香月院 浄土文類聚鈔講義 第4巻の5(5の内の5) 正説分の行釈 私釈 『大経』 弥勒付属と 願成就文との乃至一念 |
浄土文類聚鈔講義 第四巻之五 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎経言乃至者、兼上下略中之言、言一念者即是専念、専念即是一声、一声即是称名、称名即是憶念、憶念即是正念、正念即是正業也。 ◎(経に言く乃至とは、上下を兼ねて中を略するの言なり、一念と言うは即ちこれ専念、専念即ちこれ一声、一声即ちこれ称名なり、称名即ちこれ憶念なり、憶念即ちこれ正念なり、正念即ちこれ正業なり。) 「経言」等と。三釈経要義二 初釈流通分〈三に経の要義を釈するに二 初に流通分を釈す〉。これより下の文を古来一難関とする事なれども、上から段々我祖の素意の所を窺うてこの文に移れば、何にもむつかしき事はない。この所は先ず場所が上の御引文の意を釈する我祖の私釈の所なり。そこでこれよりは上に引く『大経』の要義を釈したまう。『略文類』の事ゆえ具に御釈はなされねども肝要の所は御釈なされねばならぬ。KG_MRJ04-31L 時に所引の『大経』の要義と云うは「乃至一念」なり。元祖、我祖の時分にも一念多念の取り違いのある所。それゆえ爰は甚だの要論なり。信の一念、行の一念、今家に於いては要義ゆえ、そこでこれより下は「乃至一念」を釈す。初めに流通の一念の行の一念と釈す。それから次に成就の一念を信の一念と釈す。分段分かれてあり。KG_MRJ04-31L 爾るに古来爰を難解の所じゃと云うて、異義紛紜なり。これ何故ぞというに、今行を明かす所に信の一念の御釈ありて済まぬと云うから異義紛紜たり。これ以て『略本』は行に信を摂して明かす御体勢ゆえ、行を釈する所に信の釈迄を挙げて釈したまうと目が付かば、何事はなきなり。さて古い末書は評するに足らず。大家と称する『[シン09]記』にはこれより下の文を行の御釈とみる執離れぬ故、下成就の乃至一念の御釈みにくきゆえ約絶対不二〈?絶対不二に約して?〉釈すと云う。又『義讃』も行の一念と見るに依って、下の「復乃至一念」より下を行の相〈すがた〉に付けて濫を簡とす。かような見ようをするに依って、よく分けてある分段が分からぬようになるなり。KG_MRJ04-31L,32R これは上御引文の『大経』の内を、この「乃至一念」は実に要義じゃに由って、流通の「乃至一念」等を爰に釈したまう。何もむつかしい事はない。上の御引文の所には成就を先に出す。十七願と一連なる故なり。今爰では行の一念はこの一章の正所明故に、そこで先ず流通の行の一念を先に釈したまう。成就の信の一念は下の信の章にて釈すべき事を爰に引き挙げて釈したまう。これは行の一念を釈する序でにて、信の一念を后に釈す。これ主客の次第なり。行は爰で主、信は御客なり。故に後につく。これ初めは流通の文を釈す科を分かつなり。先輩理綱院の科段この通りなり。KG_MRJ04-32R,32L 「経言乃至者」等。真本の点、この通りなり。これ流通の「乃至」を牒し挙げたまうのなり。乃至は上尽一形、下至一念を顕す。故に上一形が間称える念仏と、下一声称える念仏と両方を兼ねる言じゃと云う事にて兼上下也〈上下を兼ぬるなり〉とのたまう。これは善導の「上尽一形」の、「下至十声一声」とのたまうが、乃至を上下にて釈したまう。その善導・元祖の釈を爰に受けて「兼上下」とのたまう。KG_MRJ04-32L 「略中之言〈中を略するの言〉」とは、これは別の釈ではなけれども、正しい乃至の釈なり。乃至は都て中間を越却する言なり。上尽一形の称え畢わりの念仏と、下至一念の称え初めの念仏とを挙げて中間を略する言なり。これ乃至の釈なり。古人の釈一様ならず。『宝窟』中本(二十九左)「乃至還是窮到之辞」とあり。これは経論によくある乃至なり。或いは忍辱の行を修する時、今日より已后、瞋恚の煩悩は起こすまい。乃至一念も瞋恚の思いは生ずべからず。或いは飲酒戒を明かす所に今日より酒を飲むべからず、乃至一滴も呑むべからずと。この中の乃至は物の極まり所を云い尽くす乃至の言なり。そこで窮到の辞という。今家で『礼讃』に「乃至一念無有疑心〈乃ち一念に至るまで疑心あることなし〉」とある乃至が窮到の言なり。弥陀の本願を信じて乃至ひと思いでも疑う心はないと云う事なり。KG_MRJ04-32L,33R 今爰はそれとは違う。爰の我祖の御釈は台家より出るとみえて、『止観補行』二之二(五十九左)「越却中間故云乃至成仏〈中間を越却するが故に乃至成仏と云う〉」文。これは菩薩の初住より成仏迄の間を略して乃至と説くと云う事なり。今「略中之言」とのたまう。これ同じ事なり。KG_MRJ04-33R 「言一念者」。これは「乃至」の言を解し畢わりて、次に「一念」の言を釈したまう。即ち転釈なり。この転釈にて流通の文の行の一念の相〈すがた〉を釈したまう。この転釈は何に由ってのたまうぞと云うに、拠を考えねば爰の思し召しは知られぬなり。これは「行巻」(『会本』三 二十右)即ち流通分の行の一念を釈して、「光明寺和尚」と云いてその釈「一声一念と云えり。また専心専念と云えり」とある。「一声一念」の言は『礼讃』にあり。「専心専念」は「散善義」にあり。それで爰の拠が知れる。今流通の一念を善導の「散善義」の「専念」を以て転釈したまうなり。「散善義」に「一心専念弥陀名号」とあり、『浄土論』及び『註』にあり。専念の言は信心になる所なり。善導の「専念」は行に限る故に、「信巻」末御自釈(二十九左)に「宗師言専念者一行也〈宗師の専念と云えるは一行なり〉」とのたまう。「専念即是」等、これは「行巻」に『礼讃』を引いてあり。爾れば「散善義」の「専念」を『礼讃』の「一声」の言にて転釈したまう。KG_MRJ04-33R,33L これ「念声是一」の義を釈したまう。「言一念者即是専念〈一念と言うは即ちこれ専念〉」とあるを意念の義と思うか、そうではない。「散善義」の「専念」を『礼讃』には「一声」とのたまうからは、行の一声の事じゃとのたまう。KG_MRJ04-33L 「一声即是称名」とは、『観経』の下上品の「合掌叉手。称南無阿弥陀仏〈合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ〉」とあるを「散善義」に「正念称名」と釈す。今爰はその下上品の称名を出す。なぜなれば下下品は十声の称名なり。一声の称名を出す時は下上品でなければならぬなり。そこで『礼讃』の一声を下上品の称名にて転釈したまう。「称名即是憶念」とは、これは上に弁ぜし『観経』「流通分」の「何況憶念〈何に況んや憶念せんをや〉」なり。今爰は同経の下上品の一声の称名を流通の「何況憶念〈何に況んや憶念せんをや〉」にて転釈したまう。これは信行不離の義を釈したまうなり。「憶念即是正念」とは、これは「散善義」二河の「一心正念」にて転釈したまう。流通の「何況憶念」より二河に移るは云何と云うに、これは先日弁ずる通り「何況憶念」を「散善義」に「正念帰命」とあり。その縁を取りて二河の「一心正念」に移りて転釈したまうなり。この「正念」は第十八願の「乃至十念」なりと云う事、先に出るが如し。「正念即是正業」とは、「正業」は正定業なり。第十七願名に「往相正業」とある。下で弁ずるが如し。KG_MRJ04-33L,34R 時に爰は二河の「正念」の言を同じ「散善義」の「是名正定業」にて転釈したまうなり。これ否と云えぬ事なり。最初の「専念」は「散善義」の「一心専念弥陀名号」の「専念」なり。そこで段々転釈して、爰では本に帰して「一心専念(乃至)即是正業」にて結びたまうなり。この転釈する所の行の一念、即ち第十七願成就する所の名号正定業じゃと帰結したまう意なり。KG_MRJ04-34R ◎復乃至一念者、是更非言観想功徳遍数等之一念、就獲得往生心行時節延促、言乃至一念也。応知 ◎(また乃至一念とは、これ更に観想功徳遍数等の一念を言うには非ず、往生の心行を獲得する時節の延促に就て、乃至一念と言うなり。応に知るべし。) 「復乃至一念者」等。二釈成就〈二に成就を釈す〉。これより下は上に引いてある願成就の文の「乃至一念」を釈したまう。第十八願に取っては願成就の文を以て至極とすとありて、甚だ大切な所なり。KG_MRJ04-34R 『広文』「行巻」御自釈(九左)に「凡就往相回向行信。行則有一念。亦信有一念〈凡そ往相回向の行信に就いて、行に則ち一念あり、また信に一念あり〉」等標してあり。それから「行巻」では流通の文の行の一念を釈したまう。「信巻」末御自釈(二十九右)の初めに至りて成就の一念を釈したまう。今この『略文類』では行を明かす章にて両方乍ら釈したまう。これ行に信を摂して明かす御体勢なる事、上に弁ずる如く。KG_MRJ04-34R,34L 偖、文を解するに「復」とは復重の義にして物を重ねる所に置く文字なり。我祖常に用いたまう定格なり。今は上に流通の一念を釈して、これよりは復成就の一念を釈したまう。その乃至一念の二つ重なる所ゆえ、それで「復」の字を置きたまうなり。KG_MRJ04-34L 「是更非」等と。この「更」と云う字は改也と註して、あらためてと云う事なり。又再なりと註して二度〈ふたたび〉と云う事なり。時にこの「更」と云う字の御使い方、常とは少し違うてある。この例を申さば『史記』七十五(三左)「孟嘗君有一狐白裘。直千金。天下無双。入秦献之昭王。更無他裘〈孟嘗君に一の狐の白裘〈かわごろも〉なるあり。直千金。天下に双ぶものなし。秦に入りてこれを昭王に献ず。更に他の裘なし〉」とあり。これは孟嘗君、結構なる直〈あたい〉千金の裘〈かわごろも〉を昭王に献じた故、更に他裘なし。只一ツコソナイ〈?〉ものを献じて仕舞うたに依って、もうこの外に裘はないと云う所で、更にとつこうてあり。今もかくの如く、この成就の文の一念は往生の信行を獲得する時節の一念に極めてある。この外に更に観想功徳等の一念と云う義はないと云う事なり。KG_MRJ04-34L,35R 「観想功徳」等。この言、古来異解多端なり。『[シン09]記』には、「観想功徳」と云うは荘厳功徳成就を観想するなりと解せり。この意は観想功徳と云うことは極楽の依正二報の荘厳を観ずる事なり。それを功徳を観想すると云うたはどうした事じゃと云うに、『浄土論』に浄土に二十九種の荘厳をば一々にみな功徳成就と名づけてある。爾らば功徳を観想すると云うは、浄土の依正二報の荘厳功徳を観察する事じゃと解す。これは坊間の『略文類』の左訓に「水鳥樹林等の依報の荘厳を観ずるを云う」とあり。『[シン09]』はこの左訓より思い付いて義を設けたりとみゆ。又『義讃』には、観想と功徳とを二つにして、観想と云うは仏の三十二等の相好を観察する事。功徳と云うは仏の十力・四無畏等の功徳を観察すると解す。今云く。これは『義讃』のように観想と功徳とを相違釈にみるは不可なり。『[シン09]』の如くに功徳を観想するとみるが宜しきなり。さりともこれをば依正二報の荘厳を観ずる事と解したは宜しからぬなり。これは功徳を観想するというは、仏の三十二相等の相好を観想する事なり。相好の事を功徳と云うたはいかんと云うに、これは『選択集』本(十七右)に「名号は万徳の所帰なり」と云う下に「相好光明説法利生(乃至)外用功徳〈相好・光明・説法・利生等の一切外用の功徳〉」とありて、相好も光明もみな弥陀果上の功徳なり。依って今仏の相好功徳等を観ずる事を観想功徳と云うなり。「遍数」とは念仏の遍数の事なり。KG_MRJ04-35R,35L 時に今爰に観想功徳と称名念仏とを選びたまうはどう云う事じゃと云うを考えた末書がない。爰は成就の文の一念を釈する所なり。爰に依正二報の荘厳を観察すると云うような事はとんと掛わり合いのない事なり。何の為にこれを選びたまうぞと云うに、これは『論註』の上(三十三右)の畢わりに「問曰。幾時名為一念〈問いて曰く、幾ばくの時をか名づけて一念と為るや〉」等と、一念の問答あり。これは『観経』の下々品の十念を釈するに付いて、この十念の念はどれほどの間を一念と云うやと問いて、それを答えて云わく、六十刹那を一念と云う事あれども、それではないと選んで、それから下々品の十念の念を釈するに、二釈あり。初めに観念に約する釈。次に称名に約する釈。初めに観念に約する釈では阿弥陀仏の相好の若くは総相、若しくは別相を憶念する念じゃと釈してあり。「若しは総相」というは阿弥陀仏のあらゆる相好を総じて観ずる事なり。「若しは別相」とは、眉間の白毫相、御足の千幅輪相等を別々に観ずる事なり。若しは総相であれ、又は別相であれ、仏の相好を憶念する一思いの間を一念という釈なり。后の釈は称名に約する義にして、これは下々品の経文にある如く「具足十念称南無阿弥陀仏〈十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ〉」と、一声称えるを一念と云うなり。十声称えるを十念と云う釈なり。この『論註』の釈は『安楽集』にもこの通り出でてあり。KG_MRJ04-35L,36R 時に下々品のこの苦逼の罪人、仏の相好を観念するような事はありそうもないものじゃと云うに、これは『論註』や『安楽集』の意にはこの義ありて、『観経』一部の観仏三昧を宗とする時は、初め日想観から畢わり下三品までがみな観仏三昧なり。『観経』十六観と云うは定善十三と散善九品とを合して十六観となる。そこで下々品は下々品だけの観あり。下々品の十念は経文分明に称名の十念に違いはなけれども、その口に出して名号を称える中に名号を称え乍ら、心の内につやつやと仏の相好等を念ずるを観と名づくと云うが『論註』の初めの釈なり。そこでこの観と云うは定善観の定に入りて観ずる所の修慧の観に非ず。これは散善の聞思の観なり。散り乱るる散心で居乍ら、心につやつやと仏の相好を念ずるなり。『論註』にも『安楽集』にも阿弥陀仏の相好を憶するとあり。これ息慮凝心の定善観ではない。散心で居乍ら意に外の思いなく、只仏の相好等を憶念するを観と名づくると云う御釈なり。爾らば『論註』『安楽集』に下々品の十念に付いて一念の相を釈するにこの二釈あるゆえ、今我祖成就の文の一念を釈するに、それを選びたまうなり。これが流通分の行の一念の釈なれば称名の遍数に約するの義をば選ぶ事はない。今成就の文の一念を、吾祖、信の一念と釈したまうのじゃによって、仏の相好を観ずるの一念に非ず。又南無阿弥陀仏と称する一念ではないと云う事で、「非言観想〈これ更に観想功徳遍数等の一念を言うには非ず〉」とのたまう。KG_MRJ04-36R,36L 時に爰の御言づかいに「観想功徳」とのたまい、観念とも観察とも云わず「観想」とのたまいたは、観念の観察のと云えば定善観に濫する。今爰に挙げるのは散心で居乍ら仏の相好功徳を憶想する所の観故、「観想」と云うなり。即ち『論註』に「心無他想」とある想の字を取って来て「観想」とのたまう。又相好と云わずに、只通して「功徳」とのたまう。実は相好に限った事ではない。散心で居乍らつやつや心に光明相好等を憶想するがこの観なり。そこで今「観想功徳」とのたまう。爾らば『[シン09]記』に功徳を観想する事と解したはよし。爾れども依正二報の荘厳功徳を観ずる事と解したは宜しからぬ。爾ればこの坊間の本の左訓に「すいちょう」等とあるは、恐らくは后人の加えし所なるべし。その証拠は真本にこの左訓なし。KG_MRJ04-36L,37R 時に開轍院の伝えらるる覚如上人の御延書には「観想功徳」の左訓に「相好を観念し」とあり、「遍数」の左訓に「念仏の数にあらず」とあり。これ今弁じた通り。この御正意を左訓にしたまいたなり。又存覚上人の『真要抄』(四十二)には、一念を釈する下にこの『略文類』の釈を受けて「これ即ち相好・光明等の功徳を観想する念に非ず」と申してあり。これらは実に古来相伝の説なり。爰の正意をば御相承なされてのたまう所ゆえ異求するべからず。時に爰に「等」の字のあるは云何というに、今一念の濫を述べたまうによって、この二色に限りた事ではない。今引く『論註』の答の初めに選んである六十の刹那を一念と云うなども、この「等」の字に収めたまうなり。KG_MRJ04-37R,37L 「就獲得」等。爰がやかましきなり。吾祖「信の巻」に成就の一念を釈して「一念者。斯顕信楽開発時剋之極促〈一念は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し〉」等とあり。この御釈を始終『略本』の御釈に引き合わして弁ぜねばならぬなり。「信巻」の信楽は「至心信楽」の信楽にして、即ち信心開発の事なり。今爰には「心行」とあり。これは心に信ずる信と、口に称うる行とを挙げたようにみえる。全体この『略本』は行を明かす所故、古来この「心行」を行者が正しく信じ称える能信能行とみる所なり。KG_MRJ04-37L 『[シン09]記』は全体がこの『略本』は成就の文の一念を行の一念と釈するとみるに依って、そこでこの「獲得往生心行〈往生の心行を獲得す〉」と云うは、これは信と行との不二を顕すとみる。また『義讃』には「往生の心行」とあるによって、これは信と行とを合釈したるものとみえるなり。今云わく。これはさようなる事ではない。KG_MRJ04-37L 兎角一家の信行の論に至りては、此方の先輩でなけねば夜が明けぬ。爰は信の一念の御釈にして、行者がまだ称えはせぬけれども、信ずる一念に信も行も一時に獲得する事なり。これは先輩の常の持言にして、称えぬ先の信の一念に信も行も獲得と云うの弁のときは、いつもこの『略文類』を出さねばならぬ。KG_MRJ04-37L,38R 先ず「心行」と云う造語より弁ずべし。吾祖の第十八の因願掛りでは信行をうるとのたまう。『浄土論』がかりでは心行を得るとのたまう。『高僧讃』に「悲願の信行えしむれば」とあり。これは悲願という言が蒙らせてあるゆえ十八願掛りなり。その十八願では三信の信と、十念の行となるなり。又『浄土論』ではその三信を合して一心としたまうなり。そこで『浄土論』掛りでは心行と云うなり。爾れば信の字を書いた信行も、心の字を書いた心行も全く同じ。依って今引いた次上の讃には「心行とのにえしむなれ」とあり。「信巻」には「由斯信行必可超証大涅槃〈この信行に由って、必ず大涅槃を超証すべき〉」等とあり。又「証巻」自釈(三十五右)「往相回向の心行」とあり。今も『浄土論』掛りで心の字を用いる。「往生の心行」と云うは往生浄土の心行なり。KG_MRJ04-38R 時に成就の文の信の一念は信も行も一時に獲得すると云うが実に今家不共の要談なり。もしや心に信ずる時は信を得、口に称える時は行を得るといえば、また称えぬ先の信の時は行が欠けてあるゆえ、往生の業事は成就せぬ筈なり。爾るに今家に於いては、他力回向の心行という。「聞其名号信心歓喜」の一念に仏の方より南無阿弥陀仏の大行を与えたまう。それを行者が南無と頼めば阿弥陀仏の御助けぞと信ずる時に信も行も一時に獲得して、直ちに正定聚の数に入る。これが即ち今家別途の一念発起、一念往生、不来迎の談、平生業成の義なりと云うは爰の所なり。KG_MRJ04-38R,38L これ一流相伝の肝要故、『改邪抄』本(初左)「血脈を立つる肝要は、往生浄土の他力の心行を獲得する」等あり。又次に「かの心行を獲得せんこと」等とあり。両所ながらこころ心を書いてあり。同(二右)次下に「平生業成の他力の心行を獲得の時剋をききたがえて」とあり。『最要抄』(三右)「経釈すでにきくをもって詮要とせられたり。よく聞く所にて往生の心行を獲得する条顕然なり」とのたまう。同(四左)「往生の心行を獲得するに、終焉にさきだちて即得往生の義あるべし」とのたまう。いつでも成就の文の所には心行獲得とあり。又『改邪抄』は三代伝持の血脈とのたまうは、元祖・我祖・如信を三代伝持と云う。これ信の一念に信も行も一念に獲得すると云うが三代伝持の血脈なり。爾るに『[シン09]記』に爰をば行の一念と釈したまうの、或いは信の一念・行の一念合釈したまう抔と云うは、一宗の血脈相承を失うなり。KG_MRJ04-38L,39R この方の先輩毎々爰を弁ぜられたり。まだ一つ弁ずる事あり。「行巻」「獲真実行信者。心多歓喜故。是名歓喜地。(乃至)帰命斯行信者。摂取不捨〈真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず〉」とあり。ここには「行信」とあり。今は「心行」とあり。これ云何と云うに、この義、玄談に弁ずる如く「行巻」の重と「信巻」の重と、言の上下計りで意は一致なり。「行巻」の重は所信の行を明かす所故、その所信の行にもとより信が具するなり。それ故にその所信の行を信ずる信心のその体南無阿弥陀仏にて行信不離なり。これを真実の行信を得るとのたまう。KG_MRJ04-39R 時にその信の体南無阿弥陀仏がやがて口に顕わるる時、南無阿弥陀仏と称うるに依って、その称えぬさきの信心が念仏申さんと思い立つ意ゆえに、やがて称える念仏と相離れぬが信行不離の「信巻」の重なり。一念の信の体に変わりはなけれども、「行巻」の重では行信、「信巻」の重では信行とのたまう。今は「信巻」の重で、かくのたまう。これなぜなれば成就の文の信の一念は「信巻」にて釈したまう筈なり。そこで「信巻」の言遣いにて心行とのたまうなり。爾ればこの『略本』には行の下に「信巻」に明かす所を引き挙げて釈したまう。謂わゆる行に信を摂するの明かし方なり。KG_MRJ04-39R,39L 「時節の延促」と云うは、「信巻」に「時刻極促〈時剋之極促か?〉」とあり。これは成就の文の「乃至一念」の一念は時節を顕す言と釈したまう。都て倶舎・唯識の法相でも時には別体なし。外道こそ時に別体ありと立てる。仏法には時の体を立て、そこで時に長短あれば必ず色法心法によせて説くが性相からの定まりなり。今は信の一念を時剋に約して時節の極促を説く。往生定まる時は上尽一形と延びゆく時節に定まるに非ず。又十声一声と称える時を待ちて往生定まるに非ず。今成就の文では「聞其名号信心歓喜」の初一念に時を隔てず、日を隔てず、念を隔てず、その時節のとき往生定まる事を顕す一念の言なり。そこで「時節の延促」に付いてのたまうなり。KG_MRJ04-39L 「延促」というは、「延」は延長なり。多念の相続と延びゆく相〈すがた〉なり。「促」は極促にして、ちぢめちぢめたる初一念のことなり。今成就の文の信の一念は相続と延びゆく所ではない。至極ちぢまりたる初一念の事ゆえ、そこで「信巻」では信楽開発の時刻の極促を顕すとのたまう。爾るに今「時節の延促」とのたまうは何故ぞ。爰らが末註の異義の起こる所なり。けれども末書の異義は解するにたらず。KG_MRJ04-39L,40R これは先ず理綱院の弁には「延促」は「極促」と云うと同じ事なり。なぜというに「散善義」(十八左)に九品段の一品一品に各々十一門の科段あると釈して、その中第七に「明修行時節延促〈修行の時節の延捉を明かす〉」とあり。これは往生の行を修するに一生五十年の間行ずるのは修行の時節が長い、又僅かに一日一夜行ずるのは修行の時節が短いと云う、九品の機類さまざまにして修行の延促あり。けれどもその長い時を明かすにも、短い時を明かすも、ともに修行の時節の長短を明かすのじゃによって、そこで科文には「明修行時節延促」と云う。KG_MRJ04-40R 又これと同じ言つかいは右十一門の中の第十門に「明華開遅速〈華開くる遅疾を明かす〉」とあり。浄土に生じて蓮華の開くに遅いと早いとのあるを明かす文の科なり。上々品は生じ畢わりて直ちに華開く。上中品は「経宿則開〈宿を経て則ち開く〉」と説く。乃至下々品の如きは十二大劫にして華開くと説く。これ生じ畢わりて直ちに華開くは早いのじゃけれども、科文には「明華開遅速」と云う。今も時節の延促を明かすもその義なり。延と云うも時節の延促を云うなり。促と云うも時節の延促を明かすのなり。依って善導の修行の時節の延促を明かすとのたまうのなり。KG_MRJ04-40R,40L 今『略文類』はその延促の言を取り来てのたまうのなり。爰は信の一念故、時節は甚だ短い。依って「信巻」には時節の極促〈時剋の極促か?〉とのたまう。今『略本』には、その時剋の延促と云うは即ち時節の長い短いを説く言故に、爰には「時節の延促」とのたまう。「信巻」と『略本』の言は違えども、意は全く同じ事なり。かように弁ずるは理綱院の説なり。KG_MRJ04-40L 又香厳院・開轍院の説では、「信巻」は「一念」の二字の釈なり。依って「極促」と云うなり。この『略本』は「乃至一念」の四字の釈故、延の字加えて一念の延行乃至なる事を顕すと云う。これ何れも先輩の義なれば安心に失なく、又信行のさばきに替わる事はない。爾れば取捨、情に任すべし。KG_MRJ04-40L 爾れども今私には延の字を加えるは乃至の釈に備えると云う義が勝れたりと存ずる。なぜと云うに、外の聖教とは違うて、祖釈は上来弁ずる如く、只一字を下したまうにも、みな御意あり。爾れば今は「信巻」と『略本』と同じ成就の文の釈なれども、「信巻」には乃至の釈、前に出て、ここは一念計りの釈なり。それで「一念とは」と牒してあり。今『略本』は「乃至一念」と標して、畢わりに「乃至一念という」と結んであり。爾れば乃至の言を釈する思し召しのなき筈はなきなり。そこで「信巻」には「信楽開発」とある。爰には「獲得往生心行〈往生の心行を獲得す〉」とのたまうからは、早「乃至」の言にひびかせる思し召しとみえる。爾しこの心行を乃至と一念に当てるは甚だの不可なり。それでは信は初一念に得る。行は多念延行時に得るというになる。それで心行に当てるは甚だ不可なり。KG_MRJ04-40L,41R 「獲得往生心行〈往生の心行を獲得す〉」と云うは往生の業事成弁すると云うことを顕す釈で、信の一念に信も行も初一念に得ることなり。これは動いてはならぬ。けれども「信巻」の通り「信楽開発」とのたまいてよき所を、「心行を獲得す」とのたまうは、この初一念に獲得したる心行が、延行所では憶念相続と顕れるその憶念相続の事を乃至と云うぞと、兼ねて顕したまうなり。そこで次に極促と云う所に「延促」と延の字を加えて、この極促の延び行く所が乃至の意じゃと示したまうが『略文類』なり。外の書物ならばかように伺うはうかつに似たれども、今祖師の聖教はかようなる意味ある事は常なり。それ故にかように伺うが宜しかろうと存ずるなり。KG_MRJ04-41R,41L 「応知」とは、肝要なる所には「応知」の二字を置くは『浄土論』の格なり。上来明かす所の真実行は他力回向の大行、又行に信を摂して明かす信行不離等の義。意〈こころ〉を止めてみるべしと云う事にて、終わりに応知の二字を置くなり。已上、行章終わるなり。KG_MRJ04-41L 浄土文類聚鈔講義 巻四終 KG_MRJ04-41L |