを明かす。二には真は妄を熏ずることを明かす。初の中に就きて二あり。一には能熏。二には「妄心熏」より以下はその所熏を明かす。この二種は文の随念無傷を釈す。)Keonsyo03-11L 云何熏習起浄者是題名也。所謂以下正弁。以有真如故無明令熏起。厭生死楽涅槃也。此之真熏妄也。Keonsyo03-12R (「云何熏習起浄〈云何が熏習は浄法を起こし〉」とは、これ名を題するなり。「所謂」より以下は正しく弁ず。真如あるを以ての故に無明をして熏を起こしめて、生死を厭い、涅槃を楽わしむるなり。これはこれ真は妄を熏ずるなり。)Keonsyo03-12R 次弁妄熏真也。以有妄心厭離生死求涅槃。故熏習真心。自信己性。唯是真如智外無法。但妄心顛倒所見以知外境無所有。故種種方便修習離念起真之行。雖有所修不取不念。久修力故無明則滅。無明滅故妄心不生。妄心不生故妄境随□。境界妄故心相倶尽。名得涅槃。得涅槃故自然成就不思議業用[エン21]法界也。因縁倶滅者因是心也。縁是境也。言涅槃者性浄法仏也。不思議業者是方便報仏也。釈意如此。Keonsyo03-12R (次に妄は真を熏ずることを弁ずるなり。妄心あるを以て生死を厭離し涅槃を求むるが故に、真心に熏習して、自ら己性を信ず。唯これ真如智の外に法なく、但、妄心の顛倒の所見、外境に所有なしと知るを以ての故に、種種に方便し、離念起真の行を修習す。所修ありと雖も、取らず念ぜず、久しく修する力の故に、無明則ち滅す。無明滅するが故に妄心は生ぜず。妄心生ぜざるが故に妄境は随いて□〈滅か?〉す。境界は妄なるが故に心相も倶に尽くるを、涅槃を得と名づく。涅槃を得るが故に、自然に不思議業用を成就して、法界に[エン21]〈み〉つるなり。「因縁倶滅〈因縁倶に滅す〉」とは因はこれ心なり。縁はこれ境なり。涅槃というは、性浄法仏なり。不思議業とは、これ方便報仏なり。釈意かくの如し。)Keonsyo03-12R 【論】妄心熏習義有二種。云何為二。一者分別事識熏習。依諸凡夫二乗人等。厭生死苦。随力所能。以漸趣向無上道故。二者意熏習。謂諸菩薩発心勇猛。速趣涅槃故。 【論】 (妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には分別事識熏習。諸の凡夫二乗の人等に依りて、生死の苦を厭い、力の所能に随いて、漸く無上道に趣向するを以ての故に。二には意熏習。謂く、諸の菩薩は発心勇猛にして速やかに涅槃に趣くが故に。) 自下明其別妄熏起浄。妄心熏者六七識也。言分別事識者。謂凡夫二乗厭生死苦取向涅槃。此六識中方便修行熏発真也。言意熏習者。謂諸菩薩見虚妄法。無所貪取。知真如法寂静安隠。発心勇猛趣大涅槃。此七識中方便修行熏発真也。彼説七識以之為意。非六識中意識也。Keonsyo03-12L (自下はそれ別して妄熏じて浄を起こすことを明かす。「妄心熏」とは六七識なり。「分別事識」というは、謂く、凡夫二乗は生死の苦を厭い涅槃に取向す。これ六識の中の方便修行熏じて真を発すなり。「意熏習」というは、謂く、諸の菩薩は虚妄の法を見て、貪取する所なく、真如の法は寂静安隠なりと知りて、発心勇猛にして大涅槃に趣く。これ七識の中の方便修行熏じて真を発すなり。彼は七識を説きてこれを以て意と為す。六識の中の意識に非ざるなり。)Keonsyo03-12L 【論】真如熏習義有二種。云何為二。一者自体相熏習。二者用熏習。自体相熏習者。従無始世来具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義。恒常熏習。以有熏習力故。能令衆生厭生死苦。楽求涅槃。自信己身有真如法。発心修行。 【論】 (真如熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には自体相熏習、二には用熏習なり。自体相熏習とは、無始世より来た無漏の法を具す。備に不思議の業ありて、境界の性と作る。この二義に依りて、恒常に熏習す。熏習力あるを以ての故に、能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求し、自ら己身に真如の法ありと信じて、発心修行せしむ。) 自下第二明唯真熏妄。此中有二。一者明其所顕所熏妄義。二者復次真如自体相者以下明其所表理体平等。Keonsyo03-12L (自下は第二に唯、真は妄に熏ずることを明かす。この中に二あり。一にはその所顕所熏の妄の義を明かす。二には「復次真如自体相」より以下はその所表の理体平等なることを明かす。)Keonsyo03-12L 問曰。所顕所表有何著別。答。言所顕者此真理中。随修習縁有可顕義。転理成行。以縁照解断惑。所顕故名所顕。所言表者。真如理体平等一味絶言離相。然理不自顕。寄法以表故名所表。法不自成。以理熏故真法方成。故此理中有二義。故此中弁也。Keonsyo03-13R (問いて曰く。所顕所表に何の著別かある。答う。所顕というは、これ真理の中に修習の縁に随いて可顕の義あり。理を転じて行を成ず。縁照の解を以て惑を断じて顕する所なるが故に所顕と名づく。いう所の表とは、真如の理体は平等一味にして、言を絶し相を離る。然るに理は自ら顕われず。法に寄せて以て表するが故に所表と名づく。法は自ら成ぜず。理を以て熏ずるが故に真法は方に成ず。故にこの理の中に二義あり。故にこの中に弁ずるなり。)Keonsyo03-13R 就初中有二。一者就始中明真熏妄。二者復次染法以下就修明其真妄尽不尽義。就初中有二。一者明能熏法。二者此体用熏習以下明所熏人。就初中有三。一者総標挙類。二者列章門。三者自体熏者以下釈二章門。Keonsyo03-13R (初の中に就きて二あり。一には始の中に就きて、真は妄に熏ずることを明かす。二には「復次染法」より以下は修に就きてその真妄の尽・不尽の義を明かす。初の中に就きて二あり。一には能熏の法を明かす。二には「此体用熏習」より以下は所熏の人を明かす。初の中に就きて三あり。一には総じて標じて類を挙ぐ。二には章門を列ぬ。三には「自体熏者」より以下は二章門を釈す。)Keonsyo03-13R 真如熏習有二種者是題名也。云何以下列章門。謂体用也。自体相熏習者以下第三列釈。此中有二。一者釈体章門。二者用熏習者以下釈用章門。就初中有二。一者正出其体。二者問答重釈。Keonsyo03-13L (「真如熏習有二種〈真如熏習の義に二種あり〉」とは、これ名を題すなり。「云何」より以下は章門を列す。謂く体と用となり。「自体相熏習者」より以下は第三に列釈。この中に二あり。一には体章門を釈す。二には「用熏習者」より以下は用章門を釈す。初の中に就きて二あり。一には正しくその体を出だす。二には問答重釈。)Keonsyo03-13L 言無漏法者。法身本体法仏之性。言不思議作業性者。是報仏性也。有此二性熏習力。故令起妄解断惑。已後転理成行。地前名為性種習種。地上名為証教二道。仏果名為法報二仏。虚法為言。名為性浄方便涅槃。Keonsyo03-13L (「無漏法」というは、法身の本体、法仏の性なり。「不思議作業性〈不思議の業ありて、境界の性と作る〉」というは、これ報仏の性なり。この二性熏習の力あるが故に妄解を起こして惑を断じ、已後に理を転じて行を成ぜしむ。地前には名づけて性種・習種と為し、地上には名づけて証教二道と為し、仏果には名づけて法報二仏と為す。法を虚しくして言を為すを、名づけて性浄方便涅槃と為す。)Keonsyo03-13L 【論】問曰。若如是義者。一切衆生悉有真如。等皆熏習。云何有信無信無量前後差別。皆応一時自知有真如法。勤修方便等入涅槃。 【論】 (問いて曰く。もしかくの如き義ならば、一切衆生は悉く真如ありて、等しくみな熏習せん。云何が信無信無量前後の差別ある。みな応に一時に自ら真如の法ありと知りて、勤修方便して等しく涅槃に入るべし。) 自下第二重顕。此中有二。一問。二答。Keonsyo03-13L (自下は第二に重顕。この中に二あり。一に問。二に答。)Keonsyo03-13L 問意者。若便真能熏妄起善行者。一切衆生皆有真如。何不等熏。斉便発心起修善行能入涅槃。而諸衆生有信無信優劣。前後無量差別。Keonsyo03-13L (問の意は、もし真能く妄に熏じて善行を起こさば、一切衆生は皆、真如ありて、何ぞ等しく熏じ、斉しく便ち発心し善行を起修して、能く涅槃に入らざらん。而るに諸の衆生は有信・無信、優劣、前後、無量の差別あり。)Keonsyo03-13L 【論】答曰。真如本一。而有無量無辺無明。従本已来自性差別厚薄不同故。過恒沙等上煩悩。依無明起差別。我見愛染煩悩。依無明起差別。如是一切煩悩。依於無明所起前後無量差別。唯如来能知故。 【論】 (答えて曰く。真如は本〈もと〉一。而して無量無辺の無明ありて、本より已来た自性差別し、厚薄同じからざるが故に。恒沙等の上に過ぐる煩悩〈過恒沙等の上の煩悩〉は、無明に依りて起こる差別あり。我見愛染の煩悩は無明に依りて起こる差別あり。かくの如き一切の煩悩は、無明に依りて起こる所の前後無量の差別あり。ただ如来のみ能く知るが故に。) 就第二答中有二。一者明真妄根原。正答上問。二者又諸仏法有因縁以下。明縁修対治。此之遠答也。就初中有三。一者明真。二者而有以下。明妄根本。三者唯如来下。結難知也。Keonsyo03-14R (第二に答の中に就きて二あり。一には真妄の根原を明かす。正しく上の問に答う。二には「又諸仏法有因縁〈また諸仏の法は因あり縁あり〉」より以下は、縁修対治を明かす。これはこれ遠答なり。初の中に就きて三あり。一には真を明かし、二には「而有」より以下は妄の根本を明かし、三には「唯如来」の下は知り難きことを結するなり。)Keonsyo03-14R 言真如本一者。諸衆生中真如理一本来無二。故成仏時以理成故。但是一仏無有二也。何故名諸仏。此是処縁故爾。非理中諸也。此真如根原也。Keonsyo03-14R (「真如本一」というは、諸の衆生の中に真如の理は一にして本来、二なきが故に。成仏の時は理を以て成ずるが故に。但これ一仏にして二あることなきなり。何が故に諸仏と名づくるや。これはこれ処縁の故に爾り。理の中の諸に非ざるなり。これ真如の根原なり。)Keonsyo03-14R 自下第二明妄根原。然若爾者何故衆生差別者。有無量無明本来成就。此之根本也。過恒沙等上煩悩者枝条末也。我見愛者是四住所起也。此衆惑者皆依無明。如此無明熏習真如。真如随縁差別不同。如虚空本一而随有処大小不同。若破有処即虚空無大小相。此亦如此。随染縁故利鈍差別。若離染縁則平等一味。無上下優劣。Keonsyo03-14R (自下は第二に妄の根原を明かす。然るにもし爾らば何が故ぞ衆生差別あるとならば、無量の無明ありて本来成就す。これはこれ根本なり。「過恒沙等上煩悩〈過恒沙等の上煩悩〉」とは枝条の末なり。「我見愛」とはこれ四住所起なり。この衆惑は皆、無明に依る。かくの如く無明は真如に熏習し、真如は縁に随い差別不同なり。虚空は本一にして有処に随いて大小不同なるが如し。もし有処を破すれば即ち虚空に大小の相なし。これまたかくの如し。染縁に随うが故に利鈍の差別あり。もし染縁を離るれば則ち平等一味にして上下優劣なし。)Keonsyo03-14R 問曰。若初真一何故起染原薄不同。答。無始無明等同品無有麁細。智識以後染著不同。心慮異故。続識以後起成深浅。故果報優劣上下不等利鈍差別。然此義者非凡所能知。Keonsyo03-14L (問いて曰く。もし初真一ならば、何が故ぞ起染に原薄の不同あるや。答う。無始無明等に同品にして、麁細あることなし。智識より以後は染著同じからず。心慮異なるが故に。続識より以後は起こるに深浅を成ず。故に果報の優劣・上下等しからず、利鈍の差別あり。然るにこの義は凡の能く知る所に非ず。)Keonsyo03-14L 自下第三結難知。唯如来能知故也。故大経言。十住菩薩見終不見始。仏乃窮了見始見終。Keonsyo03-14L (自下は第三に難知を結す。唯如来のみ能く知る故なり。故に『大経〈大般涅槃経〉』に言く「十住の菩薩は終を見るも始を見ず。仏は乃ち窮了して始を見、終を見る」と。)Keonsyo03-14L 【論】又諸仏法有因有縁。因縁具足乃得成弁。 【論】 (また諸仏の法は因あり縁あり。因縁具足して乃ち成弁することを得。) 自下第二随対治。此中有三。一者法説。二者如木中下開譬。三者衆生亦爾下合喩。言有因有縁者。因者内心。縁謂外縁。Keonsyo03-14L (自下は第二に随対治。この中に三あり。一には法説。二には「如木中」の下は開譬。三には「衆生亦爾」の下は合喩。「有因有縁〈因あり縁あり〉」というは、因は内心、縁は謂く外縁なり。)Keonsyo03-14L 【論】如木中火性是火正因。若無人知不仮方便。能自焼木無有是処。 【論】 (木中の火性はこれ火の正因。もし人の知ることなく、方便を仮らずして、能く自ら木を焼くこと、この処あることなきが如し。) 【論】衆生亦爾。雖有正因熏習之力。若不遇諸仏菩薩善知識等以之為縁。能自断煩悩入涅槃者。則無是処。若雖有外縁之力。而内浄法未有熏習力者。亦不能究竟厭生死苦楽求涅槃。 【論】 (衆生もまた爾り。正因熏習の力ありといえども、もし諸仏菩薩善知識等に遇いて、これを以て縁となさざれば、能く自ら煩悩を断じて涅槃に入ることは、則ちこの処なし。もし外縁の力ありといえども、内の浄法未だ熏習の力あらざる者は、また究竟して生死の苦を厭い、涅槃を楽求すること能わず。) 【論】若因縁具足者。所謂自有熏習之力。又為諸仏菩薩等慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸仏菩薩。示教利喜。乃能進趣。向涅槃道。 【論】 (もし因縁具足するは、所謂、自ら熏習の力あり、また諸仏菩薩等のために慈悲願護せらるるが故に。能く厭苦の心を起こし、涅槃あることを信じ、善根を修習す。善根を修すること成熟するを以ての故に、則ち諸仏菩薩に値い、示教利喜して、乃ち能く進趣して、涅槃の道に向かう。) 譬意者木雖有火不能自焼。衆生雖有真如之性不能独熏自成涅槃。合中可解。言示教利喜者。四諦三転法輪也。示猶示転。教猶勧転。利喜是其猶証転也。示転者示苦示集。示滅示道。名示転也。言勧転者。苦応知。集応断。道応修。滅応証。言証転者苦我已知。集我已断。道我已修。滅我已証也。示可当相示苦令知。教集応断。道利応修。滅喜応証也。以此四諦入道之詮故。以四諦向涅槃道也。Keonsyo03-15R (譬の意は、木に火ありと雖も自ら焼くこと能わず。衆生に真如の性ありと雖も、独熏の自ら涅槃を成ずること能わず。合の中、解すべし。「示教利喜」というは四諦三転法輪なり。「示」は示転の猶し、「教」は勧転の猶し、「利喜」はこれその証転の猶きなり。示転とは苦を示し、集を示し、滅を示し、道を示すを示転と名づくるなり。勧転というは、苦は応に知るべし、集は応に断ずべし、道は応に修すべし、滅は応に証すべし。証転というは苦は我已に知り、集は我已に断ち、道は我已に修し、滅は我已に証するなり。示は当相に苦を示して知らしめ、集は応に断つべしと教え、道は応に修すべしと利し、滅は喜びて応に証すべしと可〈いいつ〉べきなり。この四諦は入道の詮なるを以ての故に、四諦を以て涅槃の道に向かうなり。)Keonsyo03-15R 【論】用熏習者。即是衆生外縁之力。如是外縁有無量義。略説二種。云何為二。一者差別縁。二者平等縁。 【論】 (用熏習とは、即ちこれ衆生外縁の力。かくの如きの外縁に無量の義あり。略して説くに二種あり。云何が二となす。一には差別縁、二には平等縁なり。) 自下第二釈用章門。此中有三。一者総表挙数。二者云何以下。列二章門。三者釈二章門。Keonsyo03-15R (自下は第二に用章門を釈す。この中に三あり。一には総表して数を挙ぐ。二には「云何」より以下は二章門を列す。三には二章門を釈す。)Keonsyo03-15R 用熏習者是顕名也。即衆生外縁之力者。謂仏菩薩証如起用。摂化衆生令修善法。自下列章門。差別縁者此応身化也。平等縁者真身摂也。Keonsyo03-15L (「用熏習」とは、これ名を顕すなり。「即衆生外縁之力〈即ちこれ衆生外縁の力〉」とは、謂く仏菩薩は如を証して用を起こし、衆生を摂化して善法を修せしむ。自下は列章門。「差別縁」とはこれ応身の化なり。「平等縁」とは真身の摂なり。)Keonsyo03-15L 【論】差別縁者。此人依於諸仏菩薩等。従初発意始求道時。乃至得仏。於中若見若念。或為眷属父母諸親。或為給使。或為知友。或為冤家。或起四摂。乃至一切所作。無量行縁。以起大悲熏習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。 【論】 (差別縁とは、この人は諸仏菩薩等に依りて、初発意に始めて道を求むる時より、乃至、仏を得るまで、中に於いて、もしは見、もしは念ず。或いは眷属父母諸親となり、或いは給使となり、或いは知友となり、或いは冤家となり、或いは四摂を起こす。乃至、一切の所作、無量の行縁、大悲を起こす熏習の力を以て、能く衆生をして善根を増長し、もしは見、もしは聞き、利益を得しむるが故に。) 【論】此縁有二種。云何為二。一者近縁。速得度故。二者遠縁。久遠得度故。是近遠二縁分別。復有二種。云何為二。一者増長行縁。二者受道縁。 【論】 (この縁に二種あり。云何が二となす。一には近縁。速かに度することを得るが故に。二には遠縁。久遠に度することを得るが故に。この近遠の二縁を分別するに、また二種あり。云何が二となす。一には増長行縁、二には受道縁なり。) 自下第三釈章門。釈二章門故即有二。就初中有三。一者正釈差別。二者此縁有二以下。就時以弁。謂時遠近也。三者是近遠二縁分別以下。就益以弁。増長行者修行時益。受道縁者得果時益。Keonsyo03-15L (自下は第三に釈章門。二章門を釈するが故に即ち二あり。初の中に就きて三あり。一には正しく差別を釈す。二には「此縁有二〈この縁に二種あり〉」より以下は、時に就きて以て弁ず。謂く時の遠近なり。三には「是近遠二縁分別〈この近遠の二縁を分別するに〉」より以下は、益に就きて以て弁ず。「増長行」とは修行時の益なり。「受道縁」とは得果の時の益なり。)Keonsyo03-15L 【論】平等縁者。一切諸仏菩薩。皆願度脱一切衆生。自然熏習。常恒不捨。以同体智力故。随応見聞而現作業。所謂衆生。依於三昧。乃得平等見諸仏故。 【論】 (平等縁とは、一切の諸仏菩薩は、みな一切衆生を度脱せんと願い、自然に熏習して、常恒に捨てず。同体の智力を以ての故に、見聞に応ずるに随いて作業を現ず。所謂衆生は、三昧に依りて、乃ち平等に諸仏を見ることを得るが故に。) 平等縁者以下釈第二章門。諸仏菩薩久発大願誓度一切。以此善根熏習力故。自然常随一切衆生随応見聞而為示現。謂示如来平等法身也。以同体智力者此観照彼苦也。令諸衆生依三昧力平等見仏。此真身摂也。能熏如是。Keonsyo03-15L (「平等縁者」というより以下は第二章門を釈す。諸仏菩薩は久しく大願を発し誓いて一切を度す。この善根熏習力を以ての故に、自然に常に一切衆生に随いて、応に見聞すべきに随いて為〈ため〉に示現す。如来平等法身を示すと謂うなり。「以同体智力〈同体の智力を以て〉」とは、これ彼の苦を観照するなり。諸の衆生をして三昧力に依りて平等に仏を見せしめたまう。これ真身の摂なり。能熏かくの如し。)Keonsyo03-15L 【論】此体用熏習分別。復有二種。云何為二。 【論】 (この体用熏習を分別するに、また二種あり。云何が二となす。) 次明所熏人。此中有二。一者題名挙数。謂此体用熏習分別有二種也。Keonsyo03-16R (次に所熏の人を明かす。この中に二あり。一には名を題し、数を挙ぐ。謂く「此体用熏習分別有二種〈この体用熏習を分別するに、また二種あり〉」となり。)Keonsyo03-16R 【論】一者未相応。謂凡夫二乗初発意菩薩等。以意意識熏習。依信力故。而能修行。未得無分別心与体相応故。未得自在業修行与用相応故。 【論】 (一には未相応。謂く、凡夫二乗初発意の菩薩等は意と意識との熏習を以て、信力に依るが故に、而して能く修行す。未だ無分別心は体と相応することを得ざるが故に。未だ自在業の修行は用と相応することを得ざるが故に。) 二者列名即釈。言未相応者是凡二乗地前菩薩也。此中初明体未相応。後明未得自然以下用未相応。言意意識者是七六識也。是妄識心中信順修行。而未能捨離分別之念与実相応也。未得自在業修行者。未得無功用自在行也。Keonsyo03-16R (二には名を列ねて即釈す。「未相応」というは、これ凡・二乗・地前の菩薩なり。この中に初には体未相応を明かす。後には「未得自然〈未得自在業か?〉」より以下は用未相応を明かす。「意意識」というは、これ七・六識なり。この妄識の心中に信順修行するは、未だ分別の念を捨離して実と相応すること能わざるなり。未だ自在業の修行を得ずとは、未だ無功用自在の行を得ざるなり。)Keonsyo03-16R 問曰。地前菩薩五生自在。何故未得自在業耶。答。隠細従麁。是故此論。Keonsyo03-16R (問いて曰く。地前の菩薩は五生自在なり。何が故ぞ未だ自在業を得ざるや。答う。細を隠して麁に従う。この故に此に論ず。)Keonsyo03-16R 【論】二者已相応。謂法身菩薩得無分別心。与諸仏自体相応。得自在業。与諸仏智用相応。唯依法力自然修行。熏習真如滅無明故。 【論】(二には已相応。謂く、法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在の業を得て、諸仏の智用と相応す。ただ法力に依りて自然に修行して、真如に熏習して無明を滅するが故に。) 已相応者謂初地以上出世法身菩薩令捨妄心。除滅無明契証真如。与仏如来法身相応無有分別。唯依法身自然修行趣仏智海也。Keonsyo03-16R (「已相応」とは、謂く、初地以上、出世法身の菩薩は妄心を捨てしめ、無明を除滅し真如を契証して、仏如来の法身と相応して、分別あることなし。唯、法身に依りて自然に修行して仏の智海に趣くなり。)Keonsyo03-16R 【論】復次染法。従無始已来熏習不断。乃至得仏後則有断。浄法熏習。則無有断尽於未来。此義云何。以真如法常熏習故。妄心則滅。法身顕現起用熏習。故無有断。 【論】 (また次に、染法は無始より已来た熏習して断ぜず。乃至、仏を得て後に則ち断ずることあり。浄法熏習は、則ち断ずることあることなく、未来を尽くす。この義云何。真如の法は常に熏習するを以ての故に、妄心則ち滅すれば、法身顕現して、用熏習を起こす故に断ずることあることなし。) 復次染法自下第二明尽不尽。此中有二。一者立正道理。二者此義云何以下釈所以。Keonsyo03-16L (「復次染法」より下は第二に尽不尽を明かす。この中に二あり。一には正道理を立つ。二には「此義云何」より以下は所以を釈す)。Keonsyo03-16L 復次染法者是挙法也。無始以来熏習不断。至渇仏後方尽滅也。浄法始終常有無有尽滅。此義以下釈其所以。真如常熏故妄心妄境則滅。転理成行。法身顕現也。起用熏者是応用也。上来明真妄相熏。此中明真妄尽不尽。不料簡也。Keonsyo03-16L (「復次染法」とは、これ法を挙ぐるなり。無始より以来た熏習して断えず。渇仏に至る後に方に尽滅するなり。浄法は始終、常に有りて尽滅あることなし。「此義」より以下はその所以を釈す。真如は常に熏ずるが故に、妄心・妄境は則ち滅し、理を転じて行を成じ、法身顕現するなり。「起用熏〈用熏習を起こす〉」とは、これ応用なり。上来、真妄相熏を明かす。この中には真妄の尽・不尽を明かす。料簡せざるなり。)Keonsyo03-16L 【論】復次真如自体相者。一切凡夫声聞縁覚菩薩諸仏。無有増減。非前際生。非後際滅。畢竟常恒。 【論】 (また次に真如の自体相とは、一切の凡夫・声聞・縁覚・菩薩・諸仏は、増減あることなく、前際に生ずるにあらず、後際に滅するにあらず、畢竟して常恒なり。) 復次真如自体相者自下。第二明其所表。此中有二。一者明所表法。二者復次顕示以下。明其修捨趣入方法。Keonsyo03-16L (「復次真如自体相者」より下は第二にその所表を明かす。この中に二あり。一には所表の法を明かす。二には「復次顕示」より以下は、その修捨趣入の方法を明かす。)Keonsyo03-16L 就初中有二。一者明所表体。二者復次真如用以下。明其所説。所謂行法也。Keonsyo03-17R (初の中に就きて二あり。一には所表の体を明かす。二には「復次真如用」より以下は、その所説を明かす。所謂る行法なり。)Keonsyo03-17R 就初中有三。一者三義略表。二者問曰以下。釈簡前後。三者復以何義以下。釈前立義。Keonsyo03-17R (初の中に就き三あり。一には三義略して表す。二には「問曰」より以下は、前後を簡ぶことを釈す。三には「復以何義」より以下は、前の立義を釈す。)Keonsyo03-17R 初中有三。一者総表。二者所謂以下別釈。三者具足如是以下結也。Keonsyo03-17R (初の中に三あり。一には総表。二には「所謂」より以下は別して釈す。三には「具足如是」より以下は結なり。)Keonsyo03-17R 就初中有二。一者題名。謂復次真如自体相者也。真如即体名之為相。二者正釈。此中有三。一者明理無偏。二者非前際生以下。明理体常。三者従本来下。明理法具。Keonsyo03-17R (初の中に就きて二あり。一には題名。謂く「復次真如自体相者」なり。真如は即体、これを名づけて相と為す。二には正釈。この中に三あり。一には理に偏なきことを明かす。二には「非前際生」より以下は理体の常を明かす。三には「従本来」の下は、理法具を明かす。)Keonsyo03-17R 言一切凡夫二乗菩薩諸仏者是挙人也。無有増減者是理体也。若論行義凡聖殊異因果差別。而理体者等同一味。凡夫二乗中理無有減。菩薩仏中理亦無増也。Keonsyo03-17R (「一切凡夫二乗菩薩諸仏」というは、これ人を挙ぐるなり。「無有増減」とは、これ理体なり。もし行の義を論ずれば凡聖の殊異、因果の差別あれども、而も理体は等同一味なり。凡夫二乗の中にも理は減あることなし。菩薩仏の中にも理はまた増なきなり。)Keonsyo03-17R 自下明常。非前際生者。明其本来無有生相。非後際滅者明終無滅。行徳名為生。而不滅名不滅。異簡此故名非生不滅。湛然常也。畢竟常恒者。常中最故名畢竟常也。Keonsyo03-17L (自下は常を明かす。「非前際生〈前際に生ずるにあらず〉」とは、その本来、生相あることなきことを明かす。「非後際滅〈後際に滅するにあらず〉」とは、終に滅なきことを明かす。行徳を名づけて生と為し、滅せざるを不滅と名づく。これに異簡するが故に非生不滅と名づく。湛然常なり。「畢竟常恒」とは、常の中に最なるが故に畢竟常と名づくるなり。)Keonsyo03-17L 【論】従本已来自性満足一切功徳。所謂自体有大智慧光明義故。遍照法界義故。真実識知義故。自性清浄心義故。常楽我浄義故。清涼不変自在義故。 【論】 (本より已来た自性に一切の功徳を満足す。所謂、自体に大智慧光明の義あるが故に、遍照法界の義の故に、真実識知の義の故に、自性清浄心の義の故に、常楽我浄の義の故に、清涼不変自在の義の故に。) 自下明理。然此理者非為孤立。従本以来理自満足一切功徳也。下其別釈。有六句。Keonsyo03-17L (自下は理を明かす。然るにこの理は孤立と為るに非ず。本より以来、理は自ずから一切功徳を満足するなり。下はこれ別釈、六句あり。)Keonsyo03-17L 所謂自体有大智慧光明義故。此之一句此真理中。具足一切三昧智慧神通解脱陀羅尼等功徳之性。如妄心中具足一切八万四千諸煩悩性。雖不後現行而実有之。説彼理中智慧之性。以為智慧光明義也。故厳経云。一切衆生心微塵中。有如来智無師智無礙無相智広大智等。Keonsyo03-17L (「所謂自体有大智慧光明義故〈所謂る自体に大智慧光明の義あるが故に〉」。この一句はこの真理の中に一切三昧・智慧・神通・解脱・陀羅尼等の功徳の性を具足す。妄心の中に一切八万四千の諸の煩悩の性を具足するが如し。後に現行せずと雖も、而も実にこれあり。彼の理の中の智慧の性を説きて、以て智慧光明の義と為すなり。故に『厳経』に云く「一切衆生の心、微塵の中に如来の智・無師智・無礙無相智・広大智等あり」といえり。)Keonsyo03-17L 問曰。若如是者何故大経菩薩品言。若言衆生身中具足十力四無畏等者。非我弟子。是大邪見。下文復言衆生有性。以当見故両経相違。云何会通。Keonsyo03-18R (問いて曰く。もしかくの如ならば、何が故ぞ『大経〈大般涅槃経〉』の「菩薩品」に言く「もし衆生身中に十力四無畏等を具足すといわば、我弟子に非ず、これ大邪見なり」。下の文にまた言く「衆生に性あり。当見を以ての故に」。両経の相違は云何が会通せん。)Keonsyo03-18R 答。此等経文皆説行徳。若如行徳。十力無畏今時有者是大邪見。然非無理。又復果性以当得名為当見。故此経言。如貧女宝。如闇中宝。本自有之。非適今也。此説理。此等経文非一。是故無違。Keonsyo03-18R (答う。これ等の経文は皆、行徳を説く。もし行徳の如き、十力無畏、今の時にあらば、これ大邪見なり。然るに理なきに非ず。また果性は当得を以て名づけて当見と為す。故にこの経に言く。貧女の宝の如く、闇中の宝の如く、本自ずからこれあり。今に適〈かな〉うに非ざるなり。これ理を説くに、これ等の経文は一に非ず。この故に違うことなし。)Keonsyo03-18R 言遍照法界義故。此之二句是心与法同一体性。互相縁集。然義分心法。心為能照。法為所照。此之自体照何為名照。如妄心中具足一切諸虚妄法。是真心中具一切法。以同体故将心摂法。無出一法。将法摂心。則具法界微塵等心。心随彼法為種種徳。心法界由来清浄無闇無障名照一切法界之義也。Keonsyo03-18R (「遍照法界義故」というは、この二句はこれ心と法と同一体性にして、互いに相い縁集す。然るに義をもって心法を分かつ。心を能照と為し、法を所照と為す。この自体、何を照らすを名づけて照と為すや。妄心の中に一切諸の虚妄の法を具足するが如し。この真心の中に一切法を具して、同体なるを以ての故に、心を将て法を摂して一法を出づることなし。法を将て心に摂すれば、則ち法界微塵等心を具す。心は彼の法に随いて種種の徳と為る。心と法界と由来〈もとより〉清浄にして闇なく障なきを、一切法界を照らす義と名づくるなり。)Keonsyo03-18R 真実識知義故者。此之三句蓋之真実覚知之心。有人釈言。真識非識。唯是空理。与識作体。義名為識。此言謬限。不応受持。斯乃真実覚知之心。名之為識。何得説言一向是空。乃可。真識体有不空之義。不説空義以之為識。Keonsyo03-18L (「真実識知義故」とは、この三句は蓋し真実覚知の心なり。有る人釈して言く。真識は識に非ず。唯これ空理にして識の与〈ため〉に体と作る。義を名づけて識と為す。この言は謬限なり。応に受持すべからず。これ乃ち真実覚知の心、これを名づけて識と為す。何ぞ説きて一向にこれ空なりということを得るや。乃ち可〈い〉うべし。真識の体に不空の義あり。空の義を説かず、これを以て識と為す。)Keonsyo03-18L 故唯識論言。対彼外道凡夫之人着我我所。故色等一切法空。非離言境。一切皆空離言境者。謂仏如来所行之処。唯有真識更無余識。以斯准験明知。不以空為真識也。経本之中為真相了別也。無有偽名為真実。神知之霊名為識知也。Keonsyo03-18L (故に『唯識論』に言く。彼の外道凡夫の人は我我所に著するに対するが故に色等の一切の法空なり。離言の境に非らず。一切皆空にして言境を離るる者は、謂く、仏如来所行の処、唯、真識のみありて、更に余識なし。これを以て准験するに、明らかに知りぬ、空を以て真識と為さざるなり。経本の中に真相了別と為すなり。偽あることなきを名づけて真実と為す。神知の霊を名づけて識知と為すなり。)Keonsyo03-18L 言自性清浄心義故者。此之第四句本来無障。名自性浄心也。良以理尊在於無垢。名為清浄也。常楽我浄義此第五句。理徳雖衆対生死要無出此四也。Keonsyo03-19R (「自性清浄心義故」というは、これはこれ第四句は本より来かた障なきを自性浄心と名づけるなり。良に以れば理尊して無垢に在るを名づけて清浄と為すなり。「常楽我浄の義」これ第五句なり。理徳衆〈おお〉しと雖も、生死に対して要ずこの四を出づることなきなり。)Keonsyo03-19R 言清涼不変自在義故者。此第六句体無染故。名為清浄。生滅所不遷故。名不変自在也。Keonsyo03-19R (「清涼不変自在義故」というは、これ第六句の体は染なきが故に、名づけて「清浄」と為す。生滅の遷らざる所なるが故に「不変自在」と名づくなり。)Keonsyo03-19R 【論】具足如是過於恒沙不離不断不異不思議仏法。乃至満足無有所少義故。名為如来蔵。亦名如来法身。 【論】 (かくの如きの恒沙を過ぐる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し、乃至、満足して少くる所あることなき義の故に、名づけて如来蔵となし、また如来法身と名づく。) 自下総結。此中有二。一者結徳。二者結名。具足如是過恒沙等不思議仏法者。此前結徳。不能別嘆故総挙也。不離等四句者上明。猶浄我楽常也。乃至以下結名。包含蘊積名之為蔵。衆法積聚名為法身。若別言隠時名蔵。顕為法身。Keonsyo03-19R (自下は総結なり。この中に二あり。一には徳を結す。二には名を結す。「具足如是過恒沙等不思議仏法〈かくの如きの恒沙を過ぐる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し〉」とは、これは前に徳を結す。別嘆すること能わざるが故に総じて挙ぐるなり。「不離」等の四句は上に明かす。猶し浄我楽常のごときなり。「乃至」より以下は名を結す。包含蘊積、これを名づけて「蔵」と為し、衆法積聚するを名づけて「法身」と為す。もし別して言わば、隠るる時を蔵と名づけ、顕るるを法身と為す。)Keonsyo03-19R 【論】問曰。上説真如其体平等離一切相。云何復説体有如是種種功徳。答曰。雖実有此諸功徳義。而無差別之相。等同一味唯一真如。此義云何。以無分別離分別相。是故無二。 【論】 (問いて曰く。上に真如はその体平等にして一切の相を離ると説く。云何ぞまた体にかくの如きの種種の功徳ありと説くや。答えて曰く。実にこの諸の功徳の義ありといえども、而も差別の相なし。等同一味にして唯だ一真如なり。この義云何ん。無分別は分別の相を離るるを以て、この故に無二なり。) 自下第二重顕。初問。後答。Keonsyo03-19L (自下は第二に重ねて顕す。初に問。後に答。)Keonsyo03-19L 問意者上明真如絶相断言。何故此中具種種徳上下相違。Keonsyo03-19L (問の意は上に真如は相を絶し言を断ずることを明かす。何が故ぞこの中に種種の徳を具するといいて上下相違するや。)Keonsyo03-19L 答中有二。一者正答。二者此義以下釈所以。雖有諸徳而無別相者。今此中就与上無違。雖有而無有相。故不妨無。雖無而無無相。故不妨有。恒有恒無。言等同一味者。此衆徳皆同一味也。何為者唯一真如。Keonsyo03-19L (答の中に二あり。一には正答。二には「此義」以下は所以を釈す。諸の徳ありと雖も、而も別相なしとは、今この中に上と違いなきことに就きて、ありと雖も而も相あることなきが故に無を妨げず。なしと雖いえども、而も相なきことなきが故に有を妨げず。恒に有、恒に無なり。「等同一味」というは、この衆徳は皆、同じく一味なり。何と為れば、唯一真如なればなり。)Keonsyo03-19L 自下釈所以。中有三。一者正釈。二伝釈。三者結。何故一味者。題上句。此義云何以下。無分別故也。無彼此故。無分別故。名一味故。無分別者題上句。自下伝釈。離分別相故也。遠離六七識分別之相。故名離也。自下結也。是無二者明其空有無二体也。Keonsyo03-19L (自下は所以を釈す。中に三あり。一には正釈。二には伝釈。三には結。何が故ぞ一味なるとならば、上の句を題す。「此義云何」より以下は分別なきが故なり。彼此なきが故に、分別なきが故に、一味と名づくるが故に。「無分別」とは上の句を題す。自下は伝釈なり。分別の相を離るるが故なり。六七識の分別の相を遠離するが故に離と名づくるなり。自下は結なり。「是無二〈この故に無二なり〉」とはその空有は二体なきことを明かすなり。)Keonsyo03-19L 【論】復以何義得説差別。以依業識生滅相示。 【論】 (また何の義を以て差別を説くことを得る。業識生滅相に依りて示すを以て。) 復以何義自下第三別釈。此中有二。一者略別本由。二者此義云何下。別釈上義。復以何義得説差別者。是顕名也。以依業識生滅相示者。若無待対無。而対妄識弁故得説差別也。Keonsyo03-20R (「復以何義」より下は第三に別釈。この中に二あり。一には略して本由を別かち、二には「此義云何」より下は、別して上の義を釈す。「復以何義得説差別〈また何の義を以て差別を説くことを得る〉」とは、これ名を顕すなり。「以依業識生滅相示〈業識生滅相に依りて示すを以て〉」とは、もし待対なければなし。而るに妄識に対して弁ずるが故に差別を説くことを得るなり。)Keonsyo03-20R 【論】此云何示。以一切法本来唯心。実無於念而有妄心。不覚起念。見諸境界故説無明。心性不起。即是大智慧光明義故。 【論】 (これ云何が示す。一切の法は本より来た唯心にして、実に念なきも而も妄心あり。覚せず念を起こして、諸の境界を見るを以ての故に無明と説く。心性は起こらず。即ちこれ大智慧光明の義の故に。) 自下別釈。此中有二。一者上別釈中六句広釈。二者乃至以下上総結。此中別釈。就初中上二句別釈。下四句者通釈。Keonsyo03-20R (自下は別釈。この中に二あり。一には上の別釈の中に六句は広く釈す。二には「乃至」より以下は上を総結す。この中に別釈。初の中に就きて上の二句は別釈、下の四句は通釈なり。)Keonsyo03-20R 以一切法者上明恒沙等法也。本来唯心実無念者唯真無妄也。而有妄心者是無明也。以有此故便起末条。不覚起念者是業識也。見諸境界者是転識也。故説無明者結本名也。此衆惑者依理而起。還迷真理而心性無起也。言無起者不為知返無知故名無起。惑心分別為生。以分別攬真。真猶無分別故言無起也。神知猶存故。言即是大智慧光明義也。此釈初句。Keonsyo03-20R (「以一切法」とは上に恒沙等の法を明かすなり。「本来唯心実無念〈本より来た唯心にして、実に念なきも〉」とは唯真にして妄なきなり。「而有妄心〈而も妄心あり〉」とは、これ無明なり。これあるを以ての故に便ち末条を起こす。「不覚起念〈覚せず念を起こし〉」とは、これ業識なり。「見諸境界〈諸の境界を見る〉」とは、これ転識なり。「故説無明〈故に無明と説く〉」とは、本名を結するなり。この衆惑は理に依りて起こる。還りて真理に迷いて心性は起こることなし。「無起〈不起〉」というは、知は返りて無知なるが為の故に無起と名づけず。惑心分別を生と為す。分別して真を攬〈と〉れども、真は猶〈なお〉分別なきを以ての故に「無起」というなり。神知は猶〈なお〉存するが故に「即是大智慧光明義」というなり。これは初の句を釈す。)Keonsyo03-20R 【論】若心起見則有不見之相。心性離見。即是遍照法界義故。 【論】 (もし心の、見を起こさば、則ち不見の相あり。心性は見を離る。即ちこれ遍照法界の義の故に。) 若心起見者則分別心也。則有不見之相者是分別。有相故有遍有見則有不見之相。故知。有知為相。名妄心也。心性離見者即知而無知相。不縁而照。即是遍照法界義也。神知霊故即無不照。而不縁故霊豁無滞。於無礙故名遍照法界也。Keonsyo03-20L (「若心起見〈もし心の、見を起こさば〉」とは、則ち分別心なり。「則有不見之相〈則ち不見の相あり〉」とは、これ分別、相あるが故に遍〈偏か?〉あり見あり、則ち不見の相あり。故に知りぬ。有知を相と為すを妄心と名づくるなり。「心性離見〈心性は見を離る〉」とは、知に即して知相なし。縁ぜずして照らす。即ちこれ遍照法界の義なり。神知霊なるが故に即ち照らさざることなし。而も縁ならざるが故に霊豁にして滞ることなし。無礙なるが故に「遍照法界」と名づくるなり。)Keonsyo03-20L 【論】若心有動。非真識知。無有自性。非常非楽非我非浄。熱悩衰変則不自在。 【論】 (もし心に動あるは、真の識知にあらず。自性あることなし。常にあらず、楽にあらず、我にあらず、浄にあらず、熱悩衰変して則ち自在ならず。) 自下通釈。若心有動者是三相所熏也。此中四句皆返釈也。非真識知者返釈上中真実識知義也。無有自性者返釈上中自性清浄心也。非常等者返釈上中常楽我浄也。熱悩衰変不自在者。返釈上中清浄不変自在義也。三相所不遷故。故具四句。Keonsyo03-20L (自下は通釈。「若心有動〈もし心に動あるは〉」とは、これ三相所熏なり。この中の四句は皆、返釈なり。「非真識知〈真の識知にあらず〉」とは、上の中の真実識知の義を返釈するなり。「無有自性〈自性あることなし〉」とは、上の中の自性清浄心を返釈するなり。「非常」等とは、上の中の常楽我浄を返釈するなり。「熱悩衰変不自在〈熱悩衰変して則ち自在ならず〉」とは、上の中の清浄不変自在の義を返釈するなり。三相の遷せざる所なるが故に、故に四句を具す。)Keonsyo03-20L 【論】乃至。具有過恒沙等妄染之義。対此義故。心性無動。則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。 【論】 (乃至、具に過恒沙等の妄染の義あり。この義に対するが故に、心性に動なければ、則ち過恒沙等の諸の浄功徳の相の義の示現することあり。) 乃至以下釈上結徳。此中有二。初釈結徳。此中有二。初明返釈。謂具有過恒沙等妄染之義也。後明順釈。謂対此義故心性無動。則為過恒沙等浄功徳相示現也。Keonsyo03-21R (「乃至」より以下は上の結徳を釈す。この中に二あり。初に結徳を釈す。この中に二あり。初に返釈を明かす。謂く「具有過恒沙等妄染之義〈具に過恒沙等の妄染の義あり〉」なり。後に順釈を明かす。謂く「対此義故心性無動〈この義に対するが故に、心性に動なければ〉」、則ち過恒沙等の浄功徳相示現すと為すなり。)Keonsyo03-21R 【論】若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳。即是一心。更無所念。是故満足名為法身如来之蔵。 【論】 (もし心の起こることありて更に前法の念ずべきことを見る者は、則ち少くる所あり。かくの如く浄法の無量の功徳は即ちこれ一心にして、更に念ずる所なし。この故に満足するを名づけて法身如来の蔵となす。) 自下釈結名。此中有二。初明顕非。謂若心有起亦更見前法可念者。則有所少也。後明顕是。謂如是浄法無量功徳。即是一心無有二也。更無所念。是故満足。名為法身如来蔵也。Keonsyo03-21R (自下は結名を釈す。この中に二あり。初に顕非を明かす。謂く「若心有起亦更見前法可念〈もし心の起こることありて更に前法の念ずべきことを見る者〉」とは、則ち少くる所あるなり。後に顕是を明かす。謂く「如是浄法無量功徳。即是一心〈かくの如く浄法の無量の功徳は即ちこれ一心にして〉」二あることなきなり。更に所念なし。この故に満足するを名づけて法身如来蔵と為すなり。)Keonsyo03-21R 【論】復次真如用者。所謂諸仏如来。本在因地発大慈悲。修諸波羅蜜。摂化衆生。 【論】 (また次に真如の用とは、謂う所の諸仏如来は本〈もと〉因地に在りて、大慈悲を発し、諸波羅蜜を修し、衆生を摂化す。) 復次真如用者自下。第二明其所説。言所説者所謂行徳。徳不自顕。依詮得顕。由修行故方得成也。Keonsyo03-21L (「復次真如用者」より下は、第二にその所説を明かす。所説というは所謂る行徳なり。徳は自ら顕れず。詮に依りて顕るることを得。修行に由るが故に方に成ずることを得るなり。)Keonsyo03-21L 此中有二。一者明其行徳。二者此用有以下。明其見聞得益不同。就初中有四。一者明因時化物之行。二者此以何義以下明以因戒徳。三者又亦以下明真諦観。四者但随以下明俗諦観。Keonsyo03-21L (この中に二あり。一にはその行徳を明かす。二には「此用有」より以下はその見聞得益の不同を明かす。初の中に就きて四あり。一には因時化物の行を明かす。二には「此以何義」より以下は以因戒徳を明かす。三には「又亦」より以下は真諦観を明かす。四には「但随」より以下は俗諦観を明かす。)Keonsyo03-21L 【論】復次真如用者。所謂諸仏如来。本在因地発大慈悲。修諸波羅蜜。摂化衆生。立大誓願。尽欲度脱等衆生界。亦不限劫数。尽於未来。以取一切衆生如己身故。而亦不取衆生相。 【論】 (また次に真如の用とは、謂う所の諸仏如来は本〈もと〉因地に在りて、大慈悲を発し、諸波羅蜜を修し、衆生を摂化す。大誓願を立て、尽く等しく衆生界を度脱せんと欲す。また劫数を限らず、未来を尽くす。一切衆生を取りて己身の如くなるを以ての故に。而してまた衆生の相を取らず。) 復次真如用者題名也。所謂以下正明也。発大慈悲者。謂四等也。修諸波羅蜜者。謂六度也。摂化衆生者。謂四摂也。立大誓願者。謂四弘誓也。此四句者明化物行体也。Keonsyo03-21L (「復次真如用」とは名を題するなり。「所謂」より以下は正しく明かす。「発大慈悲」とは、謂く四等なり。「修諸波羅蜜」とは、謂く六度なり。「摂化衆生」とは、謂く四摂なり。「立大誓願者」とは、謂く四弘誓なり。この四句は化物の行体を明かすなり。)Keonsyo03-21L 下明時節。尽度衆生。不限劫数。尽未来際也。言以取衆生如己身者。弁其平等之心。此中有平等行也。非為空行。而不取衆生者此遣著也。若著衆生相者。即不得度衆生也。此之空行也。Keonsyo03-21L (下は時節を明かし、尽く衆生を度す。「不限劫数。尽未来際〈劫数を限らず、未来を尽くす〉」なり。「以取衆生如己身〈一切衆生を取りて己身の如くなるを以て〉」というは、その平等の心を弁ず。この中に平等行あるなり。空行と為るに非ず。「而不取衆生〈而してまた衆生の相を取らず〉」とは、これ著を遣るなり。もし衆生の相に著する者は即ち衆生を度することを得ざるなり。これはこれ空行なり。)Keonsyo03-21L 【論】此以何義。謂如実知一切衆生及与己身。真如平等無別異故。 【論】 (これ何の義を以てぞ。謂く、如実に一切衆生と及び己身と、真如平等にして別異なきことを知るが故に。) 自下第二此以何義以下明徳。此中有二。一者縁照。二者明真照。此以何義者設問発起也。謂如実知者是縁智也。契真之智名如実知。一切衆生及与己身真如平等者。体無異故也。此之明智体。Keonsyo03-22R (自下は第二に「此以何義」より以下は徳を明かす。この中に二あり。一には縁照。二には真照を明かす。「此以何義」とは問を設け発起するなり。「謂如実知」とは、これ縁智なり。真に契うの智を如実知と名づく。「一切衆生及与己身真如平等〈一切衆生と及び己身と、真如平等にして〉」とは、体に異なきが故なり。これはこれ智体を明かす。)Keonsyo03-22R 【論】以有如是大方便智。除滅無明。見本法身。自然而有不思議業種種之用。即与真如等遍一切処。 【論】 (かくの如き大方便智あるを以て、無明を除滅して本法身を見る。自然に不思議の業、種種の用あり。即ち真如と等しく一切処に遍ず。) 次弁智用。以有如是大方便智除滅無明。見本法身也。次明真照。自然而有不思議業者。是報身也。種種之用者是応身。此行用也。即与真如遍一切処者以行即理。Keonsyo03-22R (次に智用を弁ず。「以有如是大方便智除滅無明。見本法身〈かくの如きの大方便智あるを以て、無明を除滅して本法身を見る〉」なり。次に真照を明かす。「自然而有不思議業」とは、これ報身なり。「種種之用」とは、これ応身、これ行用なり。「即与真如遍一切処〈即ち真如と等しく一切処に遍ず〉」とは、行即理を以てなり。)Keonsyo03-22R 【論】又亦無有用相可得。何以故。謂諸仏如来唯是法身。智相之身。第一義諦。無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益。故説為用。 【論】 (またまた用相の得べきことあることなし。何を以ての故に。謂く、諸仏如来は唯これ法身、智相の身、第一義諦。世諦の境界あることなし。施作を離れ、ただ衆生の見聞に随いて益を得るが故に説きて用となす。) 自下第三明真諦観。此中有二。一者正釈。又無有用相可得者。与体別用不可得故也。二者釈。何故不可得者。謂諸仏者唯是法身智身。第一義諦者。此之真観也。如華厳中十身相作是也。就真而望無有別用。観生死也。次弁第四明俗諦観。但随衆生見聞得益故説為用也。Keonsyo03-22R (自下は第三に真諦観を明かす。この中に二あり。一には正釈。「又無有用相可得〈また用相の得べきことあることなし〉」とは、体と別に用は不可得なるが故なり。二には釈。何が故ぞ不可得とならば、謂く、諸仏は唯これ法身智身なればなり。「第一義諦」とはこれ真観なり〈「謂く、諸仏如来は唯これ法身、智相の身、第一義諦」とは、これはこれ真観なり〉。『華厳』の中の十身相作の如きこれなり。真に就きて望むれば別用あることなし。生死を観ずるなり。次に第四に俗諦観を明かすことを弁ず。但、衆生の見聞得益に随うが故に、説きて用と為すなり。)Keonsyo03-22R 【論】此用有二種。云何為二。一者依分別事識。凡夫二乗心所見者。名為応身。以不知転識現故。見従外来。取色分斉。不能尽知故。 【論】 (この用に二種あり。云何が二となす。一には分別事識に依りて、凡夫二乗の心の見る所の者を名づけて応身となす。転識の現ずるを知らざるを以ての故に、外より来たると見て、色の分斉を取りて、尽く知ること能わざるが故に。) 此用有二種。自下第二明得益不同。此中有二。一者明能見之人。二者又凡夫可見以下明所見之身。此用有二者。此略挙也。分別事識者。謂六識也。言不知転識現故見従外来者。諸可見色依転識起。此起根源。不知自心現故為従外来。Keonsyo03-22L (「此用有二種〈この用に二種あり〉」より下は第二に得益の不同を明かす。この中に二あり。一には能見の人を明かす。二には又凡夫可見より以下は所見の身を明かす。「此用有二」とは、これ略して挙ぐるなり。「分別事識」とは、謂く六識なり。「不知転識現故見従外来〈転識の現ずるを知らざるを以ての故に、外より来たると見て〉」というは、諸の可見の色は転識に依りて起こる。これ起の根源なり。自心現なることを知らざるが故に「従外来〈外より来たる〉」と為すなり。)Keonsyo03-22L 【論】二者依於業識。謂諸菩薩。従初発意。乃至菩薩究竟地心所見者。名為報身。身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘厳。随所示現。即無有辺。不可窮尽。離分斉相。随其所応。常能住持不毀不失。如是功徳。皆因諸波羅蜜等無漏行熏。及不思議熏之所成就。具足無量楽相故。説為報身。 【論】 (二には業識に依る。謂く、諸の菩薩、初発意より、乃至、菩薩究竟地の心の所見をば、名づけて報身となす。身に無量の色あり。色に無量の相あり。相に無量の好あり。所住の依果は、また無量種種の荘厳あり。示現する所に随いて、即ち辺あることなく、窮尽すべからず。分斉の相を離る。その所応に随いて、常に能く住持して毀せず失せず。かくの如きの功徳は、みな諸の波羅蜜等の無漏の行熏、及び不思議熏の成就する所に因りて、無量の楽相を具足するが故に、説きて報身となす。) 二者言業識者。謂第七識也。初発意者是地前菩薩也。所住依果者。即蓮華蔵世界也。常能住持不毀不失者。是報浄土也。故華厳云。法界不可壊蓮華蔵世界海。Keonsyo03-22L (二には「業識」というは、謂く第七識なり。「初発意」とは、これ地前の菩薩なり。「所住依果〈所住の依果〉」とは、即ち蓮華蔵世界なり。「常能住持不毀不失〈常に能く住持して毀せず失せず〉」とは、これ報の浄土なり。故に『華厳』に云く「法界は壊すべからず、蓮華蔵世界海」といえり。)Keonsyo03-22L 【論】又為凡夫所見者。是其麁色。随於六道各見不同。種種異類非受楽相。故説為応身。 【論】 (また凡夫のために所見の者は、これその麁色。六道に随いて各見ること同じからず。種種の異類、受楽の相にあらず。故に説いて応身となす。) 自又凡夫下第二明所見身。此中有二。一者明凡所見。二者復次以下明菩薩所見。言非受楽相者。小乗教中明仏無常。但以修行故増智慧耳。故具苦無常。故非受楽也。Keonsyo03-23R (「又凡夫」より下は第二に所見の身を明かす。この中に二あり。一には凡の所見を明かす。二には「復次」より以下は菩薩の所見を明かす。「非受楽相〈受楽の相にあらず〉」というは、小乗教の中には、仏は無常にして、但、修行を以ての故に智慧を増すのみなるが故に苦無常を具し、故に受楽に非ずと明かすなり。)Keonsyo03-23R 【論】復次初発意菩薩等所見者。以深信真如法故。少分而見。知彼色相荘厳等事無来無去。離於分斉。唯依心現不離真如。然此菩薩。猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用転勝。乃至菩薩地尽。見之究竟。若離業識則無見相。以諸仏法身。無有彼此色相迭相見故。 【論】 (また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信ずるを以ての故に、少分に見る。彼の色相荘厳等の事は、来なく去く、分斉を離る。ただ心に依りて現じて真如を離れずと知る。然るにこの菩薩は、なお自分別して未だ法身の位に入らざるを以ての故に。もし浄心を得れば、所見微妙にして、その用は転た勝なり。乃至、菩薩地尽にこれを見ること究竟す。もし業識を離るれば則ち見相なし。諸仏の法身は、彼此の色相迭いに相い見ることあることなきを以ての故に。) 自下第二明菩薩所見。此中有二。一者正明。二者問答料簡。言浄心者初地也。Keonsyo03-23R (自下は第二に菩薩の所見を明かす。この中に二あり。一には正しく明かし。二には問答料簡す。「浄心」というは初地なり。)Keonsyo03-23R 【論】問曰。若諸仏法身離於色相者。云何能現色相。答曰。即此法身是色体故。能現於色。所謂従本已来色心不二。以色性即智故。色体無形説名智身。以智性即色故。説名法身遍一切処。所現之色無有分斉。随心能示十方世界。無量菩薩。無量報身。無量荘厳。各各差別皆無分斉。而不相妨。此非心識分別能知。以真如自在用義故。 【論】 (問いて曰く。もし諸仏の法身は色相を離れては、云何ぞ能く色相を現ずる。答えて曰く。即ちこの法身はこれ色の体なるが故に、能く色を現ず。謂う所、本より已来た色心不二なり。色性即ち智なるを以ての故に、色体無形なるを説きて智身と名づく。智性は即ち色なるを以ての故に、説きて法身は一切処に遍ずと名づく。所現の色に分斉あることなし。心に随いて能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の荘厳、各各差別して皆、分斉なくして、而も相い妨げざることを示す。これ心識分別の能く知るにあらず。真如自在の用の義なるを以ての故に。) 自下第二問答料簡。初問後答。就答中有三。一者正答。二者所謂釈答。三者此非心識以下。総結殊勝。Keonsyo03-23R (自下は第二に問答料簡す。初に問。後に答。答の中に就きて三あり。一には正答。二には所謂る釈答。三には「此非心識」より以下は総じて殊勝を結す。)Keonsyo03-23R 言此法身是色体故者。有人釈言。法身無色。応中但有。此義不然。此文顕矣。勝鬘中如来色無尽智慧亦復然。鴦崛魔羅経言。瞿曇法身妙色常湛然。又復義推下五戒十善中有人天也。何故万善満足感無色報乎。無国土也。既上中言所住依果種種荘厳也。Keonsyo03-23R (「此法身是色体故〈即ちこの法身はこれ色の体なるが故に〉」というは、ある人釈して言く。法身には色なし。応の中には但有りと。この義は然らず。この文顕なり。『勝鬘』の中に「如来の色は無尽なり。智慧また然り」。『鴦崛魔羅経〈大薩遮尼乾子所説經か?〉』に言く「瞿曇法身は妙色常に湛然なり」。また義を推するに、下の五戒十善の中に人天あるなり。何が故ぞ万善満足して無色の報を感ぜんや。国土なからんや。既に上の中に「所住依果種種荘厳〈所住の依果は、また無量種種の荘厳あり〉」というなり。)Keonsyo03-23R 【論】復次顕示従生滅門即入真如門。所謂推求五陰色之与心。六塵境界畢竟無念。以心無形相。十方求之終不可得。如人迷故。謂東為西。方実不転。衆生亦爾。無明迷故。謂心為念。心実不動。若能観察知心無念。即得随順入真如門故。 【論】 (また次に生滅門より即ち真如門に入ることを顕示す。所謂、五陰を推求するに色と心となり。六塵の境界は畢竟じて無念なり。心に形相なく、十方にこれを求むるに終に不可得なるを以てなり。人の迷うが故に、東を謂いて西となすも、方は実に転ぜざるが如し。衆生もまた爾り。無明の迷の故に、心を謂いて念となすも、心は実に動ぜず。もし能く観察して心は無念と知れば、即ち随順して真如門に入ることを得るが故に。) 自復次顕示下第二明修捨方法。此中有三。一者法説。二者如人以下開譬。三者衆生亦爾下合譬。Keonsyo03-23L (「復次顕示」より下は第二に修捨の方法を明かす。この中に三あり。一には法説。二には「如人」より以下は開譬。三には「衆生亦爾」の下は合譬。)Keonsyo03-23L 復次顕示従生滅門入真如門者是略題也。従浅入深。従無常門入無我義。中従無我門入真如不空門。其実唯真。而以相覆故不知不覚。除破此相。即知真如也。令可解大意如是。Keonsyo03-23L (「復次顕示従生滅門入真如門〈また次に生滅門より即ち真如門に入ることを顕示す〉」とは、これ略して題するなり。浅より深に入り、無常門より無我の義に入る中、無我門より真如不空門に入る。その実は唯、真にして、相覆うを以ての故に知らず覚さず、この相を除破して、即ち真如を知るなり。大意を解すべからしむることかくの如し。)Keonsyo03-23L 大乗起信論義疏 下之上 |