香月院 浄土文類聚鈔講義 第2巻の6(6の内の6) 教を明かす 大経の宗体 |
如来の本願を説くを経の宗致と為す、即ち仏の名号を以て経の体と為るなり。 |
浄土文類聚鈔講義 第二巻之六 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎説如来本願為経宗致、即以仏名号為経体也。 ◎(如来の本願を説くを経の宗致と為す、即ち仏の名号を以て経の体と為るなり。) 「説如来本願」等と。三判経宗体〈三に経の宗体を判ず〉。KG_MRJ02-41L さてこの宗体の判、甚だ要論なり。末書に屡々弁じてあるとも、御祖意を得たるものはないと存ぜらるる。先ず最初に宗と体との分かちを弁ぜねばならぬ。末書の弁じ方間違うてあり。先ず仏経を釈するに付きて宗体の二つを分けて釈するは、諸師の中では天台が最初なり。天台已前は浄影の釈あれども、遂に宗体を分けて釈するをみぬ。又鸞師の『論註』上(初左)に「以仏名号為経体〈仏の名号を以て経体と為す〉」とのたまえども、別に宗の判なし。これ天台已前には宗体の分かちなきなり。則ち『法華玄義』には古師の宗体の分けざる事を破してあり。浄家には「玄義分」(五左)に『観経』を釈するに宗と体とを判じ分かつ。今吾祖は善導を相承してして教の宗体を判ず。KG_MRJ02-41L,42R 先ずこの宗というは『法華玄義』一の一(三十四右)、同九(五十右)等に釈あり。「宗者要也」とありて、一経の肝要たる旨を宗と云う。一文一句の肝要の事ではない。『大経』では十八願が肝要じゃと云えばとて、唯十八願計りを説いた所を肝要と心得れば、宗を判ずる事はできぬ。先ず宗というは一部始終に行き渡った肝要たる所を宗と云う。それで天台の喩えに「如梁柱屋持〈梁柱、屋を持するが如し〉」とありて、一軒の家で云う時は梁と柱とが家の内に行き渡って肝要なり。この三十七間の御堂も虹梁と柱にて持ちこたえておる。丁度その如く、一部始終に行き渡った肝要なものを宗と云う。KG_MRJ02-42R これで宗は解すれども、体は甚だ要論なり。私共も毎度弁ずるけれども弁じ難き事なり。体は『法華玄義』八(二十七左)の「体者一部之指帰。衆義之都会也〈体とは一部の指帰。衆義の都て会するなり〉」とあり。この意は、体とは一部の結帰する所で、衆義を集むる所を体と云う。如北辰居其所而衆星共之〈北辰はその所に居し、而して衆星はこれに共にするが如し〉。共は註に向かうなりと喩えるが体なり。諸の星が北辰の方へ、北辰の方へと集まる。一部始終の法門残らず帰する所を体と云う。そこを天台でなれば諸大乗経皆諸法実相を体と為すと云う。これを天台の経体は能詮の教体というものもあれども、慈恩の『述記』等にある「摂相帰性体」と実相為体とを紛らかして云うのなり。KG_MRJ02-42R,42L 天台の体は能詮にして立つるに非ず。『法華』『維摩』等一部所詮の無量の法門の結帰する処を体と云う。大乗では「除諸法実相余皆魔事〈諸法実相を除きて、余は皆魔事〉」なるゆえ、大乗教の中に山を説こうが、川を説こうが、色を説くも、心を説くも無量の法門帰結する処、実相より外はない故、実相為体と云う。KG_MRJ02-42L 時に爾らば体の字聞こえ難しと云うに、これを天台の『観経疏』上(十右)「体是主質」なりと釈してあり。主体の字義にて釈したるものなり。体は主質の義にして都て主となるものを体と云う。人間の体〈からだ〉でも同じ。体〈からだ〉中の主となる。それに目鼻手足のと云うものが付いてあるく。そこで体〈からだ〉中の所有耳目手足等がただ体一つに結帰する。体〈からだ〉中のあるだけがみな同体の一つに結帰する。今爰の体と云うもそれと同じ。体となるからは主質の義がなければならぬ。一部始終の無量の法門の結帰する所を体と云う。KG_MRJ02-42L,43R 時にこの経体に付きて能詮の経体につい紛れてならぬ。能詮の経体というは、一寸弁ずる時は、仏の説法は金口四弁八音の声が説法の体となる。その声の上に名句文が分かる。名句文を以て経体とす。爾れば仏の説法したまう声や名句文が教の体と云うは、能詮の教体なり。これにも色々大小乗の異説あり。慈恩の『述記』の五門分別、賢首の『探玄』の十門分別に一科を立てて経体を判ずるは皆この能詮の教体なり。新訳家計り能詮教体を云うにあらず。天台ではこの能詮教体を委しく明かすなり。けれども天台では五重玄の中では名の下にて教体を弁じてある。爾れば天台の五重の中の体は能詮の経体に非ず。その経の一部始終の結帰する所を体と云うなり。これを大家が紛らかしてならぬ。「玄義分楷定記」にも紛らかしてあり。KG_MRJ02-43R 時に漢土の諸師でも賢首に来たりては、この宗体の事を宗趣と云う。これは体といえば彼の能詮の教体に紛れる。そこで言を替えられたとみえて、宗体の事を宗趣と云う。『探玄記』一(四十九)「宗之所帰曰趣〈宗の帰する所を趣と曰う〉」とあり。一切の周の趣き帰する所を趣と云う。これ天台の謂る「体は一部の指帰。衆義都会〈体とは一部の指帰。衆義の都て会するなり〉」と云うのと全く同じ。そこで善導の「玄義分」の宗体の釈、宗と体との分かれは天台と同じ。「玄義分」(六右)に「一心回願往生浄土為体〈一心に回願して浄土に往生するを体とす〉」とあり。これは『観経』一部の顕の義は観仏三昧を説く。隠の義では念仏三昧を説きたれども、その結帰する所は何ぞと云うに、衆生をして極楽往生を願わしめ、その浄土に往生せしむる計りじゃと云うことなり。これ善導の体と賢首の謂わゆる宗の帰する所を趣と云うとあると同じ。これ天台の宗体の分かれと、善導の宗体の分かれと同じ。今吾祖の御判釈の宗と体との分かれは、全く善導の御釈と同じ事なり。他師では天台と同じ。KG_MRJ02-43R,43L 時にこの『略本』の末書、古き書では私記の直解のと云うようなものに宗体の事を長く弁じてあり。何が宗やら体やら、その分かちが知れぬ故に評する事も出来ぬ。『[シン09]記』に弁ずる所をみるに、宗は宗要にして一部の肝要。これもよし。次に体は体質にして一経の主とする処を体と云う。これもよし。爾るにその次に善導の「玄義分」に、体と云うは宗の帰する所を体と云うゆえ、今爰にある体とは別なりと云うは宜しからず。KG_MRJ02-43L,44R 今爰の体は天台に云う如く主質にして一経の主となるものにして、一部の法門結帰するところなり。宗の帰する所を体と云う。「玄義分」の宗体の分かちと吾祖の宗体の分かちと同じ事なり。爾るに善導の宗体の釈と今爰の宗体の釈と違うは云何というに、これは『観経』を釈すると『大経』を釈するとに由りて違うなり。これは文に入りて弁ずべし。 「説如来本願〈如来の本願を説く〉」等。さてこの『大経』の宗体を弁ずるに付きて、凡そ『大経』の末註三十有余あれども、浄土真宗の『大経』にした末註は外にはない。今吾祖の僅かに一行ほどの宗体の御判釈で、上下二巻の『大経』悉く浄土真宗の正依の経となる大切なる御判釈なり。爾るに惜しい哉。『略文類』の末書一部として御素意を伺うたものがないように存ぜらるる。爾れば別して心を止めて拝見致さねばならぬ。KG_MRJ02-44R 先ず文の生起次第を弁ずべし。これより上に『大経』一部の大意を御述べなされたその大意の御釈から、宗体の御判釈を引き出したものじゃ。この教の宗体を知らんと欲せば、先ず経の大意を知るべしの思し召しなり。KG_MRJ02-44R,44L 時にこの経の大体は「弥陀超発於誓〈弥陀、誓を超発して〉」等とありて、これ弥陀の因位の方からいえば、弥陀誓を超発したまう。その本願の本末を説いたお経なり。又弥陀の果上の方からいえば、名号の宝を衆に施す事を説いたお経なり。これ一部の大意、本願名号を説くより外はない。今それをば宗と体とへ引き分けて、「如来の本願を説くを経の宗とし〈説如来本願為経宗致〉」「以仏名号為経体〈仏名号を以て経の体と為す〉」と。この宗体の御判釈、上の大意から出て来たようにしての御判釈には非ず。KG_MRJ02-44L 「説如来本願」。この「本願」と申すを末書の中で、或いは四十八を指す、或いは十八を指すもあり。これは総じては四十八願、別しては十八願。吾祖の御言遣いの定格なり。唯、本願と仰せらるる時はいつも四十八を全うしたる第十八願の事じゃ。爾ればこの「本願」は総じて四十八願別して十八願なり。KG_MRJ02-44L さり乍ら今「如来の本願を説く」とあるは、只『大経』の上巻の四十八願を説いた経文計りを御指しなされた御言ではない。これは『大経』一部上下悉く如来の本願を説くと仰せられた。これ昨日弁ずる如く、宗と云うものは一部始終へ行き渡った肝要なるもの。今『大経』一部へ行き渡った肝要なるものは如来の本願なり。この経の正宗分の最初に「乃往過去久遠無量」等と説き懸けさせられてから、下巻の正宗分の終わりまで本願の生起本末を説くに依りて、一言半句も弥陀の本願説かざる所はない。これが一部へ行き渡った宗要なり。それで「説如来本願」等とのたまうなり。KG_MRJ02-44L,45R 「如来」と云うは阿弥陀仏の事。今弥陀の本願と仰せられてもよさそうじゃに、「如来の本願」とのたもうたは、これはこの「説如来」の三字は憬興の『述文賛』から取りて仰せられた。「行巻」の中に引きてある『述文賛』、『大経』一部の大科を分かつに「説如来浄土因果〈如来浄土の因果を説く〉」とある。「説如来」の三字はここから出るなり。『述文賛』は『大経』の科段ゆえ、この上下二巻を分けて、上巻は「説如来浄土因果〈如来浄土の因果を説く〉」、下巻は「顕衆生往生因果」。今は一部の宗を御判釈なさるゆえ、上下二巻悉く「如来の本願を説く」。『述文賛』でみれば「如来」と云うは衆生へ対す。今この『大経』は釈迦出世の本懐に如来の本願を説きて衆生に聞かせたまう所の浄土真宗の教えなり。ゆえに「説如来本願為経宗致〈如来の本願を説くを経の宗致と為す〉」とのたまう。KG_MRJ02-45R,45L 時に三経の宗体を判ずるに通・別の宗体あり。今爰は『大経』一部の別宗・別体を判釈す。「化巻」御自釈(四十五右)に「三経真実撰択本願為宗〈三経の真実は、選択本願を宗とす〉」とあり。これは三経の通宗なり。その三経の通宗が今この『大経』の別宗と同じ事にて「本願為宗」。これ何ゆえぞといえば、三経に通ずる通宗と云う時は三経一致の所にて宗を立てねばならぬ。爾るに『観』『小』の顕説の方では三経別なる故、通宗は立てられぬ。『観経』の隠の方でいえば『大経』と一致ゆえに通宗が立てらるるによって、「化巻」に「三経の真実」と云う簡びの言を置きて「撰択本願為宗」とのたまう。爾れば三経の通宗と『大経』の別宗とは同じ事なり。KG_MRJ02-45L さり乍ら爰は微細なる事なるは今『大経』の別宗を判ずる時には「説如来本願〈如来の本願を説く〉」とのたもうて「説」の字を加えてあり。「化巻」の通宗の時は説の字なし。この「説」の一字をもって通別に宗の差別を顕す。恐れ乍ら爰らが我祖御意を用いたまう所也。KG_MRJ02-45L 爾るにこの鈔の末註、一部でもこの「説」の字の有無に気を付けたるものなし。この一字一句に気を付けて学ぶのは章句の学として嫌う事もあれども、それは学ぶ書物に依りての事なり。今家の祖釈を窺い奉るには一字一句心を付けねばならぬ。KG_MRJ02-45L,46R この説の一字を置かせられたのは上の大意の下にも弁ずる如く、『大経』一部所説の法は弥陀本願の本末、その能説の釈迦の本懐、能説所説二尊一致の『大経』なるゆえ「説」の字を置きたまう。又「化巻」に三経の通宗を判ずるには「撰択本願為宗〈選択本願を宗とす〉」と云うて「説」の字なし。『観』『小』には文の表には弥陀本願は説かぬ。それで如来の本願を説くと云う事は云われぬ。依りて善導の『観経』の弘願を釈し乍ら「言弘願者如大経説」とのたまう。『観経』にて如来の本願を説くとは云われねばこそ「大経に説くが如し」譲りたまう。爾れば三経を一処にせねば如来本願を説くとは云われぬ。『観』『小』には唯裏に顕す計り故、「説」の字を省きて只「選択本願為宗〈選択本願を宗と為す〉」とのたまう。KG_MRJ02-46R 「選択本願」の言を遣うに心あり。今「如来の本願」とは、総じては四十八願、別しては十八願。又「選択本願」と云うも、総じては四十八願、別しては十八願なり。けれども選択本願というは、明日の講弁に出る事で、第十八の本願にて、万行諸行の中から称名念仏の一行を簡び取る処を選択本願と名づく。そこで『観』『小』の隠と顕と、要門・真門に対したる弥陀の本願なり。それで定散二善の諸行ではない。諸善万行の中から念仏の一行を選び取る第十八願を宗とすと云う事で「選択本願」の言を出したまう。KG_MRJ02-46R,46L 今この『大経』には隠顕はない。釈迦仏、顕了に弥陀の本願のありの儘を衆生に対して説くが一部の宗ゆえに、そこで「説如来本願為経宗致〈如来の本願を説くを経の宗致と為す〉」と云う。この「宗致」の「致」の字、至也、極なりと註して、物の至り究まる所を致という。そこで極とも、極致とも云う。今、宗と云うものは、一部の肝要、至極なる処故に、宗の字をば宗致という。KG_MRJ02-46L 時に『一多証文』に釈して「致は、むねとすと云う」等とのたまう。吾祖は「むね」と訓じたまう。即ち『広文類』の左訓に「宗致」の処に「むね」とあり。爾れば宗旨と云うてあり。それを今、我祖は「宗致」とのたまう。かように委しく云わば、この宗致という言紛れる事あり。末書の内でも『直解』の中におかしき事云うてあり。それは評するに足らぬ事なり。紛れる事のありと云うは、元暁の『大経宗要』に、一経の宗致を判ずるに、宗と致とを分けてあり。この元暁は華厳の至相大師の門人にして、云いようは違えども、元暁の宗致と云うは、賢首の宗趣と同じ。上に弁ずる如く、天台の宗致と云うを賢首は言を替えて宗趣と云い、その事を元暁は宗致と云う。そこで元暁の宗致の致は宗の帰する処を致という。今我祖の宗致とのたまうのとは大違いなり。それじゃによって宗体の分かれは心えておらねば始終間違うなり。KG_MRJ02-46L,47R 吾祖の宗体の判釈は、宗と体との分かれは天台と同じ。爾し天台に宗の事を宗致と云われたことありやというに、天台の『観経疏』上(十一左)『観経』の宗を判ずる処に「為経宗致〈経の宗致と為す〉」とあり。これはこればかりに非ず。『法華玄義』九にも宗の事を宗致と云うてあり。爾し今爰に引き合わせするには『観経疏』計りなり。「為経宗致〈経の宗致と為す〉」と云う四字は全く『観経の疏』の言なり。吾祖の御撰述、さりながらみな古人の言を切り合わさせらるる、謂わゆる活奪の御文章なり。爰らも「説如来」の三字は憬興の疏より取り、「為経宗致」の四字は天台より取りたまう。KG_MRJ02-47R 「即以仏名号為経体也〈即ち仏の名号を以て経の体と為るなり〉」とは、これは末書に引いてある通り、『論註』に三経の経体を判じて「即以仏名号為経体也〈即ち仏の名号を以て経の体と為るなり〉」とのたまう。この八字は全く『論註』の文なり。『論註』の文を爰に切り取りてはめたまう活奪なり。KG_MRJ02-47R,47L 時に経体の事は昨日弁ずる如く、一部の旨帰、衆義、都会にして、一部の法門の結帰する所を体と云う。今『大経』一部に弥陀の因源果海を説くに付きて、弥陀因位の四十八願、永劫修行、それから十劫正覚の果上の三種の荘厳、二種清浄を長々と説き広げてあれども、『大経』一部の帰結する処は、弥陀の名号を讃嘆するより外はない。それじゃに依りて『大経』一部に説く処の、弥陀因位の願行、果上の三種荘厳、二種清浄、諸有法門、一南無阿弥陀仏に帰結する。弥陀の浄土の荘厳を説いた七宝樹林の葩一つも、八功徳池の水一滴も南無阿弥陀仏の外はない。『大経』一部の無量の法門、只名号に結帰するに依りて「以仏名号為経体〈仏の名号を以て経の体と為る〉」なり。KG_MRJ02-47L 時に末書に爰を六个布〈むつかしく〉いうて、善導の「玄義分」に『観経』の宗体を判じて「一心回願往生浄土為体〈一心に回願して浄土に往生するを体とす〉」とあり。今我祖、善導の釈を取りてのたまいても宜しかるべきに、『論註』に依りたまうは云何というに、末書では『私記』の中に長々と弁じてあり。さて『[シン09]記』にこれを苦しみて会通してあり。これは何もむつかしく会通するには及ばぬ。事これは「玄義分」の御釈は『観経』に限りた別宗別体の釈なり。KG_MRJ02-47L,48R その『観経』と云う経は隠顕の義を備える経ゆえ、そこで「玄義分」に宗を判ずる時も「即以観仏三昧為宗、亦以念仏三昧為宗〈観仏三昧を以て宗とし、また念仏三昧を以て宗とす〉」と、一経両宗を判ず。経の顕の義では観仏三昧を宗とし、隠の義では念仏三昧を宗とす。これは『観経』計りに限った一経両宗故、『大経』には取って来られぬでないか。KG_MRJ02-48R 経体の御釈も又爾り。「玄義分」の「一心回願」等とのたまうは『観経』の隠顕二義に通ずる経体なり。そこで経の顕の義では、一心というは定散諸機各別の自力の一心なり。定散の諸機が思い思いに己が善根を回向して方便化土に往生すると云う事にて「一心回願」等と云う。又経の隠の義では、一心と云うが横超他力の一心で、この他力の一心で安楽浄土に生まれんと願うて真実報土に往生する事で「一心回願」等と云うなり。爾れば経の隠でも顕でも『観経』一部の結帰する処は、衆生、弥陀の浄土に往生せしむるより外はないと云うが「玄義分」の経体の御判釈なり。これは一経両宗と云うは『観経』に限りた判釈なり。それを持って来て真実教の『大経』の経体には判ぜられぬ。爾れば「玄義分」の御釈と違うはどうじゃ抔と云うて、苦しみて会通を設けるはいらざる論なり。KG_MRJ02-48R,48L また『論註』の御釈は三経の通体なり。これは三経一致の処ゆえ、『観』『小』の隠義にてのたまう。そこで三経の通体が『大経』の別体になるによりて、『論註』の御釈を丸ながらに爰に取り来たりたまい「即以仏名号為経体〈即ち仏の名号を以て経の体と為るなり〉」とのたまう。KG_MRJ02-48L 爾れば宗と体との扱いは「玄義分」と全く同じけれども、『大経』の宗体の判釈は「玄義分」とは違うて「説如来本願」等とのたまう。KG_MRJ02-48L 時に天台の実相為体と今家の名号為体と、経体の相〈すがた〉よく似てあり。実相為体では諸大乗経に説く処の無量の法門、真如実相ならざるはなきゆえ、実相一に帰結する。又今家の名号為体は『大経』一部に説く処の無量の法門、名号を離れて外の事はない。一南無阿弥陀仏に帰結するゆえ名号為体。この実相為体と名号為体と共に一部の旨帰、衆義の都会を経の体とすると云う相〈すがた〉は同じ事なり。けれども法門の建立は大違いなり。爾るに『[シン09]記』の中に、名号為体・実相為体、異なる事なしと済ませり。あの異なしと云う弁、甚だ悪し。尤も名号は真如一実の功徳法海じゃによって、名号を実相と名づくる事もあれども、今一部の経体を判ずるのに、天台は実相にて経体を判じ、今家は名号にて経体を判ずると云うは大違いなり。浄土真宗の法門は法性縁起門にて建立したものではない。因願酬報にて立てたものじゃというは爰なり。KG_MRJ02-48L,49R 聖道門の一乗は、華厳の法界縁起、法華の諸法実相、真言の六大無碍、その談じ方は違えども、今家より詠〈なが〉めて概していえば、法性縁起門、法性の理から建立した法門。喩い事事無碍、法華〈事事無碍法界?〉と談じようが、六大法身と云おうが、今家からいう時は、皆法性の理にて立てた法門。そこで天台に、諸大乗教、実相を体とすると云うは、青々縁〈緑?〉竹、灼々紅華、松吹風、岸打波、真如実相ならざるものはないと云う。無量の法門尽く真如法性から縁起したものゆえ、法性縁起の無量の法門当体実相に帰すると云う事にて実相為体と云う。KG_MRJ02-49R,49L 浄土真宗の法門は因願酬報にて建立するゆえに、本願成就の南無阿弥陀仏を経体とする。全体法門建立異なり。爰らはつい紛らかすと云うと、浄土真宗の法門も法性真如にて立てた法門に成りて安心迄が色も形もなき法身の理に叶うたのが不思議と信ずると云うような事を云い出すようになるなり。今「説如来本願為経宗致、即以仏名号為経体〈如来の本願を説くを経の宗致と為す、即ち仏の名号を以て経の体と為るなり〉」とのたまう。浄土真宗の経の宗体、本願と名号となり。因願酬報にて立てたものなり。尤もこの名号は法性を全うして修し顕したる真如実相恒沙の功徳を残らず具えた名号なれども、その法性の理の事は少しも談ぜられぬ。因願報酬にてのたまうが今家の法門なり。KG_MRJ02-49L 時にこの宗体の判釈はもと一経の大意より出た御釈じゃと云う事、先々弁ずる如く、それに付きて不審あるは、一経の大意より伺う時は、阿弥陀仏の因位よりいえば、本願の本末を説きたる経なり。弥陀の果上より云えば、名号の利益を説きたるなり。その本願と名号とを宗と体とに引き分けた御判釈じゃと云うは聞こえたが、それなら何ゆえに宗の方には本願を出し、体の方には名号を出したまうぞ。KG_MRJ02-49L,50R 答えて云わく。これは弁ぜねばならぬ事なり。宗の方に本願を出し、体の方に名号を出すは、これは『大経』の十七・十八二願にてのたまうことなり。全体この宗体の御判釈は十七・十八の二願より出でたる事なり。それは云何ぞと云うに、釈迦仏を始め諸有る三世の諸仏出世の本懐はこの『大経』を説きたまう。それは弥陀の因位第十七願に酬い顕れての事なり。そこで『一多証文』(十四左)に、この十方の諸仏に讃嘆称揚せられんとあり。第十七願成就ゆえに、そこで諸仏その本願に報い顕れてこの界に出でたまう故に、出世の本懐には必ずこの『大経』を説く。時にその諸仏の讃嘆称揚は何を称揚するぞと云えば、十七願の文に「称我名者」と誓いてある。それ故に諸仏出世の本懐に説きたまう。この『大経』は阿弥陀仏の因位の第十七願の約束の通りに弥陀の本願を讃嘆するより外はない。それ故一部始終が名号讃嘆計りなり。依りて『大経』一部の帰結する所は、ただ名号なるがゆえに以名号為経体〈名号を以て経の体と為る〉なり。KG_MRJ02-50R 第十七願よりみれば、『大経』は名号が経体でなければならぬ。全体十七願の「称我名者〈我が名を称せずんば〉」と「名」の字より起こりて、八万の法蔵も釈迦一代の説法も、みな名の字より出る事なり。弥陀の名号讃嘆に出でたまう三世の諸仏なり。そこで「諸経所讃多在弥陀〈諸経の讃ずる所、多く弥陀に在り〉」なり。一代経を説き乍ら弥陀を讃嘆するこそ道理なれ。全体が弥陀の名号讃嘆の為に出世したまう三世の諸仏なり。常に『大経』演説の時は出世の本懐を顕して、一部始終が名号讃嘆ゆえ、仏の名号を以て経の体とするなり。KG_MRJ02-50R,50L 時にその名号讃嘆はただ南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と説いた計りでは名号讃嘆にはならぬ。名号の利益を説いて讃嘆せねば名号讃嘆にはならぬ。時にその名号の利益を説くには四十八願全うしたる第十八願で説き、この名号を信じ称うる者は往生ぞと説きたまう。そこで『大経』一部、第十八願開説と云うはこの訳なり。その第十八願開説の為に長々としたる法蔵因位の物語、久遠無数劫の錠光如来の事から十劫正覚の今日の事迄説きたまう。みな弥陀の本願の本末なり。KG_MRJ02-50L 爾れば諸仏が弥陀の名号讃嘆の為に本願の本末を説きて衆生へ聞かせる肝要はただこの本願の本末を説くにあり。そこで『大経』一部の説相、如来の本願を説くを以て経の宗致とする。「如来の本願」とのたまう。この如来は衆生に対する如来じゃと云う事、爰にて知るなり。釈迦や諸仏が出世の本懐に名号を讃嘆するは自らの為に非ず。衆生に聞かせる為なり。その衆生に聞かせる肝要は本願の本末なり。これ第十八願開説の経故、そこで「説本願〈本願を説く〉」が宗なり。KG_MRJ02-50L,51R 吾祖「信巻」御自釈(二十九右)に「聞其名号」の御釈に「経言聞者〈経に聞と言うは〉」等と。この経に「聞其名号」とある、それじゃに由りて吾祖の御釈には「仏願の生起本末を聞く」と、どうやら合点の行かぬ御釈ぞと存ずるに、今この宗体の御釈で訳が知れた。第十七の諸仏の讃嘆は名号讃嘆。その諸仏所讃の名号を聞きて信ずるの故に、経文には「聞其名号」と説く。爾るにその諸仏の名号讃嘆は本願の本末を説きて讃嘆す。そこで衆生の聞くのは本願の本末を聞く。弥陀の因位に衆生仏にならずは正覚取らじと誓いたまう本願の本末を聞きたればこそ、信心歓喜が起こる。爾れば今日の衆生の聞き開くは本願の本末なり。故に我祖の「聞」の字の釈に「言聞者。衆生聞仏願生起本末〈聞と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞き〉」等とのたまう。KG_MRJ02-51R,51L 爾れば『大経』一部の宗要は本願、所讃の体は名号なり。十七・十八二願より押せばこれでなくてはならぬゆえ、我祖、本願為宗〈本願を宗と為し〉、名号為体〈名号を体と為す〉とのたまう。KG_MRJ02-51L 時に『大経』の宗体と云えばむずかしき事のようにあれども、『大経』は浄土真宗の教ゆえ、浄土真宗の朝夕の御教化この『大経』の通りなり。近く『御文』にて「阿弥陀如来の仰せられけるようは」等とのたまう。これ当流の教えは阿弥陀如来の御掟なりとのたまう所なり。爾れば当流の御教化は弥陀の勅命なり。そこで『御文』に「これ即ち第十八の念仏往生の誓願の意なり」。或いは「これ即ち弥陀如来の他力本願とは申すなり」とあり。これ『大経』一部の本末を宗とする故なり。今日の衆生はその本願を聞きて信心を得る計りなり。そこで信心獲得すと云うは第十八願の心得るなり。当流の安心、約〈つづ〉まる処は、弥陀如来の本願の我等を助けたまう理〈ことわり〉を聞き開く計り。これ『大経』一部の宗と聞き開くのなり。KG_MRJ02-51L 時にその本願を説くは即ち名号讃嘆なり。本願を説くのは名号の謂を説くのじゃによって「この願を心得と云うは南無阿弥陀仏の相〈すがた〉を心うるなり」とのたまう。これは又始終『御文』に名号を以て教化したまう。善導の「言南無者」の釈を引きて名号の謂を説きて教化したまう。これを以て「仏名号為経体〈仏の名号を以て経の体と為る〉」と云う『大経』一部の経体の御教化なり。浄土真宗の教化これより外はない。吾祖の宗体の判にてこの『大経』浄土真宗の『大経』となると云うはこの訳なり。法滅百歳の末まで『大無量寿経』浄土真実の教の儘を説きて勧むるが浄土真宗の御教化なり。どうぞこの御教化の間違わぬように聴聞したきものなり。KG_MRJ02-51L,52R 時に爰を一つ争いせねばならぬ要論あり。真実教を明かす一章に御引用のなきは不審。昨日申す通り『広本』の「教巻」には『大経』と『如来会』と『覚経』と憬興の『述文賛』迄を引きて「爾者即是顕真実教明証〈爾れば即ちこれ顕真実教の明証なり〉」なりと結してあり。今この本も「浄土文類聚鈔」と題するからは、教を明かす一章は教文類なるべし。爾らば経を明かす処に引文なくては叶わぬ。もしなき時は『略本』の教文類は文類に非ざるの難あり。KG_MRJ02-52R 今試しに立量していえば、『略本』の教文類は文類に非ざるべし。不引文故猶如偈頌等〈引文せざるが故に猶し偈頌等の如し〉。この難、云何が通釈するぞ。これは甚だ訳のある事なり。先ずその訳と云うは、教行信証の四法の中にて教の一つは能詮の教、行信証の三法は所詮の義なり。四法を略して教行の二法とするもこの訳なり。四法を大段に分かつときは能詮所詮の二になる。時にその能詮と所詮とは相離れぬ事なり。所詮の義を説く時に能詮の名句文を離れて外に所詮の理を説くと云う事はならぬ。そこでこれより下の行信証の三法に引いてある行を明かし、信を明かし、証を明かす処の御引文、能詮の方にてはみな真実の教なり。これより下に『大経』を始め、『十住論』『浄土論』等引きてあり。あの経でも、論でも、能詮の方にてはみな真実教なり。依りて今この教を明かす下では『大無量寿経』は真実教じゃという事さえ述すればそれでよい。別に文を引きたまうには及ばぬなり。これより下、行信証の御引文、能詮の文、皆真実教の文になるなり。それ故総じて云う時は『略本』にも教行信証の四文類が具してある。そこで題号に「浄土文類聚鈔」と名づくるなり。今の立量の因に他随一不成の失あり。文を引かぬではない。これより下の行信証の御引文、皆教文類の御引文なり。そこで『略本』の教文類は文類に非ざるべしの難は立たぬようになる。KG_MRJ02-52R,52L,53R 時にそれならば、『広本』の「教巻」に御引文あるは如何。この通釈なき前は『広本』に御引文あるは尤も、『略本』になきはつまらぬように思うた。今『略本』を通釈して見れば、反って『広本』が聞こえぬように成った。古通釈の通り行信証の三法に御引文ありて即ち真実教の引文なれば、「教巻」に御引文のあるは云何というに、これは『広文類』は一巻一巻を分けてあり、即ち題に「教文類」とあり、そこで『広本』にはねっから文を引かずしては「教巻」を「教文類」と名づけた訳がすまぬようになる故、そこで御引文あり。この『略本』には巻を分かたずに四法を引き続きに明かすゆえ、それで下の三文類が能詮の方にては皆教文類になるに依りて、それを題号に総じて「浄土文類」とのたもうたものじゃ。これ文前の玄談に『広』『略』の異を弁ぜしその第九に所引の文証具略の異と云う下で弁ずる如く、実に『広』『略』二本の御撰述は御精密の明かし方なり。知るべし。KG_MRJ02-53R,53L 浄土文類聚鈔講義 巻二 終 |