香月院 浄土文類聚鈔講義 第4巻の3(5の内の3) 正説分の行釈 引用文 天親「願生偈」 帰命の一心、依修多羅、本願の大益 |
浄土文類聚鈔講義 第四巻之三 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎天親菩薩浄土論云。世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国。 ◎(天親菩薩の浄土論に云く。世尊我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生ぜんと願ず。) 「天親菩薩浄土論」等。二天親論三。初帰敬申己心〈初に帰敬して己心を申ぶ〉。KG_MRJ04-16R 天親菩薩の論を引くに三十四行ある「願生偈」より三行の偈文を選び出して引きたまう。三行ある文故、三段に分けて、初めの一行は帰敬申己心〈帰敬して己心を申ぶ〉と科する。これは偈文の最初に「世尊」とあるは天親菩薩の仏に帰敬したまう御言なり。「我一心」と云うより下は論註〈論主か?〉自ら一心の安心を述べたまう。依って『論註』に「偈申己心〈偈は己心を申ぶ〉」と。その言を取りて科目とす。KG_MRJ04-16R 「浄土論」とは、この論に多名あれども『要集』末末(三十七左)「或名浄土論。或名往生論〈或いは浄土論と名づけ、或いは往生論と名づく〉」とあり。依って吾祖の『銘文』本(七左)に「この論をば浄土論という。又は往生論というなり」とのたまう。爾らば正しく往生浄土を明かすの論と云うこと傍明往生浄土論は外にもあれども、正しく往生浄土を明かす論はこの論に局る。この「名浄土論」「名往生論」と云う名は『安楽集』が最初と存ぜらるる。それより古もあるかは知らねども、浄土宗の祖師方は『安楽集』を初めとす。元祖は多く「往生論」と称する。KG_MRJ04-16R,16L さてこの偈文は『二門偈』『愚禿鈔』等にも出る事なれば略して文を解す。只吾祖の御引用の思し召しを弁ずるが所詮なり。「世尊」とは仏号の一つなり。今日天親菩薩の呼び掛けたまうは仏に帰敬したまう。今「願生偈」を作ると云う事を告げたまう御言なり。「我一心」とは私の安心この通りと自身の旨を述べる所なり。「一心」と云うは論一部の眼目で、我祖は二十四行の初めより終わり迄、唯一心を説き述べたものじゃとみたまう。そこでこの論の事をば「一心の華文」とのたまう。KG_MRJ04-16L さて略して一心の相〈すがた〉を弁ぜば、『論註』上(四右)の御釈に「念無碍光如来願生安楽、心心相続無他想間雑〈無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず。心心相続して他想間雑することなし〉」等と。これを一口にいえば、二つに分かれて、初めに「念無碍(乃至)安楽」迄、これは一心の一の字で、無二の義にして釈したまう。一心と云うはふたごころのなき事なり。たのむべきは弥陀如来、参るべきは安養の浄土なりと、唯一仏に帰する心を一心と云うとの御釈なり。次に「心心(乃至)間雑」迄は専一の義にして、雑に対する言なり。外の思いの雑じらぬを一心と云う。この註の御釈分を云う時は右の通り二釈あるようなれども、合して云う時は只弥陀一仏に帰命して、替わらぬ心になりたを一心と云うとの御釈なり。これ論主の合三為一したまう所で、ここを吾祖「信巻」に「愚鈍衆生解了為令易(乃至)合三為一」とのたまう。末代の尼嫁に早く合点の行くように、弥陀一仏に帰する心の疑いなきが一心じゃほどにとのたまう。これ法滅百歳まで愚鈍の衆生に本願の勅命を普開したまう所の論主の一心なり。そこで御自釈(三十六左)「論主宣布広大無碍一心。普遍開化雑染堪忍群萌〈論主は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萠を開化す〉」等と讃嘆したまう。KG_MRJ04-16L,17R 「帰命尽十方無碍光如来」とは。この一行の偈文、安心を述べたと見る時はこの二句一心の相〈すがた〉なり。今弁じた『論註』に「一心」の言を釈して「念無碍光如来」等とのたまう。この三句を取りて最初の一心の相〈すがた〉を釈したまう。そこで「尽十方無碍光如来」と云うは、一心の相手の所帰の仏名なり。「帰命」というは一心帰命なり。吾祖の『和讃〈天親讃七〉』に「尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ」とあり。「帰命」というは即ち一心の相〈すがた〉なり。KG_MRJ04-17R 時に所帰の仏名を挙ぐるに弥陀如来とありそうなものに「尽十方無碍光如来」とのたまうは、論主、阿弥陀の名義に依って、別にこの仏名を立てたまう。依って『論註』上(四左)この下の御釈に『阿弥陀経』の「彼仏光明」等とある経文引きてあり。この経文に依って「尽十方」等とのたまう。そこで「尽十方」というは弥陀の光明無量にして十方国を照らす事なり。又「無所障碍」の経文に依って「無碍光」と云う。この『弥陀経』は釈迦自問自答して阿弥陀の名義を釈したまう。今天親菩薩、阿弥陀の名義を釈する経文に由って、所帰の仏名を立てたまうは、帰命の一心は名義と相応する安心でなけねばならぬと云う事を顕したまうなり。KG_MRJ04-17R,17L 弥陀に帰命するといえば、人間を相手にしてものをたのむように、絵像・木像の仏体を所帰命とするように心得れども、それなれば天親菩薩、力を尽くして「尽十方無碍光如来」の仏名を挙げたまうに及ばぬ。KG_MRJ04-17L 論主今帰命の一心の所帰の仏を挙ぐるに、弥陀の名義に依って仏名を立てたまうは、弥陀に帰命する所の一心は本願の三心を約したる一心なり。爾れば本願成就の文の御定まりの通りに「聞其名号信心歓喜」、名号の謂われに疑い晴れて帰命したのでなけねば帰命に非ず。その義を顕す為に阿弥陀の名義に依って所帰の仏名を立つるなり。爾れば弥陀に帰命する心が即ち本願名号の謂われを聞き開きて信ずる心なり。先達て『御文』の上で弁ずる如く、信ずる心と頼む心と体に二つはないというはこれなり。KG_MRJ04-17L,18R 時に帰命と云うを『銘文』の御釈には「如来の勅命に随い奉る」とあり。他師の釈は色々あれども、今家は只命に帰する一義を依用したまいて、如来の勅命に随い奉るなりと釈したまう。何故ぞというに、今申す通りに無碍光如来に帰命する心が即ち本願名号を信ずる心なり。爾れば弥陀に帰命する心が即ち本願の勅命に随い信順する心じゃに依って、そこで「如来の勅命に随い奉る」とのたまう。これを『御文』に「帰命と云うは后生助けたまえと頼み奉るこころなり」とのたまうは、これ如来の勅命に随う心を顕したまう御釈なり。そこで『御文』に如来の勅命の事をば「阿弥陀如来の仰せられけるようは」とあり。「仰せられける」とは勅命の事。依って『讃〈『浄土和讃』二十五〉』の「帰命」の帰の字の左訓に「仰せに随う」とあり。爾れば仰せは如来の勅命なり。その頼むものを助けるの勅命、何じゃと思えば第十八願なり。その第十八願を疑い晴れて信ずる意〈こころ〉は、後生助けたまえの心なり。KG_MRJ04-18R,18L 次に「願生安楽国」とは、この句を註に釈して「天親菩薩、帰命の意なり」とあり。これをば願生頼みを募る一類、帰命即願生の証とする所なれども、大いなる間違いなり。今この『論註』の釈には、「願生安楽国」は「天親菩薩、帰命の意なり」とあり。この「意」の字は、『大学の道春点』には、心の字はこころとよませ、意の字はこころばせとよませてあり。心の体に備わるこころばせ・おもわくの事なり。今天親菩薩の弥陀に帰命した心は二心はない。一心になりてその心に備わる、安楽国へ生ぜんと願う意〈こころばせ〉を、次の句に挙げて「願生安楽国」とのたまう。弥陀をたのむ心に安楽国に往生せんと云うこころばせが備わらいでどうしょう。次の生に大名に成り度いとて弥陀をたのみはせぬ。天に生まれ度いとて弥陀をたのみはせぬ。極楽へ参り度いゆえ弥陀を頼むのじゃから、弥陀を頼む一心には願生安楽国の意〈こころばせ〉がなくてはならぬ。そこで「帰命の意なり」と釈したまう。KG_MRJ04-18L 時にこの一行を右の通りに弁ずるは、只論主の一心の相〈すがた〉なり。これは『論註』にこの一行を釈したまうに、約安心と約起行との二義を存してあり。「偈申己心〈偈は己心を申ぶ〉」と仰せられたは、この一行は丸乍ら論主の一心の安心を申ぶるとみたもうたものなり。即ち上来弁ずる所はその義なり。又これを起行に約する義の時は、「帰命」と云うは身業礼拝門なり。「尽十方無碍光仏」は口業の讃嘆門、「願生安楽国」は意業の作願門なり。これは一心の安心が后起相続の時、身口意の三業に発動して起行五念門の行と顕わるる時の事なり。実に論文は巧妙なる事にて、論主の一心の安心を述べた偈文なれども、長行より振りて返りみれば、その一心から后起相続する起行五念門を説いた偈文と見給うが『論註』なり。これを三業者流抔、この一行を証として一念帰命の安心に三業が揃わねばならぬと云うは、これ程の間違いはない。KG_MRJ04-18L,19R 時に我祖、爰にこの一行を御引用の思し召しは云何というに、先達てより申す如く、『広』『略』の文類を伺うは御引文の思し召しを伺うが肝要なり。兎角末註に御引文の御素意を伺うた者がない。爰らは『[シン09]記』抔は今引く所の三行の偈文は「願生偈」の要所故に引きたまうとす。さように麁く拝見しては『広』『略』の文類の祖意は顕れぬ。KG_MRJ04-19R,19L 恐れ乍ら考えるに『広文』「行巻」(『会本』二十二左)「浄土論曰」としてこの「願生偈」を引くに、次の「依修多羅」等の一行と「観仏本願力」等の一行とは引いてあれども、この初めの建章の偈文計りは引いてなし。これ考えねばならぬ事なり。外の所の例にて云えば、『略文』の御引文は『広文類』の御引文の中から選んで引きたまう故、『略文』に引いてある文の『広文類』に引いてないと云う事はなきなり。爾るにこの文計りは『広本』に引いてないこの一行を『略文』に引きたまう。これ思し召しなくては叶わぬ。これは前来申す如く行に信を摂するの御体勢にして、下の真実信の証文迄もこの行の下に引き上げて引用したまう。KG_MRJ04-19L この一行は論主の一心を明かした一行、これは本願の三信を合した一心として、安心を述べた一行故に、下の真実信の下に甚だ入用なる文なり。その真実信の下に入用なる文を引き上げて引きたまう。これが唯真実信計りを明かす文にして、行を明かさぬ偈文なれば、爰には引かれぬ。爰は行を明かす場所故に行を明かさぬ文なれば、爰には引かれぬ。爾るにこの一行は右弁ずる如く一文両義ありて、起行に約する義の時は真実行の証文となり、安心に約する時は真実信の証文となる。そこで「行巻」には引いてなけれども、この『略文類』には引きたまう。これを起行に約して解する時は「尽十方無碍光如来」というは讃嘆門の「称彼如来名〈彼の如来の名を称す〉」なり。即ち上に、大行は無碍光如来なりとのたまう。これ真実行なり。KG_MRJ04-19L,20R 時に口に南無阿弥陀仏と称うる時は已に身口発動した所ゆえ、その時は必ず身業の礼拝が伴わぬと云う事はない。一心の安心の時なれば、一拝みもせぬ、口にも称えずに居ろうけれども、もう起行五念門の中の讃嘆門の南無阿弥陀仏は、やれ有り難しと称える称名ゆえ、その時必ず身業の礼拝も伴う。その礼拝門を帰命とのたまう。又口に南無阿弥陀仏と称うる時、意に浄土を願生する思いがない筈はない。その心の作願門を次に挙げて「願生安楽国」とのたまう。KG_MRJ04-20R 扨三念門の本は何じゃと云えば一心なり。その三念門の本になる一心を最初に挙げて「世尊我一心」とのたまう。かくの如く拝見する時は、この一行丸乍ら真実行の証文なり。又勿論偈頌抔は讃歎なり。そこで真実行を讃歎するは名号讃嘆故に行の下に引きたまう。爾れば右の如く解する時は真実行の証文となるのに、何故『広文類』「行巻」には引きたまわぬぞと云うに、この一行、二義に通ずといえども、一心の安心に約する義が偈文の当意なり。起行五念門に約する義は『論註』の釈によって顕わるる義故に、「行巻」には『論註』を引く所に三念門が長々と引いてあり。又『浄土論』を引く所には、この偈文の当たり前は一心の安心を述べたる文故に引きたまわぬなり。我祖はそう御覧なされた証拠は、天親菩薩の釈文に依る讃にこの偈文の意を述べて「天親論主は一心に無碍光に帰命す」とある。又「尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ」等、この一心の安心計りにてこの偈文の意を述べたまえり。一心の安心を明かす当意ゆえ「行巻」にはこの文は引きたまわぬなり。KG_MRJ04-20R,20L 今『略本』に引きたまうは、この偈文は真実行・真実信の両方に用いる為なり。この一行、一心の安心を明かすと云う時は下の真実信の下の第一の証文なり。「論主合三為一〈論主、三を合して一と為る〉」の一心なれば信を明かす下の証文なり。それを今爰に引き挙げて引きたまいたものなり。かように伺うたが善さそうなものと存ぜらるる。KG_MRJ04-20L,21R ◎我依修多羅真実功徳相、説願偈総持与仏教相応。 ◎(我、修多羅真実功徳相に依って、願偈総持を説て仏教と相応せりと。) 「我依修多羅」等。二述依経造偈〈二に経に依って偈を造ることを述ぶ〉。これも註の言を取りて科す。この一行は論主自ら三経修多羅によって「願生偈」を造る事を述べたまいた偈文なり。KG_MRJ04-21R 先ず略して文を解するに、「修多羅」と云うは梵名で、翻名に異説のある事は『大乗義章』一(八左)委しく弁じてあり。浄影常に釈する所では、修多羅ここには[エン17]と翻ずる。縷〈いとすじ〉の事なり。糸を以て華を貫く如く、仏経の能詮の名句文の糸筋を以て所詮の道理を貫くと云う事にして修多羅と云う。それを漢土の風に従えて経と翻じたものなり。千切屋の店に修多羅と云えば赤い細い長いものと存ずれども、あれは糸筋と云うから修多羅と云う名を付けたものとみえる。KG_MRJ04-21R 都て仏経の事を修多羅と云う時に、この下の『論註』上(六左)の修多羅の釈、昔から難解と申す所なれども格別むつかしい事もない。この修多羅の言に色々紛れる事あり。それを簡んだる釈なり。詮ずる所は「この中の修多羅と云うは三蔵の外の大乗の修多羅なり」とあるが正しき爰の釈なり。法華・『智論』抔では小乗経の事を三蔵と名づく。小乗経は如来滅后に阿難・優楼頻抔と云う御弟子等集まりて小乗の経律論の三蔵を集むる故に小乗経を三蔵教と云う。天台宗に小乗経を三蔵教と云う、その訳なり。今『論註』はそれを選び給う。今「修多羅」と云うは浄土の三経故に、小乗の三蔵の中の修多羅ではない。大乗の修多羅なりとのたまう意なり。依って『二門偈』には「大乗修多羅」と、大乗の言を加えたまう。KG_MRJ04-21R,21L 「真実功徳相」とは、爰は『註』と『銘文』との釈違えなり。註の釈では「真実功徳」は指総荘厳仏事〈総じて荘厳仏事を指す〉と云う。真実は不実に対する言なり。人天の境界は尽く虚偽顛倒故に不実ならざる事はない。今総じて浄土の三種の荘厳悉く法蔵の無漏清浄業より起こる功徳なり。「本願功徳聚」とのたまうはこれなり。七宝樹林・八功徳水、皆尽く法蔵の無漏清浄業の功徳の凍塊りなり。それ故不虚偽不顛倒真実功徳なり。KG_MRJ04-21L この『浄土論』は三経の説相に依って仏の荘厳、菩薩の荘厳、依報の荘厳、三種の荘厳を説いた論なり。その三種の荘厳を「真実功徳相」と云う。爾るに『銘文』本(九左)の御釈には「真実功徳相と云うは誓願の尊号なり」とのたまう。これは『論註』の経体の御釈に依りたまう。今「真実功徳相」と云うは三経所説の浄土荘厳の事に違いなけれども、三経の経体より云う時は三種荘厳、一南無阿弥陀仏に収むる。仏の荘厳、菩薩の荘厳、国土の荘厳、悉く名号ならざるはなし。法蔵因位の不可思義永劫の無漏清浄業より起こり、積功累徳の塊はこの南無阿弥陀仏より外はないと、こう御釈なさるるは何の為ぞなれば、三経をば尽く名号讃嘆の経にする吾祖の思し召しなり。KG_MRJ04-21L,22R 「説願偈総持」とは、「願偈」は『論註』の御釈では「願生偈」の事なり。爾るに我祖『銘文』の御釈には「本願のこころを顕す言を偈と云う」と釈したまう。註とは大違いなり。これを註の釈を御覧なされぬかと思えば、「行巻」には『論註』の御釈引きてあり。この註の御釈を知りつつ、願偈は弥陀の本願とし給う。この「願生偈」は天親菩薩横超の大誓願を光闡したる偈故に、自ら願偈と名づくるとみたまうが吾祖なり。「総持」とは、梵に多羅尼と云う。ここに総持と翻ず。『智論』五(七右)「陀羅尼秦言能持〈乃至〉譬如開器盛水水不漏散〈陀羅尼、秦には能持と言う[乃至]譬えば器を開きて水を盛るも、水、漏散せざるが如し〉〈開器=大正蔵には完器とあり〉」等とありて、「開器」は疵のない器なり。その疵のない器はよく漏れぬように水を収める。今陀羅尼もその如し。根来の浄名和尚は梵語好きなり。その人の弁に、日本で水を盛る器を盥と云う。梵の陀羅尼に当たるといわれた。この盥に水を収めたるようなる陀羅尼ゆえに総持と翻ずる。今は二十四行の偈に三種荘厳を以て洩らさぬと云う事なり。KG_MRJ04-22R,22L 「与仏教相応〈仏教と相応せり〉」とは、蓋と函と合いたる如く、仏経には少しも違わぬように偈を造るとのたまう。爰に御引用の思し召しは次の偈文を弁じてしまわねば知れぬ。KG_MRJ04-22L ◎観仏本願力、遇無空過者、能令速満足功徳大宝海、已上。 ◎(仏の本願力を観ずるに、遇て空く過る者なし、能く速かに功徳の大宝海を満足せしむと、已上。) 「観仏本願力」等。三示本願大益〈三に本願の大益を示す〉。KG_MRJ04-22L この偈文は、上の偈文とこの偈文との間に十六行の偈頌あり。それを略して下の偈文を一連に引きたまうなり。これが『広』『略』の文類の御引文の御体勢なり。遙かに隔てたる文なれども、これは一連にみよとある御指南なり。KG_MRJ04-22L これは『浄土論』では仏の荘厳八種の中に第十八の不虚作住持を明かす偈文にして即ち第十八の利益を説く。吾祖『一多証文』にも『銘文』にも御釈あり。そこで仏の本願力と云うは四十八願を全うしたる第十八願なり。我祖のいつでも唯本願とのたまう所は皆四十八願を全うしたる第十八願なり。即ちこの論文抔が拠なり。この「観」の字『浄土論』にて云う時は、五念門の中の観察門は仏の荘厳を観察する、いっち終わりの偈文なり。そこで「観」の字を置くなり。KG_MRJ04-22L,23R 爾るに我祖、この願生の偈文は尽く論主の一心の安心を説き述べたとみたまう。そこで観ずると云うは天親論主の一心安心の上に弥陀の本願力を心に浮かべ見たまう所の相〈すがた〉を顕す言と御覧なされる。そこで『一多証文』(二十一左)に「観は、願力を心に浮かべみると申す。又しると云うこころなり」とのたまう。KG_MRJ04-23R 「遇無空過者」等。これよりが第十八願の利益なり。「遇」と云うは『一多証文』に「遇はもうあうともうすは、本願力を信ずるなり」と釈したまう。この遇と云う字に信ずると云う義あるにはず非ざれども、これらは義訓なり。元祖の『和語燈録』四(三右)この遇の字を用いて「遇といえども、もし信ぜざれば逢うに非ざるが如し」とのたまう。爾れば遇というは信ずる事なり。そこで「遇と云うは本願力を信ずるなり」とのたまう。「空過者」と云うは、空はむだなることなり。爰が『和讃』の注解抔が、弥陀の本願にあうと云うたは、たとい順次の往生は遂げずとも、悪趣には沈まぬ。弥陀の本願に逢うたものはむだにはならぬ。一度は往生すると解する。甚だの誤りなり。これは『一多証文』(二十一左)「遇と云うは本願力を信ずるなり」。その信じたものが皆次の生に空しく生死に流転する事はない。皆浄土に往生して大涅槃を証ると云う事なり。KG_MRJ04-23R,23L 時に爰の御言使い、不虚作住持の利益を顕すなり。虚作の凡夫の有漏業の所作で一旦拵えた事が無駄になる事多し。その無駄なる所作計りなり。今は弥陀の本願力の所作なる故に無駄なる事はない。そこで上の句に本願力と云う力〈ちから〉を用いたまう。その手強い弥陀の本願力を信ずるものは無駄事はない。一人も空しく過ぐるものなしと云う事なり。KG_MRJ04-23L 「能令速満足」とは、「速」は頓速の義なり。上の「極速円満」の言、この偈文に依りたるなり。「功徳大宝海」とは『一多証文』(二十二右)「功徳ともうすは名号なり。大宝海はよろずの善根功徳みちきわまるを海にたとえたまう」と釈したまう。恒河沙の功徳を備えた名号の事を「功徳大宝海」という。「大宝海」とは喩えなり。「十地品」十二(三十一)経文に海の十相の中の第五を「無量宝聚」の徳と云う。大海の中には無量の大宝を具足する徳あり。今名号の中には無量の功徳宝を具足する事、海の如しと云う事にて、無量の大宝海と云うなり。爾るに今本願力を信ずる一念に速やかに功徳大宝海を行者の身に満足せしむると云う事なり。これで文は略して解し畢わる。KG_MRJ04-23L,24R 時に今この二行の偈文、「行巻」にも引いてあり。『略文』にも引きたまえり。「願生偈」の中、要文を出さば、またこの外に大義門の偈、或いは性功徳の偈文抔は要文なり。何ゆえこの二行を出したまうぞと云うに、これは上の龍樹章にも弁ずる如く、この真実行の証文に、最初に『大経』を引くは仏の名号讃嘆の文なり。第十七願の諸仏称名の願に応えて釈迦や諸仏が弥陀の名号を讃歎したまう。次に龍樹天親の論を引きて七祖もその仏の名号讃嘆を伝説したまう所の文を引くなり。そこで今この「我依修多羅」等の一行、この修多羅功徳は名号讃嘆の三部経の事なり。そこで「真実功徳相」を我祖は名号とす。三部経は外の事はない。名号を讃ずる計りなり。今天親菩薩、その仏の名号讃嘆の修多羅に依ってこの二十四行の偈頌を造りて、これ又その名号讃嘆を伝説すると云う偈文なり。そこで爰に引きたまうなり。KG_MRJ04-24R 時に弥陀の名号を讃歎するには是非第十八願を説くと云うが御定まりなり。爾るに今偈文を「願偈」と名づくるは云何と云うに、弥陀の本願を説き顕す故に「願偈」と名づくる。爾れば天親菩薩、弥陀の第十八願を説きて弥陀の名号を讃歎するアレカ〈?〉仏の名号を伝説するのじゃと云う事を、この一行にて顕す故に、爰に引きたまう。爾ればこの「願生偈」に第十八願が説いてあるかと云うに付いて、次に「観仏本願力」の文を引きたまう。「願生偈」一部の宗要はこの偈文に尽きてあるなり。「願偈」は弥陀の本願を説くの偈文なり。その弥陀の本願を説くはこの「観仏本願力」の偈文なり。KG_MRJ04-24R,24L ときにこの二行の偈文の意を「正信偈」には二句となりてあり。「依修多羅顕真実」は初めの一行の意なり。「光闡横超大誓願」次の一行の意なり。時にこの「観仏本願力」の一行は第十八願の利益を説くなり。「遇」とは第十八願の信心なり。そこでこの后の偈は離してみれば第十八願の信心の利益を説いたものなり。そこで后の真実信の証文なり。今行の中に信の証文を摂め引きたまうなり。即ち上に仏経を引くに第十八願成就の文と并べて引きたまう。今爰に引く天親論偈の中の后の二行の引文の意と同じ事なり。KG_MRJ04-24L |