香月院 浄土文類聚鈔講義 第2巻の3(6の内の3) 序文 勤修を勧む |
末代の教行、専らこれを修すべし。濁世の目足、必ずこれを勤むべし。 爾れば最勝の弘誓を受行し而して穢を捨て浄を忻い、如来の教勅を奉持して而して恩を報じ徳を謝せよ。 |
浄土文類聚鈔講義 第二巻之三 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎末代教行、専応修此。濁世目足、必可勤斯。 ◎(末代の教行、専らこれを修すべし。濁世の目足、必ずこれを勤むべし。) 「末代教行」等。二勧機勤修二。初挙時正勧機。(二に機に勤修を勧むるに二。初に時を挙げて正しく機を勧む。)KG_MRJ02-09R 已上は『大経』に依りて法の勝益を嘆じたまい、已下は末代の時機に対して、この法勤修せずんばあるべからずと勧めたまう一段の意なり。この中、二つに分かれて、初に挙時正勧機〈時を挙げて正しく機を勧む〉。「末代」「濁世」と云うときを挙げ、正しく勤修をすすめたまうなり。この一段は『要集』の発端の言によりたまうと云うは、玄談に弁ずるごとし。KG_MRJ02-09R 「教行」とは、『蹄[シン09]記』に上の光明と名号とに当てて弁じてあり。これは鑿説なり。又『義讃』に下の文に当たりて弁じたも未穏〈未だ穏やかならず〉。これは爰に「教行」とあるは即ちこの書に明かす所の浄土真実の教行信証なり。それでなければ『文類聚鈔』の序分にならぬなり。今この鈔に明かす浄土真実の教行信証、これが末代濁世の教行じゃほどに、これを勤めよ、これを修せよと勧めたまう所なり。ゆえに今の「教行」と云うは四法を略してのたまうと云うこと、玄談に弁ずるごとし。四法を教行とするは、あまり略した言のようなれども、これがこの鈔の一格なり。前に弁ずる如し。KG_MRJ02-09R,09L 時にこの文、総じて上を承けたる言なり。『[シン09]記』のごとく上の光明名号に当てるは鑿説なり。上の段に光明名号の二徳を挙げ、『大経』所説の法の真実の益を明かす。その法の真実とは即ち浄土真実の教行信証なり。故に総じて上を承けて「末代教行」とのたまうなり。又義を以て分かちて云うときは、上の文に四法具足してあると云うは前に弁ずるごとし。そこで今総じて上を承けて「末代教行」とのたまう。在世正法の上代なれば聖道の教行証にこの利益もあるけれども、末法の今の時は無行者〈行ずる者なく〉無証者〈証する者なし〉。今明かす所の浄土真実の教行証は今時末代の教行にして、これを修するものは末法と云えども「滅苦証楽」「消障除疑」の勝益を得。爾ればこの法修せずんばあるべからずと云う意で、「末代教行(乃至)可勤斯」とのたまう。この謂われあるがゆえに、この文類を造りて浄土真宗を興行するなりと文にはなけれども、撰述の思し召し、この文に含めてありと伺うべきことなり。KG_MRJ02-09L 「専」と云うは『玄音』二十六(十一右)一也とあり。依りて『唯信文意』(二十左)に「専は一と云うことばなり」等と。聖道万行は尽くさしおきて只専一にこの法を修せよとあるを「専応修此〈専らこれを修すべし〉」と云うなり。KG_MRJ02-09L,10R 「濁世の目足」とは濁悪世の為の目足ということ。『[シン09]記』にこの目足と云うを上の光明名号に配してあれども、例の鑿説なり。今「末代の教行」と「濁世目足」とは対句にしてのたまうより見れば、目足の二は教行に喩えたまう思し召しとみえる。拠の『要集』からが「夫れ往生極楽教行〈それ往生極楽の教行〉」等とありて、教行をたとえて目足とのたもうたは治定なり。これは智目行足と喩えるが本也。即ち『法華玄義』四の一(初左)「智目行足到清涼池」とあり。これを『智論』の文のように、爰で大きな顔で『智論』に出ずる抔と云うてあるが、論にこの文はない。これは八十三(五左)の取意の文なり。智目行足と云うは解と行との二つを目と足とに喩えてあり。KG_MRJ02-10R 『止観輔行』五の一(三右)「目能導足以譬解。足能達目以譬行〈目能く足を導くを以て解に譬う。足能く目に達するを以て行に譬う〉」等とあり。この意は何程足が達者でも目がなければ向の行く所がしれぬ。目で見てから足を運んで行くなり。今も丁度そのごとく何程修行しても智解を発せぬ内は、結わぬ糸にて縫うようなもので、修行の功なし。終日修行すとも生死即涅槃と体達する智解を生ぜぬ間は証ることはならず。これ解が本となりて、それから修行するに依りて仏果に至る、これを「目能導足〈目能く足を導く〉」と云うなり。又「足能達目〈足能く目に達す〉」と云うは何程目が明かして向へ行くと思えども、足の叶わぬものなれば行くことはならぬ。足の達者なものは思う所へ行くなり。今もその如く何ほど智恵ありても修行せねば仏果に至ることはならぬ。円融門・行布門の二つ揃わねばならずと云うことは、この事なり。何ほど生死即涅槃と解しても酒呑む坊主は仏にならぬなり。爾れば智恵の目と修行の足とが揃うた所で仏果に至るゆえに「智目行足到清涼池」というなり。KG_MRJ02-10R,10L 今末代の衆生はその智恵の目もなく、修行の足もなく、解行ともに欠けてある故に「証りうるもの末法に 一人もあらじ」となり。爰に教行を目足に喩えたまうは、「聖道の諸教は行証久しく廃れ」ることを下意〈したごころ〉に含んでのたまうなり。末代は智目行足かけはてた故、証りうるもの一人もない。爾るに今浄土真実教は目のごとく能く末代の衆生を導きたまう。又浄土真実の行は足のごとく無善の凡夫を能く浄土に至らしめたまうと云うことにて、教行の二つを目足に喩えたまうなり。KG_MRJ02-10L 「必可勤斯〈必ずこれを勤むべし〉」とは、「必」は定と註して、色々ある中から是非これが能程にと一色に定まることなり。「濁世の目足」と云うは、これ計りじゃ程に是非ともこれを勤めよと云うことなり。「斯」とは「末代の教行」「目足」を指す言なり。即ちこの鈔に明かす所の浄土真宗の教行信証のことなり。KG_MRJ02-10L,11R 時にこの一段、始終熟字を分けて遣いたまう、それを対句になされてなり。『往生要集』には「濁世末代」と熟してあるゆえ、今は「末代」と「濁世」と二句に分けて対句とす。また「教行」と「目足」とは法と喩となり。それを分けて対句とす。「勤」「修」の二字は『大経』に「努力勤修善〈努めて力勤精進して善を修して〉」と説きてある、それを二句に分かちてつかいたまうなり。誠に巧妙なる御釈と奉り窺うべきことなり。KG_MRJ02-11R ◎爾者受行最勝弘誓而捨穢忻浄、奉持如来教勅而報恩謝徳。 ◎(爾れば最勝の弘誓を受行し而して穢を捨て浄を忻い、如来の教勅を奉持して而して恩を報じ徳を謝せよ。) 「爾者受行」等。二勧順二尊教(二に二尊教に順ずることを勧む)KG_MRJ02-11R 上の段に「専応修此〈専らこれを修すべし〉」と勧めたまうに付きて、この一段ではその修する相〈すがた〉を述べたまう。そこで「爾者」と上を承けて弥陀釈迦二尊の教えに順じて修すべしと勧めたまうなり。「爾れば」云う言は上を承ける言なり。然則と書きて、しかればと読むと同じ事なり。この「爾者」とかく例あるやと云うに、元祖の『選択集』下(二十七左)終わりに「爾者可謂」と二カ処まで遣いたまえり。KG_MRJ02-11R 「受行最勝弘誓〈最勝の弘誓を受行し〉」と、この「最勝の弘誓」とは弥陀の本願なり。「如来教勅」とは釈迦の教えなり。この文計りにて見れば知れぬようにあれども、『広文』の「総序」に「特仰如来発遣〈特に如来の発遣を仰ぎ〉」等あり。爰と同じ。両方合して見る時は、如来の発遣とあるからは釈迦の発遣なり。それに対する時は「最勝弘誓」と云うは弥陀の本願なり。KG_MRJ02-11R 時に『広文類』では二河白道の喩えの発遣招喚の次第にて、釈迦の発遣は前に挙ぐ。この『略文類』は『歎異抄』に「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚しきことあるべからず」とありて、弥陀の本願が本にして、それを伝える教勅にして、弥陀釈迦と次第する。KG_MRJ02-11R,11L 「最勝弘誓」とは、『大経』に「超発無上殊勝之願〈無上殊勝の願を超発す〉」と説きてあり。三世の諸仏に超勝たる無上殊勝の誓願なるゆえ「最勝弘誓」とのたまう。爾れば「殊勝」と云うべし。「最勝」と云うは、、これは『広文類』に「最勝の直道」とあるより見れば、『大経』の序文の「住最勝道〈最勝の道に住したまえり〉」の言に依りたまうとみえる。KG_MRJ02-11L 又次に「如来の教勅」と云うよりみれば「最勝弘誓」と云うは弥陀の弘誓なり。即ち『大経』の三十行の偈に「歌嘆最勝尊」とある弥陀の事を「最勝」という。今も弥陀最勝尊の弘誓と云う事にして、次の釈迦如来の教勅としたまうとみえる。KG_MRJ02-11L 「受行」と云うは『梁の摂論』一(二十左)に、無著の本論にこの「受行」と云う事あり。それを天親の釈に「如教行〈教の如く行ず〉。是を受行と名づく」とあり。爾らば「受」は領納の義なり。仏の教の如く受けて行ずるを「受行」という。今爰は弥陀の本願の通りに信じ行ずる事を「受行最勝弘誓〈最勝の弘誓を受行して〉」と云うなり。「受行して」と読むが真本の点なり。KG_MRJ02-11L,12R 「捨穢忻浄」と、この御言甚だ難解なり。『略文類』の序文短けれども、御言に底澄のせぬ処ままあり。この「捨穢忻浄」の御言遣いは『安楽集』の下(十六左)「今勧衆生捨穢忻浄〈今衆生を勧めて穢を捨て浄を忻わしむ〉」とある。これは言の拠なり。常には「厭穢忻浄」とあれども、今爰では『安楽』の言遣いにして「捨穢忻浄」と云う。末註に弁ずる通り『愚禿鈔』の下(四左)に、聖道門は厭離をもって本とする「厭離真実」、浄土門は欣求を本とす「忻求真実」と分けてある。これは聖道では生死を厭う厭離が先で、涅槃を忻う忻求は後なり。それはなぜなれば、涅槃の仏果は「行諸難行久乃可得〈諸の難行を行じ、久しくして乃ち得べし〉」〈易行品〉と、無数劫のあなたにある涅槃なり。それを先に願わせぬ。先ず目の前にある生死の苦患を厭い離れて、而して后に涅槃を欣求する。そこで聖道門は厭離を先とする「厭離真実」。又浄土門の機は凡夫を本とする故に、凡夫が中々初めから生死を厭離する心は起こらぬ。先ず安楽浄土を忻い求むるの心が本となりて、それから娑婆の苦を厭うようになり、依りて浄土門は欣求を本とする「欣求真実」と分かる。KG_MRJ02-12R,L 又聖道門でも厭離欣求を専らとするは権大乗の所談にして、華天密禅の一乗では煩悩即菩提、生死即涅槃と体達する故に、生死を厭い捨て而して后に涅槃を欣求するに非ず。生死涅槃無差別と談ずるが一乗教の所談なり。又浄土門でも厭離欣求を専らにするは要門自力の行者にある事なり。横超他力の法は「明信仏智」〈無量寿経〉の信心を本とする故に、行者の機の上に策励して娑婆を厭い浄土を忻う事は却って嫌うなり。そこで「信巻」に他力の大信心の事を「忻浄厭穢の妙術」と讃嘆したまうは、行者の機の上に策励して穢土を厭い浄土を願わせねども、この他力の信心を得れば自ずから浄土を欣求し、自ずから娑婆を厭い、厭離欣求は具するなり。それで「忻浄厭穢の妙術」とのたまう。KG_MRJ02-12L 時に今この文に不審あり。問いて云わく。今爰に「受行最勝弘誓」とあれば「順彼仏願」の他力の安心をすすめたまう処と相みえる。爾るに今「捨穢忻浄〈穢を捨て浄を忻い〉」とありては、先ず言便も「捨穢」と云うが先にある故に、上に厭離を先とする聖道門の厭離真実の安心なるべし。或いは又「忻浄」とある故に浄土の安心なりと云わば、これは要門の自力の欣求真実の安心にてあるべし。これが自力の安心じゃと云う証拠は『広文類』の序には浄土門の自力の機を挙ぐる処に「捨穢忻浄。迷行惑信〈穢を捨て浄を忻い、行に迷い信に惑い〉」とあり。この『広文類』の序の文はどうみても他力の安心の事ではない。他力の安心を勧める相対の機の相〈すがた〉を述べる文なり。爾れば『広文類』の序でみれば急度〈きっと〉要門自力の厭忻を述べるとみえる。爾るに今この『略文類』に限りて他力の安心を述べる処に「捨穢忻浄」とのたまうは何故ぞと云うに、KG_MRJ02-12L,13R 答えて云わく。爰をば只紛らかして通る所なり。澄まぬ処は疑いて書くがよきなり。底すみのせぬ所をば澄んだ顔で紛らかして通るは不可なり。今爰を窺うに、末書の内で私解や直解に弁ずる処は一向麁漫にして、評するに足らず。『[シン09]記』には「捨穢忻浄」の「忻浄」は欲生心じゃとした計りで、外に弁はなし。『義讃』では爰を頗る考えたれども、未だ尽くさざる処多し。KG_MRJ02-13R 今云わく。『愚禿鈔』に聖道門は厭離を先とする厭離真実。浄土門は忻求を先とする欣求真実。又聖道門でも厭離を専らにするは権大乗の所談。浄土の中でも厭忻を専らとするは要門自力の行者にあると云う事、二双四重の対待門教の権実を判ずる時の事にて、今この『略文類』は二双四重の教判はなし。玄談第三門広略の異を弁ずる中に四重の教判有無の異を弁じたは、即ち一部の体勢を窺うて弁ずるのなり。この『略文類』では二超二出の教判の沙汰は少しもない。そこで今は対聖道門、直ちに真宗の安心を述べる。二双四重の対待ではなしに直ちに真宗の安心を述べる中に、厭穢欣浄に約して弘願の信心を述べるに妨げはなし。なぜと云うに、弘願の信心には必ず安楽浄土に生まれんと忻う心がある。その安楽浄土に生まれんと忻う心に即ち娑婆を厭う心あり。KG_MRJ02-13R,13L 「序分義」(二十四右)のなかに「夫人真心徹到厭苦娑婆、欣楽無為〈夫人真心徹到して苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて〉」等とあり。これは夫人の真心徹到の金剛心の相〈すがた〉にして、韋提の金剛心にはもとより「不楽閻浮提濁悪世也〈閻浮提の濁悪の世をば楽わざるなり〉」と、苦の娑婆を厭い、楽の浄土を忻う思いは備わりて居るなり。「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて」等とのたまうが、即ちこの韋提の「閻浮提」等と娑婆を厭うて浄土を忻われた金剛心の事なり。KG_MRJ02-13L,14R 又『般舟讃』(三十左)に「厭則娑婆永隔。忻則浄土常居〈厭えば則ち娑婆永く隔たり、欣えば則ち浄土常に居す〉」とありて、この文を吾祖「信巻」末(五右)に御引用なされ、横超他力の証文としたまう。『末灯鈔』(十一左)の中では、この『般舟讃』の文を引きて、他力信心の行者の意は、常に浄土に遷遊〈栖遊か?〉ぶ事じゃと云う義にして御釈なされたり。爾れば他力の信心に本より厭穢忻浄の心が備わる故に、その信心のすがたを述べるに捨穢忻浄とのたまう二双四重の教判の時こそ、厭離を先とすると云えば、聖道門の忻浄厭穢を策励すれば、要門自力の安心と選ばねばならぬ。KG_MRJ02-14R 今、対待門を除きて直ちに弘願の相〈すがた〉を述べたまうに、「捨穢忻浄」とのたまう。これは穢土を厭い已りて而して后に浄土を忻ぶでもなし、又浄土を忻いて而して穢土を厭うではない。安楽国土に生ぜんと忻う心に厭穢も忻浄も具する。厭離が先に発るの、忻求が后に発るのと云うは、行者の機を策励して厭忻心を発す時の事なり。今は左右ではない。ただ参ずべきは安養の浄土にてと思う心に、厭穢と忻浄との前后を論ぜず。そこで「信巻」には「忻浄厭穢」とある。今この文には「捨穢忻浄」と次第す。KG_MRJ02-14R,14L 問いて云わく。弘願の信心に捨穢忻浄の思いの具すると云う事、我祖の命を聞く。爾るに今末代の時機に対して、弘願の信心を勧むる処に紛らわしき聖道の厭離真実、浄土門の自力要門に紛るる言を遣いたまうや。KG_MRJ02-14L 答えて云わく。これが却って『略文類』の一の体勢なり。玄談に『広』『略』の異なる相を弁じたは、事を好みて弁じたではない。文に入って安らかに窺いたしと思うからの事なり。『広文類』は題号を初めとして最初からの明かし方が聖道に対する明かし方故、唯浄土門という。その浄土門の中で方便真実を分けて浄土真実の四方〈四法?〉を明かすとある御体勢なり。今この『略文類』は爾らず。題号に『浄土文類聚鈔』とありて、「浄土」の下に真実の言なければならぬ所を略したは、一部の明かし方を略題にして顕したものなり。KG_MRJ02-14L,15R この『略文類』では聖道門に対して直ちに浄土真実を述べたまうなり。その時は捨穢忻浄と勧むるが却って便あり。それはなぜと云うに、聖道では此土入聖得果、この穢土にて修行して、この穢土にて証る教えゆえ、聖道門の心で申す時はこの娑婆を捨てて他方の浄土を欣求すると云うは迂り遠い。由りてこの娑婆で修行して直ちに仏になるほどの近道はないと執して居る故に。KG_MRJ02-15R それに対して今直ちに浄土真宗の安心を述べる時は、この穢土にて修行して、穢土にて証るというは、在世正法の上代の根機の事にて、末代今時誰が此土得果のものあらんや。よって早々穢を捨て浄土を忻えと勧めたまう。そこでこの「捨穢忻浄」の言が上の段の「末代教行、専応修此〈末代の教行、専らこれを修すべし〉」と云うを承けたものなり。末代の時に於いては此土得果の聖道門の教えは行証久しく廃れ、それじゃに依りて穢土に行じて穢土に証る聖道門は閣きて、早く浄土真実の教行証を信ぜよと云う事で、他力の安心を述ぶるに却って「捨穢忻浄」の言を用いたまう。爰をば『広』『略』二本の同異を窺いた上でなければすめぬ所なり。KG_MRJ02-15R,15L 『広文類』でも直ちに序に「捨穢忻浄」を要門自力の機の事にしてある。それが『略文類』に来たりて他力の安心を述ぶる所に「捨穢忻浄」の言を用いたまう。『広』『略』二本同じ事じゃと云うては爰らは一向にすまぬなり。『広文類』は最初から聖道に対して浄土を明かし、浄土門の中では要門自力に対して真実の教行証と云うから分けてみせるなり。今『略文類』では聖道に対して浄土門という所に方便要門の対すべきはない。直ちに浄土真実を述ぶるなり。即ち『要集』「往生極楽教行〈往生極楽の教行〉」等と勧めて、それから明かす所の十門分別最初の「厭離穢土」「欣求浄土」なり。これ聖道門に対して直ちに浄土他力の厭忻を述ぶる明かし方なり。今その轍を守りて上の段に『要集』の言を取って「末代教行」等とのたまいたに由りて、今は厭離穢土欣求浄土を述べて「捨穢忻浄」とのたまうけれども、只「捨穢忻浄」と云うては紛れる事がある故に、今は弘願の信心なる事を顕して「受行最勝弘誓〈最勝の弘誓を受行し〉」と云いかけ、順彼仏願の信心の相〈すがた〉を述ぶる文じゃと云う事、直ちに文の上に顕れてあり。KG_MRJ02-15L,16R 「奉持如来教勅〈如来の教勅を奉持して〉」等と。「如来」と指したは釈迦如来なり。如来は無上法王故、如来の教は無上法王の勅命じゃと云う事にて、「教勅」とのたまう。『広文類』の序に「特に如来の発遣」とあり。これは釈尊の発遣の事なり。けれどもそれは釈迦と云わずに「如来」とのたまうは、一仏即一切仏、三世の如来みな如是と云う事を顕したと云う事なり。三世の如来尽く釈迦如来の如く、出世本懐とは弥陀の本願を宣説したまう。それ故に『略文類』の畢わりに「三世諸如来出世正本意〈三世の諸の如来出世の正しき本意〉」等とある。爾れば諸仏の通名を出して「如来の教勅」という。そこでこの一段、弥陀釈迦二尊を挙げたれども、これを開いて云う時は、弥陀釈迦諸仏三仏三随順を述べたる文になる。KG_MRJ02-16R 「奉持」というは、『大経』に「奉持教誡」とありて、尊奉の義にして両手を以て捧げる如く敬い尊む事なり。そこでそこで今「奉持如来教勅〈如来の教勅を奉持して〉」と云う。如来の教を尊び受け奉る事なり。「報恩謝徳」とは御真本では恩を報じてとあり。これは恩徳を報謝すべしと云う事なり。それを文字を分かちてのたまうなり。上の句の「捨穢忻浄」は弘願の真実なり。この「報恩謝徳」は信の上の仏恩報謝なり。そこでこの一段では、爾れば如何修するぞと云うに、外に修しようはない。只二尊の教えに随順して、弘願の信心を決定して、仏恩報謝するより外はないと勧めたまうなり。爰を読み損ねざるようにせねばならぬ。みな末書の料簡では、弥陀の本願に向かいては「捨穢忻浄」、釈迦の教勅に対して「報恩謝徳」とみる処なれども、爾らず。この釈迦弥陀二尊の事、末注のみよう皆当たらず。爰は二尊一致にてのたまう。『観経』でこそ、弥陀は弘願を顕し、釈迦は要門を顕す、二尊二教なれども、今は『大経』の意で、初めから二尊一致にして、弥陀と釈迦と分けたまわぬなり。KG_MRJ02-16R,16L 「最勝の弘誓」は弥陀の本願なり。その弥陀の本願を説くものは釈迦諸仏の教勅なり。弥陀の本願の外に釈迦や諸仏の教えのなきが『大経』の二尊一致教なり。爾れば今初めに「最勝弘誓」とのたまうは弥陀の本願、次に如来の教勅とは、その弥陀の本願を説く処の能説の釈迦の教なり。これを合して云う時は釈迦弥陀二尊の勅命に随うとのたまう。又弥陀の本願の外に釈迦の教はなき故に、これを合して本願の勅命とものたまう。爾れば今日の行者は弥陀の本願を釈迦善知識の教えにて能聞して信心を決定して、つねに仏恩を報ずるより外はない。これが二尊の教に随順するなり。これが即ち三仏三随順の行者という事で、「受行最勝弘誓」等とのたまうなり。KG_MRJ02-16L,17R |