香月院 浄土文類聚鈔講義
  第3巻の3(4の内の3)
大行を釈す


 大行とは、則ち無碍光如来の名を称するなり。
 この行遍く一切の行を摂す、極速円満せり、故に大行と名づく。
 この故に称名は能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたもう。
 称名は即ち憶念なり、憶念は即ち念仏なり、念仏は則ちこれ南無阿弥陀仏なり。
浄土文類聚鈔講義 第三巻之三
  香月院深励講師述
  宮地義天嗣講師閲
  松内上衍校訂

◎大行者、則称無碍光如来名。
◎(大行とは、則ち無碍光如来の名を称するなり。)

 「大行者則称」等と。四釈大行二。初釈大行名二。初明行相状〈四に大行を釈するに二。初に大行の名を釈するに二。初に行の相状を明かす〉。KG_MRJ03-22L,23R
 これより下、正しく上に標する所の大行をば釈したまう。これがこの一章の正所明じゃに依って、そこで科文に正しく大行を釈すと云う。その中でこの文は行の名を釈して行の相〈すがた〉を顕す文なり。扨この「称」の字は「行巻」には『説文』によって五訓迄、訓を挙げてあれども、この「称」の字の当たり前は口に称える事なり。依って『一多証文』(二十五右)この称の字を釈したまうに「称は御名を称うるとなり」とあり。この称の字を秤の事にしたまう義、これは傍義にして、口に称うると云うが正しき称の字の当たり前ゆえ、『一多証文』に「みなを称うるとなり」と釈したまう。KG_MRJ03-23R
 時にそれに付きてこの文をば、古来、人の不審に思う所にて「称無碍光如来名〈無碍光如来の名を称するなり〉」とあれば能行に違いない。今十七願成就の行を釈するに、能行迄を釈するは云何と云うに、『義讃』云わく「上に利他円満の大行とあるは所行を挙げ、今爰に大行者と云うは能行を挙げたもの。それゆえに称無碍光如来名とのたまう」といえり。爾らず。上の「利他円満の大行」とあるも所行に限った事に非ず。これは不能行不所行、総じて行体を挙げたものなり。今爰は「就往相有大行」と標したる大行なれば能行に限る事に非ず。口称募りのものは「行巻」の行を能行に限る事にして、十七願迄も能行にしてしまうなり。そう云う事では大切なる祖釈が何でもなき物に成りてしまうなり。今「就往相有大行亦有浄信〈往相に就て大行あり、また浄信あり〉」と標する大行は能行に限る筈なし。爾れば何故「称無碍光如来名〈無碍光如来の名を称するなり〉」とのたまう。兎角聖教を伺うに文の見ようが麁きなり。KG_MRJ03-23R,23L
 今「有大行〈大行あり〉」と標してその行の名を釈する中に、先ず行の相を顕した文なり。第十七願成就の所の南無阿弥陀仏でも行の名の付く得名の所由を尋ねて見る時は、口に称える故、行と名が付くなり。所行の法体の南無阿弥陀仏は弥陀の因位の行に非ず。果上の名号なれば、法の方には行と名づくる訳はない。それをなぜに大行と名づくといえば、もと衆生に称えさせる名号故に、衆生の称える処に約して行の名を得たものなり。爰が弥陀の名号の諸仏に異なった有り難き処なり。我が弥陀は名を以て物を摂す。元来名号にて衆生を済度したまう弥陀故に「称え易く持ち易い名号を案じたまいて」とあるは、果上の名号なれば衆生の称え易きように成就したまう名号なり。それで衆生の称える所に約して行と云う名が付くなり。爾れば大行と云う名の訳は衆生の称える所で云わねばならぬに依って、今「大行者称無碍光如来〈大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり〉」とのたまうなり。先ずこの文をかくの如く定むべし。KG_MRJ03-23L,24R
 時に爾らば称南無阿弥陀仏名とのたまうべし。なぜ「称無碍光如来名」とのたまうぞと云うに、爰が又古文辞なり。『論註』下(二左)『論』の「称彼如来名」を釈して「称無碍光如来名」とあり。この文を切り出して遣いたまう。地体『論』の五念門は衆生往生の因行ゆえに五念門の事をば「五念門の行」と云う。これ「往生の行」と云う行の名の最初なり。その五念門の中、讃嘆門の行を『論』に「称彼如来名」と説く。それを註に釈して「称無碍光如来名」とのたまう。今我祖『論』并びに『註』を相承して「大行者称無碍光如来」とのたまう。KG_MRJ03-24R
 時に今南無阿弥陀仏を称する事を「称無碍光如来名」とのたまう事、思し召しのある事なり。その思し召しというは、今の建章の偈に「一心 帰命尽十方 無碍光如来」とあるは一心帰命の安心を述べたまう。その一心帰命の安心を述べる処の所帰の仏を「無碍光如来」とのたまうは、無碍というは衆生の悪業煩悩に碍げられず、如何なる悪人でも摂取して捨てたまわざる訳なり。今一心帰命の安心はその無碍光如来の名に相応して、如何なる悪人でも摂取して捨てたまわざる如来なりと縋る所ゆえに、そこで一心帰命の所に無碍光如来の名を出す。弥陀をたのむ一念といえばとて深く信じて一心ならねば実の一心に非ずと云う事は、早天親の論判に明らかなり。如何なるものも摂取して捨てたまわざる如来と信ずる帰命の一心なり。KG_MRJ03-24R,24L
 時に今「称彼如来名」の大行は、その一心がその儘顕した「称彼如来名」なり。時に南無阿弥陀仏と称えるに違いない。下々品の「具足十念称南無阿弥陀仏〈十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ〉」を隠の義で釈したまう時は吾祖は口称を本願と誓いたまう事を顕わさんとのたまう。爾しもし只称えの南無阿弥陀仏なれば十九・二十の自力も同じ事なり。それでは名義と相応せず。今爰に明かす所の往相回向の他力の大行は「不如実修行」ではない。無碍光如来の名義相応して称える大行故、一心の安心がその儘口に顕わるる大行じゃと云う事を顕す為に「大行者則称無碍光如来〈大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり〉」とのたまうなり。KG_MRJ03-24L,25R

◎斯行遍摂一切行極速円満、故名大行。
◎(この行遍く一切の行を摂す、極速円満せり、故に大行と名づく。)

 「斯行遍」等。二示行体徳〈二に行の体徳を示す〉。KG_MRJ03-25R
 上は行の相状を明かす故、行の相〈すがた〉なり。爰は行の体徳を示したまうなり。この行と云うは上に牒挙する大行を指す。「一切行」とは六度、十波羅密等の無量の行なり。今他力の一行にその無量の行を遍く収め尽くして残す事はないと云う事にて、「遍摂一切行」と云う。KG_MRJ03-25R
 爰をば「行巻」には「摂諸善法、具諸徳本〈もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり〉」とあり。善法・徳本とは何程の違いぞと云うに、「大経讃」の草本の左訓に「因位に善本と云い、果位を徳本という」とあり。讃の左訓では所々肝要の御釈共がありて、この左訓にてみれば、善本の善は三学・六度等の一切因位の善本なり。又徳本の徳は四智・三身・十力・四無畏等の果上の功徳なり。それから今この「行巻」を伺えば諸有因位の菩薩の善法を収むる事なり。弥陀因位不可思議劫に修する所の万善万行を摂する故に「摂諸善法〈もろもろの善法を摂し〉」という。又「具諸徳本〈もろもろの徳本を具せり〉」とは弥陀果上の四智・三身等の内証の功徳、相好・光明等の外用の功徳、尽く収まると云う事なり。KG_MRJ03-25R
 それをこの『略本』には略して「遍摂一切行〈遍く一切の行を摂す〉」という。爾れば「一切行」は因位に限らず。因位の行即ち果地の万徳ゆえに。一切の行とは果上よりいえば果地の万徳の事なり。今「斯行〈この行〉」と云い掛けたまう故に「一切行」と云わねばならぬなり。爾れどもこれが直ちに果位の万徳なり。因位の万行、果地の万徳、残らずこの名号に摂して尽くすと云う名号の体徳を顕す為に「斯行遍摂一切行〈この行遍く一切の行を摂す〉」とのたまう。KG_MRJ03-25R,25L
 「極速円満」とは、この「円満」の言にてみれば名号体万徳を円満したる事のようにあれども、それでは「極速」の二字すめぬなり。『広文類』には「極速円満。真如一実功徳宝海〈極速円満す、真如一実の功徳宝海なり〉」とあり。それから見る時は『浄土論』に「能令速満足」等とある文に依りてのたまうに違いない。この論文より見れば、衆生をして極速円満せしむる事なり。名号の体に元より衆生をして極速円満せしむる徳を具えてあるなり。「極速」は論文の「速」の字に極の字を加えたまう。この「速」を『一多証文』(二十一右)に釈して「速はすみやかに」等とあるなり。今はその早い至極したる事じゃと云う事で、極速と云う。尚これを委しくのたまう時は「頓極頓速」とのたまう。次に「円満」と云うは『論』には「満足」とあり。『一多証文』に「満はみつと云う。足はたりぬと云う」と釈してあり。爾らば「極速円満」とは、『論』には「能令」の二字を加えてありて、衆生をして功徳を円満せしむる事なり。依りて『銘文』に「速はすみやかに」等とあり。KG_MRJ03-25L,26R
 成る程、南無阿弥陀仏の大行に功徳を備えてありても、衆生の間に合わぬ功徳なれば弥陀超世の本願も徒事なり。爾るに今南無阿弥陀仏の名号の功徳は不可称・不可説・不可思議の功徳を備えて、その功徳をば速やかに行者の身に円満せしむる徳あり。これがこの大行の体徳なり。他力の大行の体徳を言い尽くされた御釈なり。KG_MRJ03-26R
 「故名大行〈故に大行と名づく〉」とは、爰等は委しく拝見すべし。上段の初めに「大行者」と牒してあり。今この段の畢わりには「故名大行」と結してあり。故にこの段を合せる時は「釈大行名〈大行の名を釈す〉」と科せねばならぬ。それを引き合わせる時は、上の段には行の相〈すがた〉を明かし、今は行の体徳を明かす。これ分かれども合する時は大行の名を釈すると見る時は、上の段は大行の行の字を釈するなり。衆生が信じ称える行じゃに依りて行と名づくると云う事を顕したものなり。「称無碍光如来名〈無碍光如来の名を称するなり〉」というが行の字の釈なり。この段は大の字の釈なり。如何なる大ぞと云うに「斯行遍摂一切行〈この行遍く一切の行を摂す〉」と。その数僅かに六字なれども、無上甚深の功徳を具え、衆生をして極速円満せしむる誠の大行じゃと云う事。爾ればこの二段は名を釈する故に「故名大行」と決するなり。実に祖釈は巧妙と云うも恐れあり。『大乗義章』『義林章』には出体門・釈名門あり。今我祖僅か一行余の文に、上の段は行の相〈すがた〉を釈する釈相門、この段は行の体徳を示す出体門。この二段を合する所で釈名門になる。僅かなる御文の中に出体・釈名残らず込めてのたまう巧妙の御釈なりと知るべし。KG_MRJ03-26R,26L

◎是故称名能破衆生一切無明、能満衆生一切志願。
◎(この故に称名は能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたもう。)

 「是故称名能」等。二嘆益釈成二。初嘆行勝益〈二益を嘆じて釈成するに二。初に行の勝益を嘆ず〉。已下は嘆上所明行利益、釈成上〈上に明かす所の行の利益を嘆じて上を釈成す〉。ゆえに科文云々。その中今文は初嘆行勝益〈初に行の勝益を嘆ず〉なり。KG_MRJ03-26L
 「是故」とは上を承ける言なり。然と云う然の字も承上の言なれども、それとは不同なり。弘法の『文鏡秘符論』六(五右)「是故(乃至)取下言証成於上也〈是故[乃至]下の言を取りて上を証成するなり〉」。爾れば然の字と大いに違うなり。もし爾の字なれば則ち承上接下〈上を承けて下に接ぐ〉。今「是故」と言うは已下を以て明かす所の上の義を成ず。この段、行の利益を嘆じて上を釈成する所なるが故に「是故」と云うなり。「称名」等と。文の拠は『論註』下(二左)「彼無碍光如来名号」等とある。全くこの『論註』の文なり。「能破」等は破闇の義なり。「能満」等は満願の義なり。弥陀の名号には破闇・満願の利益あり。KG_MRJ03-26L,27R
 先ず文を解するに、「衆生の一切の無明」とは、『[シン09]記』に無明の事を長く釈せり。今云わく。無明の事は大小乗の宗旨宗旨で談じ方別々なり。『起信論』根本無明・枝末無明と説く。法相宗『唯識論』では相応無明・不共無明と明かす。浄影はいつでも迷理の無明、迷事の無明と釈す。天台では界内無明、界外の無明と談ず。かくの如く宗々にて明かし方違うなり。KG_MRJ03-27R
 今この『論註』の釈「無碍光如来名号、能破衆生一切無明」とは、その次の文に「称名憶念而無明由在而不満所願〈称名憶念すれども、無明なお存して所願を満てざる〉」とあり。これは浄土門別途の無明の明かし方なり。この無明に総別ありて、総じて云う時は、一切衆生の生死の因となる業煩悩を総じて無明という故に「衆生の一切無明」とのたまう。この「一切の無明」とのたまうは、根本無明でも枝末無明でも、諸有無明を皆収める。爾れば流転生死の因となる業煩悩を総じて無明と名づく。又別して云う時は、弥陀の本願を疑う疑いを無明と云う。即ち『論註』の次の文に「称名憶念而無明由在〈称名憶念すれども、無明なお在りて〉」とのたまう。これ疑いの無明なり。これは『大経』の智恵段に弥陀の本願を疑う事を「不了仏智」と説く。「明信仏智」の信心に対して「不了仏智」と云う。これ明了に仏智を信ぜざる、これ即ち無明の相〈すがた〉なり。KG_MRJ03-27R,27L
 無明と云うは『大乗義章』五本(二十左)「痴闇之心体無慧明故曰無明住地〈痴闇の心体は慧明なきが故に無明住地と曰う〉」。浄影の無明を釈するはいつでもこの通りなり。無明と云うは智慧の明かりの無い事なり。即ち『大経』智慧段の文に「当知此人、宿世之時、無有智慧、疑惑所致〈当に知るべし、この人、宿世の時、智慧あることなくして疑惑するが致すところなり〉」等と説く。仏智を明了に信ぜざるが即ち信心の智慧明のなき所ゆえ、これを『論註』に無明と名づく。「生死の家には以疑為所止(疑いを以て所止とする)」とある。この疑い無明は生死流転の根本なり。これらの義は倶舎唯識の性相にもなき事で、三乗・一乗の判には都て明かさるる事なり。KG_MRJ03-27L
 我祖は『論註』を菩薩の論に被成〈なされ?〉、曇鸞菩薩の『註論』とのたまう。又『論註』を直ちに天親菩薩の論とする事は、西河の『安楽集』が初めなり。他宗の人師でも慈恩の『法花玄讃』には『論註』を引きて「往生論に云わく」と云うてあり。別して我祖は『広文類』の七祖を御引用の相〈すがた〉が『論註』を菩薩の『論』の所に入れてあり。KG_MRJ03-27L
 今、不了仏智の疑いを直ちに無明と名を付ける事は人師の釈に云われそうな事ではない。菩薩の論でなくては云われぬことなり。KG_MRJ03-27L,28R
 凡そ聖道・浄土、押し通して一乗の極談の所は一切衆生の仏智見を開くより外はない。法華に開示悟入の四仏智見と説くがこれなり。今浄土の『大経』では華厳・法華の所談とは異なりて仏智見の事を「如来智慧海」と説く。仏智・不思議智等の五智と説く時に、聖道門の教にて衆生が仏智見を開く時には断無明、証中道と云うて、中道実相の理を開覚せざる時は仏智見を得ること能わず。そこで聖道門の大乗の極談には実相の理を碍げるものを無明と名づく。実相の理を開覚せざれば仏智見が得られぬ。そこでその仏智見を障げるものを無明と云う。それが生死流転の根本なり。故に無明法性と対して迷えば、無明証れば法性なり。その法性の理は迷う所の無明が衆生の迷いの根本なり。『起信論』に根本無明と説くがそれなり。KG_MRJ03-28R
 今浄土真宗には仏願他力を以て衆生に仏智見を開かしめたまう。それゆえ衆生の我が力で無明の闇を取りて除きて、己が心性を琢き立てたのをば、これを仏智見と賞翫はせぬなり。如来の智慧を衆生に与え、衆生が仏と同じき智慧を得た所が聖道門に謂〈いわゆる〉開仏智見なり。それ故に浄土真宗では喩〈たと〉え中道実相の観智起こっても、それは衆生の自力の智慧故に仏智見を得たとは許さず。一文不知の愚人でも弥陀の仏智不思議を明了に信ずるものは仏智を得るのなり。喩えば月を詠めて、あれは月なりと云うのは即ち月の光にして月を見る。今もその如く、疑い深い凡夫が、疑わず危ぶまず明了に仏智を信ずると云うは、即ち行者の方に仏智を得た故じゃに依りて、その明了に信ずる所の信心をば信心の智慧と名づくる。これを他力回向の信心とのたまう。弥陀如来の御方より授けましましたる信心とものたまう。この信心を得るのが直ちに仏智を得るのじゃによって、この信心を一念無上仏智の信心と云う。KG_MRJ03-28R,28L
 疑惑の人は仏智を信ぜざるが故に仏智を得ること能わず。これを『大経』に斯人無有智慧〈この人智慧あることなし〉と説く。爾らば仏智を明了に信ぜざる疑いが智慧明のなき所ゆえ、これを『論註』に無明と名づけたまう。今『論註』に明かす所の無明に総別の二つあり。総じては一切衆生の生死の因となる業煩悩等を無明と名づく。別しては不了仏智の疑いを無明と云う。KG_MRJ03-28L,29R
 今無碍光如来の名号は能く衆生の総別無明を破りたまう。無明の闇を破す利益あり。時に弥陀の名号にて衆生の無明の闇を破するとのたまうは、何の分なしに仰せらるるかと云うに、これは『浄土論』の法相では名号と光明とは能詮の名と所詮の義とは相離れぬものなり。それ故、光明の体、智慧じゃによって、名号も又智慧なり。我祖の『文意』(四右)に「南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば」とある。名号が直ちに智慧なり。今智慧の名号を明了に信ずるゆえに、その名号の智慧を以て直ちに衆生無明の黒闇を破る。依りてその時に生死流転の根本たる疑いの無明は智慧の名号を以て既に断じ終わる。そこでこれは早〈はや〉行者の我が身に覚えず、信の一念の時、疑いの無明は尽きてある。KG_MRJ03-29R
 時に無明の根本たる疑いが尽きた故に、その外の枝末の無明も諸有業煩悩等も法の徳にて早〈はや〉断じ畢わりてある。そこで光明に照らされぬれば積もるところの業障の罪みなきえぬるなりとのたまう。「聞其名号信心歓喜」の一念に早〈はや〉三有生死の雲晴れてある。それ故今にも命終われば、無明の闇の晴れた印には「即証真如法性身」と、真如の月明らかに証る、これが無量寿如来の名号利益故なり。そこで「能破衆生一切無明〈能く衆生の一切の無明を破す〉」とのたまう。KG_MRJ03-29R,29L
 次に「能満衆生一切志願〈能く衆生の一切の志願を満てたもう〉」とは、意に願い望むこと、この衆生の志願と云うにも又総別の二つあり。富貴を願うもあり、長寿を願うもあり。それらのあらゆる願いを一所にした所が衆生一切の志願と云う。一切の志願は弥陀の浄土に往生すれば一時に満足す。それを『浄土論』の依報十七種の終わりの偈文に「衆生所願楽 一切能満足〈衆生の願楽する所、一切能く満足す〉」と説く。詮ずる処、衆生の一切の志願を満足すると云うより外はなき故に、依報の功徳を説き畢わる迄に「衆生所願楽〈衆生の願楽する所〉」等とのたまうなり。『論註』の満願の利益は全体『浄土論』のこの論釈を承けてのたまうなり。KG_MRJ03-29L
 二、別して云う時は、この志願と云うは往生浄土の願なり。弥陀の浄土に往生したいものじゃと願う信心なり。即ち『論註』の次の文に「無明由在而不満所願〈無明なお在りて所願を満てざる〉」とあり。この願とは往生浄土の願いなり。右申す如く、弥陀の浄土に往生すれば、衆生一切の願一時に満足す。爾れば往生さえすれば一切の願みな満足するに依りて往生浄土の願い満足する時は所有〈あらゆる〉願の満足したも同前なり。KG_MRJ03-29L,30R
 今、無碍光如来の名号は摂取不捨のゆえに阿弥陀と云う謂われある故に、衆生往生の願を満足せしめたまう名号なり。摂取不捨と云うは即ち十方の衆生、思いの儘に我が浄土へ往生させようとある利益、それなればこの名号の謂われは衆生往生の願を満足せしめたまう謂われなり。それ故にこの名号の謂われを聞き開きて信ずる時に往生は一定、御助け治定。まだ往生せねども往生の願は満足し畢わる。KG_MRJ03-30R
 『論註』の下の文に、如実修行の行者は所願を満足するとのたまうは往生の願満足し畢わることなり。今往生の願満足し畢わりたれば、一切の志願を満足したるも同前(同然?)にして、外に望みのない身分になる。そこで今にも命終われば「一切能満足」の楽果をうる。そこをば「能く衆生の一切の志願を満てたもう」。『浄土論』『論註』の法相を弁ずる時は、こう弁ぜねばならぬ。KG_MRJ03-30R
 時に拠の『論註』の文には「無碍光如来の名号」等とあり。名号に破闇満願の徳を備えたまい、衆生がこの名号を聞きて信ずる時、破闇満願の益を得ると云う信心の利益を説いたものなり。依りてこの『論註』の文『広文類』の御引用は「信巻」に引きてあり。信の益を説きたものなり。爾るに今「称名は能破」等と号〈名号〉を称うる利益となされたは何ゆえぞと云うに、爰が「行巻」の所明にして、信ずるも名号なり。称えるも名号なり。名号の体に二つはなり。故に信ずる名号に破闇満願の益があれば、称える名号にこの利益のなき筈はない。そこでこれを称える名号の利益としたまう拠は『安楽集』上(三十右)『論註』の文をその儘取りて来たりて称名の益としたまうが『安楽集』なり。KG_MRJ03-30R,30L
 今この『略文類』は大行を明かす所なり。この故に上を承けて下を成ずる処。上に「大行者称無碍光如来〈大行とは無碍光如来を称するなり〉」とあるのを承けて「称名は」とのたまう。上に「斯行遍摂」等とあるを承けて「能破」等とのたまう。この称える大行は万徳尽く具足し而も衆生をして速やかに功徳の大宝海を満足せしめて体徳あり。これ故に「称名能破衆生一切」等と明かすが『略文類』の思し召しなり。KG_MRJ03-30L

◎称名即憶念、憶念即念仏、念仏則是南無阿弥陀仏。
◎(称名は即ち憶念なり、憶念は即ち念仏なり、念仏は則ちこれ南無阿弥陀仏なり。)

 「称名即憶念」等と。二転釈帰体〈二に転釈して体に帰す〉。
 この転釈とは展転釈成と云うて、「称名は即ち憶念なり」等と展転して釈成する故に転釈と云い、終わりに「念仏則是南無阿弥陀仏」と名号の体に結帰してあり。そこでこの一段を転釈帰体〈転釈して体に帰す〉と云う。『広文類』「行巻」に最初仏経を引き畢わりて御自釈の所に転釈あり。末に至りて行の一念の下にも亦この転釈あり。今は『略文類』ゆえに略してこの処にて述べたまう。「称名」と「憶念」と「念仏」と、この三法を転釈したまう。KG_MRJ03-30L,31R
 この中に「称名」と云うは上に明かす所の無碍光如来の名を称する称名なり。「念仏」と云うも観念の念にも非ず、学問して念の意を証りて申す念仏にも非ず。疑いなく往生するぞと思い取って申す念仏なれば、称名即ち念仏、念仏即ち称名なることは論はなきなり。KG_MRJ03-31R
 この間の憶念と云うに申すことあり。憶と云うは釈名門にて憶念の名を釈するに、口に称える称名を憶念と名づくる義はなし。憶は憶持の義にして意に覚え持つ事、一切ものの覚えのよき人を記憶が強いと云う、その憶なり。前方の事を思い出すを追憶と云う。どこにありても意に限る字なり。念は明記不忘の義にして、意にはっきりと覚えて忘れぬことなり。依りて清涼の『大疏』三十四上(五十)「摂法在心故名憶念〈法を摂して心に在るが故に憶念と名づく〉」と釈せり。聞く所の法を心に収めて、不忘を憶念と云うと釈するのなり。依りて今家に於いても「信巻」御自釈(二十九右)には「淳心即是憶念。即是真実一心〈淳心すなわちこれ憶念なり。即ちこれ真実の一心なり〉」等とあり。「化巻」御自釈(四十七右)にも「憶念本願離自力心〈本願を憶念して自力の心を離る〉」とあり。『文意』(十左)には「憶念と云うは、信心まことなるひとは、本願をつねにおもいいずるこころのたえず、つねなるなり」等とあり。その外、所々の御釈、具に挙ぐるに遑あらずといえども、信心の事を憶念と云い、信心相続を憶念と云うが定まり事なり。KG_MRJ03-31R,31L
 爾るに今この『略文類』は「常」と替わりて「称名即憶念、憶念即念仏〈称名は即ち憶念なり、憶念は即ち念仏なり〉」とのたまう。これは釈名門にはかまわぬ、出体門の方より称名念仏のことを直ちに憶念とのたまう。この転釈に約して信行不離を述べたまうのにして、上来「大行者」と云うより以来、称名に約して大行を釈するも、今、他力の大行は称名と雖も、十九・二十の無信の称名とは違う。今明かす所の称名は、信心まことなる人の、本願を思い出だす心の心の常なる憶念が、その儘顕れたる称名なれば、水の全うして顕るる波なれば、その波即ち水に非ずや。憶念の信心から顕るる称名なれば「称名即ち憶念」とのたまう。これを相承して『口伝鈔』に「一形憶念の名願を以て仏恩報尽の経営とすべし」とのたまう。これは上尽一形の称名を直ちに憶念と云う。『式文』に「憶念称名」とあるも、称名の事を「憶念称名」という。今家に相承したまう称名はみな憶念称名なり。KG_MRJ03-31L,32R
 「定善義」(二十五左)に『観経』真身観の「念仏衆生摂取不捨」を釈する三縁の釈に、初めに親縁の釈に「衆生憶念」等とあり。次の増上縁の釈には「衆生称念」等とあり。真身観の念仏は定散の諸行に対する念仏故に弘願念仏なり。故に『選択集』本(二十九左)に「弥陀光明、不照余行者〈弥陀の光明、余行の者を照らさず〉」とのたまう。これは善導元祖の御定判にて、余行に対する念仏は「一向専念弥陀仏名〈一向に専ら弥陀仏名を念ぜしむ〉」なり。爾るにその念仏を「定善義」に「憶念称名」と釈す。この意の憶念が全く顕れた称名の念仏なり。憶念と称名と体別に非ずと云う御釈なり。我祖それを相承して「称名即ち憶念」とのたまう。KG_MRJ03-32R
 時に『広文類』の処々の転釈みな何れもそれぞれに拠ありてのたまう。今この転釈は何れが拠じゃと云うに、これは『観経』の流通分に依りてのたまう。その経文に「但聞仏名」等とのたまう。『観経』一部、隠顕の二義あれども、流通分は弘願を開顕する所故に隠顕はなし。文顕了に弘願を顕したまう。流通分に隠顕あっては正宗分には二種の隠顕を立てねばならぬ。『観経』流通分は『阿弥陀経』に持ってくると隠顕が立つなり。『観経』に置くときは隠顕は立てられぬ。要門の方便を払うて弘願の真実を開顕する処に隠顕があってはすまぬ。そこでこの流通分の文は観仏・念仏の両三昧比校する処なり。正宗分では念仏三昧は隠の義にて顕し、今流通分に至りて隠の義の念仏三昧を開顕して観仏三昧と比校する文なり。観仏三昧の上来如説至りて勝れた処が現生に於いて三尊を見奉る計りなり。今、仏の名号を称える念仏の利益はそう云うことではない。但、聞仏号等とこの名号を耳に聞く計りでも「無量億劫生死の罪を除く。何に況んや憶念をや」とのたまいて「是人中分陀利華〈これ人中の分陀利華なり〉」と説くなり。KG_MRJ03-32R,32L
 時にこの経文に「何況憶念。若念仏者〈何に況んや憶念をや。もし念仏する者は〉」ととく。爰は観仏三昧に対して称名念仏の益を出したまう処ゆえ、何況念仏をやとあるべき処なり。「但聞仏名」等と最初に名号を聞く利益を述べたは、次に名号を称える利益を述べん為なり。爾れば観仏に対して称名念仏の益を説く所なれば、何況念仏とあるべき所に「何況憶念」と説く。憶念は名を釈してみれば称念の事に非ぬ故に「散善義」(二十九左)に「正念帰依」と「憶念」を釈してあり。信心の正念を憶念と云う。その憶念と云うその憶念即ち念仏の事ゆえ、直ちにその次に「若念仏者」とのたまう。これは何況念仏とありそうなものに「何況憶念」として置いて「若念仏者」と説く。この経文分明に信行不離を述べたまいたのなり。善導の真身観の釈に念仏衆生を憶念に約して釈したまう拠はこの流通分なり。KG_MRJ03-32L,33R
 今この『略文類』の転釈はこの『観経』の「何況憶念」にて転釈なり。その憶念は即ち「若念仏者」の故に憶念即念仏なりとのたまう。爰でこの行信不離・信行不離を示したまう。信と行とはその体一なり。「念仏則是南無阿弥陀仏〈念仏は則ちこれ南無阿弥陀仏なり〉」とあるは称名念仏を転じ畢わる処で南無阿弥陀仏の名号に結帰したまう。「行巻」の両処の転釈皆名号に結帰してある。「信巻」の信心に対して所信の行を定むる甚だ大切なる所なり。KG_MRJ03-33R,33L
 「行巻」に明かす大行は「浄土真宗の行、選択本願の行」とありて、諸行能行に通ずると云う事、前に弁ずる如く、時にその称えるものと云う能行を所信とするに付きて惑うものあり。今この南無阿弥陀仏の体に結帰なされた処でその惑を解かねばならぬ。能行を所信とするも、所行を所信とするも同じ事じゃが、能行を所信とする所では「念仏則是南無阿弥陀仏〈念仏は則ちこれ南無阿弥陀仏なり〉」なりと結すべき事なり。爾るに「行巻」の両所の文、及びこの『略文類』共に「念仏則是南無阿弥陀仏〈念仏は則ち是れ南無阿弥陀仏なり〉」にてのたまう。これは弥陀本願と申すは名号を称えんものを向かわんと誓わせたまうを深く信ずる、この信ずると云うは称うる行を所信とするなり。それに違いはなけれども、その称える者を御助けと信ずる時も称うる故、御助けじゃと我が功績で称える称名を所信とするではない。もし我称える称名を所信とするならば、二十願と一つになる。第十八願の信心は称うる者を助けたまう願力を信ずるなり。名号を信ずる事、その所信の体は名号なり。
 いつも喩えて云う如く、薬売りが薬を讃めて、この薬は何々にきく大妙薬という。その所讃の体は薬なり。そこで病人の方に受け取るは薬の体なり。今もその如く第十七願の諸仏の讃嘆には第十八願の「称我名号」の能書きを述べて称える者を御助けぞと、諸仏が自ら称える事迄も教えたまう。その所讃の体は只南無阿弥陀仏なり。そこで行者の方に信受するは称えさえすれば御助けじゃと、我称うるに目を付けて信じはせぬ。そこで成就の文に「聞其名号信心歓喜」と説く。KG_MRJ03-33L,34R
 三業者流の如きは絵像木像の仏体をたのむのじゃと云う故に、仏体が所信になるけれども、成就の文には仏体とない。名号とある。善知識より名号の謂われを聞き開く。名号は所信の体なり。又口称募りの者は称える者をと云う処に腰掛ける。それならば成就の文に聞其称名とあるべきなり。爾るに名号とあり。これ頼むものをと聞くも名号を聞くのなり。称えるものをと聞くも名号を聞くのなり。我称えるを当てにして聞くに非ず。我頼むを当てにして信ずるに非ず。所行を信ずるも、能行を信ずるも、所信の体は南無阿弥陀仏なり。これが『広』『略』の明かし方なり。KG_MRJ03-34R
 『帖外の御文』二の五通目(十二左)善導の正雑二行の釈を引きて「雑行をすて正行に帰し、その正行のなかに第四の称名正行をもって往生の正業とすとみえたり」等とのたまいて、次に「言南無者」の釈を引きて六字の謂われ心得分けたが信心じゃと述べてあり。蓮師の『御文』、称名を所信にすると云うことを廃捨したまうには非ず。称える者を助けると云う事を『御文』では嫌いたまうようにおもうておれども爾らず。今の御言に「第四の称名正行をもって往生の正業とすとみえたり」とは、称名を所信の行に出したまうなり。さりともその次に「されば南無阿弥陀仏をもって」等とのたまう処が念仏即ち南無阿弥陀仏を述べたまう処なり。そこでその次にいつもの通りに「聞其名号信心歓喜」を述べたまう。八十通の御教化の大体みなこの通りなり。KG_MRJ03-34R,34L
 『御文』の御教化は『広』『略』の文類より外はない。『御文』は安心をすすめて『広』『略』の文類とは違うように思うては誤りなり。『広』『略』の文類のその儘をいかなる愚夫愚婦迄も聞こえるように委しく述べさせられたり。爰が六巻の文類を表紙の破るるほど御覧なされた処なり。実に弥陀の直説と拝見すべきなり。KG_MRJ03-34L,35R